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第七章 厳冬を統べる者

審判の時

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 霊峰れいほうを越えた連合軍が目の当たりにしたのは、雪の降る中で燃えるレヴィオール王国だった。
 雪雲におおわれた暗い空を映す、常闇よりも真っ黒な湖。
 それは橙色に燃える大地にぽっかり空いた穴のようにも見えて……まるで地獄の門のようだった。

「これは……!?」
 その光景に茫然ぼうぜんとする連合軍の面々。
 戦争をするために遥々はるばる冬の山道を登って来てみれば、すでに相手は滅亡していた――これはなんて冗談だ? 本当にわけが分からない。
 それに、彼らの多くからしてみれば、燃えているのはメアリス教国に占領された故郷でもあるのだ。
 かつて過ごした思い出の町が燃えている姿を見て、泣き崩れる者も少なくなかった。

 しかし、彼らに落ち込んでいる暇はない。
 なぜなら、彼らの立っている場所は、雪と氷の精霊たちの監視下であったからである。
 異変に最初に気付いたのは、吹雪ふぶく風の音に不穏なものを感じ取ったディオン元司祭であった。

「皆さん! 下がって!」

 せた老人が出したとは思えないほどの大声で、ディオン元司祭が警告する。
 その瞬間、彼を目掛けて何かが空から急降下してきた。

吹き荒ぶ障壁よヴェントゥス・ムルム!」

 風の障壁が空からの襲撃者を迎え撃つ。失速して墜落した襲撃者の正体は、まされた氷の剣だった。
「これは……自然現象ではありません! 意志の介在した攻撃です!」
「襲撃だ! 敵の襲撃だ!! 全員構えろ!!」
 すでに木々のある領域を抜けていたため、遮蔽物しゃへいぶつとなりそうなものは高原の岩しかない。魔術に頼らず全員が身を隠すのは到底不可能だ。
 ソフィア姫も魔術師の一人として、ディオン元司祭の障壁だけで防ぎきれない範囲をカバーする。

聖なる壁よサンクトゥス・ムルム!」

 光の壁が、後続の仲間たちを守るために展開された。
 ……しかし、それは完全に無駄であった。
 襲い来る氷の剣が第二陣、第三陣と続く……だが、それらの向かう先は全て、ディオン元司祭だったのだ。

 片翼の女神を信奉する老人に、冤罪えんざいの剣が振り下ろされる。
 あまりにもするどすぎる吹雪は、その他連合軍の面子めんつを無視して、執拗にせ細った老人を狙い撃ちにした。
「これは……?」
 流石に変だと思うも、敵の姿が見えない以上はできることが限られている。ディオン元司祭は風魔術と体術で襲い来る氷の剣をながら、味方の安全のために友軍から距離を取った。
「ディオンさん!!」
 離れて行動するディオン元司祭を見て、ソフィア姫が悲鳴のような声を上げる。
 彼の孤軍奮闘は、どう見ても明らかに無茶であった。

 まるで空をおおう雪雲と敵対するような、あるいは周囲の雪と氷を全て敵に回したかのような、そんな絶望的な戦い。
 当然すぐに限界が訪れ、ディオン元司祭は肩を氷の剣につらぬかれる。
「グッ……」
 膝をついてうめく厳格そうな老人。
 彼はまだ諦めていないようだったが、このまま一人で対処するのは……片腕が使えなくなった状態では結果が見えていた。

聖なる壁よサンクトゥス・ムルム!!」

 吹雪とディオン元司祭の間に一つの影が割って入る。その無謀な突撃者の正体はソフィア姫であった。
「ディオンさん、大丈夫ですか!?」
「ソフィア! 何をしているのです!? 早くここから離れなさい!!」
「いやです!!」
 ディオン元司祭はソフィア姫をしかったがもう遅い。氷の剣はあろうことか、彼女ごとつらぬこうと、結界目掛けて特攻してきたのだ。

