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第五章 魔獣が生きる永遠と少女が生きる明日

少女の告白と結末

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 それは俺にとって、あまりにも甘美な言葉だった。
 突きつけられたその誘惑に、俺の心は激しく揺り動かされる。
 静かな世界、薄暗い部屋の中。互いの息づかいが、やけに大きく聞こえた。
 この冬に閉ざされた世界で、ソフィアと過ごす毎日が続けられるなら……それは、とても幸福なことだろう。
「ソ、ソフィア、それは本気で言っているのか?」
 俺が尋ねても、ソフィアは何も答えなかった。ただじっと俺を見つめる灰色の瞳は本気であることを肯定していた。

 たてがみの中で、首筋に優しく触れるソフィア。その手の温度に、俺の鼓動も早くなっていく。
 緊張と動揺で体が震えて、胸が熱を帯びて、その熱さがソフィアの体温と重なる。
 なぜか、意味も分からず涙が流れそうになった。
 そして思いっきり、ソフィアの柔らかい身体からだを抱きしめて、そのまま押し倒したい衝動にも駆られる。

 本音を言えば、それは俺の身には余る光栄だ。
 彼女のような美しい少女からこれほどまでに想ってもらえるなんて、これまでの俺の半生からは考えられない、夢のような出来事だ。

「ソフィアが、そこまで俺と居ることを願ってくれるのなら……!」
 本当に彼女の望み通り、この冬の城に閉じ込めてしまおうとすら思った。
 この、雪と氷に閉ざされた牢獄で。
 外の世界と切り離された楽園で。
 二人きりの世界で――ソフィアの居る、昨日と変わらない明日を、ずっと、ずっと。
 今度こそ、この進化した魔獣の力で、全身全霊全ての力を以って、生涯ソフィアを守り抜きたいと思った。



 ――しかし、俺はギリギリのところで思いとどまる。
 のどまで出かかった、禁じられた言葉を噛み殺す。
 忘れてはいけない。
 俺のこの姿は、借り物にすぎないという事実を。
 もし俺とソフィアの間に、「真実の愛」が芽生えてしまえば――俺の魔法は解けて、無力な人間に戻されてしまう現実を。

 俺に掛けられた魔法。
 あの紅いバラの最後の花弁。
 それが落ちるまでに人を愛することを知り、愛されるようになったら――真実の愛を知ったのならば、その時に魔法が解けて、元の世界に帰される。

 真実の愛なんて形のないモノ。それがどんな基準で判断されているかは知らない。
 だが、万が一にも人間に戻ってしまえば……どうなる?
 もしこれが美女と野獣のお話ならば、魔法が解ければ姿を現わすのは素敵な王子サマだっただろう。
 しかし、現実に魔法が解ければ――そこに居るのは、ブラック企業で、社会の底辺で惨めに消費されるだけのIT土方だ。

 人間に戻る。
 本来なら喜ばしい事として設定されていた結末。
 それが、救いの無い呪詛となって、俺の心を縛り上げる。
 全ての喜びが深い絶望にすり替わり、孤独という名の盾を構えた。

 そもそも魔法が解けたところで、あの魔女はどうする腹積もりだったんだ? まさかソフィアを元の世界に連れて行くわけにはいかないだろう。
 彼女の容姿は魅力的だが、地球で暮らすにはあまりにも目立ち過ぎる。
 よしんばツノヒヅメを隠せたとしても……俺の経済力では彼女に苦労を強いることになるはずだ。
 それにあっちの世界では、きっと残業と休日出勤続きで、一緒に過ごす時間を作ることすらままならない。

 暖炉の前で、互いに触れ合いながら語らう。
 そんなささやかな日常すらままならない……そんな暮らしに、人並みの幸福なんて、あるはずがない。

 だが、この冬の城に仲良く二人が残ったところで……人間の俺には、この冬に呪われた世界で生きぬくすべが無かった。
 毛皮が無ければ、呪われた冬の寒さに耐えられない。
 爪と牙が無ければ、敵と戦うことができない。
 不死の力が無ければ、ソフィアを守ることができない。
 ガラスの靴が残った灰被りシンデレラとは違って、魔法が解けてしまえば俺には何も残らないのだから。

 これを皮肉と言わず、何と表現する?
 魔獣の姿では、ソフィアの隣に居られない。
 本当の姿では、ソフィアのことを守れない。幸せにできない! 愛してもらえるわけがない!!

 言うなれば、無力な人間である俺が、全てを偽って不死身の魔獣を演じているのだ。
 そんな俺なんかが、彼女を引き留めるなんて、彼女の未来を奪うなんて、たとえ神が許したところで、俺自身が絶対にゆるせない。
 決してゆるされるべきことではないんだ!

