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「やっぱり、佐々木さんのヘッドスパは日々の疲れが癒されますね」

 そう言って目を閉じたまま、長いまつ毛を僅かに揺らした客は、この美容室に通う常連客の一人である成宮統一郎なりみやとういちろうだ。
 統一郎は業界シェア一位の美容室専売ヘアケア用品を扱う会社の三代目社長で、製品の製造から販売までを手がける『フロレゾン』は、業界で知らない者はいない。
 
 シャンプーから仕上がりまで、全てを個室で完結できるこの店は、人目を気にする芸能人やセレブも通う人気店だった。

「ありがとうございます。成宮様にはいつもそう言っていただけて、励みになります」
「いや、お世辞なんかじゃなく本当の事ですよ」
「嬉しいです。ありがとうございます」

 常連客の言葉が余程嬉しかったのか、ヘッドスパ用クリームのアロマが漂う個室で、佐々木杏子あんこは滅多に人前で見せない眩しい笑顔を浮かべる。
 杏子はいつもと同じく、お世辞にも華やかとは言えない全身黒ずくめのシンプルな服装だったが、彼女の艶めく長い黒髪や色白の肌は、それでも十分に見栄えがした。

「今日もありがとう、佐々木さん。これでまた仕事を頑張れそうだ」

 シャンプーを終えた統一郎はゆっくりと起き上がり、テーブルに置いてあったいかにも質の良さそうな眼鏡を手に取る。
 以前に外で素顔を晒すのは美容室くらいだと話していた統一郎だったが、眼鏡を掛けた横顔も誰もがつい見惚れてしまうほど整っていた。

「お疲れ様でした。店長を呼んできますね」
「ああ、悪いね」

 ぺこりと頭を下げ、部屋を出て行こうとした杏子に穏やかな笑みを浮かべた統一郎の表情は、冷たく怜悧な印象を与える普段の顔とは違っている。
 それだけでも杏子は、統一郎が施術したヘッドスパで心からリラックスしてくれたのだと思い、嬉しく感じたのだった。

 誰に対しても過剰なほど控えめな態度の杏子は、美容師として働き始めて七年目だが、今の職場である『シャルマン』に就職してからはまだ一年足らずだ。

 前の職場ではある時から一人の同僚女性にひどく嫌われてしまい、日々のストレス発散の捌け口となっていた。それはそれは陰湿ないじめで、杏子は度々体調を崩してしまうほどだった。
 良き恋人だと思っていた店長が実は妻帯者だと知ったのもその頃だ。
 
 それでも、別れを告げる事は杏子には出来なかった。初めての恋愛でこういう時にどうしたら良いか分からなかったし、自分を受け入れてくれた店長への未練が捨てきれなかったのだ。

 しかし、段々とひどくなっていく同僚女性からのいじめでそのうち食事が出来なくなり、眠れない日々が続いた事で、退職を決めた。
 退職を告げた時、恋人だった店長の、どこかホッとしたような表情は今でも忘れられないでいる。

 ――「お前さ、性格は暗いけど顔は可愛いから、またすぐに新しい彼氏が出来るよ。お前のその何を言っても従順で逆らわないとこ、結構男受けするしな」

 退職を告げたが、まだ別れは告げていない。

 それなのに投げかけられたその言葉は、杏子にとって社会人になってからこれまでの全てを捧げた恋人との時間が、相手にとってはそう重要なものではなかったのだと知った。

 そして杏子をいじめていた同僚女性が、随分前から店長と愛人関係にある事を、餞別とばかりに他の同僚から聞かされたのだ。
 自分が毎日いじめで苦しい思いをしていたのは、二人の恋路を知らぬ間に邪魔していたからなのだと知り、馬鹿馬鹿しくなった。

 これからはただ真面目に仕事をしてキャリアを積んで、いつかは自分の店を開けたら……そう思って『シャルマン』の扉を叩いた。
 スタッフ募集の貼り紙に『新しい店で、これまでと違った新しい自分になりませんか』と書かれてあったのが印象的だったからだ。
 