 無限に降り注ぐ剣の吹雪。
 明確な敵意を持ったそれらは、例えくだけて欠片カケラになっても、するどやいばとなって襲いかかってくる。

 さらには、ソフィア姫の結界が防げば防ぐほど、氷の剣は無慈悲に数を増していく。
 その激しすぎる攻撃に、地面に突き刺さった剣がまるで立ち並んだ墓標のようになっていた。

 不意に一瞬、襲撃が途切れる。だが、攻撃が治まったわけではなかった。
 彼女が空を見上げれば、まるで鍾乳洞か氷柱つららのように空を埋め尽くす、数えきれない氷の剣。
 とうとう相手も本気を出したらしい。
 ディオン元司祭は死を覚悟しながら、どうにかソフィア姫だけでも逃がそうと思考を巡らせる。

 しかし、その絶体絶命の境遇で、ソフィア姫の耳は聞こえないはずの声に意識を奪われていた。
「――――え?」

 吹雪の向こう、レヴィオールの町から響く獣の咆哮。
 それはこの世の全てを否定するような、恐ろしくも何処どこか物悲しい旋律せんりつ

 だが、その声をかき消して、呪文が割り込んでくる。
 空全体に展開された氷の剣、そのの隙をうように割って入ったのは、魔術師のジーノだった。

偉大なる大地よッディ・エルダ・ボーデン!!」

 地面から競り上がった壁は半ドーム状になって、三人をおおっていく。
 次の瞬間、空がくだけて落ちて来たのではないかと思えるほどの連続した衝撃がソフィア姫たちを襲った。
「二人とも、動かないでください……この内側に居れば安全なはずです」
 結果からすれば、ジーノの言ったとおりであった。
 土壁の向こうから、氷の割れる音が鳴り響き続ける。
 しかし、永遠に続くと思われた攻撃は次第に止んでいき、最終的に完全に無くなったのだ。
 賭けに勝ったジーノは内心でほっと一息をいていた。

「ディオンさん! しっかりしてください!!」
 ハッと我を取り戻したソフィア姫が、ディオン元司祭に呼びかけながら、応急手当てのため治癒魔術の準備を始める。
「落ち着いてください。どうやら、急所は外れています……あの状況で、流石ですね」
 ジーノが冷静に言う。後半はディオン元司祭に向けられたものだった。
 しかし、急所から外れているとはいえ、傷が深いことには変わりない。
 下手すれば命にかかわるだろう。
 ジーノは手持ちの秘薬エリクシルを、ディオン元司祭に使用する判断を下した。
「いえ、お恥ずかしながら、私もだいぶおとろえました」
 息も絶え絶えに、細身の老人はそう答えた。

「しかし……これはどういうことでしょう? なぜ相手は攻撃を止めたのです?」
 問われたのは、冬の城に住む魔獣からもらった秘薬エリクシルを用意するジーノ。彼は慎重に薬瓶を扱いながらディオン元司祭の質問に答えた。
「あれは、明らかに私たちが見えていない者からの攻撃でしたからね。どうやら遠隔操作か、自動で発動する罠のたぐいの魔術だったようです……おそらく先頭を進んでいたディオン司祭が、偶々たまたま索敵に引っかかって、それで標的にされたのでしょう」
「……なるほど。確かにそう考えれば、納得できますね」
 ディオン元司祭は青年の叡智に感心すると同時、見えざる敵の狡猾こうかつさをあやぶんで、難しい顔でうなずいた。
「はい。ですので、相手の索敵魔術を誤魔化してみることにしました。私が見た限り凍属性の魔力に不審な動きがあったので、この土壁には炎と雷……凍属性とは対になる属性の魔力を込めたのです。結果的に、どうやら上手く相手の目をだませたようで……目論見もくろみが当たってよかったです」
 ぶっつけ本番で内心冷や汗ものだったにもかかわらず、ジーノはメガネの位置を直しながら自信満々なドヤ顔を見せた。