 思考と理性が、感情と衝動を封じ込める。
 深呼吸して、この選択が正しいのだと、心の中で自分に言い聞かす。
「いや、駄目だ、ソフィア……それはできない。幸福な未来を願うなら、君は外の世界に帰るべきだ」
 必死でしぼり出すようにしないと、声が上手く出せなかった。
 それでも俺は無理矢理に、断腸の思いでソフィアに告げた。
 俺の中で、甘い夢が覚めた瞬間だった。



 俺の決断は間違っているだろうか? だが、本当にソフィアの幸せを思うなら、これが考えうる限りの最善手であるはずだ。
「今すぐでなくてもよいのです。いつか、すべてが終わったら……」
 ソフィアはなおも食い下がるが、言い終わるまえに俺は首を横に振る。
「どうして、この呪われた地に、態々わざわざと戻って来る? この地に春は訪れない。君のような美しい少女が生きるには、寂しすぎる世界だ。季節は、めぐるべきなのだよ――ソフィア、君は暖かな春の日差しの下で、生きるべきだ」
 せめてものの意地として、俺は自分の弱さを隠し、孤高の超越者であるかのように振る舞った。

 どれだけ想っても一緒に居られないなら、せめて――ソフィアの記憶の中でだけでも、冬の城で永遠を生きる不死身の魔獣でありたい。
 これが下らない見栄だと、俺の内情を知った者はわらうだろうか?
 だが、そもそも一番滑稽こっけいなのは……惨めな俺の正体だ。そうだろう?
 だから、すまない。
 本当のことは絶対に教えられない。
 教えたくないんだ、ソフィア。
 俺の正体が、人間であることを……異世界から来た無力な奴隷階級であることを、明かすなんて有り得ない。

 経済も景気も凍り付いた、氷河期の時代。
 望まれず生まれ、他人の都合で生きてきた無能な俺。
 そんな俺に、何ができる?
 ソフィアを幸せにできない真実になんか、ゴミクズほどの価値もない。

 それに何より、ソフィアには本物の王子様アレックスが居る。
 俺は弓使いの少年の姿を思い出す。
 ソフィアのために地位も夢も捨て、この冬の城に辿り着いた勇気ある者。
 誰からも愛されるだろう美しい王子。
 輝かしい未来が待つ少年。
 ああ、彼は理想的な王子様役だ。
 あの少年なら……きっとソフィアを幸せにできる。
「それに……ソフィアには、外の世界で成すべき役目も、待っている人達もいるのだ。そうだろう?」
 本当の意味で、誰にも必要とされなかった、俺なんかとは違って、な。
 彼女には、外の世界で、花の咲き乱れる世界で、笑っていてほしかった。

 静かな夜。
 仄暗い二人きりの空間。
 悲痛な沈黙が俺たちの間に流れる。

「せめて……せめて今夜だけは、このままで……前に進む、勇気をください……」
 最後に彼女は言った。
 俺は黙って、尻尾でソフィアを抱き寄せた。
 ああ、矢張やはり、強い少女だ。
 今夜だけ。ソフィアにとってはそれだけで十分なのだ。

 凍りついた時代の幻影に、取り残された俺の永遠。
 そのマボロシを振りほどけたなら、ソフィアは彼女が生きるべき明日みらいに辿り着けるだろう。

 短く儚い夢だったが、ああ、本当に。
 ソフィアのいた日々は、俺には過ぎた幸福だったよ。
 感謝とか後悔とか、いろんな感情が胸の中でぐじゃぐじゃに混ざり、自分でもどんな気持ちか分からない。
 そんな中で、自分で終わらせておきながら、この時間がもっと続けばいいと、朝なんか来なければいいのにと、都合の良いことを願ってみる。

 しかし時間は止まらない。
 眠れないまま、二人で寄り添っているうちに空が明るくなってきてしまった。
 出発の準備のため、部屋を出て行くソフィア。
 俺は彼女を、何も言わず見送った。

 * * *

 太陽はそろそろ顔を出した頃だろうか。
 分厚い雲のせいで、正確には知ることができない。

 ソフィアの旅立ちの日は残念ながら、天候には恵まれなかった。曇り空からちらほらと、白い雪の欠片が落ちてくる。
「早く出たほうがよさそうだな。あまり、ちんたらしていると吹雪そうだ」
 戦士のグランツは空模様を見ながらそう言った。
 旅立ちの準備を終えた五人。冬の城の正門前に広がる雪原を踏みしめる。
 見送りに来たクソウサギのペトラとソフィアは最後の挨拶を交わしていた。

