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第五章 魔獣が生きる永遠と少女が生きる明日
夜も更けて
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夜も更けて、俺はひとり自分の寝室に戻っていた。
冒険者たちは明日の朝、ヘーリオス王国に向けて旅立つらしい。
もちろん、ソフィアを伴ってだ。それが俺と彼女の、今生の別れとなるだろう。
自然と目に入るは安置されたガラスのケース。
覆いかぶさっていた布きれを退けると、その中で咲き誇る一輪の紅いバラ。
そのバラは暗い部屋の中で、淡い光を放っている。
ただし、その花弁の数は目に見えて散っていた。
「……結構減っているな」
今朝見た時はまだだいぶ残っていたように見えたが……俺の記憶違いでなければ何枚かは一気に散っている。
その残された花弁の枚数は、片手で数えられる程度だった。
この調子ならバラの花弁が全て散る日はそう遠くないだろう。
そしてそれは、俺が完全なる不死を手に入れることを意味する。
この冬に閉ざされた世界で過ごす、永遠の命。
初めから俺が望んでいたもの。
だから、この結末は、喜ぶべきものなのだ。
自分以外誰もいない世界。
この魔獣の肉体は、飢えることも、凍えることもなく。ゆえに強要されることもなく。
もう誰にも、利用されず、奪われず、搾取されず、自分のためだけに生きていける――そんな、理想的な永遠。
なのに、手に入る直前になって、それが味気ないものであるように思えてしまった。
元々眠らなくても大丈夫だが、今日は特に寝る気になれない。
窓の外を見ても、暗い景色。
眠れない俺は静かに、ガラスのケースに閉ざされた紅いバラを眺めていた。
――ふと、ドアの向こうに他人の気配があることに気が付く。
誰だ? 仮面ゴーレムか? 何かトラブルでもあったのだろうか?
その気配の主は、廊下を歩いて近づいてくる。
そして、俺の部屋の前で足を止めた。
ドアの向こうに留まる気配。しかし、ノックの音はしない。
なんだか知らないが、迷っているようだ。
「……どうした? 何か用か?」
煮え切らない気配に、痺れを切らした俺は声を掛ける。
すると、ドア越しに少女の声が聞こえてきた。
「あっ、魔獣さん……まだ、起きていらっしゃいますか?」
ソフィアの声だ。
こんな夜更けに珍しい。いったい何の用だろうか?
「起きているぞ。何かあったか?」
扉越しに俺は返答した。
「ああ、よかった。もし迷惑でなければ、お部屋にお邪魔しても、よろしいでしょうか?」
「……こんな夜遅くにか? あの冒険者たちに、明日は早いと聞いているが」
言外で早く寝なさいと忠告する。
しかし、ソフィアは頑なに立ち去る様子を見せない。
「どうしても眠れなくて……ほんの少しだけでいいのです。お話できませんか?」
ソフィアは懇願するように言った。
……今ソフィアの顔を見てしまうと未練が生じてしまいそうだが、彼女の意思は尊重したい。
俺は再度バラに布を被せて隠したあと、ドアを開いてケープを羽織った寝間着姿の彼女を部屋に招き入れた。
「とりあえず、入れ。廊下は冷えるだろう」
「ありがとうございます」
ソフィアは礼を言うと、そっと静かに部屋の中に入って来た。
困ったことに、俺の部屋は廊下と変わらないくらいに寒かった。
俺が寝床としている部屋に暖炉は無い。
俺はソフィアを人間用のベッドの上に座らせ、毛布を貸し与える。そして俺はその隣……ベッドの上には乗れないので、床の上に座った。ついでに、近くにいた仮面ゴーレムには何か温かい飲み物を持ってくるよう頼んだ。
仄かなランタンの明かりの中、俺とソフィアは二人きり。
静かな時間が流れる。
「……静かですね」
ソフィアがぽつりと言った。
「ああ、そうだな」
俺は答えた。
もう少し気の利いたことが言えればよかったが……今の俺にはこれが精一杯だった。
仮面ゴーレムが持ってきた二人分のホットミルク。そのマグカップからは、温かそうな湯気が昇っていた。
これで少しはましになればいいのだが。
「寒くないか?」
俺が問い掛けると、ホットミルクを飲みながら、ソフィアはこくんとうなずいた。
窓の外から差し込む、優しい月明かり。
雪雲の隙間から顔をのぞかせる。
