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39. 悍ましい真実を語る姉
しおりを挟む「一年以上前に自殺した子いたでしょ? あの子はたった一人よ! たった一人逝かせただけで心を病んで死んじゃった!」
目を爛々と輝かせ、狂気的な笑みを浮かべた姉の姿は異様だった。
「あの子が自殺したせいで、今度は私にもその役目が回ってきたの。私は何人もやったわよ! だってすればするほど須藤師長は喜んでたし、他の皆だって『高井さんって強いわねぇ』なんて褒めてくれてたんだから!」
逃げたくなる衝動を堪えて話を聞く。込み上げてくる吐き気を飲み込むのに必死だった。
この部屋に漂う煮魚の生臭い匂いが、死臭のように感じて気分が悪い。
目の前で自分がした事を自慢するかのように胸を張り、身振り手振りを交えながら異常に興奮して語る姉が、全くの他人のように思えた。
「姉さんは……患者を、自分の手で殺してたって事?」
恐る恐る核心をつく言葉を投げかけると、電池が切れたように姉の動きがピタリと止まる。シンとした沈黙が訪れた。
自分の息遣いがやけに大きく聞こえる。耳にまで響く鼓動が喧しい。
一方で目の前の姉は一気に感情を失ったように無表情になってしまった。
「……それの何が悪いの?」
ふいに姉が言葉を発する。ひどく冷たい、突き刺すような言い方だった。
私が言葉に窮していると姉は構わず続けた。
「ねぇ、何が悪いのかって聞いてるの。寝たきりで家族にも見捨てられて、どうせ生きてても他人に迷惑をかけるような人ばかりじゃない」
「それは……」
言葉を続けたくても、カラカラに渇いた舌が絡まってしまう。その隙に姉はフンと鼻を鳴らすと、顎をツンと突き出し口の端を片方だけ持ち上げた。
「そんな人が夜中に急変したらどうするの? あそこは夜勤が看護師一人しかいないの。一人で全部対応するのなんか大変じゃない。それなら日勤のうちに済ませておいたらいいって思う事が悪いの?」
「でも、姉さん……」
「日勤なら三人いるでしょ? だから日勤のうちに大変な事を済ませといてあげるの。そうしたら夜勤さんが助かるじゃない。私だって夜中に院長に連絡して怒鳴られたくないし、急変したらカルテの記録だって大変。あそこ、紙カルテだから尚更よ。何より院長だって夜は遊んでて捕まらないし、急変したら自分達だけで対応しなきゃならないんだから!」
一度は去った興奮が舞い戻ってきた様子の姉は、こちらの意見なんて求めていないとばかりに一気に捲し立てた。
急変したら院長に報告、そして院長の指示で処置を行う。
そんな当然のことさえ、あの医院では出来ていないという事か。
でも、だからって患者の命は患者のものだ。看護師が自分達の都合で自由に摘み取っていいわけがない。
「じゃあどうして姉さんはここにいるの? どうして仕事を辞めて、ここに逃げ込んだの?」
自然と声が震えた。怒りからか、それともやるせ無さからくるものか、自分でも分からない。
握り込んだ拳の中にはじっとりと嫌な汗が張り付いていた。
「それは……、脅されて……」
興奮して口元に笑みすら浮かべていた姉が、急にしおらしくなる。
「誰に?」
「分からない。でも、ある日手紙が届いたの。それで新一に相談したら、ここに入院すればいいって言うから。『心神喪失なら無罪だ』って」
頭が金槌で思い切り殴られたように痛くなった。
自分の姉はこんなに頭が悪い人間だっただろうかと、強い衝撃を受けたのだった。
流されるまま殺人を犯し、そして新一に言われるがまま精神病のフリをしてここに入院する。そんな事をして一体何になるのか、考えた事はあるのだろうか。
こんなところに入院した挙句に離婚し、娘とも離れ離れになって、姉にとっての幸せとは一体何なのだろう。
堪えきれなくなった様々な感情が溢れ出し、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
「姉さんは……一体どうしたいの? ここで一生を過ごすの?」
もう姉がまともな人生を送る未来は無い。
