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第二章 王女の来訪

第五話 勇者と王女

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 その後、メアリー・アンと名乗った少女の後ろに控えていた背の高い男が、ニコとハロルドの前にすっと足を進めた。
 男曰く、彼女は本当にこの王国の第二王女で勇者ハロルドに会うために、王都から遥々旅をしてきたらしい。男は王女の護衛で、王国の近衛騎士であるという。

 ハロルドの依頼を受けて、ニコの居場所を突き止めたのは他でもない王だ。その娘である王女であれば、確かにニコと一緒にいるハロルドにも辿り着けるだろう。
 しかし、相手は王女である。王女がこんな田舎まで足を運ぶなど正気の沙汰ではない。

 しかも男の他に王女の同行者はいなかった。第二王女殿下が侍女も連れずに、騎士をひとりだけ伴ってこんな田舎くんだりまでわざわざ足を運んだというのだ。それはもちろん、旅行がしたいとか田舎の空気を吸いたいとか、そういう余暇を楽しむためのものではなかった。
 まだ幼い王女が勇者に会いたかった理由。それは――。

「わたくしと結婚してくださいませ、ハロルド様」

 森の小屋の古い椅子に腰かけて、メアリー・アンは言った。手元にはニコが入れた薬草茶があって、彼女はそれを躊躇いもなく一口飲んで微かに眉根を寄せた。あの薬草茶は確かに少々苦い。
 あれから、ニコとハロルドはメアリー・アンを連れて慌てて小屋に戻った。
 城で大勢の侍女に傅かれているはずの王女殿下が、なぜこんな王都から遠く離れた辺境の田舎村にいるのか。事情を聴くにしても、村人たちには聞かれない方がいいと判断したのだ。

 王女は意外なことに森の中の悪路を歩くときも、古くて狭い小屋の中に招いたときも嫌な顔ひとつしなかった。今座っている椅子に腰かけるときだけ、座っても大丈夫かしら、という様子で首を傾げていたが、それだけだ。
 護衛騎士は入り口のそばで立ったまま、待機の姿勢を取っている。
 見慣れた小屋の中にきらきらとした美少女がちょこんと腰かけている様子は、大きな違和感があった。しかし、それ以上にメアリー・アンの言葉にニコとハロルドは驚きの声を上げた。

「結婚?」

 そう言えば、以前村で聞いた噂話の中に勇者と王女の婚約の話があった気がする。
 ハロルドの方を見て視線だけで問えば、当のハロルドこそ意味が分からないといった顔をした。

「えーっと、王女殿下」
「なにかしら」
「貴女はハロルドのことが好きなのですか?」

 よくあるお伽噺のよくある結末に、功績を上げた英雄がその国の姫君と結婚するというものがある。元々、お互い恋仲であることもあれば、英雄か姫君のどちらかが相手に思いを寄せているという筋書きも見たことがあった。
 世界を救った勇者に幼い姫君が恋をする。――まぁ、それも物語ではよくあることのように思える。しかし――。

「いいえ」

 メアリー・アンはニコの問いをあっさりと否定した。その答えに、ニコ自身もでしょうね、と思わざるを得ない。
 何故ならば、メアリー・アンのハロルドを見る目に一切の感情がなかったからだ。
 美しい薄青の瞳は冷たく澄んでいて、決して恋い慕う相手を見る目ではない。むしろ、路傍に咲く花を見たときの方がよっぽど温もりがあるのではないか、と思うくらい温度がなかった。
 困惑するニコとハロルドを見て、メアリー・アンは口を開く。

「父王陛下の命令なのです。わたくしがハロルド様と婚姻を結べば、ハロルド様は王家の一員になります。そうすれば我が王国も安泰だと」
「えぇ……」
「あのクソ国王……」

 メアリー・アンの言葉に、ハロルドが唸るように言った。何度も言うが、ハロルドは国王が嫌いで、数々の王命を無視してニコの元に来たのだ。
 国王の名が出たことで一気に機嫌が悪くなったハロルドだったが、しかし、国王の言うことももっともだとニコは思った。

 魔王を倒した光の勇者ハロルドは、現在、世界最強の剣士であり魔術師だ。彼の力は一騎当千どころではなく、その気になれば小国くらいなら一夜で落としてしまえるだろう。
 その戦力が王家に仇なすのを防ぎ、王国内に留めおくには、爵位を与えるか王家の誰かと婚姻を結んでしまうのが手っ取り早い。

 しかし、目の前にいるのはまだ乙女と言うには随分と早い少女だった。
 ニコの古い記憶では、確か第二王女はまだ十を少し越えたくらいの歳ではなかっただろうか。六年前、ニコが王城を離れる際垣間見た第二王女は、乳母に抱きかかえられていた幼女でしかなかった。

