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最終章 北風と太陽の英雄譚
到来
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グランツと黒騎士の戦いは、上辺だけ見れば五分五分であった。
実際はソフィア姫の結界とバフォメット族の弓使い――天才的なアレックスの弓捌きには遠く及ばないものの、ある程度は矢の軌道が操れる凄腕たちである――彼らの援護があってこそだ。
とはいえ、直接戦闘のできる者がたった一人なのにもかかわらず、ここまで善戦できたのは歴史に残る快挙と言えよう。
過去に無名の兵士が黒騎士を討ち取った記録など存在しない。
それこそ、その時代トップの実力者たちが取り囲んだうえで、罠に嵌めて殺した逸話がほとんどだ。
戦場における歴代黒騎士の死因は、地形を利用した土砂や瓦礫による質量攻撃か、大量の水に沈めての窒息か――あるいは黒い炎の使い過ぎによる自滅か、そういったものばかりなのである。
もちろん戦闘以外も含めた全ての死因を考慮すれば、毒殺なんかも候補に上がってくるのだが……要するに正攻法で無力化することは難しいのだ。
戦闘に参加できない者たちからすれば非常にもどかしい戦争だっただろう。
しかし、数の上では勝っているが、正面からぶつかり合えば黒騎士無双が始まってしまう。
だからこそ、レヴィオール側から一方的に攻撃できるソフィア姫の結界によって敵を分断することが大前提だった。
もし黒騎士が一人で攻め込んでくる保証でもあれば、伏兵を森の中に隠しておいて、黒騎士が離れた隙に残された二千のメアリス兵を一網打尽にする……そんな作戦だって立てられたかもしれない。
だが、当然そんな保証はなかったし、たとえ予測できていたとしても万が一を考えると、その作戦の実行は難しいだろう。
何より、その他二千人の雑兵を押さえたところで、黒騎士が無力化できなければ戦いは終わらないのだ。
……逆に言えば、黒騎士さえどうにかできれば、あとは数の有利と一方通行の障壁によって簡単に勝負が決まる。
つまるところ、この戦いの結末は二人の英雄――『黒騎士とソフィア姫のどちらが生き残るか?』という問いに帰結する。
これはそういう戦争だった。
斬り結ぶ騎士剣と魔獣の大剣。
黒騎士の振る剣は封印鉄を芯に鍛え上げられ、聖銀でコーティングされた最上級品だ。
単に切れ味が鋭いだけではなく、魔力を溜める封印鉄と魔力を効率良く伝達する聖銀コーティングの組み合わせは魔術を纏わせるにも最適であった。
一方で、グランツの振るう魔獣の大剣はかつて斬り落とした魔獣の尾をそのまま使っている。
魔獣自身の手によって大剣の形に整えられているが、よく撓り僅かに伸びるその武器は純粋な剣ではなく、変則的な鞭やフレイルに近い武器であるとも言えるだろう。
もっと言えば、見た目は大剣と蛇腹剣の中間にある武器だと表現できるかもしれない。
撓る打撃武器としての側面も持ったこの大剣は、全身鎧に盾を装備した黒騎士に対して相性が良い武器である。
しかし黒騎士にとって最も精神的な負荷となっていたのは、大剣の姿そのものであった。
漆黒の鱗殻と獣毛、そして毒蟲を連想させる規則正しく並んだ棘。それらは嫌でも漆黒の魔獣を思い出させた。
黒騎士はこの戦場に例の魔獣が現れることを確信していた。
そして、今の魔獣がより強力な存在に成長していることも予測がついていた。
冬に呪われた地での戦いは強烈な記憶として残っている。なぜなら、あの時はたった一頭の魔獣に切り札を切らされたのだから。
確かに一度は勝利を収めたものの、あの魔獣はほぼ不死身である上に、ほんの数分もあれば肉体を作り変えて弱点を克服する厄介極まりない特性を備えていた。
あの時は魔女の警告に便乗して離脱したが……あのまま続けていれば結果がどうなったか分からない。
