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36. 母さんの心の棘の回

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 その日は母さんが仕事から帰ったのがいつもより遅く、タイミングが悪いと判断して記憶が戻った事を話すのは後日にしようと考えた。

(なるべく機嫌の良さそうな時に話した方がいいかも知れない。賢太郎の事も話したいし……)

 けれどもやはり登山の事が心配だったのか、夕食の時に母さんの方から今日の様子を尋ねてきた。そうなれば心を決めて記憶が戻った事を伝える事にする。

「今日、どうだったの? 登山」
「凄く綺麗な景色が見られて楽しかったよ。あのくらいの低山なら俺でも登れそう」

 楽しかったと伝えれば、母さんもどこかホッとした様子だったので安心する。それでもやっぱり幼い時の事を思い出すのかすぐに怪我の有無を問われた。

「転んで怪我したりしてないの? どこか打ち付けたりとかは?」
「大丈夫だよ。あ、でも保育園くらいの小さい子ども達の方が俺より登るのが早くてさ、あんまり遅いからかすれ違いざまに応援されて笑われた。可愛かったなぁ」
「……そう」

 小さな子どもの話をすると母さんは何か考え込むような様子で、少しだけ間を置いて相槌を打った。
 話すなら今しかない。自分の胸の傷痕辺りを指差して話を切り出した。

「あのさ、母さん。俺、子どもの頃にここを大怪我しただろ。その時の事、忘れてたけど全部思い出したんだ」

 ヒッという短い悲鳴のような声が聞こえた。母さんの方を見ると今にも倒れそうなほど真っ白な顔色になっていた。唇は青白くなり、歯がカチカチと音を立てながら小刻みに震えている。

「母さん……」
「やめて! ごめんなさい! 光、母さんを許して!」
「ちょっと! 母さん? どうしたんだよ?」

 母さんはダイニングチェアから転げ落ちるようにして床に崩れ落ち、両手で顔を覆って肩を震わせている。急いで隣に駆け寄るが、母さんはただ謝るばかりで酷く混乱しているみたいだ。

「ごめんなさい光! 全部母さんが悪かったの!」
「母さん、どうして謝るんだよ? 俺、母さんに怒ったりしてないよ」
「光が記憶を無くしたのは母さんのせいよ。母さんが自分の事で精一杯で、凛子の事も光の事も何もしてあげられなかったから……。賢太郎くんの事だって……」

 とにかく冷たいフローリングの床に座り込んだ母さんを立ち上がらせて、リビングのソファーに座るよう手を添えて誘導する。
 表面上は取り繕っていたものの、まさかこんなに取り乱すとは思ってもみなかったから俺自身も内心はかなり驚いていた。だけど、ここからはとにかく自分の思っている事を伝えるしかない。

「母さん、俺はもう小さな子どもじゃないよ。あの頃の母さんの大変さも分かる。母さんにも姉ちゃんにも怒ったりしてない。だからあの頃の事話してくれる?」

 一度きちんと話し合う事が出来たらきっと母さんの気持ちも落ち着くんじゃないかと思った。母さんがずっと俺に対して罪悪感を抱えてきたのだと思えば、記憶を無くして呑気に生きてきた自分の方が余程悪いような気がする。

「……あの頃はね、光のお父さんと離婚して仕事と家庭の事をきちんとしなきゃって思ってたら、いつの間にかうつ病になっちゃって」

 母さんは覚悟を決めるように一度大きく深呼吸してから、俺の方を向いてゆっくりと語り始めた。

「離婚のショックからか凛子も少し言動がおかしくなって、いつの間にか光の事を女の子として扱うようになったわ。私は光が嫌がってない事をいいことに、それを止めることもしなかった」

 俺が女の子の格好をしたら姉ちゃんも嬉しそうで、別にそれが普通だと思ってたから嫌でもなかった。保育園の友達だって男女関係なく仲良くしてたし。もしかしたら他の家のお母さん達には何か思われてたのかも知れない。だけどそんな事、幼い俺は気付かなかった。

「あの日、光が怪我をして病院に運ばれたって保育園の先生から聞いたの。仕事を抜けて急いで病院へ駆け付けたら、光は包帯だらけの身体で意識が無くて。やっと目を覚ましたと思ったら……」

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