「ジーノ? そっちは大丈夫?」
 気配を消して近付いてきたのは、ネコミミ少女のリップだ。彼女は剣の吹雪が再開されることを警戒しながら、小声で安否を確認した。
「はい、こっちは全員無事です。そちらはどうですか?」
「こっちも被害はないよ。でも念のため、全員少し後ろに下がるって」
「それは賢明な判断ですね。なら、私達も合流しましょう……この場はとりあえずしのいだとはいえ、まだ問題は解決していませんから」
「そうだね。また攻撃が始まるかもしれないし、急ごう!」
 ジーノは急いで秘薬エリクシルを飲ませ、ディオン元司祭の応急処置を済ませた。

「しかし、これからどうしましょうか。下手に奇襲を決行するわけにもいかなくなりましたし、撤退も視野に入れるべきか……」
「どういうこと? ボク達が撤退したら、あっちが大変になるんじゃないの?」
 リップは首をかしげながらたずねる。
「いえ、そもそもの前提が崩れたと言うべきか……まだ相手の正体が一切不明ということです。レヴィオール王国が燃えていたのと関係があるのか……例の“英雄症”を引き起こした魔獣の仕業なのか……」
「そうですね。我々が考えるべきは、むしろ救助かもしれません。あれほどの災害……どれほどの被害が……」
 秘薬エリクシルによって傷が回復したディオン元司祭は診察を受けながらも、英雄症を引き起こすほどの魔獣に襲撃されたレヴィオールの住人たちを心配する。
 ソフィア姫の手前、二人は言葉を濁したが……彼らはレヴィオールが全滅していることも視野に入れていた。

 しかし、この時のソフィア姫は、全く別のことを考えていた。
 あの吹雪の向こうに、恐ろしくも聞き覚えがある魔獣の咆哮が木霊した――そんな気がして仕方がなかったのだ。

「もしかして、魔獣さん……?」
 とても、嫌な予感がした。

 彼女の直感が、あの燃えるレヴィオール王国へ行けとうながす。
 一刻も早く、あの場所に向かって、真実を確かめなくては……!

「ジーノさん!」
 ソフィア姫はディオン元司祭が全快したタイミングを見計らってジーノに呼びかける。
「なんでしょうか、ソフィア姫?」
「ディオンさんを、お願い致します! わたしは……早くあそこに行かないと!」
 それだけ言うと、ソフィア姫は危険な吹雪の中へ飛び出した。

 これに驚いたのは魔術師のジーノである。当然ながら、彼はあわてて彼女を呼び止める。
「お待ちください、ソフィア姫! 外は危険です! 早く戻ってきてください!!」
 しかしソフィア姫は彼の制止も聞かず、眼下の燃える王国を目指して駆け出していた。

 * * *

 報復の炎が燃え盛る町。その石畳の通りを走る一人の少女。
 伝搬でんぱんした狂気にとらわれたバフォメット族たち。彼らの誰もが目の前の革命に夢中で、駆け抜ける少女の正体に気付かない。

 町の様子は散々だった。
 どこを見ても無差別な破壊の痕が、痛ましく残っている。

 ただ燃やされているだけではない。
 煉瓦レンガとモルタルの壁には巨大な獣の爪痕のような傷が無数に残っており、テラコッタかわらの屋根も所々崩れ落ちていた。
 足元を見ても、整っていたはずの石畳は何かにえぐられ、かなり凸凹でこぼこしている。
 魔石の街灯は、まるで大きな嵐でも来たあとのように軒並のきなみ倒されていた。

 城下町の広場には、積み重なった死体。
 その中には、女子供のものまで混じっている。
 彼らのほぼ全員が片翼の女神を信仰していた者たちだと気付くまで、そう時間はかからなかった。