ましてや、すでにあれから数ヶ月も経っているのだ。
今となっては、どれほど厄介な相手に“進化”しているのか。そんなの想像だにできない。
状況証拠からして、あの魔獣が参戦しないなんてありえない。
異界の主たる魔獣は通常、そう簡単に外の世界へは出ないと言われているが……言葉が通じるなら交渉によって従魔にすることも不可能ではないだろうし、それなりに高位の魔獣相手なら召喚という手段もありえる。
この場に姿を見せないのはきっと、レヴィオールの姫と召喚契約でも結んでいるからだ。
おそらく、最も有効的な投入タイミングを見計らっているのだろう。
(このままでは……討たれることはないだろうが、長引かせるのも都合が悪い)
黒騎士は飛んできた矢を律儀に全て叩き落しながら考えた。
(結界を張っているのは相当腕のいい術師だな。この感覚からするに、おそらく彼女か。時間をかければ私だけで攻略できないこともないが……)
しかし、命を対価とする黒い炎には限りがある。
すでに右半身を蝕まれている黒騎士の場合は、残り半分といったところ。
炎を噴き出させて全身を強化させれば、さらに残りの寿命を激しく消費する。
魔獣との戦いを想定するなら、この不利な戦場で命を無駄に消費し続けることは好ましくなかった。
とはいえ撤退することはできない。
この戦いを長引かせれば、自分は南部平原の戦場に連れ戻されるだろう。そしてメアリス教国は連合国に勝利する。これは絶対である。
その先に待ち受けるバフォメット族の、そしてあの少女の運命は……死や滅亡よりも残酷な支配と隷属、そして終わり無き凌辱が繰り返される絶望の日々となる。
つまりこれは黒騎士にとって、悲しみを終わらせる最初で最後の機会。
(打てる手は全て打つべきだな。ならば、私も――命を賭けよう……!)
ただの命懸けではない。負ければ文字通り黒い炎に全てを奪われる。それはまさに“賭け”であった。
普段の彼なら絶対に選ばない、あまりにも刹那的な選択。それだけ彼女に対する妄執が深いということなのだろうか。
――黒騎士の炎を継ぐ者は己の内に宿る存在へと呼び掛ける。
「はあああ……」
我が昏き炎よ、血の盟約に従い、力を寄越せ。
全てを焼き払う呪いの炎よ、我が命を喰らい、女神に逆らう全ての神敵を灰燼と為せ。
「……なんだ?」
さっきまで作業に殉じる人形か機械のように沈黙を貫き通していた黒騎士。
そんな強敵が急に呻くような声を上げ始め、対峙するグランツは訝しんだ。
彼に宿るソレは、黒い炎を快く燃え上がらせる。
苦痛をこらえながらも冷静さを保つ黒騎士。
なのに彼本人のものとは違う、まるで見知らぬ誰かの憤怒と憎悪のような闇色の奔流が全身を駆け巡る。
「ォアアアアアアアアアアア!!」
はたしてそれは誰の叫びなのか。
言語化できない衝動的な雄叫びが戦場に響いた。
その隙を見て放たれた矢が、今度は弾き落されることなく、黒い炎によって届く前に燃え尽きた。
右半身から噴き出した黒い炎が、全身鎧を覆う。
聖銀の騎士剣が黒い炎を纏う。
これこそが、冬に呪われた地にて魔獣を圧倒した力。古の狂気をその身に宿す黒騎士の切り札であった。
そのますます以って鎧の亡霊に酷似した姿から嫌な気配を感じ取ったグランツは、叫ぶ黒騎士へ向かって先手必勝とばかりに斬りかかる。
しかし、その無謀な攻撃は、黒騎士が放った暗く燃える炎のオーラによって本人ごと吹っ飛ばされた。
地面を転がり、勢いを利用して体勢を整えるグランツ。
幸いなことに大剣が盾代わりとなったため本人は無事だ。だが……黒い炎に触れた大剣の一部は炭化していた。
たった一瞬触れただけなのに、明らかにさっきより火力が上がっている。
さらに放たれた炎の一部が、障壁にへと燃え移った。
まるで薄い紙に燃え移った火のように黒い炎がじわじわと広がっていき、魔術障壁が焼き尽くされていく。
そして、世界を隔てる壁が壊れたことにより、ソフィア姫の聖域も崩壊した。