月明かりを反射するソフィアの白い髪は、しっとりと艶やかに、そして女の子特有の甘い香りを放つ。
アッシュグレーの瞳が愁いを帯びているのは、俺との別れを惜しんでくれているからなのだろうか。
ただ座っているだけなのに、上品で、お淑やかで、そして柔らかそうで、どこか儚くて。
大きく巻いたヤギの角と、美しい少女の横顔。
神聖さと魔性が織りなす、アンバランスな美しさ。
見慣れていなければ、俺は何時までも彼女の姿に見惚れていたことだろう。
「それで……何か話したいことがあったのではないか?」
俺が尋ねると、ソフィアは俺のほうへ振り向いた。
「用事は、特にないのです。でも、今夜が最後ですから……」
「……そうか」
そして再び訪れる沈黙。
しかし、こうして一緒に居られるだけで、その時間がとても貴重なものに思えた。
それならばせめて、いつも通り振る舞おう。
そう思った俺は話す内容を考える。
「そうだ。そう言えば、今日はあの魔術師に新しい物語を聞いたのだった」
「新しいお話ですか?」
「ああ、確か題名は……『季節の王様たち』だったな。ソフィアは知っているか?」
ソフィアは少し、困ったように微笑んだ。
「はい、すみません……そのお話なら、知っています」
「おっと、マイナーな話だと聞いていたが、知っていたのか」
さっそく、話のネタがなくなってしまったな。
さて、どうやって話を続けようか。そう考えていると、ソフィアが尋ねてくる。
「魔獣さんは、どうしてそのお話を?」
「いや、あの魔術師のジーノとやらが言うにはな、俺が『冬の王』なのかもしれないのだと」
「魔獣さんが、冬の王……?」
可愛らしく、首を傾げるソフィア。
「冬に呪われた地の、冬の城。そこに住む魔獣の王――冬の王様と呼ばれるのに相応しいのだそうだ。まあ、有り得ない話じゃないかもな」
「……魔獣さんが冬の王だなんて、そんなことは、絶対にありえません」
俺が冗談めかして言うと、ソフィアは、はっきりと断言した。
「それは、どういうことだ? ソフィアは何か知っているのか?」
ソフィアは静かに、首を横に振る。
「いいえ。でも、その童謡では、春の女王は心優しく暖かで、夏の王は情熱的、そして秋の女王は豊かな心だと唄われています。だから、冬の王は、きっと、冷たい心の持ち主のはず。魔獣さんも、そうは思いませんか?」
春は暖かいから、春の女王の心も温かい。
夏は暑いから、夏の王の心も情熱的。
秋は実りの季節だから、秋の女王の心も豊かである。
そして冬は寒いから――冬の王は心も冷たい。
どれも勝手なイメージだが、なんとなく合っている気がする。
「なるほど。理屈は通っている気がするな」
「ならば、魔獣さんが、冬の王様になることは、絶対に無いと思います。だって、魔獣さんは優しくて……心は冷たくなんかありませんから!」
ソフィアは俺に信頼を寄せた笑みを浮かべながら言った。
その信頼は、俺に向けられるには少々眩しすぎるように思えたが、ソフィアからの想いなら、いくらでも受け止めたかった。
はたして、ソフィアの俺に対するその信頼は、どこから来ているのだろう?
しかし、俺は思い出す。
そもそも、俺がこの城に連れてこられた理由は――。
「……俺は、ちっとも優しくなんかないさ。強いて言えば、優柔不断なだけだ」
周囲の人間に流されることを、優しいとは言わない。
強いて言えば、“都合の”良い人だ。
そして擦れて、いい加減疲れて、心を閉ざしたのがかつての俺だった。
魔獣でない本当の俺なんて、浅ましくて醜い、ありふれた人間の一人にすぎない。
「いいえ。魔獣さんは、とても優しいお方です。行く当てのないわたしを、この冬の城に受け入れて下さいました」
「あれは……ただの成り行きだよ」
初めから魔女に押し付けて、あわよくば追い出すつもりだった。
なんだ。やっぱり、優しさなんてカケラもないじゃないか。
「他にも、わたしの角を癒すため、ヒュドラを倒すと言ってくださいました」
「あれは……あれこそ本当に口で言っただけじゃないか」
結局俺は、何もしていない。
「ディオン司祭を救うため、メアリス教国に立ち向かおうとしてくださいました」
「それも、俺はこの冬に呪われた地から出られず、何もできなかった」
最終的にディオン司祭を助けてくれたのは放浪の魔女だ。
もう全部あの魔女でいいんじゃないか?
