あの日、心が動いた

蓮恭

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3. おはようございます

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 男の手であっという間に二人の髪を複雑に編み込むと、双子達はキラキラした目で高橋を見上げている。確かに手際がいいし、仕上がりも綺麗だ。俺が結んでやった時とは大違い。それにしても、何だかちょっと面白くない。

「悪かった……いや、ありがとうございました」
「いえ、差し出がましい事をしてすみません」

 あくまで腰が低いこの隣人は高橋と言うらしいが、このアパートの住人は表札を出したりしていないから、隣に住んで半年以上が経つのに初めて知った。
 優しげに垂れた目元が人の良さを表しているようで、本当に俺とは色んな意味で正反対だ。

「あ、やべっ! とりあえず、ちょっと朝は忙しいからまた改めて礼を言いに行きます!」

 気づけばもう双子達の保育園に向かわなければならない時間が近づいていた。
 高橋と娘だって自分達の支度もあるだろうに。俺が慌ててそう伝えると、高橋は「本当だ、確かに早くしないと遅刻ですねぇ」と落ち着いた声で、壁に掛けてある愛想のないシンプルなデザインの時計を見上げた。

「では、朝からお邪魔しました」

 深々とお辞儀しながらそう言って、高橋と芽衣は床に散らばった様々な物を上手く避けながら帰って行った。
 俺は高橋の独特な雰囲気に呑まれたようにしばらくの間ボーッとしていたが、ふと時間に追われていた事を思い出す。
 
 そこからはあたふたと保育園の鞄と帽子を持たせて、いつもの時間には何とか双子を連れて家を出た。玄関の鍵を閉める時に隣の様子をそっと窺ってみたが、特に物音がするわけでもなく、高橋がまだ居るのかどうか分からない。

「パパー、タカハシさんって髪の毛結ぶの上手だったねー」
「タカハシさんといたあの子、何にも喋んなかったねー」

 どうやら双子達はあの隣人の高橋という男が気に入ったらしい。
 コイツらの人懐っこさは明らかに俺には似ていない。
 
 隣人はおよそ半年前に引っ越して来た。時々すれ違えば挨拶をする程度でしかない俺が知っているのは、ごく限られた事柄。
 高橋がシングルファザーで、小学生の息子と双子達と同じ保育園に通う娘の芽衣がいるって事だけだ。

 あんなに言葉を交わしたのも今日が初めてで、まさか急に家の中に突撃してくるとは思わなかった。
 いつも困ったような顔をしている静かな人間というイメージしか無かったのに、案外強引というか積極的なところもあるんだなと驚いた。

「あ! 園長先生! おはようございまーす!」
「おはようございまーす!」
「はい、おはようございます」

 すぐ近所の保育園までは、双子達を連れて歩いて行く。何故なら駐車場が狭く、順番に駐車待ちをしている間の時間が勿体無いからだ。
 毎朝保育園への道のりは、送りの車でズラリと列が出来ていた。それにわざわざ車を出す程の距離でも無いし……俺はガソリン代をケチっている事の理由を、誰にともなくそんな風に言い訳をする。
 
 並んだ車の横を通り抜けると、玄関の前にはいつもニコニコした園長が立って子ども達を出迎えている。こういう所からしてなかなかアットホームな保育園だと思うし、気に入っているところでもあった。
 幼い頃の経験から、子どもに優しい大人は見て分かるようになっていた。

「キリン組の部屋ー!」
「先生! おはようございまーす!」
「一花ちゃんと百花ちゃん、それとお父さん、おはようございます」
「……おはようございます」

 はじめは慣れなかったこのやり取りも、三日目には「お父さん」と呼ばれる事に違和感が無くなった。
 妙に浮いているような気がしていたのは自分だけで、皆朝の送迎は忙しくて他人のことなどほとんど見ていない。
 それに気づいてからは気が楽になった。

「じゃ、よろしくお願いします」
「パパー! ばいばーい!」
「パパー! 頑張ってー!」
「おう」

 双子達が部屋の入り口でブンブン手を振っているのをチラリと振り返りながら、ピカピカに磨き上げられた保育園の廊下を歩く。
 すれ違うのはほとんどが母親ばかりで、父親が送迎している園児は少ない。

 以前に一度だけ高橋をこの保育園で見かけたが、今日は見当たらない。ウサギ組の前を通る時にさりげなく部屋の中を確認すると、隅っこの方で一人本を読む芽衣がいた。

 あの後俺がモタモタ双子達の準備をしている間に、さっさと保育園に預けて行ったらしい。

「おはようございます」
「あ……おはようございます」

 ウサギ組の先生らしき中年の先生に声を掛けられてドキリとする。
 よその教室をジロジロ覗く父親なんておかしいと思われただろうか。その後は逃げるように保育園を後にした。

「思ったより時間食ってるな……」

 腕に嵌めたミリタリーウォッチに視線を落として時間を確認した。今日は普段よりも心持ちのんびりしてしまったようだ。

――めちゃくちゃカッコいいね! それ、やっぱり悠也にすっごく似合うよ!――

 徒歩十五分程度の勤務先まで向かう道中に、別れた元妻朱里の跳ねるような明るい声が聞こえた気がして、チクリと胸が痛む。
 鼻の奥がツンとして、目頭がじんわりと熱を持った。さりげなく上を向いて空の青さを目に映す。

 そうだ、このミリタリーウォッチは、あの頃まだ二十歳手前の俺達にとっては高価な買い物だった。

 俺は、手首の時計をそっと慈しむように撫でた。
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