「そんな、まさか……」
 死体となったメアリス教徒たち。その全身に刺さる氷の剣。それらを見て、ソフィア姫の感じていた嫌な予感は確信に変わりつつあった。

 また、獣の咆哮が響く。その絶望と狂気に、魂がざわつく。
 どうやら王城のほうからだ。
 ソフィア姫は迷わずその方向に向かった。

 そしてとうとう彼女は見つけ出す。
 ただし、そこに居た魔獣は――もう彼女が知っている“魔獣さん”とは、全く別の姿だった。



 地に堕ちたドラゴンにも見える鱗殻をもった獣。
 その背中に無数に刺さったミスリルの武器は痛々しく、翼をがれたあとにも見えた。

 彼は依然いぜんとして巨大なオオカミのような姿だ。だが、その漆黒だった毛皮は深い藍色に、そしてたてがみは雪のように白く変わっている。

 憎悪に燃える瞳の色も、彼女が知っているくれないから冷たいあおへと変わっていた。

 そして体内には、すさまじい凍てつくエネルギーの奔流ほんりゅう。その流れが、肉眼でも青い光として透けて見えた。

 その毛皮は凍りつき、常に氷をまとう。
 頭部には、氷の王冠が輝く。

 その魔獣の姿から、ソフィア姫はお伽噺の“冬の王”を連想した。

「魔獣、さん……?」
 ソフィア姫は困惑する。
 よく見れば、確かに面影は残っているが、姿があまりにも異なり過ぎている。
 なにより、魔獣の脚元には、折り重なった騎士たちの死体。その誰もが苦痛と絶望をともなった無残な死に様をさらしていた。

 ありえないと思った。
 ソフィア姫は目の前の光景がにわかに信じられなかった。
 彼女にとって魔獣は、そんな残酷で恐ろしい真似ができる存在ではなかったからだ。

 しかし、眼前の現実は受け入れなければならない。
 彼女のひたいに在る宝石を通しててみても、その魔力の波長が冬の城に居た魔獣と同一存在だと証明していた。

 しかばねと化した彼らはメアリス教国の騎士階級であった。つまり、戦闘面におけるエリート集団だ。
 騎士たちは仲間と力を合わせ、その能力を存分に発揮した。そうすることで魔獣の展開した氷の剣が舞う雪吹を、なんとかしのぎ続けていたのだ。

 彼らは最後まで勇敢に戦った。
 だが、それゆえに魔獣に目を付けられてしまった。
 どれだけ抵抗しようと、彼らは死の運命から逃れられなかったのだ。
 そして今まさに、最後の一人が手にかけられようとしていた。

 恐ろしい冬の魔獣に首をめられながら、宙に持ち上げられた騎士。
 足をばたつかせながら、彼は必死の形相で懇願こんがんする。
「放して、放してくれ……頼む、お願いだ、なんでもする。だから、命だけは……あああああっ!?」
 その懇願こんがんむなしく、魔獣はもう片方の手で騎士の頭部を鷲掴わしづかみにした。

 次に何が起こるかは、想像にかたくなかった。
 魔獣の手に力がこもる。
 それはゆっくりともてあそぶように……より苦痛と絶望を与えるために。

 ソフィア姫は心優しき魔獣の凶行を止めるため、全力で走り出す。だが、どう考えても間に合いそうにない。
「そんな!? ダメです、魔獣さん! お願い! 待って!!」
 今さら、何もかもが手遅れだろう。
 それでもソフィア姫は声を届けようと、のどが張り裂けそうになりながらも全身全霊で叫んだ。


「や め て え え え え え え え !!」


 ――しかし、その絶叫が届く直前には、魔獣の手の中で、人間だった肉塊が、頭部とそれ以外のパーツに引き裂かれていた。

 吹き出す紅い噴水。ばらかれたのは、鉄分を含む液体のにおい。
 少女の目の前で、また一つの命が、あっけなく散った。

 全身に鮮血を浴びた魔獣は、声の聞こえたほうへゆっくりと振り返る。
 その顔に掛かった血はすでに凍りつき、毛皮にシャーベットをまぶしたような状態でこびり付いていた。

