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五章 竜の民と魔法使い
兄は弟が大好き?
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「ん、ん~?」
僕に来客、か。
同期の〝目〟の友人が手助けに来てくれた、とかなら嬉しいのだけど。カレンと併せて、これまでのような激務が解消されること請け合い。
あとは、まさか父さんが来たとかだと、ちょっと困る。僕の家系の瑕疵、煽てられて調子に乗ると云々、を糾弾されそうだ。
行き場の見つからない、取り留めのない思いに揺られながら、玉座の横の扉から炎竜の間に入ると、僕は我が目を疑った。
「え……、兄さん!?」
これは……っ!!
僕は「幻影」に惑わされているのだろうか。そこにはニーウ・アルン、誰あろう兄弟の契りを結んだ僕の兄がいた。
この現況が信じられず見回すと、すでに解散したようで、炎竜の間には、膝の上にみーを乗せたコウさんが玉座に座っているだけだった。
二人は向かい合って、何か話していたようだが。
その懐かしい、里で別れたときより大人びた顔が僕に向けられる。ややもすると涙が溢れてしまいそうになる。だが、兄さんの前でそんな情けない姿を見せるわけにはいかない。
「やあ、リシェ、大きくなったね。でも、可愛かった頃の面影は残っているかな。実は僕の身長を追い越していたり、厳つく育っていたりしたらどうしようかと憂慮していたんだ」
兄さんの笑顔と、記憶の中の優しい面影が重なる。
僕が駆け寄ると、兄さんも近付いて、優しく抱き留めてくれる。グランク家で使用人として暮らしていた頃、就寝前にいつもこうして抱き締めてくれていた。あの頃の懐かしさと愛しさを兄さんの匂いが教えてくれる。
「ん? 天才じゃねぇか、こぞーん会いん来たんか?」
「っ?? アルン! リシェと兄弟だと?! エンっ、知っていたなら教えないか!!」
「えー、そんなん見りゃわかんだろ」
僕が入ってきた扉から、エンさんとクーさんが姿を現すと、どうやら顔見知りだったらしい兄さんのことで何か揉めているようだった。
エンさんが以前言っていた、天才、という渾名は、兄さんのことだったらしい。
然らば兄さんは嘗て氷焔に所属していたということになる。何という奇遇だろう、僕は知らず知らず兄さんの足跡を辿っていたらしい。
「こぉ~ら、相棒。たくっ、しょーがねーなぁ」
然て置きて、これは、初めて見る光景だった。
クーさんがエンさんの背中に隠れている。そこに居れば、すべてから護ってもらえる、それを信じて疑わないような兄妹の絆が感じられた。
エンさんの後ろで小さくなっているクーさんは、ぎゅっと目を閉じて、一生懸命に兄の背中にしがみついていた。
「信じられないかもしれませんが、私が出逢った頃のクー姉は、エン兄の後ろが指定席の引っ込み思案の子供だったのです。エン兄のほうは、何も変わってないのです」
「えっと、クーさんのそれが、再発しているのは如何なる理由によるものなのでしょうか?」
僕が尋ねると、コウさんとエンさんの冷ややかな視線が兄さんに向けられる。
「あっと、それは、いえ、何と言うか、僕がクルさんに求婚して、断られたからでしょうね」
「えぇぇ……」
「こらっ、リシェ、断ったあたしが悪いみたいな声を出すんじゃない!」
僕を怒る為に顔を出すが、兄さんと目が合うと、すぐさまエンさんの背中に逆戻り。
そういえば、クーさんは氷焔にいた天才の話になると、無言になったりそわそわしたり、不自然な行動を取っていた。
同性に慣れていなかったり、色恋沙汰でうろたえたり、普段の凛とした姿からは想像し難い姿だ。
まぁ、これも弱点が多いクーさんの一面なのだろう。
然ても、クーさん。兄さんの求婚を断るなんて、どれだけ理想が高いんですか。殆ど完璧である兄さんが駄目となると、懸念通り、本当に同性しか愛せないのかも。
「今日は三つ、いえ、四つの事柄に関して、リシェと話をしようと思ってね。リシェに会いに来るのはもっと先になるかと思っていたけど、竜の国の侍従長となったと聞いて、頃合いかと遣って来たんだ。あっと、そうですね、一つ目は経過報告なので、皆さんも聞いていてください。では、先ずリシェの蒙を啓くとしましょう」
「僕の蒙……ですか?」
「そう、これまでは僕を指針として、正しい道を歩ませることを企図して、あえて正さなかった。でも、リシェは人々を歩ませる側に回った。兄としては、このまま尊敬される兄でいたいけど、大切な弟の為に、僕の駄目なところを知ってもらおうと思うんだ」
兄さんは、寂しそうな笑顔を浮かべた。いや、それは僕がそう見えたというだけで、本当は安堵の、一つの荷を下ろすことが出来たことによる感慨だったのかもしれない。
「リシェは、決められた道を歩いていくことが嫌で、里を出たあと、冒険者を選んだんだろうね。僕も同じ、誰かが決めた道を、誰かが示してくれた道を歩いているだけだった。里を出て、自由になったとき、僕は気付いた。遠い孤独の日々の中で僕が願ったこと。リシェと絆を結わえて識ったこと。僕がやりたいこと。それは一から自分で造り出すこと。根本から、ひとつひとつ結わえていくこと。そうして結実したもの、希求したもの。人と人の最大の係わり合い。ーー国を造ることが僕の夢になった。
僕が氷焔に所属したのは、冒険者の技能の習得と、僕の目的の成就に氷焔が使えるか確かめる為だった。使えない、と判断した僕は、五日で氷焔を去った。次に、経験を積む為、国情の荒れている南の国へ足を運んだ。王が民を虐げ、不満が燻っている。〝サイカ〟の名を利用すれば、すぐに人は集まってきた。あとは、ゆっくりと内部まで毒を染み込ませていくだけ。天秤がこちらに傾いたあと、蜂起して、王を打倒した。けど……僕の目標の、殆どが達成されなかった。反抗勢力を僕が纏めることと引き換えに、幾つかの条件を提示した。王と、罪のある者以外の処刑は行わないこと。略奪を行わないこと。次の王の選定は、僕が行うこと。他にも色々あったけど、主なものはこの三つ。