 シャルマンはこの辺りでは誰もが知る老舗で、高級店。それが二代目に代替わりして、かなり印象が変わったと噂になっている。

 店長の高山は二十五歳の杏子よりも三つ年上だと言う気さくな男で、面接を終えた杏子は早速翌週からシャルマンで働く事になったのだった。




「佐々木さん、ちょっと残って貰ってもいい?」

 その日の仕事終わり、杏子は同僚達と一緒に帰ろうとしていたところを高山に呼び止められ、ガランとした店内に残った。

「あの、店長。私、何か……お客様からクレームを受けたんでしょうか?」

 普段は気さくで面倒見のいい高山だが、仕事に関しては厳しいところがある。
 
 つい先日も、若い男性店員の接客態度が良くなかったと、閉店後に呼び出していたらしいと聞いた。
 それで杏子は自分も何かヘマをしたのだと思って、肩をすくめ顔を真っ青にする。元は老舗の高級店だけあって、常連客はもとより新たな客に対しても接遇に関しては十分気をつけるよう言われていたからだ。

「ごめんごめん、急に呼び出したりしたらびっくりするよね。悪い話ってわけじゃないから、そう気負わないで。実は佐々木さんにお願いがあってね」
「お願い……ですか?」
「そう。知っての通り、この店の常連客で俺の友人でもある成宮なんだけどさ。アイツから、佐々木さんのを貸してくれって頼まれたんだ」

 ショートヘアの真ん中から毛先の方を明るく染め上げた高山は、ここで「困った」というように眉を下げて言葉を切る。

「でも、それって一体どういう……」
「実は、成宮の仕事がこれからめちゃくちゃに忙しくなるみたいでさ、しばらくの間は今みたいにこの店まで頻繁に通う事が難しいって言うんだ」
「それは……大変ですね。成宮様、今は一週間に一回は通ってらっしゃるから」

 統一郎は杏子が担当するヘッドスパの客の中で、最も頭皮や首肩のこりがひどい人物だ。
 けれども単なるマッサージや整体などでは改善が見られず、友人の高山に勧められて始めたこの店のクリームバスだけが、彼の極度の疲れ目や疲労に効果があったと言う。
 
 それで何とか仕事の都合をつけては、度々足繁くこの店に通っていたのだが……。

「アイツは知っての通り、この店ナンバーワンの頭皮カチカチの首肩こり症だろ? それに、佐々木さんのヘッドスパが一番良いって言うんだ。施術が誰よりも真面目で丁寧で、ちょうど良い心地らしいよ」
「そう言って貰えて嬉しいです。でも、お店の方は……」
「そこなんだけどさ、週に一回でいいんだけど閉店後に成宮の自宅へ行ってもらうとか出来ないかな? その分の報酬は成宮の方から出るようになるんだけど」

 家庭で使うシャンプー台も、クリームバスに使う物品も何もかもを統一郎が準備し、報酬として杏子には一回につき三万円を支払うと伝えたらしい。

 高山は両手を顔の前で合わせ、拝むようにして杏子に頭を下げる。
 上司に頭を下げられた杏子は、そんな状況ではとても断る事が出来ずに高山の頼みを了承した。

「いくら常連客っていっても成宮だって男だし、もし男の家に一人で行くのが不安なら、俺がついて行くよ」
「でも、店長は閉店後も忙しいじゃないですか。成宮様は紳士的な方ですから、一人でも平気です」

 統一郎のように美形で社会的地位のある男が、一介の美容師におかしな気を起こすなんて事は、絶対にあり得ないと杏子は思っていた。
 これまで出会った客の中には、ごく稀にセクハラまがいの言動をする者もいたけれど、統一郎は常に紳士的でおかしな目で杏子を見たりする事もない。

 統一郎相手に、杏子が変に意識する方が烏滸がましいとさえ思っていた。
 
「そう? 実はあともう一個お願いがあるんだけど、それに関しては成宮から直接聞いてくれるかな。悪い話じゃないから。本当にごめんね! 無理を言うけど」
「分かりました」
「佐々木さん、感謝する! 恩に着るよ! ありがとう!」

 大袈裟なほど感謝の気持ちを伝えて来る高山に、杏子は戸惑いつつも微笑み返したのだった。
 
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