「………………ソフィア?」

 魔獣の視線の先に居たのは、バフォメット族の美しい少女。
 少女を見て、魔獣がゆっくりと牙をいた。

 ソフィア姫にはそれが微笑ほほえんでいるのだと分かった。
 たとえ姿が変わっても、かつてと同じ表情で――なのに、全身が血に塗れた姿で、魔獣は笑っていた。

 魔獣はその再会を、心の底から喜んだ。
 やっとえた愛しい少女。彼女のためにここまで戦ってきたのだ。
 それなのに、ソフィアのほうは再会を喜ぶ素振りも見せない。ただじっと、まっすぐに魔獣を見つめるだけだ。
 その眼差しはおびえても、恐れても、ましてや怒りに震えているわけでもなく……ただただ、その瞳に涙をめていた。

「……って、なんでそんなに悲しそうな顔をしているんだ?」
 魔獣は少女にたずねた。

 今の魔獣には、ソフィアがなぜ涙をこぼしそうになっているのかが分からない。
 彼女の大切なものは、全て取り戻したはずなのに……どこか怪我でもしたのだろうか?

「ほら、周りを見てくれ、もうメアリス教徒はいない。ソフィアは故郷を取り戻したんだ! だから、もう泣かなくていいんだぞ?」

 革命の炎が燃える王都を背景に、冷たい剣の吹雪が吹き荒れる空の下で、魔獣はソフィア姫をなぐさめた。

 彼女が悲しそうにしていると、自分まで悲しくなってくる。
 ソフィアが泣きそうな顔をしているのを見て、魔獣はなんとか彼女を元気づけようと思った。

「……そうだ! 面白い話があるんだ。聞いてくれ、ソフィア」
 これはとっておきの話だ。ソフィアにとっても胸のすく話であることは間違いないはず。
 魔獣は自信満々に語り始めた。

「ついさっきの話なんだが、メアリス教徒がバフォメット族たちを人殺しだとののしっていた。
 笑えるよな? 直前まで逆の立場でヤりたい放題だったのに、人間あそこまで恥知らずになれるものなんだなあ! まあ、そいつは結局、そのまま焼き殺されたわけだけどさ!」

 おごれるものは久しからず。勧善懲悪かんぜんちょうあくの王道ストーリーだ。
 これでソフィアは笑ってくれるはず――魔獣は本気でそう思っていた。

 ソフィア姫は自分の耳を疑った。あの魔獣の口から、こんな心無い言葉が飛び出すなんて信じられなかったのだ。
 しかし、演技でもなく、魔獣は本当に楽しげに語り続ける。

「あの一転して命乞いする見事な豹変ぶりは、もはや芸術的だったなぁ! 最期さいごの無様っぷりも愉快痛快で、この上なく笑えたぞ!」
 魔獣は喋りながらその姿を思い出し、つい自分も思い出し笑いをしてしまった。

 その笑う姿を見て、彼女は理解した。
 自分が知っている“魔獣さん”は――もう、何処どこにもいないのだと。

 一方で魔獣は、とっておきの話を聞かせたにもかかわらず、沈んだ表情のままのソフィアが心配になった。
「……ソフィア? 本当にどうした、どこか痛むのか?」
 不安そうに少女の顔をのぞき込む魔獣。
 そんなところばかりが、あの冬の城で過ごした日々と変わらないままで……その事実がますます彼女の胸を苦しめる。

 今の魔獣は近づくだけで、ソフィアの肌を凍傷にさせた。
 吐いた息が周囲で燃え盛る炎を無視して白く染まり、瞳に溜まった涙すら静かに凍り始める。
 下がる体温。彼女の意思とは無関係に、勝手に震え出す身体。

 近づいただけでなのだ。ましてや、触れ合ってしまえば、彼女の柔肌はその冷たさに引き裂かれてしまうだろう。
 これではかつてのように、そのたてがみを撫でることすら、もはやかなわない。