「……でも、あの時は、本当に嬉しかったのですよ?」
ソフィアは卑屈で自虐的な俺に、慈しむような優しい笑みを向けた。
「それだけではありません。わたしが淋しくないように、なるべく一緒に居てくれました。素敵なお話を聞かせてくれました。素敵な場所に連れて行ってくれました。素敵な世界を見せてくれました……」
ソフィアはそっと俺の鬣を撫でる。
そのか細い指は、鬣越しでも確かに感じられるほど、優しくて、温かかった。
「わたし、ずっと考えていたのです。魔獣さんが、この冬の世界に閉じ込められた理由を」
「俺が、閉じ込められた理由?」
「……お気付きになっていますか? 魔獣さんの体、初めて会った時より大きくなっています」
知っている。
だって、ある程度は俺の意思で変化させたのだ。
何度も進化を繰り返したこの魔獣の肉体。
かつての弱い自分を否定し続けて、ようやく形になってきた。
そして皮肉にも、今や俺の身体は大きくなりすぎて、ソフィアが腰掛けるベッドの上に乗ることすらできない。
「わたしは思ったのです。もしも、わたしがこの城を訪れることがなければ、今も魔獣さんは、この冬に閉ざされた静かな秘境で、自由気ままに過ごしていたのではないかと」
それは否定できなかった。
この冬の城に閉じ込められた当初は、俺もそう思っていたのだから。
「でも私がここに来てしまったから、魔獣さんは外の世界の闇に触れて、それと戦うための力を手に入れて……わたしのせいで、わたしがここに来なければ、何もかもが平和だったのではないかって」
「……そうかもしれないな」
俺は静かに肯定した。
「確かに初めは、ソフィアのことを鬱陶しいと思っていた。俺の静かな時間を返せとも思っていた」
俺は、当時を思い出しながら告白する。
懐かしい。今となっては、どうしてそんなことを考えていたのか分からない。
「ええっ!? そんなことを思っていらしたのですか?」
その内容に、ソフィアはややショックを受けたような声を出す。
しかし、その表情すらも今は、愛おしいと思える自分がいたことに気が付いた。
「だが、最近思うようになったのだ。この冬の世界に独りきりなのは、寂しいと……今はソフィアと出会えて、よかったと思っている」
俺が語り終えると、ソフィアは押し黙ってしまった。
……もしかして、余計なひと言で彼女を傷付けてしまったのではないだろうか?
そう心配していると、ソフィアがそっと口を開く。
「魔獣さんは、わたしが居れば、嬉しいですか?」
その可憐な唇は、言葉を紡いだ。
「……そこまで言ってはいないが、まあ、な。否定はしないさ」
俺は照れ臭い気持ちを抑えて、遠まわしに肯定した。
「でも、わたしは、明日の朝にはこのお城を出て行きます。魔獣さんは、わたしが居なくても……平気ですか?」
引き止めたい誘惑が俺を襲うが、ぐっと堪える。
「……今までずっと一人だった。元に戻るだけさ。何も心配は要らない」
俺のその言葉を聞いて、ソフィアはうつむいた。
「魔獣さんは、強いですね。わたしは……本当のことを言うと、外の世界に戻ることが恐ろしいのです」
ソフィアが弱音を吐いた。
彼女が人前でそんな姿を見せるのは、俺が知る限り初めてのことだった。
「ソフィア……?」
少女が初めて見せた弱さ。
彼女のただならない様子に、俺は心配する。
「どんなに幸せな日々でも、外の世界では強者の気まぐれによって失われてしまいます。いくら表向きは綺麗に取り繕った世界でも、気付かぬうちに這い寄る底なしの欲望と悪意は、容赦なく小さな幸せも奪っていくのです」
俺を撫でるソフィアの細い指が、ぎゅっと鬣を握る。
二度も故郷を、全てを奪われた彼女の言葉には重みがあった。
「でも、王家の血を引くものとして、民が失ったものを取り戻さないと……わたしは弱いのに、そんな重圧が、苦しいくらいに突き刺さって、息苦しくなって、溺れてしまいそうになりました」