罪の無い者を殺せば、恨みが残る。略奪を行えば、自分たちに皺寄せがくる。相応しくない者が王になれば、そう遠くない内に繰り返される。重臣たちを殺せば、執務が滞る。兵を殺せば、国の守りが薄くなる。誰も彼もが、僕と交わした約束を守らなかった。
僕が、王と見込んだ男がいた。彼ならば、長く国を安寧に導くだろう、そう信じられるくらいの高潔な男だった。だが、彼は最後まで王に尽くした。僕の説得に耳を貸さず、彼と戦わなくてはならなかった。彼は強かった。だから、手加減なんて出来なかった。
……だから、この手で、彼を殺した。ーー不思議なことに、僕との約束をまったく守らなかった人々が、僕を称え、国の復興に注力して欲しいと頼んできた。僕の夢は、一から国を造ること。僕は、目的に沿う地を求めて、エタルキアに渡る為、草の海に向かっていたところで、竜の国の話を聞いてこうして遣って来たというわけさ」
耳は聞こえている。頭でも理解できる。声は出る。兄さんの姿は見える。腕は動く。感情は教えてくれる。ああ、でも、僕の中に僕がいない。僕の中で僕が浮かんでいる。
「どうだい、リシェ。兄の情けない行状を知って、幻滅したかな?」
「そ、それは、ただ失敗しただけで、兄さんなら次からは上手くできるはずです!」
僕ではない僕が喋っている。だから、言いたいことをちゃんと言ってくれない。兄さんが望んでいることがわかるのに、僕の心を、僕の願いを素通りする。
「これで駄目なら、まだまだ付け加えないといけないようだね。先程、リシェはクルさんのことを、クーさんと呼んだでしょう。リシェは、僕の大切な弟なのに、醜い嫉妬に駆られて、殺意さえ湧いてしまった。僕の夢とは違う形とはいえ、リシェは国を造った。竜の狩場に国を造るなんて、僕は想像だにしなかった。それを知ったときの、僕の……」
「わかりましたっ! もうっ、もう止めてくださいっ、兄さん!!」
涙が零れる。止められない。何をすれば、何を言えばいいのかわからない。ただ突っ立っているだけで、自分が何をしてきたのか、何を見てきたのかが、まったくわからない。
頭の中には何もない。何もないから。わからないものは、すべて壊れてしまった。
手を伸ばしても届かないものは残っているだろうか。見上げても目に映らないものは失われていないだろうか。消えないものを掻き集めれば何もないことを忘れられるだろうか。
世界を輝かせてくれたのが誰だったのか。
小さな世界で、山々に埋もれてもがく僕に、物の見方を、呼吸の仕方を、生命の暖かさを、人としての根本を知らせてくれたのは誰だったのか。
始まりが、憐れみだったとしても構わない。今ならわかる、僕が僕を見失っていた頃、僕に気付いてくれたのは誰だったのか。いつでも、差し出してくれていたことを、僕は覚えている。
答えはある。もう、すべて兄さんが用意してくれている。これまでは、気付かなかっただけ。気付けなかっただけ。気付こうとしなかった、だけ。
「こ、これを使いなさい」
いつから居たのだろう、カレンが布を差し出していた。
素直に受け取って、でも、それで涙を拭く気になんかならなくて、ぎゅっと握り締めた。
「そこで、序でに優しく抱き締めてあげれば、好感度が高まるし、色々と蟠りが解消すると思うんだけどね。それがカレンの願いに沿うものではないとわかっているけど、頑迷、ではないか、一途、も過ぎれば、リシェに辿り着く前に地竜のように固まってしまうよ?」
「なっ、ななっ、な、何をとち狂っているのですか、アルンさんっ!? 人が弱っているときに付け込むのは、戦術としては正しいですが戦略的にはどうかと思いますわっ!」
兄さんとカレンの間で、よくわからない遣り取りが為されていた。
そこで、これまで静観していたコウさんが、みーをぎゅっとしながら、火炎を吐いた。
「相変わらず、変なところで押しの強い人なのです。リシェさんの兄だと聞いて、納得したのです」
「僕の弟、ではなく、リシェの兄、ですか。僕の可愛い弟を気に入ってくれているようで、兄としては嬉しい限りです」
「侍従長の兄の、無職の人は煩いのです。魔法球を二つ進呈するので、さっさと消えてくださいなのです。でないと、強制転移させるのです」
「みー様の角のリボン。それにコウさんの、三角帽子の幸運の鳥は、リシェの贈り物ですか? 見たところ付与魔法が掛けられているようですし、お気に入りのようですね。……ん? これは、もしかして『保護』ではなく『凍結』、いえ、まさか『時降』!?」
「意地悪な人には教えてあげないのです。竜に喰われろ、なのです」
「おや、みー様、どうしました?」
「無職の人がリシェさんと同じ臭いをさせてるので、警戒してるのです」
……これは、コウさんと兄さんは仲良しなのだろうか。
コウさんがこんなにもずけずけと物を言っているのを見るのは、初めてかもしれない。兄さんの懐の深さがそうさせるのだろうか。見習ったほうがいいのか、判断の難しいところだ。
はぁ、まったくもう、人がしんみりしていたというのに、お構いなく騒いでくれる人たちである。
一触竜発の二人の間で、みーが真剣な顔をしていた。
確かに、コウさんが言うように警戒しているように見えなくもないが、少し違うような。
「むーう、ふところに、いちもつありなのだー!」
びしっ、と兄さんに向けて指を差すみー。
なぜか慌てふためくコウさんが小声でみーに注意をしていた。といっても、何がいけないのか、みーには伝わっていないようだったが。
「ほほう、さすがみー様。その竜鼻、御見それいたしました」