「おい、そりゃ無えだろ……」
ほんのちょっと本気を出しただけで、戦況の全てが覆る。
こんなやばい相手を単独で討伐させられている現実が、グランツにとっては悪夢を見せられているような気分だった。
聖域が崩され、徐々に魔力の濃度分布が元に戻っていく。
それを機に黒騎士は剣を――厳密には、籠手に填められた深紅の透き通る魔石を掲げた。
その魔石の正体が何なのかは、言わずもがなだろう。
再び魔術を使えるようになった黒騎士は、得意の火属性魔術による火球をいくつか空に放つ。
そして属性魔術の赤い炎と呪われた黒い炎を混ぜ合わせた巨大な火柱の剣を生み出し、そのまま城壁の一部を呑みこむように薙ぎ払った。
一瞬の判断で回避したグランツの背後で、阿鼻叫喚の地獄が出来上がる。
もちろん、石材を積み重ねた城壁が炎によって焼け落ちることはない。しかし、その上と中に居る人間や設備は別だ。
城壁の上に居た弓使いたちの姿も確認できない。
ひどい場合は大砲用の火薬にも引火し、一部城壁の迎撃能力が格段に落ちてしまった。
さらにこのタイミングでメアリス教国二千の兵が動き出す。
もしかすると、さっき空に放った火球が合図だったのかもしれない。
一連の流れを総評すると、文句のつけどころがない、あまりにも鮮やかすぎる形勢逆転だった。
「さあ、どうする? あの魔獣を出すなら今だぞ?」
兜の内側から溢れ出す黒い炎の姿を借りた狂気を、無理やり押さえつけたような声で黒騎士は言った。
「テメェには勿体ないぜ……!」
初めてまともに聞いた、意外と凛々しい黒騎士の声。
グランツは戦力不足と防衛線崩壊の現状に焦りながらも、黒騎士に悪態を吐いて大剣を構えた。
――その光景に焦りを覚えていたのは、監視塔に居たソフィア姫たちも同様であった。
障壁を侵食して焼き払っていく黒い炎に、吶喊してくるメアリス教国の神兵。
火力が上がった黒い炎を前に、障壁の修復が間に合わない。
消火活動に追われて混乱している城壁上の連合国軍は、障壁の内側に侵入した敵兵の接敵を許してしまう。
先ほどの攻撃で魔術的な保護も焼き切られた城壁は、もはや単なる岩の塊だ。
案の定、メアリス兵たちの地属性魔術によって城壁はあっさりと開かれてしまった。
「わわっ、城壁が壊されたよ!」
リップがネコのような尻尾の毛を逆立てながら室内の者たちに報告する。ディオン司祭は厳めしい表情を変えず、魔術師のジーノはそれを聞いて渋い顔をした。
「やはり先ほどの炎で城壁の固定化も解除されましたか……ソフィア姫、グランツさんはまだ生きてます?」
「はっきりとしたことは言えませんが、おそらくは……」
両目を閉じ、苦悶の表情をするソフィア姫。あらゆる手段で障壁の再形成を試みているが上手く行っていない様子だ。
城壁の中になだれ込む二千人のメアリス教徒。市街戦で迎え撃つ三千の連合国兵士。
町の端から順に火の手が上がる。
黒騎士とは違い、広範囲の殲滅手段を持たないグランツには数の暴力が効く。
もしグランツが居なくなれば、今のところ黒騎士を止める手立てはない。
もはや敗北は濃厚だ。
はたして星詠みの魔女に嵌められたのか、それともアレックスが間に合わなかったのか……。
――その時、湖の果てから微かな獣の咆哮が響いた。
「今のは……?」
音に敏感なリップのネコミミがピクリと動き、次に風属性魔術師でもあるディオン司祭がその声に反応する。
リップが慌てて湖に面した窓へ駆け寄り双眼鏡を覗いた。
「みんな大変、湖が……!?」
リップの目に映った光景は、湖が北側から凍っていく奇跡的な瞬間だった。
レヴィオール王国の中心にある湖は、途轍もなく広大で、同時にかなり深い。
そんな湖はたとえ冬が訪れようと、凍ることは滅多にない。
もし凍ることがあるとするならば、それは――。
「本当に……来てくれたのですね……!」
ソフィア姫が静かに目を開く。
