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 この日、店の窓と入り口は固く締め切られているにも関わらず、慎二の店の前には野次馬と取材陣が殺到していた。
 店長不在の中、スタッフ達は汚れた店内の片付けをしつつ、休憩室のテレビから流れてくるニュースをつまらなさそうに聞き流している。

 以前は八人ほどいたスタッフも、今では男女二人しかいない。その二人も、今は転職先を探しているところだった。

「あーあ、最悪。先輩達についてもっと早く辞めときゃ良かった」
「本当だよ。何だか知らないけど店長が下手うって、卸からフロレゾンの製品を一切入荷出来なくなってから、すっかり閑古鳥鳴いてたもんね」

 汚れた床を乱暴に拭き、適当にバケツにモップを突っ込む若い男性と、最初からやる気のない女性は雑談の方が忙しいようだ。
 
「客が来なくて暇で、給料は貰えるからラッキーとか思ってたけど、貧乏くじ引いたわー。なぁ、もう掃除なんかほっといてバックれようぜ。どうせ給料は今月分までオーナーから出るって話だし」
「そうね。でもさ、警察ってこういうの、ほったらかしなんだって初めて知ったわ」
「俺だってだよ」

 二人は手にしていたモップを床に放り捨て、手分けして店内の照明を落として行く。
 
――「続いてのニュースです。〇〇区の美容室で店長の男性が、右腕を切り付けられて倒れているとの通報が店の従業員からありました。警察が駆け付けたところ、ハサミを手にした女を現場で確保し、事情を聞いています。被害を受けた男性は腕の神経を傷つけられ重傷ですが、命に別状はありません。確保された女は過去にこの店で働いていた美容師、田中清香容疑者で……」

「やべー。俺らの事ニュースになってる」
「でも、通報者の名前なんかニュースで言わないじゃん」
「だけどこれ、俺らの店の事だぜ。すげぇ」
「もういいって。帰ろ」
 
 最後に休憩室のテレビの電源も落とされ、二人は裏口からこっそりと逃げるように去って行った。





 アンバサダーである杏子が主になって施術を行っているセレニテは、連日訪れる客がまた客を呼ぶ人気店となっている。

 まだネットの取り扱いがないフロレゾン初のヘッドスパ専用ヘアケア製品を、日本で初めて取り扱う店という事もあって、施術の予約が取れずとも全国からフロレゾンファンが殺到した。
 そして、予約のみの取り扱いで店に置いたホームケア製品は、文字通り飛ぶように売れたのである。

「明日からは、とうとう全国の美容室で販売されるんですね」

 高層マンションの最上階、そのバルコニーから外の景色を眺めていた杏子は、隣に立つ統一郎を見上げる。少し前に洗い上がったばかりの杏子の黒髪が、都会の明るい夜空に溶け込むようだった。

「杏子さんと高山が、アンバサダーとして充分に活躍してくれたお陰ですね」
「高山店長と統一郎さんが長年積み上げて来たプロジェクトを、私がほんの少しお手伝いしたに過ぎないでしょう」

 もう杏子は知っていた。高山から全てを聞いていたからだ。
 杏子と出会う何年も前から、統一郎は高山とこのプロジェクトについて何度も何度も、それこそ眠る暇すら惜しんで話をして来た事を。

 フロレゾンのヘッドスパ専用ヘアケア製品を使って、ヘッドスパに特化したサロンを開く。元は父親と違ったやり方で経営をしていきたいという高山の発想だった。
 同じ老舗の跡取り同士、話が合うところのあった統一郎と高山のかつての夢物語。

「……知っていたんですね。すみません、杏子さんに隠し事をするような結果になってしまって」
「いいんです。私にとっても、とても幸せな仕事ですから。高山店長、統一郎さんとの思い出話をしながら泣いちゃって。よほど感極まったんですね」

 今日の打ち合わせ後、思い出すだけでもらい泣きしてしまいそうになる程、嗚咽を漏らす高山は統一郎との思い出や素直な気持ちをすっかり杏子に吐露したのだった。

 杏子は統一郎の直線的な頬に手を伸ばし、彫刻のような輪郭を撫でる。
 統一郎の目が優しく細められた。

「高山の、あのお節介で熱い性格に過去の僕は何度も救われたんです。本人はそうは思っていないでしょうが。だからこそ、今回の成功には心底ホッとしています」
「そんなに大切なプロジェクトに、何にも知らない私がお邪魔してしまったんだと知った時の気持ち、統一郎さんに分かりますか?」
「すみません。僕が高山に頼み込んだんです。一目惚れした杏子さんを、どんな手を使ってでも手に入れたくて」
「もう! その言い方、何だか怖いですよ」

 言いつつ統一郎を見つめる杏子の眼差しは柔らかい。
 フロレゾンのシャンプーとトリートメントの香りが、都会の喧騒から二人を守るように周囲を包み込んでいた。

「すみません」
「謝らないで。私、感謝してます。統一郎さんが私を望んでくれて」

 ここは高層マンションの最上階、二人の姿を見る者はいない。軽い口付けを交わした後に杏子は言葉をつづけた。

「ねぇ統一郎さん、今回のヘアケアブランドの名前……『アン』の意味って『一つの』って意味だって教えてもらっていたけど、元は違った名前に決まってたって本当ですか?」

 鼻を赤くした高山から最後に聞いたのは、今回のヘッドスパ専用ヘアケアブランドの名前の由来。
 フランス語で数字の『一』とか、『一つの』という意味だとは聞いていたが、高山が暴露したところによれば急遽統一郎が名前を変更したのだとか。

「『杏子あんこ』の『アン』だって、高山店長が……」
「……っ、高山のやつ、黙っているように口止めしてたのに」

 いつもは冷静沈着な統一郎が、珍しく慌てた様子を見せた事が愛おしい。
 杏子は統一郎の髪を撫で、そっと顔を近付ける。拒絶を恐れずに自分からそうするも、もう何度目だろう。

「統一郎さん、私をあなたの妻にしてください。こんなに素敵なあなたも、これからは私だけのものにしたいの」

 真っ白な月明かりの下で、二人の影は元から一つだったかよように自然と重なり合った。




 
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