ソフィアは内心を吐露し続ける。
その苦しみは、俺にも伝わってきた。
「でも、そんなある日、魔獣さんは、わたしのために立ち上がってくださいました。ディオン司祭を助けに行こうと言ってくださった、あの日のことです」
少女の独白は続く。
俺はただ、黙って聞いていた。
「魔獣さんが得られるものは、何ひとつ無いはずなのに。あの黒騎士に殺されるかもしれないのに……永遠の命を、わたしのために賭けてくださいました。あの無償の善意に、わたしの心は救われました」
……そうか。
あの間抜けな茶番を、ソフィアはそんなふうに思ってくれていたのか。
黒騎士に切り刻まれて、黒い炎に焼かれた俺。それを治療した彼女だからこそ、思うところがあったのかもしれない。
場違いだが、なんだか少し報われたような気がする。
「だから、わたしもそれに、応えたいと思います。貴方が望むなら、全てを捧げる覚悟もあります」
その言葉にぎょっとして振り向くと、涙を溜めたソフィアの顔が、真剣な眼差しで俺を見ていた。
ソフィアの身体がゆっくりと近づいてくる。
まるで愛しい人にしなだれ掛かるように、縋りつくように。
彼女の体温が、鼓動が、直に感じられる。
「こんなことを考えていてはいけないと分かっているのです。でも、これからのことを思うと、どうしても不安が、恐怖が、止めどなく溢れて――」
その声音は、弱々しくも、はっきりとしていて。
「――魔獣さん。わたしはもう、外の世界で生きるのが怖い……魔獣さんのいない世界が、怖いのです」
そして、ソフィアはとうとう、決して口にしてはいけない言葉を言ってしまった。
「もしも、わたしが望んだら……魔獣さんは、わたしを、このお城に閉じ込めてくれますか?」
冒険者たちは明日の朝、ヘーリオス王国に向けて旅立つらしい。
もちろん、ソフィアを伴ってだ。それが俺と彼女の、今生の別れとなるだろう。
自然と目に入るは安置されたガラスのケース。
覆いかぶさっていた布きれを退けると、その中で咲き誇る一輪の紅いバラ。
そのバラは暗い部屋の中で、淡い光を放っている。
ただし、その花弁の数は目に見えて散っていた。
「……結構減っているな」
今朝見た時はまだだいぶ残っていたように見えたが……俺の記憶違いでなければ何枚かは一気に散っている。
その残された花弁の枚数は、片手で数えられる程度だった。
この調子ならバラの花弁が全て散る日はそう遠くないだろう。
そしてそれは、俺が完全なる不死を手に入れることを意味する。
この冬に閉ざされた世界で過ごす、永遠の命。
初めから俺が望んでいたもの。
だから、この結末は、喜ぶべきものなのだ。
自分以外誰もいない世界。
この魔獣の肉体は、飢えることも、凍えることもなく。ゆえに強要されることもなく。
もう誰にも、利用されず、奪われず、搾取されず、自分のためだけに生きていける――そんな、理想的な永遠。
なのに、手に入る直前になって、それが味気ないものであるように思えてしまった。
元々眠らなくても大丈夫だが、今日は特に寝る気になれない。
窓の外を見ても、暗い景色。
眠れない俺は静かに、ガラスのケースに閉ざされた紅いバラを眺めていた。
――ふと、ドアの向こうに他人の気配があることに気が付く。
誰だ? 仮面ゴーレムか? 何かトラブルでもあったのだろうか?
その気配の主は、廊下を歩いて近づいてくる。
そして、俺の部屋の前で足を止めた。
ドアの向こうに留まる気配。しかし、ノックの音はしない。
なんだか知らないが、迷っているようだ。
「……どうした? 何か用か?」
煮え切らない気配に、痺れを切らした俺は声を掛ける。
すると、ドア越しに少女の声が聞こえてきた。
「あっ、魔獣さん……まだ、起きていらっしゃいますか?」
ソフィアの声だ。
こんな夜更けに珍しい。いったい何の用だろうか?
