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第四章 それから
最終話
しおりを挟む遠慮がちに近付く衣擦れの音がする。限られた照明だけのぼんやりとした暗い寝室で、レティシアはふと目を開ける。
柔らかな寝台の上でゆっくりと寝返りをうつと、寝台の脇に居る人物と目が合った。
「すまない、起こしたか?」
「ううん、大丈夫。まだ起きていたから」
近頃は日が変わる頃まで忙しく執務に明け暮れるリュシアンが、やっと一息ついて夫婦の寝台に入ろうとしているところであった。
リュシアンはレティシアが目を覚ましてしまった事について謝罪の言葉を口にするも、枕元の照明に照らされた顔はほんの少しホッとしたようにも見えた。
皇帝として日々を忙しく過ごすリュシアンにとって、愛するレティシアの顔を見るのは何よりも癒しになっているからだ。
「もしかして、起きて待っていたのか?」
「ええ。だってそうすればリュシアン様は嬉しそうなんだもの」
二人が婚姻の儀を終え、無事成婚してから五年。二人の間にはもうすぐ四歳になる息子リアンがいる。
最近のリュシアンはリアンに皇太子としての在り方を自ら教えつつ多忙な公務もこなしている為に、レティシアとゆっくり話す時間が以前よりも少なくなっていたのだった。
「当然だ。レティーも公務が忙しいのだろうが、近頃はあまりにも二人の時間が取れないと思わないか? こうして眠る時くらいしか、レティーの顔をゆっくり見る事が出来ないなんて」
二人だけの時はお互いを昔の呼び名で呼び合うのが、初夜を迎えた晩からの約束事であった。
それを言い出したのはリュシアンからで、レティシアは意外な申し出に驚いたものの、喜んで了承した。
「今は大切な改革の時だもの。仕方がないわ」
リュシアンは寝台の中に入るなりいつもそうしているように、微笑むレティシアを胸に抱きすくめた。そして柔らかなレティシアの髪を撫で、愛しくて堪らないといった風にそこへ口付けを落とす。
「レティーは物分かりが良過ぎるな。寂しく思わないのか?」
いくら不満げな口調であっても、レティシアの髪を梳く手つきはとても優しい。
胸に抱かれたレティシアの耳には、トクントクンというリュシアンの鼓動が心地良く届いて、その安心感に思わずホウッと息を吐く。
「そりゃあ寂しいわ。でも、お陰でこうしてリュシアン様が素直に甘えてくれるから、嬉しくもあるの」
「今手掛けている事柄も、もうすぐひと段落するだろう。そうしたらリアンを連れてお忍びで出掛けないか?」
「それはとても素敵ね。どこへ行くの?」
「なかなかの田舎だよ」
髪を撫でていたリュシアンの手は、いつの間にやらレティシアの柔らかな頬に移動している。時々下唇や顎に触れながら、じっと見つめてくるのだ。
これが口付けを強請る時の密かな合図なのだという事を、レティシアは既に知っている。
「ん……、もう、待って……」
話の途中だというのに、リュシアンはそっとレティシアに顔を寄せると、唇同士を重ね合わせた。
それに対してレティシアが抗議の声を上げると、リュシアンは甘く低い声で囁き返す。
「待つ?」
「まだ話の途中だからよ。ねぇ、どこへ行くの? きゃ……っ、もう、くすぐったいわ! ちゃんと教えてったら!」
子どもの頃のように無邪気な声を上げるレティシアに、リュシアンは碧眼を優しく細めた。
「ディーンの持つ田舎の領地だ。そこにある屋敷へ行こうと思っている」
「それってまさか……。ニコのところ?」
ニコというのはリュシアンの義母弟であり、今は出自を隠して元皇宮庭師ジャンとその孫シャルルと共に、平民としてひっそりと生きているニコラの事だ。
「ああ。あれからニコは誰にも不審に思われる事もなく、真面目に屋敷の管理に励んでいるらしいという事は話しただろう?」
「ええ、以前にそう聞いたけれど」
「ただ、先日ジャンが病で身体が不自由となり、寝たきりになったらしい。これからシャルルと二人で屋敷の管理を続けていくにしても、落ち込んでいるのではないかと心配になったんだ」
リュシアンは血を分けた弟であるニコラの事を常に気に掛けていた。しかしその存在はあの時すでにこの世に居ない事になっている。
ごくごく一部の者しか知らないニコラの行方を誰にも知られないように、その死を不審に思われないようにする為には長い年月が必要だった。
リュシアンとジャンは密かに偽名を使って手紙のやり取りをしていたが、ジャンが寝込んでしまってからというもの連絡が途絶えてしまった。
心配になってすぐに彼の地に手の者を送ったリュシアンは、ジャンの身体の状況と気落ちする孫達の様子を知ったらしい。
「まぁ、そうだったの。心配ね。それなら早めにそちらへ様子を見に行けるように、私も出来る限り協力するわ」
「それは助かる。ありがとう」
「当然の事よ。私だってニコが心配だもの」