 昨日までの俺なら、「いっそ吹雪いてくれればいいのに」と思っただろう。
 だが、今朝の俺は昼までは穏やかなまま持ちそうな天気に感謝した。
 もう一晩ソフィアと過ごしていたら……せっかく固めた決意がまた揺らいでしまっていただろうからな。

餞別せんべつだ。受け取れ」
 俺は山吹色に輝く液体の入った薬瓶を、弓使いの少年に手渡した。
「これは……?」
 弓使いの少年が薬瓶を見つめながら不思議そうに聞き返す。
「魔女は再生の秘薬と言っていた。これからの道中、きっと役に立つだろう」
 これでこの旅路の、いてはソフィアの安全度も高くなるはず。
「再生の秘薬って……エリクシル・アナスタシスのことですか!?」
 横から魔術師のジーノが驚きの声を上げた。

「でも、再生の秘薬なんてそんなすごいもの……本当にいいの?」
 弓使いの少年が心配そうに尋ねる。
「構わない。だいたいそれも、俺の血に、確か……くりしせらむ? を一滴混ぜただけだ。また作ろうと思えばいくらでも作れる」
「え、待って、調律薬クリシセラム!?」
 再び魔術師のジーノが驚きの声を上げる。
「そんな、まさか実在するなんて……貴方の言う魔女とは、もしや薬師くすしの魔女ですか!? まだ作れるってことは、それ余っています!?」
「す、すまないが、持ってきたのは放浪の魔女だ。誰かに作ってもらった的なことを言っていた気がするが……その相手が誰なのかは知らん」
 怒涛どとうの質問責めに、俺は若干引きながら答えた。
「そうですか……いえ、今は目の前の現物です。図々しいお願いなのは承知ですが、是非それを、ほんの少しでいいから分けていただけませんか!? なんでもしますから!!」
 ぐいぐいと押してくる魔術師のジーノ。興奮に我を忘れているようだ。
 勢いに押されて、俺はダジダジになる。
「分かった、分かったから、少し落ち着いてくれ……」
 別れのしんみりとした雰囲気が台無しだ。
 結局俺は根負けして、転移門ゲートから茶色の小瓶を取り出した。
 そして貸し一つということで、残っていた調律薬クリシセラムを分けてやる破目になった。

 ――その後、色々と話し合いがあって、どうやら秘薬の管理は魔術師のジーノが担当することになったようだ。
 昨日から貴重な素材や知識を手に入れる機会に恵まれてホクホク顔だったジーノ。
 今はさらに目に見えて上機嫌となっている。
「ジーノ……お前ってやつは……」
「なんか、ボクまで恥ずかしくなってきた……」
 あきれた目線を魔術師のジーノに送る面々。あのソフィアまでもが困ったような目線を送っているのだから相当だ。
 しかし、当の本人はけろりとした顔だった。
「フフ……謙虚さや遠慮なんて、好奇心の前では無意味なのです!」
 ……本当にこいつは、イイ性格しているよな。
 俺はそのしたたかさに舌を巻いた。
 こんな賑やかな者たちに囲まれているなら、ヘーリオス王国までの長い道中でも、ソフィアは退屈しないだろう。

「じゃあ……そろそろ行くか」
 戦士グランツが言った。とうとう別れの時が来たのだ。
「そうか。ならお前達、さよならだ。くれぐれも壮健にな」
 冒険者たちはそれぞれ別れの言葉を返した。
「魔獣さん」
「ソフィア……」
 彼女が切なそうに俺を呼ぶ。
 俺は別れの言葉をソフィアと交わした。
「伝えたいことは色々あるが……湿っぽいのは無しにしよう。今はただ礼を言いたい。ありがとう、ソフィア。君が居たこのひと月の間、とても楽しかった」
「……魔獣さんも、お元気で」
 ソフィアは俺の頭を優しく両手で包むと、別れの口付けをした。
 場所は前回と同じひたいと、そして今回は閉じたまぶたの上からもキスをされた。

 最後に、俺は弓使いの少年のほうを向く。
 相変わらず男にしては可愛いらしい顔をしているが、頬に残る深い傷は戦うことを決めた少年の、覚悟の証だ。
 今さらうたがいなんてしない。
「――ソフィアを、頼んだぞ。アレックス」
 一瞬ぽかんとした弓使いの幼き勇者様だったが、すぐに気持ちの良い返事をした。
「はい、もちろんです!」
 その言葉を聞いて、俺は安心した。

 こうして彼らは、冬に呪われた地をあとにした。
 少しずつ増えていく雪が、濃い弾幕となって俺たちの間をさえぎる。
 足跡も、そう遠くないうちに埋もれていくだろう。

 それでも俺は彼らの――ソフィアの姿が雪原の向こう、枯れ木の森の中に見えなくなるまで見送り続けた。
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