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番外編
とある王太子の運命 5
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十年前、大好きだった兄はその性別がオメガであることを理由に廃嫡された。
――シュテルンリヒトではオメガでは王にはなれない。
それは国法で決められたもので、確かに兄を愛していた両親にもどうすることも出来ないことだった。
だからこそ、まだ幼いルードヴィヒが王太子になった。けれど、それは己の能力で選ばれたわけではなかった。むしろ、性格的には呑気で楽観的な自分よりも思慮深く怜悧な兄の方が負うには向いていたと思う。そんな幼いルードヴィヒにすら分かることが、この国の上層部には分からなかったのだ。
それにルードヴィヒにはもうひとつ分かっていることがあった。
それは、ルードヴィヒが兄と同じようにオメガであったならば、きっとルードヴィヒ自身も簡単に切り捨てられるだろうということだ。あれだけ優秀だった兄ですら、オメガであるというだけであっさりと廃嫡されたのだ。凡庸な自分ではなおさらだろう。
十二歳で行われた二次性の判定で、水盤は金色に輝いた。そのときの両親のひどく安堵した表情をルードヴィヒは忘れることが出来なかった。
幼い頃、ルードヴィヒは兄のいる玻璃宮に行くのが好きだった。
オメガのために用意されたあの離宮には、アルファの両親は足を踏み入れることが出来ない。だから、まだ二次性が不明だったルードヴィヒが兄の元に足繁く通った。周囲の者はいい顔はしなかったけれど、兄と兄の侍従たちは喜んでくれたから。
ルードヴィヒは優しい人たちばかりの玻璃宮が大好きだった。けれども、同時にあそこはひどく悲しい場所だとも思っていた。
美しく、温かい部屋の中に閉じ込められた兄は、外にいたときと何も変わらなかった。変わらず勉強に励み、学園も優秀な成績で卒業して、いくつも魔法使いとしての資格を取っていた。
それが兄の王子としての精一杯の矜持だったのだと気づいたのは、彼が砂漠の国ハディールに嫁いだ後のことだ。
兄はオメガだと判明した瞬間から他国に嫁ぐことが決まっていた。シュテルンリヒトでオメガの存在意義など、アルファの子を産むことだけだから、拒否することは出来なかったのだろう。
本来であれば、その時点で兄が学園に通う必要も資格を取る意味もなかった。使う予定のない魔法使いとしての技術や知識を兄が必死に求めたのは、きっと彼なりの必死の抵抗だったのだ。
この国はオメガにとってひどく生きにくい国だと思う。
それに、オメガを家族に持つ者たちにとっても辛い国だ。
幼い頃はよく玻璃宮に足を運んでいたルードヴィヒであったが、十二歳でアルファだと判定を受けてからは、近寄ることすら許されなくなった。慣習で言えば、成人前であれば正規の手順を踏み、申請さえすれば兄に会えるはずだった。それなのにオメガを卑下する貴族たちの意向で、ルードヴィヒは兄と引き離されたのだ。
それは兄がシュテルンリヒトを発つときまで続き、今生の別れになるかもしれないというのにルードヴィヒは兄に最後の挨拶をすることすら出来なかった。
オメガというだけで、廃嫡され玻璃宮に閉じ込められた大好きだった兄をルードヴィヒは思った。
兄は強く、気高い人だった。その困難な立場に負けることなく、そのときの自分に出来ることを精一杯にやり遂げた人で、兄は最後まで自らの境遇に不平や不満を一言も漏らさなかった。
オメガというだけで、自分の婚約者になったリリエルのことを思う。
彼が何を望んでいるのかはルードヴィヒには分からない。けれども、昔のリリエルを思い返せば、全く笑わなくなった今の彼が決して幸せではないことだけは理解出来た。
そして、オメガというだけで教科書を燃やされたアデルを思った。
人の悪意に晒されることに慣れすぎていて、彼は怒ることすらしなかった。アデルは嫌がらせに負けないようにと背筋を伸ばし、前を向くことは止めないのに、この状況が異常であることには気づいていないのだ。ただ悪意を受け止め、しなやかに受け流している。
それでもアデルは、兄と同じように自分の未来を諦めてはいない。折れることなく、しっかりとその足でそこに立っているのだ。
そんな彼だからこそ、ルードヴィヒはアデルの力になりたいと強く思う。
「……施しなんてしない」
そんなことをしたら、ルードヴィヒは二度とアデルと対等にはなれない。
