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50. 娘の名はイネス
しおりを挟むアフロディーテの予想通り、次にサラが神殿を訪れたのは一年も後のことであった。
真っ白なワンピースを身につけたサラは、両手を広げて歓迎した女神にガバリと抱きついた。
「アフロディーテ様、長らく来られなくてすみません。ユーゴが私の身体を心配して、なかなか出て来られなくて……」
「ふふっ……。そんなことだろうと思っていたから大丈夫よ。あの男は、あなたを全く外に出さなかったのでしょう?」
「でも! でもそれはきっと……私の身体と子どもの心配していたから……」
サラの妊娠中に、盲目のヒイロを含めた盗賊団タンジー一味の処刑は行われた。
どこか満足げな表情で逝ったヒイロの最期は、ユーゴも近くで見守った。
身重の妻を心配して、特にその時期には外に出ないように、ヒイロ処刑の話題が耳に入らぬようにと、細心の注意を払ったのである。
だが、心配はそれだけではない。
元はケサランパサランであったサラが身籠った子どもが、一体どんな子どもなのか。
夫婦は生まれるまで密かに心配したが、生まれて来たのは人間の赤ん坊であった。
「それで? 赤子はどこに?」
「ユーゴが、赤ちゃんを抱っこしている時はゆっくり歩かないと危ないからって……。もうすぐ来るはずです」
どこまでも心配性なユーゴは、赤ん坊を抱いている時には、非常に神経を使うようである。
「相変わらず、極端に面倒くさい男ねぇ」
「ふふふ……」
そうこうしているうちに、赤ん坊を抱いたユーゴが随分遠くからゆっくりと慎重に歩いて来るのが見えた。
「本当に焦ったい男ね。もう! 私が行くわ」
ハアッと呆れたようなため息を吐いたアフロディーテは、サラと共にユーゴの方へと歩き始めた。
「そのような歩みでは明日になってしまうわ。相変わらずね、ユーゴ」
「女神よ、そうは言うが……もし転んだりしたら大変だ」
「さあ、早く私に抱かせなさい」
眠る赤ん坊をそおっとアフロディーテに手渡すユーゴは、やはり心配そうな目線でその後の女神の動きも見ていた。
「おお、おお。可愛らしい! 名は何と言う?」
「イネス」
「イネス……。まさに愛し子に相応しい名前ね」
美しい女神アフロディーテは、愛を込めて赤ん坊の名を呼んだ。
「イネス、あなたも私の可愛い愛し子よ」
母親と同じ紫色の透き通るような瞳で、女神に抱かれたイネスは、じっとアフロディーテを見ているようだった。
イネスの髪はユーゴと同じ黒色、瞳の色はサラとアフロディーテと同じ紫色をしている。
ぷくぷくとまあるい頬をして、じいっとアフロディーテを見ていた。
「女神よ、 絶対に落とさぬように、しっかりと抱いてくれよ」
「もう、落とすわけないでしょう。本当に心配性な父上ねぇー」
「何とでも言ってくれ」
頭上でやり取りする二人に、ふにゃふにゃと唇を動かしたイネス。
次の瞬間にクシャッと顔を歪ませたと思えば、大きな声で泣き始めた。
フギャァーっと泣き声を上げるイネスは、慌てて駆け寄るサラが間に合わず、突然姿を変えた。
突然赤ん坊の重みが消えたと思えば、そこに現れたのは小さくて丸くてモフモフのケサランパサラン。
「モキューッ! モキュー!」
フワフワモフモフの毛玉が、可愛らしい鳴き声を上げがらフルフルと身体を震わせているのだ。
「あらあら、まだ赤子だから上手く出来ないのね」
そう言って、鳴き声を上げるモフモフ毛玉を駆け寄ったサラに手渡すアフロディーテは目を細めた。
「アフロディーテ様、この子はこれからどうなるのでしょう?」
心配そうに問いながら、ユーゴが何処からか取り出した天花粉を毛玉イネスに与えるサラは、すでに母親らしい表情をしていた。