 彼を心無き冷たい怪物に変貌へんぼうさせた罪。
 それは本来、誰が背負うはずのものだったのか。

 限りなく後悔に近い悲しみ。
 いっそ出会わなければ、彼はあの冬に閉ざされた世界で、今も穏やかな幸せの中で暮らしていたのかもしれない。

 それなのに、自分のせいで――。
 その胸の痛みに耐えきれず、少女は魔獣に背を向けて逃げ出した。

「ソフィア!?」
 魔獣の呼び止める声が聞こえたが、彼女は無視をした。
 とても今は、冷静に彼と向き合える気がしなかったからだ。

 魔獣の目には、走り去るソフィア姫がぽろぽろ涙をこぼしているのが見えた。
 今の魔獣に、その涙の理由が分からない。
 ただ一つ、何か自分が彼女を傷付けてしまったことだけは、辛うじて理解できた。

 拒絶され、追いかけることもできず、立ち尽くす魔獣。
 どんどん遠ざかる彼女の後ろ姿は、背中に刺さったままの無数の剣より、深く深く彼の心に突き刺さった。

「なぜ……俺はただ、ソフィアのために……」

 その問い掛けに、返ってくる答えは無い。
 雪と炎に沈む王国の真ん中で、彼の心は本当の意味で孤独になってしまった。



 ――次の瞬間、冷たい風が突然吹き荒れ出す。
 風に舞う雪煙が、魔獣の姿を包み込む。

 白一色に染まる魔獣の視界。
 一瞬で白い世界の向こうに消えるソフィア。

 魔獣は彼女が見えなくなる前にあわてて手を伸ばしたが、もう届かない。
 一人と一頭は、白一色の景色にへだてられ、そのまま引き裂かれる。

 ……そして吹雪が治まった時、そこに魔獣の姿は無かった。
 まるで冬に連れ去られたかのごとく、彼はその場から忽然こつぜんと消えていた。

 * * *

 突如として俺を包んだ吹雪。それが止んで、視界が戻ってくる。
 気が付けば俺は、暗くて広い空間に居た。

 周囲には誰も居ない。
 当然、ソフィアの姿も無い。
 夜目がく目で見回せば、そこは白一色に統一された荘厳そうごんな部屋だった。

 冷たくてほこりっぽい空気が、俺の全身を包む。閉ざされた窓の外は暗く、吹雪いていた。
「ここは……何処どこだ?」
 急に周囲の景色が変わって戸惑う俺。しかし、このさびしい場所には見覚えがある気がする。

「まさか、冬の城か……? いや、でも、この雰囲気……そうだ、間違いない」
 思い出した。ここは確か、玉座の間だ。
 滅多に立ち寄らないから忘れていたが、ここはエントランスとダンスホールに続く、冬の城で最も豪華な部屋の一つだった。
 後ろを振り返るとそこには案の定、ち果てた国章と、たった一つの玉座が鎮座ちんざしている。
 誰がどうやったのかは分からないが、どうやら俺は強制的に戻されたらしい。

「……やっと戻ってきおったか」
 不意に扉のほうから声が聞こえてきた。玉座の間が少しだけ明るくなる。
 そこにはいつの間にか、萌木色のドレスにローブを羽織はおった少女が立っていた。
「魔女……」
「じゃが、何もかもが、遅すぎた」
 放浪の魔女は感情を抑えるように、つとめて淡々たんたんと言葉をつむぐ。
 彼女の腕の中には、例の紅いバラがかざられていた硝子ガラスのケースが抱えられていた。

 紅いバラの最後の花弁。
 俺の目の前で、それが音もなくがれ落ちる。

 ヒラヒラと硝子ガラスケースの中で散った花弁は、輝きを失いながら、しなびて、そして黒ずんでく。

「――時間切れ、じゃ」
 魔女が表情の無い声で言った。

 そして最後に残ったのは――全ての花弁が散った、植物のくきのみであった。
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