アデルもルードヴィヒのことをひどく軽蔑するだろう。
けれども、放っておくことも出来ないのだ。だから、とルードヴィヒはアデルを見つめる。
目の前にアデルがいる。逃げないでルードヴィヒの言葉に返事を返してくれる。
それだけで幸せな気持ちになるのは、彼が自分の運命の番だからだろうか。そう思って、すぐにいや、違うとルードヴィヒは自らの考えを否定する。
きっとルードヴィヒはアデルが運命でなくても、彼に恋をしたはずだ。
どんな逆境にも負けないアデルの強さが、ルードヴィヒには何よりも眩しかった。
「施しはしないが、その代わり、少しだけ手助けをさせて欲しい」
「手助け?」
ルードヴィヒの言葉が意外だったのか、それまでの拒絶を忘れたかのようにアデルは瞬いた。
「少し時間はかかるけど、君も納得するはずだ。それから、君は燃え残った教科書を持って生徒会に行くべきだ。これまでも決して見過ごしていいわけではなかったが、今回のことはやりすぎだ。きちんと対処しないと学園の風紀が乱れてしまう」
言えば、アデルは戸惑った様子で頷いた。
この学園の生徒会は、生徒たちの統率をとることを目的に作られている。
役員は生徒の投票で決まるが、結局のところその代にいる最も高位の貴族令息がなることが多い。今の生徒会長は確か侯爵家の息子でゲオルグの従兄だった。オメガにあまり偏見のない武人肌のアルファで、曲がったことが大嫌いな男だったはずだ。
彼に言えば、しっかりとした調査の上で該当の生徒には然るべき処罰を与えてくれるだろう。
生徒会に相談することにアデルは最後まで難色を示していた。
教科書が燃やされたことには困っているが、主犯の生徒に罰を与えるなんて考えていなかったようだった。けれども、この学園にいるオメガはアデルだけではない。平民は確かにアデルだけではあるが、下位貴族のオメガも幾人か在籍しているのだ。
このまま暴挙を許していれば、被害はアデルだけでは済まないかもしれない。
そう言い聞かせれば、アデルもその可能性に思い至ったのだろう。その足で生徒会室に行くというから、ルードヴィヒはその背中を見送った。
一緒に行けばまた何か余計な噂をたてられて、アデルに迷惑がかかるからだ。
アデルが人目も憚らずルードヴィヒの元に駆け込んで来たのは、教科書を燃やされた三日後のことだった。
「王太子殿下!」
「どうしたんだ、ヴァイツェン」
その勢いに驚いたのは、ルードヴィヒだけではないはずだ。
教室では決して目すら合わせなかったアデルが、いきなりルードヴィヒに詰め寄ったのだ。その礼儀も何もない態度に、ちょうど隣にいたアロイスがものすごい顔をしている。
それには敢えて気づかないふりをして、ルードヴィヒはアデルに向き直った。飛び込んで来たアデルは興奮しているのか、そのきらきらした瞳を逸らすことなくルードヴィヒに向けていた。
「ロートリヒト様に話を通してくれたのは、王太子殿下でしょう!」
弾むように言われて、彼の興奮の理由を理解した。
どうやら、ルードヴィヒの小さな企みは上手く行ったらしい。
「ああ、そのことか。確かに僕はいらない教科書を持っている上級生がいれば紹介してくれとは言ったな」
「ありがとうございます、おかげで何とかなりそうです」
「それはよかった。でも、無償というわけではなかったろう?」
代わりに何をすることになったのか、と問えばアデルは騎士団の鍛錬場の整備をひと月することになった、と答えた。
「それも朝一番で」
「はあ、それは大変そうだな」
「でもそれで教科書をもらえるので本当に助かりました。しかも、今回燃えた分だけではなく、二年次からのものも融通してくれるそうです」
朗らかに笑うアデルに、ルードヴィヒもつい頬を緩めてしまう。
ルードヴィヒが行ったのは、騎士候補生として上級生にも関わっているゲオルグに事情を話しただけのことだ。気のいいゲオルグはその話を聞いて、すぐさま知り合いの先輩たちに声をかけてくれた。
案の定、上級生には不要ではあるが捨てていない、という教科書を持っている者が多数いた。しかし、使い古したとはいえ教科書は高価なものである。アデルはそれを無償で譲り受けることはしないと踏んだルードヴィヒは予め手を打っていた。
教科書を譲るために、アデルに条件を出して欲しいと伝えていたのだ。
騎士団であれば雑用は山のようにある。本来であれば騎士候補生たちの仕事であるそれを行う代わりに教科書を得る。それは労働の対価として報酬を得るということだ。
ならば、きっとアデルも納得するとルードヴィヒは思ったのだ。