兄さんは歩を進めて、やおら両手を懐に差し込むと、ばっと両手を広げた。
「ふぁはぁゃ~っ!?」
兄さんの、すべての指の間に挟まっている物を見て、早く頂戴とばかりに手足をばたばたさせる。
兄さんは、慌てず急がず、みーの若草色の外套を掴んで膝の上を覆うと、その上に右手に挟んでいたお菓子をぼとぼとと落とした。
「草の海の周辺で買ってきたお菓子なので、見たことのない物ばかりでしょう?」
膝の上のお菓子に目を輝かせていたみーの視線が、然もありなん、つつつっ、と残りのお菓子を射程に収める。
兄さんは、魔法のように右手にお菓子を取り出すと、みーのお口に、ぽすっと突っ込んだ。そしてみーが、あむあむする間に、ふよふよの炎髪を撫で回す。
「ふむふむ、触り心地良さそうだと思っていましたが、これは癖になりそうですね。さて、こちらの角の感触も確かめさせて頂きましょう」
みーが食べ終わった瞬間、兄さんは左手のお菓子を投入。言葉通りに、みーがお菓子に気を取られている内に、二本の角を触り捲りながら矯めつ眇めつしていた。
猛烈に羨ましい。
僕が未だに、みーの頭を撫でる、という悲願を達成していないというのに、さすがは兄さんである、こんなにも簡単に事案が発生。
「お菓子と物々交換ということで、この魔法球は頂いていきますね。これは『飛翔』と『隠蔽』でしょうか?」
「……その通りなのです。ニーウさんの魔力操作能力なら、草の海を越えるまで持つのです。魔法球の魔力が切れたら壊れてしまうので、最後は低空を飛んでくださいなのです」
「了解。では、リシェ。残りの三つは、行き掛けに話そうか。コウさん、リシェをくれぐれもよろしくお願いします。エンさん、大人しく聞いていてくれてありがとうございます。クーさん、これまでのように文を送るので、楽しみにしていてください」
「竜に百回振り回されて、体中の毛が逆立つといいのです」
「んな長話ん、口突っ込めるわきゃねーだろ。そーさなぁ、竜ん百回、ぶるんぶるんされて、こむら返っちまいやがれ」
「……うー、竜にぷしぷしっ、ぷしゅーっ!」
兄さんは、ずいぶん氷焔に馴染んでいるようだ。そして、いつもの饒舌はどこへやら、クーさんが幼い子供のような、可愛いのか小生意気なのか判断の分かれる真情の発露、これは退行なのだろうか?
クーさんの反応を見る限り、完全な脈なしではないと思うのだが。兄さんが梃子摺っている相手である、異性に疎い自覚がある僕がおいそれと判断を下すのは早計というものだろう。
コウさんとエンさんの表情から察するに、寝た竜を起こすな、ということらしいが。
さらりと、或いはざらりと別れを済ませて、兄さんが氷焔に背を向ける。
僕は、慌てて兄さんの横に並ぶ。すると、僕たちの後ろに足音が近付いて来て。
「あっと、付いて来るのかい、カレン」
「歯止めとして、付いていきます」
「信用ないね、僕は」
「アルンさんの能力は信頼しても、性格は信用しません」
「不思議だね。僕とカレンの関係は薄いのに、見抜かれてしまう」
「あなたが、ランル・リシェの兄だからです」
緊迫した遣り取りではないものの、何だろう、炎竜氷竜の仲というやつだろうか。
翠緑宮の表口に向かって歩きながら、兄さんは軽い調子で続ける。
「二つ目は、これは確認だけで済むだろうね。どうだい、リシェ? 今でも里で習ったことを一々思い出したりしているかな?」
「ーーえっと、そういえば、竜の国を造り始めてから、思い出す、というか、特段参考にすることとか少なくなったかも」
思い返してみると、ここ何巡りかで里の教えを意識した覚えがない。
「それは、自分で物事を考えるようになったからだね。習ったものは、下地に過ぎない。いつでも必要なものは、その先にある。そこに手を伸ばせば、自然とそうなってゆく。リシェが正しく成長しているようで、兄は満足。ということで、三つ目」
んふふー、と満足気に相好を崩す兄さんの顔は、どこかスナと似ていた。裏表なく、僕のことを想ってくれている。それが擽ったくて、やわらかで。僕も、誰かにとっての、そんな存在になれるだろうか。などと思ってしまう。
「リシェは、将来、僕の手伝いをしてくれるつもりだった?」
「はい。兄さんの恩に報いる為にも、経験を積んで、いつか兄さんの役に立てればいいな、と思っていました」
「うん、問題はそこ。僕の助けになろうとしてくれる、その気持ちは嬉しい。だけど、その為に自分を犠牲にしてないかい? 遊んでいる暇があるなら経験を積む、楽しむことをせず真剣に取り組む、役に立たないことは身に付けない、ーー自分ではそのつもりはないかもしれないけど、そんな風に自分を縛っていないと、断言できるかな?」
「それは……」
兄さんの言葉が、見えない、見ないようにしていた場所を、どこまでも滑り落ちてゆく。
気付いてみれば、逃げ場なんてどこにもない。否応なく、僕の心を粟立たせる。
ーー図星だった。
兄さんの助けになりたい。それが、里を出たとき僕が選んだ道だった。でも、それが叶うのはずっと先の話で、僕は自分の為に自由に選択していると思っていた。
そうして、誤魔化していたのかもしれない。僕が望んだこと。それは願いであると同時に、重荷だった。兄さんの助けになるには、相応の力が必要だ。知らず知らず、僕は追い詰められていたのかもしれない。
「リシェなら、わかるはずだよ。僕の望みは、僕の為にリシェが犠牲になることじゃない。リシェが自分の望みを叶える為に、自由に生きてくれること。その先に、僕と交わる道があるのなら、それはきっと、本当の意味で僕たちの夢が叶ったことの証しだと信じている」
一階へ下りる階段。下ってしまえば、表口までもう少し。
「そうだね。リシェがリシェらしく生きる、その為に、先ず恋でもしてみたらどうかな?」
「……こい?」
こい、という言葉が、頭の中できちんと変換されなかった。
来い? 濃い? 故意?