まだ幼さの残るシャルルとニコラの姿がいまだにレティシアの瞼の裏には焼き付いていて、二人に会える日を心の底から楽しみに思うのであった。
「レティー」
今日一番の甘い響きでレティシアの名を呼んだリュシアンは、腕の中の宝物を一層強く抱きすくめる。
この時間だけは何者にも邪魔されまいというように。
「なぁに?」
「何度伝えても、どんな言葉でもこの気持ちは言い表せない。レティーが愛しい」
「私もよ。心からそう思うわ」
向かい合わせに抱き合った二人は、お互いの温もりを布越しにひしひしと感じ、愛する人のそばに居られる幸せを噛み締めた。
「そうだ、リュシアン様に一度直接聞いてみたかった事があるの。でも、聞く勇気がなくて……」
「何を?」
昔、レティシアが一番不安になった思いがあったが、未だ直接リュシアンに真意を確かめられずにいた。
ニコラの話でふとその事を思い出したレティシアは、今日こそ聞いてみようと思い立ったのである。
「実は……。でも、やっぱり……」
「どうした? 言い辛い事なのか?」
「正直に教えてね……あの……」
レティシアの口からその事を聞いたリュシアンは、一瞬言葉を失ってしまった。
流れていた甘い雰囲気もあっという間に霧散するほど、レティシアの口から放たれた言葉はリュシアンにとって衝撃的だったらしい。
「俺が……イリナに好意を抱いていたかって? レティー、ずっとその事で心を悩ませていたのか?」
「ずっとという訳ではないわ。でも、心に刺さった小さな棘みたいに、その事を考えると時々思い出したようにチクチクと疼く事があるの」
リュシアンが自分に向ける愛情を疑っている訳ではない。それに過去の事を掘り返すのは、レティシアにとっても辛い事であり、汚点でもあった。
だけどどうせなら長年の疑問をここで解決できればいいなと思ったのだ。
「はぁ……。確かにあの頃の俺は自分勝手で、歪んだ感情をレティーにぶつける事しか出来ていなかったな」
「それは私だって……」
「いや、レティーは悪くない。全て俺が未熟だったからだ」
横向きに臥床して向き合っている二人は、お互いの事を庇い合った。やがてフウと一息ため息をつくと、リュシアンは真っ直ぐにレティシアを見つめる。
「俺は、一度だって他の女にうつつを抜かした事はない。ただの一瞬もだ。あの頃は未熟だった故にレティーには辛い思いをさせてしまったが、俺はずっと……レティーだけを想っていた」
欲しかった疑問の答えが貰えたレティシアは、これまでずっと胸につかえたような思いがスッと腑に落ち、自分の心をチクチクと傷つけてきた棘など元から無かったのだと分かり安堵した。
「何事も、伝わっているだろうと過信せず、言葉にしなければ伝わらないものだな。他には無いのか? レティーの不安や、心配事、何でも話してくれ」
「ありません……」
「本当に?」
「やっぱり……一つお願いが」
「何だ? 言ってみろ」
リュシアンは至極真面目な顔付きでレティシアを見つめるものだから、レティシアは今一番言いたい事があまりにも稚拙なようで恥ずかしく感じてしまう。
「リュシアン様……私を強く抱いて、たくさん口付けをしてください」
普段そのような事を口にしないレティシアが潤んだ瞳でそう願うものだから、リュシアンは目の前の妻が愛おしくて堪らなくなった。
華奢な身体をきつく抱きしめ、その耳元に口付けを落としてから囁いた。
「何度生まれ変わろうとも、俺はレティーと共に在る」
濡れた口付けの音と湧き上がる喜びが、レティシアの身体をブルリと震わせた。
~fin~
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河原さん!(੭ ˃̣̣̥ ω˂̣̣̥)੭ु⁾⁾
ありがとう✨✨✨
忙しい中、読んでくださって本当に嬉しいです!
やっぱりハッピーエンドの読後感は堪らないですよね(●´ω`●)
漸く過去のリュシアンとイリナの関係が伺えてレティシアじゃないけど少しホッとした。
でも慎重派なので本人達から聞かないとまだちょっと油断できない所ある(笑)
タチアオイ様、感想ありがとうございます❀.(*´◡`*)❀.
乙女としては気になるところだったようです。
今後、リュシアン本人の口から聞けるかどうか(レティシアは既に納得しているようでありますが)、どちらに転ぶか分かりませんがお待ちくださいませ。
ありがとうございました!
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失敗作?が弟さんに有効活用されていたのも微笑ましいです。
きょうだいって、そんな関係でちょうど良い気がしますもん♪…………不揃いな手作りクッキーとかチョコを、ちゃっかり家族用にしちゃう乙女のノリですね✨
感想の返信遅れて申し訳ありません(੭ ˃̣̣̥ ω˂̣̣̥)੭ु⁾⁾
何と無く、どこの世界もどこの国の乙女も同じかなと思って入れてみた描写です。
やりますよね⁉︎ 私も弟に不出来なチョコとか食べさせていました(´・ω・`)