騎士団を総括している騎士団長にはルードヴィヒから話を通しておいた。
ゲオルグの実父である騎士団長――ロートリヒト公爵は困っている若者に手を差し伸べない男ではなかった。そういう事情であるならば、と快く許可をくれたので、今後アデルが上手く立ち回れば毎年騎士候補生の先輩たちに教科書を譲ってもらえるはずだ。
「僕はゲオルグに頼んだだけだ」
何でもないことだ、と言えばアデルはそれだけではない、と首を横に振った。
「これをくれたのは、殿下でしょう」
そう言ってアデルが見せたのは、確かにルードヴィヒがゲオルグに教科書に紛れ込ませて欲しいと頼んだ本だった。学園の教科書に比べれば随分と薄くて、けれども表紙には金の細工が付いている。
「これ、魔力操作の手順を書いた絵本ですよね」
「あー、まあそうだね。本棚の整理をしていたら見つけたから、よければとおもって。僕はもう使わないから」
アデルが持っているのは、彼の言うとおり、魔力操作の方法を詳しく記した幼児向けの絵本だ。貴族の子息たちはああいった本を使って、幼い頃から魔力操作を学ぶ。
成長しきったアデルにあの本が役に立つかは分からないけれど、魔力操作はその感覚を掴むことが重要なのだ。小難しい指南本よりも、ああいった絵本の方が分かりやすく、コツも掴み易い。
それにあれには基本的な生活魔法の種類と、その発動方法も記されている。装丁は貴族向けに無駄に豪華できらきらしいが、中身は真面目なものだ。
「僕の部屋の本棚がもういっぱいになってしまってな。いらない本を捨てろと侍従に怒られたんだ。それもヴァイツェンがもらってくれると助かるんだが」
嘘である。
確かにルードヴィヒの部屋の本棚は多種多様な本で埋め尽くされているが、まだまだ余裕はあるし、本当にいっぱいになってしまえば王宮の図書室に移動させればいいだけの話だ。
そのことを知っているアロイスは、やっぱりよく分からない顔をしてルードヴィヒを見た。それからアデルを見て、眉根を寄せる。息子であるルードヴィヒよりもよほど母にそっくりな従兄弟が変な顔している。
けれども、そうでも言わないとアデルが受け取らないことをルードヴィヒは知っているのだ。案の定、アデルは迷ったような素振りを見せた。ルードヴィヒ――否、他者から何かをもらうことを嫌がっている。後で見返りを期待されることを警戒しているのだろうか。
「本当に、いらない本だから」
そう言えば、アデルはようやく小さく頷いてくれた。
そして最後に安堵したように微笑んだ。
――ありがとう。
本当に小さな声でそう呟いたアデルの言葉を、教室にいたどれほどの者が聞き取れただろうか。それは分からないけれど、そのときのアデルの愛らしさを目にしたものは多かったはずだ。
それまで一切笑顔を見せることなく、不愛想を貫いてきたアデル・ヴァイツェンの微笑みはとんでもない破壊力だった。
これまでしつこく彼に構ってきたルードヴィヒですら初めて見たアデルの笑顔に、しばらく動くことが出来なかった。出会ったときと同じように雷に打たれたような衝撃で、身体中の魔力回路が馬鹿になってしまったのだ。
それは間違いなく恋だった。
きっと生涯でたった一度だけの恋だ。
決して叶わないことを知っているから、ルードヴィヒはその恋をそっと胸に秘めることにした。
ルードヴィヒにとってアデルは間違いなく運命の相手だ。けれど、アデルにとって自分はそうでなくて構わなかった。
結ばれない相手であることは分かっていた。だから、自分以外の誰かとまた巡りあって欲しいと思った。
ルードヴィヒがアデルに望むのはたったひとつ。
――願わくば、アデル・ヴァイツェンが幸せでありますように。
これが、王太子ルードヴィヒ・クライス・シュテルンリヒトが自分の運命に出会った瞬間の話だ。
――シュテルンリヒトではオメガでは王にはなれない。
それは国法で決められたもので、確かに兄を愛していた両親にもどうすることも出来ないことだった。
だからこそ、まだ幼いルードヴィヒが王太子になった。けれど、それは己の能力で選ばれたわけではなかった。むしろ、性格的には呑気で楽観的な自分よりも思慮深く怜悧な兄の方が負うには向いていたと思う。そんな幼いルードヴィヒにすら分かることが、この国の上層部には分からなかったのだ。
それにルードヴィヒにはもうひとつ分かっていることがあった。
それは、ルードヴィヒが兄と同じようにオメガであったならば、きっとルードヴィヒ自身も簡単に切り捨てられるだろうということだ。あれだけ優秀だった兄ですら、オメガであるというだけであっさりと廃嫡されたのだ。凡庸な自分ではなおさらだろう。