「つまり、好きな人でも出来れば、世の中変わって見えることもあるだろう、ってね」
こういう甘ったるい話が苦手なのだろうか、カレンが余所余所しい態度で、我関せず、を決め込んでいた。
僕は、どうなのだろう、恋、とかいうあやふやなものは、心にすとんっと落ちてこない。愛情とは似て非なる、焦がれるようなもの……なのだろうか?
「ん~、正直、実感が湧きません。スナ……あ、えっと、恋情ではないけど、割りかし近いの、かな? ……そうですね、兄さんが結婚したら、真剣に考えることにします」
「あっと、これは失敗したかな。僕は、クルさんよりも自分の夢を優先させてしまったからね。人に偉そうに言える立場じゃないので、肩身が狭い。ーーにしても、さてふむさてふむ、いつの間にやらリシェにもそんな感じの人が出来たのかな? いい傾向だね。カレンも負けてられないね」
「へ?」
「ーーっ?!」
揶揄したのは兄さんなのに、何故カレンは僕を睨んでいるのだろう。しかも、これは殺意?
いや、もっと何かどろどろしたもので。って、あの、カレン? 凄く怖いんですけど。
うっかりスナの名前を口にしてしまった。とはいえ、それだけでは、然しもの兄さんでも、氷竜のことだとわからないだろう。
兄さんになら言っても良さそうだが、というか、言ってしまいたい。秘密の共有とか合い言葉とか、昔を思い出して、懐かしさに浸りたい気分になってしまう。
もう子供ではないと思っていたが、僕の中にもまだまだ人に甘えたいという気持ちがあるようだ。
「ということで、話を逸らす為に、四つ目。コウさんはいい娘だけど、とても危険な存在だ」
「えっと、それはわかってーー」
「否、わかっていない。本来なら、無理やりにでも引き離しているところだ」
「兄さん……?」
手の包帯を見られて、思わず隠してしまう。まるでこの傷が、兄さんの言葉を肯定するものだと認めてしまったかのように。
僕の言葉を否定した兄さんは、更に強く拒絶の言葉を継いでゆく。
「僕にはわかる。リシェは優しい。この先、どれほどの傷を負うだろう。下手をすれば、命を失うことすらある。汚泥に塗れて、二度と立ち上がれなくなるかもしれない。
だから、リシェに命令する。竜の国の侍従長を辞し、エタルキアで国を興す僕の手伝いをしてくれ。僕は、あの娘の近くにリシェが居ることを許せそうにない」
兄さんは、僕だけを見ていた。他の誰でもなく、僕のことを。僕の行く先だけを。
聞く者が聞けば、余りに独善的で、それでいて純粋な。これが、兄さんの本心なのだろう。そして、僕に自由に生きて欲しいと願ってくれているのも本当のこと。
矛盾しているとわかっていても、兄さんは包み隠さず、心の内を赤裸々に語ってくれる。
コウさんに関して、兄さんは僕以上に何かが見えている。
僕は、コウさんに竜の国という選択肢を差し出したが、この道の帰結を見通しているかもしれない兄さんなら、彼女の道を閉ざしていただろう。
漠然としているが、今ならそれがわかる。
これまでなら、兄さんが正しいと、信じて疑わなかった。でも、それではいけないと、兄さん自身が教えてくれた。そういえば、スナも僕に統治者としての肝要の一つを教授してくれた。やっぱり僕は、然く危なっかしく見えてしまうのだろうか。
ーー僕に出来るのは、嘘偽りのない答えを返す、ただそれだけ。
「ありがとう。兄さん」
この言葉以上に、僕の、今の気持ちを表すものはなかった。
真っ直ぐに答えた僕を認めてくれたのだろうか。巨岩の横を通り過ぎて、到頭空が見えるところまで辿り着いてしまうと、昔と同じように褒めてくれる。
「兄さん、僕はもう子供ではありませんよ」
「残念ながら、その意見は受け容れられないな。兄には、弟を可愛がる特権があるからね」
昔、兄さんの手は、魔法の手だと思っていた。
いや、魔法の手だったのだ。頭を撫でられるだけで、すべてが満たされていた。そして、兄さんの手で、魔法は解かれた。
「「ーーーー」」
別れの言葉はいらない。
道は交わるかもしれないし、生涯違えることになるかもしれない。最後に、一つ頷いて、兄さんは「飛翔」で飛び立っていった。
「隠蔽」で兄さんの姿が見えないらしいカレンが、いつまでも空を見上げている僕に、こちらを見ながら目だけを逸らすという、何かを期待しているような、見たいのに見たくないような、不可思議な態度で忠告してくれる。
躊躇いながら、口を手で隠して、心做し薄っすらと頬を染めて。
「あの、その、ランル・リシェ? 実は、異性よりも同性のほうが好きだとか、そういうこととかあったりするのかしら? 人の嗜好について、とやかく言うつもりはないのだけれど、愛情と恋情は似ているようで違うのだから、その辺りを気にしたほうが、ね?」
僕に来客、か。
同期の〝目〟の友人が手助けに来てくれた、とかなら嬉しいのだけど。カレンと併せて、これまでのような激務が解消されること請け合い。
あとは、まさか父さんが来たとかだと、ちょっと困る。僕の家系の瑕疵、煽てられて調子に乗ると云々、を糾弾されそうだ。
行き場の見つからない、取り留めのない思いに揺られながら、玉座の横の扉から炎竜の間に入ると、僕は我が目を疑った。
「え……、兄さん!?」
これは……っ!!
