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26. モフの危機とアフロディーテ降臨
しおりを挟むそこに立つのは長い白髪の、とても美しい女。
「私の可愛い愛し子……。可哀想に……。命の灯火が今にも消えてしまいそう……」
誰もがうっとりするような美しい声音で、けれども哀しげに嘆くのは女神アフロディーテだった。
不審がって身構えるユーゴの横をあっという間にすり抜けて、すうっと寝台に近付いた女神は、白く細い手を寝台に横たわるサビーヌにかざす。
「ねえ、ユーゴ。この子の頑張りを、まだあなたは知らないの?」
そう言ってユーゴの方を向いて微笑んだ女神の持つ紫色の神秘的な瞳は、美しいけれどもどこか激しい怒りをたたえているようにも見えた。
パァーッと、周囲が昼間の太陽の下に晒されたようにサビーヌの身体を中心として眩い閃光が走った。
その眩しさに思わず目を閉じたユーゴが次に目を開けた時、寝台に横たわっていたはずのサビーヌの姿は消えた。
「ほら、見てごらんなさい。可哀想に、もう人間の姿を保つ力など残っていないのに。あなたに迷惑をかけまいと、無理にサビーヌの姿を保っていたのよ」
アフロディーテの身体の前で揃えられた両の手のひらには、赤黒く血塗れではあるものの、見慣れた白い毛玉が乗っている。
「モフ……⁉︎」
驚きの声を上げたユーゴは、思わずアフロディーテの方へと手を伸ばす。
……が、アフロディーテはユーゴにモフを手渡そうとはしなかった。
「あなたにこの子を手にする資格があるのかしら?」
「どういう意味だ?」
「あなた、この子を愛しているの?」
アフロディーテの言葉に、一気にユーゴは眉を顰めて険しい顔つきになった。
「愛? 俺はモフが大切だし、好きだ。何故そんなことを言われなければならない?」
アフロディーテの正体を知らないからか、それとも知っていたとしてもユーゴならば気にしないかも知れないが、鋭い三白眼で美しい女神を睨みつけた。
「あなたのことを、この子はとても愛しているのよ。だからずっと健気にあなたの為に役立とうと頑張ってきたの。それでも鈍感なあなたは、全く気付かないじゃない」
ユーゴが何か言い募ろうとした時、アフロディーテは手の中のモフを優しく撫でながら言葉を続けた。
「ほら、これはパン屋のルネ。あなたがきちんと食事を摂ってくれるようにと美味しいパンを届けたわ」
アフロディーテとユーゴの間に、姿見ほどの大きさの水の膜のような物がユラユラと揺れて、そこに映し出されたのは、ブルネットの髪を三つ編みにしてパンを売るルネの姿。
「そして、これは薬師のヴェラ。あなたが怪我をしたり病気になった時に役立つ為に、色々な薬を調合したわ」
ルネの姿はじわじわと滲んで、次は薬師の証である緑色のワンピース、麦わら色の髪が肩まで伸びたヴェラが傷薬を持って笑っている姿が映し出される。
「そして、これが騎士のサビーヌ。あなたの職務を助けたい、もっと役立ちたいと、努力を重ねたの」
ヴェラの姿もじんわりと滲み、最後に現れたのは緋色の髪を靡かせた騎士服姿のサビーヌ。
華奢な体で長剣を振り回している。
「この小さくて可愛らしいケサランパサランが、三人の娘の正体よ。あなた、それに気付いていた?」
ユーゴはただ呆然とアフロディーテを見ていた。
いや、正しくはアフロディーテの手の中にいるモフを見つめていた。
「もしや、とは思っていた。だが、まさかと思う気持ちの方が勝っていた……」
モフと過ごしていて時々感じた違和感は、決定的な何かでは無かったものの、モヤモヤと気持ちの悪い澱みのように、ユーゴの心にずっと引っかかっていた。
モフの怪我、ルネが暴力を受けたと話した時のモフの言葉、モフから匂う色々な香り。
他にも多くのヒントはあったのだから。
「あなたのように桁外れの鈍感で、無愛想で、怖い顔をした人間には私の愛し子は預けられないわ」
「ま、待ってくれ! モフを、連れて行かないでくれ!」
「だって、あなたはこの子のことを愛している訳ではないのでしょう?」
とうとうため息を吐いたアフロディーテは、心底呆れたような表情をしてユーゴを見やる。
「愛……。俺は、愛というのが分からんのだ!」
ひと睨みで人を射殺すと言われる三白眼、逞しい体躯と剣技で部下達からも恐れられる騎士団長ユーゴ。
そんな男が必死の形相で、そのようなことを叫んだ。
「はぁ⁉︎ 愛が分からないですって? 冗談でしょう?」
愛の女神アフロディーテは、紫色の瞳をグンっと見開いて興奮した声を上げる。
そのうちに、まるで信じられないというように女神はゆっくりと首を横に振った。
「冗談などではない! 俺は……愛というのはよく分からないが……。家に帰ってもモフという癒しが居ないと思うと……寂しくて耐えられそうもないんだ!」
愛が分からないと言いつつも、この男ときたらこんないかつい外見をして恥ずかしげもなく一体何を言い出すのか。
少し意地悪な愛の女神は、「これは面白いことになりそうだ」と密かにほくそ笑んだのだった。
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