「大きくなれば、自分の好きな姿を自由にとれるようになるわ」
「なるほど、今は幼いから不安定なのですね」
アフロディーテの言葉を聞いて、あからさまにホッとした様子の夫婦に、悪戯っぽい笑顔を浮かべた女神は続けた。
「良かったじゃない。ユーゴはモフモフを愛でるのが大好きなのでしょう? あなた達の子どもとしてはピッタリね」
改めて他人に言われると、何故かとても気恥ずかしい気がして、ユーゴは耳まで真っ赤にしてから抗議する。
「いや! それにしても、姿をコロコロ変えることがイネス本人にとって幸せなのかどうかは分からんからな!」
なるほど、いくらモフモフした物が好きとはいえ、自分の娘のこととなると、喜ぶだけではないらしい。
女神はツンと顎を上に向けて、流し目でユーゴを見る。
「そんなこと? 心配しなくともイネスが悩むようになれば、私が相談に乗ってやるわ。イネスの望むようにすることくらい、私にとっては造作もないことよ」
それを聞いたサラは、パアっと花が開くような笑顔で感謝の言葉を述べた。
しかし妻だけでなく愛娘まで、この少々癖の強い女神に手懐けられるのではないかと思案したユーゴは、実に微妙な表情であった。
サラの手の中で、天花粉をモッシャモッシャと食べ終わった毛玉イネスは、フワフワと浮かんで女神の肩に乗った。
「ほら、もう私に懐いているわ。可愛らしい私の新しい愛し子」
白く長い指でアフロディーテが毛玉イネスを撫でてやると、イネスは嬉しそうに体を揺らした。
「ユーゴ、アフロディーテ様の愛し子にしていただけるなんて、イネスはきっと幸せな娘になるね!」
「……まあ、な」
美しい妻がそう言って実に嬉しそうに笑いかけるものだから、複雑な表情ながらもユーゴは納得した。
イネスを愛でるアフロディーテは、歌うような声音で言葉を紡いだ。
「ああ、これからはまたこのイネスの愛が、どのように育まれていくのか見るのも楽しみだわ」
心配性なユーゴは、まだ赤ん坊のイネスがいつかは誰かのことを愛するようになるのだと急に実感して、妻に向かって不安げな言葉を漏らす。
「そうか……、イネスもいつかは誰かを愛して、俺たちの元から去って行くのか」
「でもユーゴ、そしたらまたユーゴを独り占めできるから、私はちょっと嬉しいな」
「……そうか、確かにそういう面もあるか」
甘ったるい雰囲気を醸し出し始めたこの夫婦に、肩をすくめたアフロディーテは、毛玉イネスを連れて少しの間その場を離れる事にした。
慣れない子育てでサラだって疲れているだろうから、たまにはユーゴと二人にしてやろうと。
「全く……。次の赤子が生まれるのも、きっとすぐの事ね。イネス、あなたにはきっと多くの兄弟姉妹が出来るわよ。楽しみね」
「モキュウ」
すりすりと頬擦りする毛玉イネスはまるで『楽しみだ』と返事をするように鳴いてから体を揺らした。
――モフモフ毛玉のケサランパサランは、私の可愛い愛し子。
人間の男に恋をして、ただそばに居たいと願った。
やがてそばに居るだけでなく、役立ちたいと願う健気な愛し子は、私の力を借りて人間の娘に姿を変えた。
努力を重ねて健気な愛を伝え続けた愛し子に、鈍感で言葉足らずな人間の男も、やっとこの子への愛を自覚したの。
そこからは男の執着と溺愛がまあひどいわね。
愛には色々な形があって、愛するが故に相手を傷つける愛もある。
もう一つの歪な愛は成就しなかったけれど。
とっても焦ったかった二人は、今では辟易とするほどに甘ったるいのだから。
とても興味深い愛の形だったわね。
さあ、次は新しい愛し子イネスの愛を見守りましょう。
過保護なユーゴの心配を煽るのも楽しみだわ。
~fin~
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