僕は「幻影」に惑わされているのだろうか。そこにはニーウ・アルン、誰あろう兄弟の契りを結んだ僕の兄がいた。
この現況が信じられず見回すと、すでに解散したようで、炎竜の間には、膝の上にみーを乗せたコウさんが玉座に座っているだけだった。
二人は向かい合って、何か話していたようだが。
その懐かしい、里で別れたときより大人びた顔が僕に向けられる。ややもすると涙が溢れてしまいそうになる。だが、兄さんの前でそんな情けない姿を見せるわけにはいかない。
「やあ、リシェ、大きくなったね。でも、可愛かった頃の面影は残っているかな。実は僕の身長を追い越していたり、厳つく育っていたりしたらどうしようかと憂慮していたんだ」
兄さんの笑顔と、記憶の中の優しい面影が重なる。
僕が駆け寄ると、兄さんも近付いて、優しく抱き留めてくれる。グランク家で使用人として暮らしていた頃、就寝前にいつもこうして抱き締めてくれていた。あの頃の懐かしさと愛しさを兄さんの匂いが教えてくれる。
「ん? 天才じゃねぇか、こぞーん会いん来たんか?」
「っ?? アルン! リシェと兄弟だと?! エンっ、知っていたなら教えないか!!」
「えー、そんなん見りゃわかんだろ」
僕が入ってきた扉から、エンさんとクーさんが姿を現すと、どうやら顔見知りだったらしい兄さんのことで何か揉めているようだった。
エンさんが以前言っていた、天才、という渾名は、兄さんのことだったらしい。
然らば兄さんは嘗て氷焔に所属していたということになる。何という奇遇だろう、僕は知らず知らず兄さんの足跡を辿っていたらしい。
「こぉ~ら、相棒。たくっ、しょーがねーなぁ」
然て置きて、これは、初めて見る光景だった。
クーさんがエンさんの背中に隠れている。そこに居れば、すべてから護ってもらえる、それを信じて疑わないような兄妹の絆が感じられた。
エンさんの後ろで小さくなっているクーさんは、ぎゅっと目を閉じて、一生懸命に兄の背中にしがみついていた。
「信じられないかもしれませんが、私が出逢った頃のクー姉は、エン兄の後ろが指定席の引っ込み思案の子供だったのです。エン兄のほうは、何も変わってないのです」
「えっと、クーさんのそれが、再発しているのは如何なる理由によるものなのでしょうか?」
僕が尋ねると、コウさんとエンさんの冷ややかな視線が兄さんに向けられる。
「あっと、それは、いえ、何と言うか、僕がクルさんに求婚して、断られたからでしょうね」
「えぇぇ……」
「こらっ、リシェ、断ったあたしが悪いみたいな声を出すんじゃない!」
僕を怒る為に顔を出すが、兄さんと目が合うと、すぐさまエンさんの背中に逆戻り。
そういえば、クーさんは氷焔にいた天才の話になると、無言になったりそわそわしたり、不自然な行動を取っていた。
同性に慣れていなかったり、色恋沙汰でうろたえたり、普段の凛とした姿からは想像し難い姿だ。
まぁ、これも弱点が多いクーさんの一面なのだろう。
然ても、クーさん。兄さんの求婚を断るなんて、どれだけ理想が高いんですか。殆ど完璧である兄さんが駄目となると、懸念通り、本当に同性しか愛せないのかも。
「今日は三つ、いえ、四つの事柄に関して、リシェと話をしようと思ってね。リシェに会いに来るのはもっと先になるかと思っていたけど、竜の国の侍従長となったと聞いて、頃合いかと遣って来たんだ。あっと、そうですね、一つ目は経過報告なので、皆さんも聞いていてください。では、先ずリシェの蒙を啓くとしましょう」
「僕の蒙……ですか?」
「そう、これまでは僕を指針として、正しい道を歩ませることを企図して、あえて正さなかった。でも、リシェは人々を歩ませる側に回った。兄としては、このまま尊敬される兄でいたいけど、大切な弟の為に、僕の駄目なところを知ってもらおうと思うんだ」
兄さんは、寂しそうな笑顔を浮かべた。いや、それは僕がそう見えたというだけで、本当は安堵の、一つの荷を下ろすことが出来たことによる感慨だったのかもしれない。
「リシェは、決められた道を歩いていくことが嫌で、里を出たあと、冒険者を選んだんだろうね。僕も同じ、誰かが決めた道を、誰かが示してくれた道を歩いているだけだった。里を出て、自由になったとき、僕は気付いた。遠い孤独の日々の中で僕が願ったこと。リシェと絆を結わえて識ったこと。僕がやりたいこと。それは一から自分で造り出すこと。根本から、ひとつひとつ結わえていくこと。そうして結実したもの、希求したもの。人と人の最大の係わり合い。ーー国を造ることが僕の夢になった。
僕が氷焔に所属したのは、冒険者の技能の習得と、僕の目的の成就に氷焔が使えるか確かめる為だった。使えない、と判断した僕は、五日で氷焔を去った。次に、経験を積む為、国情の荒れている南の国へ足を運んだ。王が民を虐げ、不満が燻っている。〝サイカ〟の名を利用すれば、すぐに人は集まってきた。あとは、ゆっくりと内部まで毒を染み込ませていくだけ。天秤がこちらに傾いたあと、蜂起して、王を打倒した。けど……僕の目標の、殆どが達成されなかった。反抗勢力を僕が纏めることと引き換えに、幾つかの条件を提示した。王と、罪のある者以外の処刑は行わないこと。略奪を行わないこと。次の王の選定は、僕が行うこと。他にも色々あったけど、主なものはこの三つ。
罪の無い者を殺せば、恨みが残る。略奪を行えば、自分たちに皺寄せがくる。相応しくない者が王になれば、そう遠くない内に繰り返される。重臣たちを殺せば、執務が滞る。兵を殺せば、国の守りが薄くなる。誰も彼もが、僕と交わした約束を守らなかった。