「起きているぞ。何かあったか?」
扉越しに俺は返答した。
「ああ、よかった。もし迷惑でなければ、お部屋にお邪魔しても、よろしいでしょうか?」
「……こんな夜遅くにか? あの冒険者たちに、明日は早いと聞いているが」
言外で早く寝なさいと忠告する。
しかし、ソフィアは頑なに立ち去る様子を見せない。
「どうしても眠れなくて……ほんの少しだけでいいのです。お話できませんか?」
ソフィアは懇願するように言った。
……今ソフィアの顔を見てしまうと未練が生じてしまいそうだが、彼女の意思は尊重したい。
俺は再度バラに布を被せて隠したあと、ドアを開いてケープを羽織った寝間着姿の彼女を部屋に招き入れた。
「とりあえず、入れ。廊下は冷えるだろう」
「ありがとうございます」
ソフィアは礼を言うと、そっと静かに部屋の中に入って来た。
困ったことに、俺の部屋は廊下と変わらないくらいに寒かった。
俺が寝床としている部屋に暖炉は無い。
俺はソフィアを人間用のベッドの上に座らせ、毛布を貸し与える。そして俺はその隣……ベッドの上には乗れないので、床の上に座った。ついでに、近くにいた仮面ゴーレムには何か温かい飲み物を持ってくるよう頼んだ。
仄かなランタンの明かりの中、俺とソフィアは二人きり。
静かな時間が流れる。
「……静かですね」
ソフィアがぽつりと言った。
「ああ、そうだな」
俺は答えた。
もう少し気の利いたことが言えればよかったが……今の俺にはこれが精一杯だった。
仮面ゴーレムが持ってきた二人分のホットミルク。そのマグカップからは、温かそうな湯気が昇っていた。
これで少しはましになればいいのだが。
「寒くないか?」
俺が問い掛けると、ホットミルクを飲みながら、ソフィアはこくんとうなずいた。
窓の外から差し込む、優しい月明かり。
雪雲の隙間から顔をのぞかせる。
月明かりを反射するソフィアの白い髪は、しっとりと艶やかに、そして女の子特有の甘い香りを放つ。
アッシュグレーの瞳が愁いを帯びているのは、俺との別れを惜しんでくれているからなのだろうか。
ただ座っているだけなのに、上品で、お淑やかで、そして柔らかそうで、どこか儚くて。
大きく巻いたヤギの角と、美しい少女の横顔。
神聖さと魔性が織りなす、アンバランスな美しさ。
見慣れていなければ、俺は何時までも彼女の姿に見惚れていたことだろう。
「それで……何か話したいことがあったのではないか?」
俺が尋ねると、ソフィアは俺のほうへ振り向いた。
「用事は、特にないのです。でも、今夜が最後ですから……」
「……そうか」
そして再び訪れる沈黙。
しかし、こうして一緒に居られるだけで、その時間がとても貴重なものに思えた。
それならばせめて、いつも通り振る舞おう。
そう思った俺は話す内容を考える。
「そうだ。そう言えば、今日はあの魔術師に新しい物語を聞いたのだった」
「新しいお話ですか?」
「ああ、確か題名は……『季節の王様たち』だったな。ソフィアは知っているか?」
ソフィアは少し、困ったように微笑んだ。
「はい、すみません……そのお話なら、知っています」
「おっと、マイナーな話だと聞いていたが、知っていたのか」
さっそく、話のネタがなくなってしまったな。
さて、どうやって話を続けようか。そう考えていると、ソフィアが尋ねてくる。
「魔獣さんは、どうしてそのお話を?」
「いや、あの魔術師のジーノとやらが言うにはな、俺が『冬の王』なのかもしれないのだと」
「魔獣さんが、冬の王……?」
可愛らしく、首を傾げるソフィア。
「冬に呪われた地の、冬の城。そこに住む魔獣の王――冬の王様と呼ばれるのに相応しいのだそうだ。まあ、有り得ない話じゃないかもな」
「……魔獣さんが冬の王だなんて、そんなことは、絶対にありえません」
俺が冗談めかして言うと、ソフィアは、はっきりと断言した。
「それは、どういうことだ? ソフィアは何か知っているのか?」
ソフィアは静かに、首を横に振る。
「いいえ。でも、その童謡では、春の女王は心優しく暖かで、夏の王は情熱的、そして秋の女王は豊かな心だと唄われています。だから、冬の王は、きっと、冷たい心の持ち主のはず。魔獣さんも、そうは思いませんか?」
春は暖かいから、春の女王の心も温かい。
夏は暑いから、夏の王の心も情熱的。
秋は実りの季節だから、秋の女王の心も豊かである。
そして冬は寒いから――冬の王は心も冷たい。
どれも勝手なイメージだが、なんとなく合っている気がする。
「なるほど。理屈は通っている気がするな」
「ならば、魔獣さんが、冬の王様になることは、絶対に無いと思います。だって、魔獣さんは優しくて……心は冷たくなんかありませんから!」
ソフィアは俺に信頼を寄せた笑みを浮かべながら言った。
その信頼は、俺に向けられるには少々眩しすぎるように思えたが、ソフィアからの想いなら、いくらでも受け止めたかった。
はたして、ソフィアの俺に対するその信頼は、どこから来ているのだろう?
