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第一章 逆行したレティシア(幼少期)
35. アヌビスとの答え合わせ、レティシアは決意する
しおりを挟む――「予想よりも治りが悪い。随分と痛々しい傷じゃ……。まさか本当にイリナ嬢がここまでするとはの。殿下があの石を使っていなければ即死じゃったろうに」
ぼんやりした記憶、遠くから聞こえたのはアヌビスの声。背中は硬い石造りの床では無く、柔らかな寝台のような場所に寝かされているようだ。
呼吸はしているようで、薬草のような匂いが鼻をつく。強く感じていた痛みや熱さよりも、そのうち段々と眠気が強くなってきた。
「どうだ? まだ意識は戻らないのか?」
「石を使った割には何故か傷の治りも悪く、まだまだ油断できませんな」
「だが、お前の言う通りに使ったぞ。何故傷の治りがこうも遅いんだ? 顔色も悪いし、呼吸も浅い気がするが」
レティシアの頬を、冷たい手が撫でる感触がした。硬い剣だこのある手のひらは、そっと優しく輪郭をなぞる。
それがあんまり心地が良くて、レティシアは抗えない眠気にもう身を委ねる事にする。
「ん? これはまずい。レティシア嬢! 戻って来なされ! 逝ってはならぬ!」
「どうした⁉︎」
「魂が、魂がレティシア嬢の器から抜け出して、消えようとしておる!」
ガチャガチャと何かの器具がぶつかり合う音がする。
頭上で言い合う二人の声が何故かひどく耳障りに聞こえて、レティシアは「もうやめて」と声を発したくなった。
けれど自分の力では、もう指一本も動かせない。
「くそっ! アヌビス、どうにかしろ! レティー! レティー! 逝くな!」
「あぁ……ダメじゃ、もう……」
「諦めるな、アヌビス! 何とか……」
そこから先は、レティシアの記憶に無い。恐らくその後にあの真っ暗な空間へと放り出されたのだ。
「私はあの時……すぐに死んではいなかったの?」
「何か、思い出したのかな?」
「何かの……石? を私に使ったと……。けれどもう手遅れだったようで……」
あの時、刺されたレティシアはこの医務室のような匂いのする場所へ運ばれていた。
そこにはアヌビスも居て、リュシアンはレティシアを救う為に手を尽くしたのだろう。
「ほぅ、恐らくその石はのぅ、一度だけ、どんな傷や病をも治す力を持つ物で、今のこの世界にはもうたった一個しか残っておらん大変貴重な物じゃ。今もワシが殿下にお守りがわりに手渡しておる」
「何故……? 私を助けようとしたの?」
レティシアはてっきりリュシアンも自分の事を殺すつもりであの場に現れたのだと、ずっとそう思っていた。
革命を起こしたのだ。あの場で血が流れるという事は覚悟していたのだろう。
しかし父親であるベリル侯爵を庇い、レティシアがイリナに刺されたあの時、おおかたそれはリュシアンにとっても予想外の出来事だった。
せいぜい捕縛、投獄し、しばし幽閉するつもりだったのかも知れないが、リュシアンにはレティシアを殺すつもりなど無かったのだろう。けれどそこに、イリナとリュシアンの思惑の違いがあったとしたら……。
過去でレティシアはリュシアンからきちんと話を聞いていない。リュシアンがあの時どう思っていたのか、どうするつもりだったのかはその行動で予想するしか無い。
あの時、愚かだとリュシアンはレティシアに言った。父親を庇って刺されるなど、愚かだと。
しかしアヌビスに手渡されていたその不思議な石さえあれば、レティシアの命を助けられると信じていたのだとしたら?
だからあの時イリナに知られぬよう、密かにそれを使った。イリナとリュシアンは強い信頼で結ばれた味方同士なのだと思っていたが、もしそれが違っていたのだとしたら?
結果的にレティシアは死んでしまったが、何の因果か魂が時を超えて回帰した。
「リュシアン様は……私を元々助けるつもりだった?」
「そうさの、ワシが殿下から聞いた話によれば、そのおつもりだったようじゃ。まぁ、色々と予想外の事が起きたらしいが」
「やはり……ただ見殺しに……されたわけでは……無かったのね」
リュシアンにそんなつもりは無かったのだ。それが分かっただけでも、レティシアにとっては非常に大きな救いであった。
「ふ……っ、うう……うっ、ううぅ」
何とか声を押し殺そうとしても、次々と漏れ出る苦しげな嗚咽。レティシアは初めて知った事実に感情を制御しきれなくなる。
「大丈夫かの? ほらほら、そう泣くでない。もう涙も枯れ果て、脱水になってしまう」
言いつつ慌ててハンカチを探していたアヌビスは、シワシワになったそれをやっと懐から出すと、レティシアに手渡した。
老人アヌビスには何となく似合わぬ、可愛らしい青い鳥が刺繍されたハンカチには、「A.A.」とイニシャルも刺されてある。
レティシアはアヌビスを大切に想う人が手渡した物なのだと思い、無闇に使わずそっと畳み直して返す。
「いやはや、しわくちゃですまんのぅ」
「いえ、私もハンカチは持っておりますから。ありがとうございます。可愛らしい小鳥の刺繍ですね」
「昔々の贈り物じゃ」
そう言ったアヌビスは遥か遠くを見るようにして、その後レティシアの方へと笑顔を向けた。
アヌビスの横顔が一瞬精悍な若者に見えた気がして、驚いたレティシアは二、三度瞬きをする。しかしやはり今目の前にいるのは歳を重ねた老人であった。
「今……」
「ん? 何じゃ?」
「いえ……。私、リュシアン様ときちんと話さなければなりませんね」
その瞳にもう涙は浮かんでいない。レティシアの明るく強い決意が籠ったようにも聞こえる声に、アヌビスは大きく頷く。そしてパチリと片目を瞑ると、にっこり笑ってレティシアに告げた。
「せっかくやり直しの機会が与えられたのじゃから、どうか今度こそ、後悔のないように行動しなされ。出来る事ならワシも、やり直してみたいものじゃ」
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