僕が、王と見込んだ男がいた。彼ならば、長く国を安寧に導くだろう、そう信じられるくらいの高潔な男だった。だが、彼は最後まで王に尽くした。僕の説得に耳を貸さず、彼と戦わなくてはならなかった。彼は強かった。だから、手加減なんて出来なかった。
……だから、この手で、彼を殺した。ーー不思議なことに、僕との約束をまったく守らなかった人々が、僕を称え、国の復興に注力して欲しいと頼んできた。僕の夢は、一から国を造ること。僕は、目的に沿う地を求めて、エタルキアに渡る為、草の海に向かっていたところで、竜の国の話を聞いてこうして遣って来たというわけさ」
耳は聞こえている。頭でも理解できる。声は出る。兄さんの姿は見える。腕は動く。感情は教えてくれる。ああ、でも、僕の中に僕がいない。僕の中で僕が浮かんでいる。
「どうだい、リシェ。兄の情けない行状を知って、幻滅したかな?」
「そ、それは、ただ失敗しただけで、兄さんなら次からは上手くできるはずです!」
僕ではない僕が喋っている。だから、言いたいことをちゃんと言ってくれない。兄さんが望んでいることがわかるのに、僕の心を、僕の願いを素通りする。
「これで駄目なら、まだまだ付け加えないといけないようだね。先程、リシェはクルさんのことを、クーさんと呼んだでしょう。リシェは、僕の大切な弟なのに、醜い嫉妬に駆られて、殺意さえ湧いてしまった。僕の夢とは違う形とはいえ、リシェは国を造った。竜の狩場に国を造るなんて、僕は想像だにしなかった。それを知ったときの、僕の……」
「わかりましたっ! もうっ、もう止めてくださいっ、兄さん!!」
涙が零れる。止められない。何をすれば、何を言えばいいのかわからない。ただ突っ立っているだけで、自分が何をしてきたのか、何を見てきたのかが、まったくわからない。
頭の中には何もない。何もないから。わからないものは、すべて壊れてしまった。
手を伸ばしても届かないものは残っているだろうか。見上げても目に映らないものは失われていないだろうか。消えないものを掻き集めれば何もないことを忘れられるだろうか。
世界を輝かせてくれたのが誰だったのか。
小さな世界で、山々に埋もれてもがく僕に、物の見方を、呼吸の仕方を、生命の暖かさを、人としての根本を知らせてくれたのは誰だったのか。
始まりが、憐れみだったとしても構わない。今ならわかる、僕が僕を見失っていた頃、僕に気付いてくれたのは誰だったのか。いつでも、差し出してくれていたことを、僕は覚えている。
答えはある。もう、すべて兄さんが用意してくれている。これまでは、気付かなかっただけ。気付けなかっただけ。気付こうとしなかった、だけ。
「こ、これを使いなさい」
いつから居たのだろう、カレンが布を差し出していた。
素直に受け取って、でも、それで涙を拭く気になんかならなくて、ぎゅっと握り締めた。
「そこで、序でに優しく抱き締めてあげれば、好感度が高まるし、色々と蟠りが解消すると思うんだけどね。それがカレンの願いに沿うものではないとわかっているけど、頑迷、ではないか、一途、も過ぎれば、リシェに辿り着く前に地竜のように固まってしまうよ?」
「なっ、ななっ、な、何をとち狂っているのですか、アルンさんっ!? 人が弱っているときに付け込むのは、戦術としては正しいですが戦略的にはどうかと思いますわっ!」
兄さんとカレンの間で、よくわからない遣り取りが為されていた。
そこで、これまで静観していたコウさんが、みーをぎゅっとしながら、火炎を吐いた。
「相変わらず、変なところで押しの強い人なのです。リシェさんの兄だと聞いて、納得したのです」
「僕の弟、ではなく、リシェの兄、ですか。僕の可愛い弟を気に入ってくれているようで、兄としては嬉しい限りです」
「侍従長の兄の、無職の人は煩いのです。魔法球を二つ進呈するので、さっさと消えてくださいなのです。でないと、強制転移させるのです」
「みー様の角のリボン。それにコウさんの、三角帽子の幸運の鳥は、リシェの贈り物ですか? 見たところ付与魔法が掛けられているようですし、お気に入りのようですね。……ん? これは、もしかして『保護』ではなく『凍結』、いえ、まさか『時降』!?」
「意地悪な人には教えてあげないのです。竜に喰われろ、なのです」
「おや、みー様、どうしました?」
「無職の人がリシェさんと同じ臭いをさせてるので、警戒してるのです」
……これは、コウさんと兄さんは仲良しなのだろうか。
コウさんがこんなにもずけずけと物を言っているのを見るのは、初めてかもしれない。兄さんの懐の深さがそうさせるのだろうか。見習ったほうがいいのか、判断の難しいところだ。
はぁ、まったくもう、人がしんみりしていたというのに、お構いなく騒いでくれる人たちである。
一触竜発の二人の間で、みーが真剣な顔をしていた。
確かに、コウさんが言うように警戒しているように見えなくもないが、少し違うような。
「むーう、ふところに、いちもつありなのだー!」
びしっ、と兄さんに向けて指を差すみー。
なぜか慌てふためくコウさんが小声でみーに注意をしていた。といっても、何がいけないのか、みーには伝わっていないようだったが。
「ほほう、さすがみー様。その竜鼻、御見それいたしました」
兄さんは歩を進めて、やおら両手を懐に差し込むと、ばっと両手を広げた。
「ふぁはぁゃ~っ!?」
兄さんの、すべての指の間に挟まっている物を見て、早く頂戴とばかりに手足をばたばたさせる。
兄さんは、慌てず急がず、みーの若草色の外套を掴んで膝の上を覆うと、その上に右手に挟んでいたお菓子をぼとぼとと落とした。