雪と氷の精霊たちを引き連れて、凍りゆく湖の先頭を駆けるは一頭の魔獣。
深い藍色の毛並みをもつ北風は、背中に太陽の王子を乗せていた。
実際はソフィア姫の結界とバフォメット族の弓使い――天才的なアレックスの弓捌きには遠く及ばないものの、ある程度は矢の軌道が操れる凄腕たちである――彼らの援護があってこそだ。
とはいえ、直接戦闘のできる者がたった一人なのにもかかわらず、ここまで善戦できたのは歴史に残る快挙と言えよう。
過去に無名の兵士が黒騎士を討ち取った記録など存在しない。
それこそ、その時代トップの実力者たちが取り囲んだうえで、罠に嵌めて殺した逸話がほとんどだ。
戦場における歴代黒騎士の死因は、地形を利用した土砂や瓦礫による質量攻撃か、大量の水に沈めての窒息か――あるいは黒い炎の使い過ぎによる自滅か、そういったものばかりなのである。
もちろん戦闘以外も含めた全ての死因を考慮すれば、毒殺なんかも候補に上がってくるのだが……要するに正攻法で無力化することは難しいのだ。
戦闘に参加できない者たちからすれば非常にもどかしい戦争だっただろう。
しかし、数の上では勝っているが、正面からぶつかり合えば黒騎士無双が始まってしまう。
だからこそ、レヴィオール側から一方的に攻撃できるソフィア姫の結界によって敵を分断することが大前提だった。
もし黒騎士が一人で攻め込んでくる保証でもあれば、伏兵を森の中に隠しておいて、黒騎士が離れた隙に残された二千のメアリス兵を一網打尽にする……そんな作戦だって立てられたかもしれない。
だが、当然そんな保証はなかったし、たとえ予測できていたとしても万が一を考えると、その作戦の実行は難しいだろう。
何より、その他二千人の雑兵を押さえたところで、黒騎士が無力化できなければ戦いは終わらないのだ。
……逆に言えば、黒騎士さえどうにかできれば、あとは数の有利と一方通行の障壁によって簡単に勝負が決まる。
つまるところ、この戦いの結末は二人の英雄――『黒騎士とソフィア姫のどちらが生き残るか?』という問いに帰結する。
これはそういう戦争だった。
斬り結ぶ騎士剣と魔獣の大剣。
黒騎士の振る剣は封印鉄を芯に鍛え上げられ、聖銀でコーティングされた最上級品だ。
単に切れ味が鋭いだけではなく、魔力を溜める封印鉄と魔力を効率良く伝達する聖銀コーティングの組み合わせは魔術を纏わせるにも最適であった。
一方で、グランツの振るう魔獣の大剣はかつて斬り落とした魔獣の尾をそのまま使っている。
魔獣自身の手によって大剣の形に整えられているが、よく撓り僅かに伸びるその武器は純粋な剣ではなく、変則的な鞭やフレイルに近い武器であるとも言えるだろう。
もっと言えば、見た目は大剣と蛇腹剣の中間にある武器だと表現できるかもしれない。
撓る打撃武器としての側面も持ったこの大剣は、全身鎧に盾を装備した黒騎士に対して相性が良い武器である。
しかし黒騎士にとって最も精神的な負荷となっていたのは、大剣の姿そのものであった。
漆黒の鱗殻と獣毛、そして毒蟲を連想させる規則正しく並んだ棘。それらは嫌でも漆黒の魔獣を思い出させた。
黒騎士はこの戦場に例の魔獣が現れることを確信していた。
そして、今の魔獣がより強力な存在に成長していることも予測がついていた。
冬に呪われた地での戦いは強烈な記憶として残っている。なぜなら、あの時はたった一頭の魔獣に切り札を切らされたのだから。
確かに一度は勝利を収めたものの、あの魔獣はほぼ不死身である上に、ほんの数分もあれば肉体を作り変えて弱点を克服する厄介極まりない特性を備えていた。
あの時は魔女の警告に便乗して離脱したが……あのまま続けていれば結果がどうなったか分からない。
ましてや、すでにあれから数ヶ月も経っているのだ。
今となっては、どれほど厄介な相手に“進化”しているのか。そんなの想像だにできない。
状況証拠からして、あの魔獣が参戦しないなんてありえない。