「王女殿下、失礼ですがおいくつになられますか」
「先日、十一になりました」
「うわ……」

 十一、とその答えを反芻し、ニコはその幼さに嘆息する。けれども、王侯貴族の政略結婚としてはあり得ない話ではない。

 ――十九歳のハロルドと十一歳のメアリー・アン。

 今はまだ幼いメアリー・アンであるが、彼女だっていつまででも子どもというわけではない。あと五年もすればメアリー・アンは美しく成長し、ハロルドの隣に立つのにふさわしい乙女になることだろう。
 そうなれば、きっと魔術も使えない上に火傷だらけでしなびたおじさんであるニコなんかよりも、よほど勇者の伴侶として相応しいはずだ。
 そのことに思い当たって、ニコは口を噤んだ。これまでハロルドの幸せを第一に考えてきたニコだったが、これは何を選ぶのが正解なのだろうか。

「ニコ」

 そんなニコの迷いを見透かしたのか。ハロルドがひどく硬い声でニコの名前を呼ぶ。同時に左手を握りしめられて、微かに心臓が跳ねた。

「お断りします」

 はっきりとハロルドは言った。迷いなど欠片もないそれは、メアリー・アンへの明確な拒絶だった。ニコがハロルドを見ると、精悍な横顔が真っ直ぐにメアリー・アンを見ていた。

「どうしてでしょうか」

 メアリー・アンは顔色ひとつ変えずに、ハロルドに訊ねる。

「もう結婚しているからです。俺の隣にいるが、伴侶のニコだ」
「伴侶?」

 それまで平然とした様子だったメアリー・アンが、ハロルドの答えを聞いて目を見開いた。
 ニコのことはハロルドの雇った使用人とでも思っていたのだろうか。それとも眼中になかったのか。それまでまったくの無関心だったニコに対して、メアリー・アンは初めて意識を裂いてこちらを見た。

「……どうも」
「貴方が、ハロルド様の?」
「まぁ、そうですね。この森で薬師をしています。ニコです」

 未だニコに実感はないが、王国の慣習に則り判断すれば間違いなくハロルドはニコの夫で、ニコもまたハロルドの夫である。どうぞよろしく、と頭を下げたニコの返事を聞いて、メアリー・アンは驚いたように微かに目を見開いた。薄青の瞳がニコを映し、微かに揺れる。
 しかし、一瞬見せた迷いはすぐになくなって、そして、彼女はきっぱりと言った。

「では、すぐに離縁してくださいませ」
「――は」

 一瞬、ニコは何を言われたのか分からなかった。
 メアリー・アンが使っているのは、王侯貴族が使う洗練された大陸共通語だ。ニコが普段読んでいる魔術書の古語ではないし、遥か遠い異国の言葉ではない。当然、その言葉は「音」としてニコの耳に届いているのに、どうにも意味が理解出来ない。しかし、驚きは少し遅れてやって来た。

「貴方は魔王が倒されて世界が平和になって、この国が今どのような状況なのか、ご存じかしら」

 小首を傾げたメアリー・アンの問いに、ハロルドは眉根を寄せつつ答える。

「魔族という共通の敵がいなくなり、人間同士で小競り合いをし始めたことは知っています。魔族の被害を受けていた北方の貧しい国は南の豊かな国から富を奪おうと挙兵し、この数か月でいくつもの戦争が勃発している」
「そのとおりです。ハロルド様はこの世界で最も強いお方です。そのようなお方を他国が放っておくというのは考えにくいのです。ですから、父王陛下はハロルド様を王家に迎え入れ、王国の防衛の要にしたいとお考えです」

 背筋を伸ばし、メアリー・アンは凛としたままで続ける。
 それは、よくある政略結婚なのだろう。ハロルドとメアリー・アンの意思とは関係なしに、悪化していく国際情勢を乗り切るために国王は実の娘に勇者との結婚を命じたのだ。

 大陸には大小さまざまな国家がひしめいている。その中でも北にある魔域と直接国境を接していた北方諸国は、魔族の侵略から自国を守るために巨大な軍事力を有している。しかし、その反面長引く戦争で疲弊し、貧しい国々が多かった。

 おまけに北方諸国は魔域から流れてくる瘴気の影響で土地が瘦せていて、十分な作物が育たない。気候は厳しく、瘴気障害もあるという幾重にも苦難が重なった土地柄だった。
 しかし、それとは反対に南方の国々は豊かだ。北方とは違い、魔族に襲われることもなく、豊かな土地でその繁栄を謳歌することが出来たからだ。

 瘴気の影響のない温暖な気候な上に、海に面した地形は貿易にも適している。農業や商業が盛んで、大陸中から様々な物資が集まってくるのだ。ニコは行ったことはなかったが、南方の国々はまるで天国のように美しいと聞く。
 しかしこれは、言い換えると南方の国々は北方諸国という対魔族用の盾を利用して栄えたということになる。魔族との戦いが終息した今、北方諸国がその軍事力を南部に向けるのは必然のようなものだった。


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