「草の海の周辺で買ってきたお菓子なので、見たことのない物ばかりでしょう?」
膝の上のお菓子に目を輝かせていたみーの視線が、然もありなん、つつつっ、と残りのお菓子を射程に収める。
兄さんは、魔法のように右手にお菓子を取り出すと、みーのお口に、ぽすっと突っ込んだ。そしてみーが、あむあむする間に、ふよふよの炎髪を撫で回す。
「ふむふむ、触り心地良さそうだと思っていましたが、これは癖になりそうですね。さて、こちらの角の感触も確かめさせて頂きましょう」
みーが食べ終わった瞬間、兄さんは左手のお菓子を投入。言葉通りに、みーがお菓子に気を取られている内に、二本の角を触り捲りながら矯めつ眇めつしていた。
猛烈に羨ましい。
僕が未だに、みーの頭を撫でる、という悲願を達成していないというのに、さすがは兄さんである、こんなにも簡単に事案が発生。
「お菓子と物々交換ということで、この魔法球は頂いていきますね。これは『飛翔』と『隠蔽』でしょうか?」
「……その通りなのです。ニーウさんの魔力操作能力なら、草の海を越えるまで持つのです。魔法球の魔力が切れたら壊れてしまうので、最後は低空を飛んでくださいなのです」
「了解。では、リシェ。残りの三つは、行き掛けに話そうか。コウさん、リシェをくれぐれもよろしくお願いします。エンさん、大人しく聞いていてくれてありがとうございます。クーさん、これまでのように文を送るので、楽しみにしていてください」
「竜に百回振り回されて、体中の毛が逆立つといいのです」
「んな長話ん、口突っ込めるわきゃねーだろ。そーさなぁ、竜ん百回、ぶるんぶるんされて、こむら返っちまいやがれ」
「……うー、竜にぷしぷしっ、ぷしゅーっ!」
兄さんは、ずいぶん氷焔に馴染んでいるようだ。そして、いつもの饒舌はどこへやら、クーさんが幼い子供のような、可愛いのか小生意気なのか判断の分かれる真情の発露、これは退行なのだろうか?
クーさんの反応を見る限り、完全な脈なしではないと思うのだが。兄さんが梃子摺っている相手である、異性に疎い自覚がある僕がおいそれと判断を下すのは早計というものだろう。
コウさんとエンさんの表情から察するに、寝た竜を起こすな、ということらしいが。
さらりと、或いはざらりと別れを済ませて、兄さんが氷焔に背を向ける。
僕は、慌てて兄さんの横に並ぶ。すると、僕たちの後ろに足音が近付いて来て。
「あっと、付いて来るのかい、カレン」
「歯止めとして、付いていきます」
「信用ないね、僕は」
「アルンさんの能力は信頼しても、性格は信用しません」
「不思議だね。僕とカレンの関係は薄いのに、見抜かれてしまう」
「あなたが、ランル・リシェの兄だからです」
緊迫した遣り取りではないものの、何だろう、炎竜氷竜の仲というやつだろうか。
翠緑宮の表口に向かって歩きながら、兄さんは軽い調子で続ける。
「二つ目は、これは確認だけで済むだろうね。どうだい、リシェ? 今でも里で習ったことを一々思い出したりしているかな?」
「ーーえっと、そういえば、竜の国を造り始めてから、思い出す、というか、特段参考にすることとか少なくなったかも」
思い返してみると、ここ何巡りかで里の教えを意識した覚えがない。
「それは、自分で物事を考えるようになったからだね。習ったものは、下地に過ぎない。いつでも必要なものは、その先にある。そこに手を伸ばせば、自然とそうなってゆく。リシェが正しく成長しているようで、兄は満足。ということで、三つ目」
んふふー、と満足気に相好を崩す兄さんの顔は、どこかスナと似ていた。裏表なく、僕のことを想ってくれている。それが擽ったくて、やわらかで。僕も、誰かにとっての、そんな存在になれるだろうか。などと思ってしまう。
「リシェは、将来、僕の手伝いをしてくれるつもりだった?」
「はい。兄さんの恩に報いる為にも、経験を積んで、いつか兄さんの役に立てればいいな、と思っていました」
「うん、問題はそこ。僕の助けになろうとしてくれる、その気持ちは嬉しい。だけど、その為に自分を犠牲にしてないかい? 遊んでいる暇があるなら経験を積む、楽しむことをせず真剣に取り組む、役に立たないことは身に付けない、ーー自分ではそのつもりはないかもしれないけど、そんな風に自分を縛っていないと、断言できるかな?」
「それは……」
兄さんの言葉が、見えない、見ないようにしていた場所を、どこまでも滑り落ちてゆく。
気付いてみれば、逃げ場なんてどこにもない。否応なく、僕の心を粟立たせる。
ーー図星だった。
兄さんの助けになりたい。それが、里を出たとき僕が選んだ道だった。でも、それが叶うのはずっと先の話で、僕は自分の為に自由に選択していると思っていた。
そうして、誤魔化していたのかもしれない。僕が望んだこと。それは願いであると同時に、重荷だった。兄さんの助けになるには、相応の力が必要だ。知らず知らず、僕は追い詰められていたのかもしれない。
「リシェなら、わかるはずだよ。僕の望みは、僕の為にリシェが犠牲になることじゃない。リシェが自分の望みを叶える為に、自由に生きてくれること。その先に、僕と交わる道があるのなら、それはきっと、本当の意味で僕たちの夢が叶ったことの証しだと信じている」
一階へ下りる階段。下ってしまえば、表口までもう少し。
「そうだね。リシェがリシェらしく生きる、その為に、先ず恋でもしてみたらどうかな?」
「……こい?」
こい、という言葉が、頭の中できちんと変換されなかった。
来い? 濃い? 故意?