異界の主たる魔獣は通常、そう簡単に外の世界へは出ないと言われているが……言葉が通じるなら交渉によって従魔にすることも不可能ではないだろうし、それなりに高位の魔獣相手なら召喚という手段もありえる。
この場に姿を見せないのはきっと、レヴィオールの姫と召喚契約でも結んでいるからだ。
おそらく、最も有効的な投入タイミングを見計らっているのだろう。
(このままでは……討たれることはないだろうが、長引かせるのも都合が悪い)
黒騎士は飛んできた矢を律儀に全て叩き落しながら考えた。
(結界を張っているのは相当腕のいい術師だな。この感覚からするに、おそらく彼女か。時間をかければ私だけで攻略できないこともないが……)
しかし、命を対価とする黒い炎には限りがある。
すでに右半身を蝕まれている黒騎士の場合は、残り半分といったところ。
炎を噴き出させて全身を強化させれば、さらに残りの寿命を激しく消費する。
魔獣との戦いを想定するなら、この不利な戦場で命を無駄に消費し続けることは好ましくなかった。
とはいえ撤退することはできない。
この戦いを長引かせれば、自分は南部平原の戦場に連れ戻されるだろう。そしてメアリス教国は連合国に勝利する。これは絶対である。
その先に待ち受けるバフォメット族の、そしてあの少女の運命は……死や滅亡よりも残酷な支配と隷属、そして終わり無き凌辱が繰り返される絶望の日々となる。
つまりこれは黒騎士にとって、悲しみを終わらせる最初で最後の機会。
(打てる手は全て打つべきだな。ならば、私も――命を賭けよう……!)
ただの命懸けではない。負ければ文字通り黒い炎に全てを奪われる。それはまさに“賭け”であった。
普段の彼なら絶対に選ばない、あまりにも刹那的な選択。それだけ彼女に対する妄執が深いということなのだろうか。
――黒騎士の炎を継ぐ者は己の内に宿る存在へと呼び掛ける。
「はあああ……」
我が昏き炎よ、血の盟約に従い、力を寄越せ。
全てを焼き払う呪いの炎よ、我が命を喰らい、女神に逆らう全ての神敵を灰燼と為せ。
「……なんだ?」
さっきまで作業に殉じる人形か機械のように沈黙を貫き通していた黒騎士。
そんな強敵が急に呻くような声を上げ始め、対峙するグランツは訝しんだ。
彼に宿るソレは、黒い炎を快く燃え上がらせる。
苦痛をこらえながらも冷静さを保つ黒騎士。
なのに彼本人のものとは違う、まるで見知らぬ誰かの憤怒と憎悪のような闇色の奔流が全身を駆け巡る。
「ォアアアアアアアアアアア!!」
はたしてそれは誰の叫びなのか。
言語化できない衝動的な雄叫びが戦場に響いた。
その隙を見て放たれた矢が、今度は弾き落されることなく、黒い炎によって届く前に燃え尽きた。
右半身から噴き出した黒い炎が、全身鎧を覆う。
聖銀の騎士剣が黒い炎を纏う。
これこそが、冬に呪われた地にて魔獣を圧倒した力。古の狂気をその身に宿す黒騎士の切り札であった。
そのますます以って鎧の亡霊に酷似した姿から嫌な気配を感じ取ったグランツは、叫ぶ黒騎士へ向かって先手必勝とばかりに斬りかかる。
しかし、その無謀な攻撃は、黒騎士が放った暗く燃える炎のオーラによって本人ごと吹っ飛ばされた。
地面を転がり、勢いを利用して体勢を整えるグランツ。
幸いなことに大剣が盾代わりとなったため本人は無事だ。だが……黒い炎に触れた大剣の一部は炭化していた。
たった一瞬触れただけなのに、明らかにさっきより火力が上がっている。
さらに放たれた炎の一部が、障壁にへと燃え移った。
まるで薄い紙に燃え移った火のように黒い炎がじわじわと広がっていき、魔術障壁が焼き尽くされていく。
そして、世界を隔てる壁が壊れたことにより、ソフィア姫の聖域も崩壊した。
「おい、そりゃ無えだろ……」
ほんのちょっと本気を出しただけで、戦況の全てが覆る。
こんなやばい相手を単独で討伐させられている現実が、グランツにとっては悪夢を見せられているような気分だった。