「新一がね、離婚するのを了承したら、私を脅しているのが誰なのか探してくれるって言ったの。それが誰か分かったらその人と話して、私は悪くないって分かってもらうの。だって仕方なかったんだもん。皆がしてた事だし、私だけが責められるのはおかしいじゃない」
姉は仮病だ。本来しなくてもいい双極性障害の治療の為に、飲まなくていい薬を沢山飲んでいるはず。
そのせいでまともな判断が出来なくなっているのかも知れない。いや、そうとしか思えない。
だって目の前にいる姉は、自分の犯した罪を棚に上げ、まるで被害者のような口ぶりなのだから。
とても正気には思えなかった。
「じゃあそれまでは入院してるつもりなんだね」
この人と血の繋がりがあると思うだけで耐え難い嫌悪感が襲ってくる。
「だって、刑務所に入るなんて嫌よ。そんなの耐えられない」
今の姉と話していると、怒りと情けなさでこちらの頭がおかしくなりそうだった。
病院に足を踏み入れた時から、そしてこの閉鎖病棟という空間自体が異様な雰囲気で、居るだけで自然と息が詰まるというのに。
「分かった。それで、その手紙はどこにあるの?」
「新一が持ってる。ねぇ、伊織。アンタも捕まるのは嫌でしょ? それなら私を脅してきた奴を捕まえてよ。じゃないと、アンタだってそのうちそいつに脅されるよ」
姉は私が同じ罪を犯したものだと思い込んでいる。けれど、わざわざ否定してやるつもりはない。
それよりも、カナちゃんをこんな人の娘でいさせるわけにはいかない。今すぐに動かなければならないのだ。
誰が姉を脅していたのかは分からない。しかし公になる前に姉とカナちゃんの縁を切らなければ……。
「カナちゃんの事だけど」
「え? 香苗の事?」
突然全く別の話を切り出した私に驚いたのか、それとも我が子の事なんてすっかり忘れていたのか、姉は一瞬呆気に取られたような顔をした。
「カナちゃん、姉さんの子どものままだと姉さんが養育費を払わないといけなくなるんだよ。新一さんと別れたなら、悪いけど母さんと父さんの子どもとして養子縁組してもいいかな? 里子に出すなんて、今更私も母さん達も出来ないって言ってるからさ」
たとえ口から出まかせだったとしも、今の姉ならすんなりと納得してくれるだろう。
既にカナちゃんを実家の両親と特別養子縁組させるつもりでいた。けれど念の為、最後の情けのつもりで姉の気持ちを確認する。
「そんなのどうでもいいよ。そっちでアンタが適当にしといて。書類でも何でも、書けって言うなら書くから。それより早く犯人を探してよね!」
思った通り、姉は自分の事しか考えていなかった。
「うん、分かった。今日はもう帰るね。また来るから」
良かった。これでカナちゃんを守れる。絶望という殻を打ち破り、希望の光が溢れた。
ホッとした途端、口角が上がりそうになるのを唇を噛んで堪える。
ここに来る時、そしてここに来て姉の話を聞いた時にはあんなに絶望的な気持ちになったのに、私も結局は自分勝手な人間だ。
カナちゃんとこれからもずっと一緒に暮らせるかも知れないという選択肢がはっきりしてきた途端、こんなにもホッとしているのだから。
「あ、ねぇ伊織!」
「何?」
「新一、元気にしてる?」
カナちゃんの事は何も聞いてこない癖に、離婚した元夫の事を尋ねてくる。結局、姉は新一と結婚したいが為にカナちゃんを産んだだけで、愛情なんて無かったのだ。
「さあ? 元気なんじゃない」
「そう……」
今日姉が悲しそうな顔をしたのはこの時だけ。自分にもこの人と同じ血が流れているのだと思うとひどく悍ましい。
けれども、それを言ってしまえばカナちゃんの存在をも否定する事になる。だから口に出す事はしない。
生まれだけは本人にどうする事も出来ないのだから。
「じゃあ、また来るよ。お大事に」
今度こそ姉の病室を出る。やっとそこで大きく息を吸って、そして長い時間をかけて吐いた。
小さくなった肺が膨らんで、押し上げられていた横隔膜がグググっと下がる。
いつの間にか呼吸がとても浅くなっていた事に気づいた。近頃ストレスや過労が溜まっているのは分かっていたが、こうなれば時々意識して治さなければならない。
そんな風に考えていた時、突然後方から声を掛けられた。
「こんにちはぁ。もう帰られますか?」
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