「つまり、好きな人でも出来れば、世の中変わって見えることもあるだろう、ってね」
こういう甘ったるい話が苦手なのだろうか、カレンが余所余所しい態度で、我関せず、を決め込んでいた。
僕は、どうなのだろう、恋、とかいうあやふやなものは、心にすとんっと落ちてこない。愛情とは似て非なる、焦がれるようなもの……なのだろうか?
「ん~、正直、実感が湧きません。スナ……あ、えっと、恋情ではないけど、割りかし近いの、かな? ……そうですね、兄さんが結婚したら、真剣に考えることにします」
「あっと、これは失敗したかな。僕は、クルさんよりも自分の夢を優先させてしまったからね。人に偉そうに言える立場じゃないので、肩身が狭い。ーーにしても、さてふむさてふむ、いつの間にやらリシェにもそんな感じの人が出来たのかな? いい傾向だね。カレンも負けてられないね」
「へ?」
「ーーっ?!」
揶揄したのは兄さんなのに、何故カレンは僕を睨んでいるのだろう。しかも、これは殺意?
いや、もっと何かどろどろしたもので。って、あの、カレン? 凄く怖いんですけど。
うっかりスナの名前を口にしてしまった。とはいえ、それだけでは、然しもの兄さんでも、氷竜のことだとわからないだろう。
兄さんになら言っても良さそうだが、というか、言ってしまいたい。秘密の共有とか合い言葉とか、昔を思い出して、懐かしさに浸りたい気分になってしまう。
もう子供ではないと思っていたが、僕の中にもまだまだ人に甘えたいという気持ちがあるようだ。
「ということで、話を逸らす為に、四つ目。コウさんはいい娘だけど、とても危険な存在だ」
「えっと、それはわかってーー」
「否、わかっていない。本来なら、無理やりにでも引き離しているところだ」
「兄さん……?」
手の包帯を見られて、思わず隠してしまう。まるでこの傷が、兄さんの言葉を肯定するものだと認めてしまったかのように。
僕の言葉を否定した兄さんは、更に強く拒絶の言葉を継いでゆく。
「僕にはわかる。リシェは優しい。この先、どれほどの傷を負うだろう。下手をすれば、命を失うことすらある。汚泥に塗れて、二度と立ち上がれなくなるかもしれない。
だから、リシェに命令する。竜の国の侍従長を辞し、エタルキアで国を興す僕の手伝いをしてくれ。僕は、あの娘の近くにリシェが居ることを許せそうにない」
兄さんは、僕だけを見ていた。他の誰でもなく、僕のことを。僕の行く先だけを。
聞く者が聞けば、余りに独善的で、それでいて純粋な。これが、兄さんの本心なのだろう。そして、僕に自由に生きて欲しいと願ってくれているのも本当のこと。
矛盾しているとわかっていても、兄さんは包み隠さず、心の内を赤裸々に語ってくれる。
コウさんに関して、兄さんは僕以上に何かが見えている。
僕は、コウさんに竜の国という選択肢を差し出したが、この道の帰結を見通しているかもしれない兄さんなら、彼女の道を閉ざしていただろう。
漠然としているが、今ならそれがわかる。
これまでなら、兄さんが正しいと、信じて疑わなかった。でも、それではいけないと、兄さん自身が教えてくれた。そういえば、スナも僕に統治者としての肝要の一つを教授してくれた。やっぱり僕は、然く危なっかしく見えてしまうのだろうか。
ーー僕に出来るのは、嘘偽りのない答えを返す、ただそれだけ。
「ありがとう。兄さん」
この言葉以上に、僕の、今の気持ちを表すものはなかった。
真っ直ぐに答えた僕を認めてくれたのだろうか。巨岩の横を通り過ぎて、到頭空が見えるところまで辿り着いてしまうと、昔と同じように褒めてくれる。
「兄さん、僕はもう子供ではありませんよ」
「残念ながら、その意見は受け容れられないな。兄には、弟を可愛がる特権があるからね」
昔、兄さんの手は、魔法の手だと思っていた。
いや、魔法の手だったのだ。頭を撫でられるだけで、すべてが満たされていた。そして、兄さんの手で、魔法は解かれた。
「「ーーーー」」
別れの言葉はいらない。
道は交わるかもしれないし、生涯違えることになるかもしれない。最後に、一つ頷いて、兄さんは「飛翔」で飛び立っていった。
「隠蔽」で兄さんの姿が見えないらしいカレンが、いつまでも空を見上げている僕に、こちらを見ながら目だけを逸らすという、何かを期待しているような、見たいのに見たくないような、不可思議な態度で忠告してくれる。
躊躇いながら、口を手で隠して、心做し薄っすらと頬を染めて。
「あの、その、ランル・リシェ? 実は、異性よりも同性のほうが好きだとか、そういうこととかあったりするのかしら? 人の嗜好について、とやかく言うつもりはないのだけれど、愛情と恋情は似ているようで違うのだから、その辺りを気にしたほうが、ね?」
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