聖域が崩され、徐々に魔力の濃度分布が元に戻っていく。
それを機に黒騎士は剣を――厳密には、籠手に填められた深紅の透き通る魔石を掲げた。
その魔石の正体が何なのかは、言わずもがなだろう。
再び魔術を使えるようになった黒騎士は、得意の火属性魔術による火球をいくつか空に放つ。
そして属性魔術の赤い炎と呪われた黒い炎を混ぜ合わせた巨大な火柱の剣を生み出し、そのまま城壁の一部を呑みこむように薙ぎ払った。
一瞬の判断で回避したグランツの背後で、阿鼻叫喚の地獄が出来上がる。
もちろん、石材を積み重ねた城壁が炎によって焼け落ちることはない。しかし、その上と中に居る人間や設備は別だ。
城壁の上に居た弓使いたちの姿も確認できない。
ひどい場合は大砲用の火薬にも引火し、一部城壁の迎撃能力が格段に落ちてしまった。
さらにこのタイミングでメアリス教国二千の兵が動き出す。
もしかすると、さっき空に放った火球が合図だったのかもしれない。
一連の流れを総評すると、文句のつけどころがない、あまりにも鮮やかすぎる形勢逆転だった。
「さあ、どうする? あの魔獣を出すなら今だぞ?」
兜の内側から溢れ出す黒い炎の姿を借りた狂気を、無理やり押さえつけたような声で黒騎士は言った。
「テメェには勿体ないぜ……!」
初めてまともに聞いた、意外と凛々しい黒騎士の声。
グランツは戦力不足と防衛線崩壊の現状に焦りながらも、黒騎士に悪態を吐いて大剣を構えた。
――その光景に焦りを覚えていたのは、監視塔に居たソフィア姫たちも同様であった。
障壁を侵食して焼き払っていく黒い炎に、吶喊してくるメアリス教国の神兵。
火力が上がった黒い炎を前に、障壁の修復が間に合わない。
消火活動に追われて混乱している城壁上の連合国軍は、障壁の内側に侵入した敵兵の接敵を許してしまう。
先ほどの攻撃で魔術的な保護も焼き切られた城壁は、もはや単なる岩の塊だ。
案の定、メアリス兵たちの地属性魔術によって城壁はあっさりと開かれてしまった。
「わわっ、城壁が壊されたよ!」
リップがネコのような尻尾の毛を逆立てながら室内の者たちに報告する。ディオン司祭は厳めしい表情を変えず、魔術師のジーノはそれを聞いて渋い顔をした。
「やはり先ほどの炎で城壁の固定化も解除されましたか……ソフィア姫、グランツさんはまだ生きてます?」
「はっきりとしたことは言えませんが、おそらくは……」
両目を閉じ、苦悶の表情をするソフィア姫。あらゆる手段で障壁の再形成を試みているが上手く行っていない様子だ。
城壁の中になだれ込む二千人のメアリス教徒。市街戦で迎え撃つ三千の連合国兵士。
町の端から順に火の手が上がる。
黒騎士とは違い、広範囲の殲滅手段を持たないグランツには数の暴力が効く。
もしグランツが居なくなれば、今のところ黒騎士を止める手立てはない。
もはや敗北は濃厚だ。
はたして星詠みの魔女に嵌められたのか、それともアレックスが間に合わなかったのか……。
――その時、湖の果てから微かな獣の咆哮が響いた。
「今のは……?」
音に敏感なリップのネコミミがピクリと動き、次に風属性魔術師でもあるディオン司祭がその声に反応する。
リップが慌てて湖に面した窓へ駆け寄り双眼鏡を覗いた。
「みんな大変、湖が……!?」
リップの目に映った光景は、湖が北側から凍っていく奇跡的な瞬間だった。
レヴィオール王国の中心にある湖は、途轍もなく広大で、同時にかなり深い。
そんな湖はたとえ冬が訪れようと、凍ることは滅多にない。
もし凍ることがあるとするならば、それは――。
「本当に……来てくれたのですね……!」
ソフィア姫が静かに目を開く。
雪と氷の精霊たちを引き連れて、凍りゆく湖の先頭を駆けるは一頭の魔獣。
深い藍色の毛並みをもつ北風は、背中に太陽の王子を乗せていた。
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