しかし、俺は思い出す。
そもそも、俺がこの城に連れてこられた理由は――。
「……俺は、ちっとも優しくなんかないさ。強いて言えば、優柔不断なだけだ」
周囲の人間に流されることを、優しいとは言わない。
強いて言えば、“都合の”良い人だ。
そして擦れて、いい加減疲れて、心を閉ざしたのがかつての俺だった。
魔獣でない本当の俺なんて、浅ましくて醜い、ありふれた人間の一人にすぎない。
「いいえ。魔獣さんは、とても優しいお方です。行く当てのないわたしを、この冬の城に受け入れて下さいました」
「あれは……ただの成り行きだよ」
初めから魔女に押し付けて、あわよくば追い出すつもりだった。
なんだ。やっぱり、優しさなんてカケラもないじゃないか。
「他にも、わたしの角を癒すため、ヒュドラを倒すと言ってくださいました」
「あれは……あれこそ本当に口で言っただけじゃないか」
結局俺は、何もしていない。
「ディオン司祭を救うため、メアリス教国に立ち向かおうとしてくださいました」
「それも、俺はこの冬に呪われた地から出られず、何もできなかった」
最終的にディオン司祭を助けてくれたのは放浪の魔女だ。
もう全部あの魔女でいいんじゃないか?
「……でも、あの時は、本当に嬉しかったのですよ?」
ソフィアは卑屈で自虐的な俺に、慈しむような優しい笑みを向けた。
「それだけではありません。わたしが淋しくないように、なるべく一緒に居てくれました。素敵なお話を聞かせてくれました。素敵な場所に連れて行ってくれました。素敵な世界を見せてくれました……」
ソフィアはそっと俺の鬣を撫でる。
そのか細い指は、鬣越しでも確かに感じられるほど、優しくて、温かかった。
「わたし、ずっと考えていたのです。魔獣さんが、この冬の世界に閉じ込められた理由を」
「俺が、閉じ込められた理由?」
「……お気付きになっていますか? 魔獣さんの体、初めて会った時より大きくなっています」
知っている。
だって、ある程度は俺の意思で変化させたのだ。
何度も進化を繰り返したこの魔獣の肉体。
かつての弱い自分を否定し続けて、ようやく形になってきた。
そして皮肉にも、今や俺の身体は大きくなりすぎて、ソフィアが腰掛けるベッドの上に乗ることすらできない。
「わたしは思ったのです。もしも、わたしがこの城を訪れることがなければ、今も魔獣さんは、この冬に閉ざされた静かな秘境で、自由気ままに過ごしていたのではないかと」
それは否定できなかった。
この冬の城に閉じ込められた当初は、俺もそう思っていたのだから。
「でも私がここに来てしまったから、魔獣さんは外の世界の闇に触れて、それと戦うための力を手に入れて……わたしのせいで、わたしがここに来なければ、何もかもが平和だったのではないかって」
「……そうかもしれないな」
俺は静かに肯定した。
「確かに初めは、ソフィアのことを鬱陶しいと思っていた。俺の静かな時間を返せとも思っていた」
俺は、当時を思い出しながら告白する。
懐かしい。今となっては、どうしてそんなことを考えていたのか分からない。
「ええっ!? そんなことを思っていらしたのですか?」
その内容に、ソフィアはややショックを受けたような声を出す。
しかし、その表情すらも今は、愛おしいと思える自分がいたことに気が付いた。
「だが、最近思うようになったのだ。この冬の世界に独りきりなのは、寂しいと……今はソフィアと出会えて、よかったと思っている」
俺が語り終えると、ソフィアは押し黙ってしまった。
……もしかして、余計なひと言で彼女を傷付けてしまったのではないだろうか?
そう心配していると、ソフィアがそっと口を開く。
「魔獣さんは、わたしが居れば、嬉しいですか?」
その可憐な唇は、言葉を紡いだ。
「……そこまで言ってはいないが、まあ、な。否定はしないさ」
俺は照れ臭い気持ちを抑えて、遠まわしに肯定した。
「でも、わたしは、明日の朝にはこのお城を出て行きます。魔獣さんは、わたしが居なくても……平気ですか?」
引き止めたい誘惑が俺を襲うが、ぐっと堪える。
「……今までずっと一人だった。元に戻るだけさ。何も心配は要らない」
俺のその言葉を聞いて、ソフィアはうつむいた。
「魔獣さんは、強いですね。わたしは……本当のことを言うと、外の世界に戻ることが恐ろしいのです」
ソフィアが弱音を吐いた。
彼女が人前でそんな姿を見せるのは、俺が知る限り初めてのことだった。
「ソフィア……?」
少女が初めて見せた弱さ。
彼女のただならない様子に、俺は心配する。
「どんなに幸せな日々でも、外の世界では強者の気まぐれによって失われてしまいます。いくら表向きは綺麗に取り繕った世界でも、気付かぬうちに這い寄る底なしの欲望と悪意は、容赦なく小さな幸せも奪っていくのです」
俺を撫でるソフィアの細い指が、ぎゅっと鬣を握る。
二度も故郷を、全てを奪われた彼女の言葉には重みがあった。
「でも、王家の血を引くものとして、民が失ったものを取り戻さないと……わたしは弱いのに、そんな重圧が、苦しいくらいに突き刺さって、息苦しくなって、溺れてしまいそうになりました」
ソフィアは内心を吐露し続ける。
その苦しみは、俺にも伝わってきた。
「でも、そんなある日、魔獣さんは、わたしのために立ち上がってくださいました。ディオン司祭を助けに行こうと言ってくださった、あの日のことです」
少女の独白は続く。
俺はただ、黙って聞いていた。
「魔獣さんが得られるものは、何ひとつ無いはずなのに。あの黒騎士に殺されるかもしれないのに……永遠の命を、わたしのために賭けてくださいました。あの無償の善意に、わたしの心は救われました」
……そうか。
あの間抜けな茶番を、ソフィアはそんなふうに思ってくれていたのか。
黒騎士に切り刻まれて、黒い炎に焼かれた俺。それを治療した彼女だからこそ、思うところがあったのかもしれない。
場違いだが、なんだか少し報われたような気がする。
「だから、わたしもそれに、応えたいと思います。貴方が望むなら、全てを捧げる覚悟もあります」
その言葉にぎょっとして振り向くと、涙を溜めたソフィアの顔が、真剣な眼差しで俺を見ていた。
ソフィアの身体がゆっくりと近づいてくる。
まるで愛しい人にしなだれ掛かるように、縋りつくように。
彼女の体温が、鼓動が、直に感じられる。
「こんなことを考えていてはいけないと分かっているのです。でも、これからのことを思うと、どうしても不安が、恐怖が、止めどなく溢れて――」
その声音は、弱々しくも、はっきりとしていて。
「――魔獣さん。わたしはもう、外の世界で生きるのが怖い……魔獣さんのいない世界が、怖いのです」
そして、ソフィアはとうとう、決して口にしてはいけない言葉を言ってしまった。
「もしも、わたしが望んだら……魔獣さんは、わたしを、このお城に閉じ込めてくれますか?」
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