十二歳で行われた二次性の判定で、水盤は金色に輝いた。そのときの両親のひどく安堵した表情をルードヴィヒは忘れることが出来なかった。
幼い頃、ルードヴィヒは兄のいる玻璃宮に行くのが好きだった。
オメガのために用意されたあの離宮には、アルファの両親は足を踏み入れることが出来ない。だから、まだ二次性が不明だったルードヴィヒが兄の元に足繁く通った。周囲の者はいい顔はしなかったけれど、兄と兄の侍従たちは喜んでくれたから。
ルードヴィヒは優しい人たちばかりの玻璃宮が大好きだった。けれども、同時にあそこはひどく悲しい場所だとも思っていた。
美しく、温かい部屋の中に閉じ込められた兄は、外にいたときと何も変わらなかった。変わらず勉強に励み、学園も優秀な成績で卒業して、いくつも魔法使いとしての資格を取っていた。
それが兄の王子としての精一杯の矜持だったのだと気づいたのは、彼が砂漠の国ハディールに嫁いだ後のことだ。
兄はオメガだと判明した瞬間から他国に嫁ぐことが決まっていた。シュテルンリヒトでオメガの存在意義など、アルファの子を産むことだけだから、拒否することは出来なかったのだろう。
本来であれば、その時点で兄が学園に通う必要も資格を取る意味もなかった。使う予定のない魔法使いとしての技術や知識を兄が必死に求めたのは、きっと彼なりの必死の抵抗だったのだ。
この国はオメガにとってひどく生きにくい国だと思う。
それに、オメガを家族に持つ者たちにとっても辛い国だ。
幼い頃はよく玻璃宮に足を運んでいたルードヴィヒであったが、十二歳でアルファだと判定を受けてからは、近寄ることすら許されなくなった。慣習で言えば、成人前であれば正規の手順を踏み、申請さえすれば兄に会えるはずだった。それなのにオメガを卑下する貴族たちの意向で、ルードヴィヒは兄と引き離されたのだ。
それは兄がシュテルンリヒトを発つときまで続き、今生の別れになるかもしれないというのにルードヴィヒは兄に最後の挨拶をすることすら出来なかった。
オメガというだけで、廃嫡され玻璃宮に閉じ込められた大好きだった兄をルードヴィヒは思った。
兄は強く、気高い人だった。その困難な立場に負けることなく、そのときの自分に出来ることを精一杯にやり遂げた人で、兄は最後まで自らの境遇に不平や不満を一言も漏らさなかった。
オメガというだけで、自分の婚約者になったリリエルのことを思う。
彼が何を望んでいるのかはルードヴィヒには分からない。けれども、昔のリリエルを思い返せば、全く笑わなくなった今の彼が決して幸せではないことだけは理解出来た。
そして、オメガというだけで教科書を燃やされたアデルを思った。
人の悪意に晒されることに慣れすぎていて、彼は怒ることすらしなかった。アデルは嫌がらせに負けないようにと背筋を伸ばし、前を向くことは止めないのに、この状況が異常であることには気づいていないのだ。ただ悪意を受け止め、しなやかに受け流している。
それでもアデルは、兄と同じように自分の未来を諦めてはいない。折れることなく、しっかりとその足でそこに立っているのだ。
そんな彼だからこそ、ルードヴィヒはアデルの力になりたいと強く思う。
「……施しなんてしない」
そんなことをしたら、ルードヴィヒは二度とアデルと対等にはなれない。
アデルもルードヴィヒのことをひどく軽蔑するだろう。
けれども、放っておくことも出来ないのだ。だから、とルードヴィヒはアデルを見つめる。
目の前にアデルがいる。逃げないでルードヴィヒの言葉に返事を返してくれる。
それだけで幸せな気持ちになるのは、彼が自分の運命の番だからだろうか。そう思って、すぐにいや、違うとルードヴィヒは自らの考えを否定する。
きっとルードヴィヒはアデルが運命でなくても、彼に恋をしたはずだ。
どんな逆境にも負けないアデルの強さが、ルードヴィヒには何よりも眩しかった。
「施しはしないが、その代わり、少しだけ手助けをさせて欲しい」
「手助け?」
ルードヴィヒの言葉が意外だったのか、それまでの拒絶を忘れたかのようにアデルは瞬いた。
「少し時間はかかるけど、君も納得するはずだ。それから、君は燃え残った教科書を持って生徒会に行くべきだ。これまでも決して見過ごしていいわけではなかったが、今回のことはやりすぎだ。きちんと対処しないと学園の風紀が乱れてしまう」
言えば、アデルは戸惑った様子で頷いた。
この学園の生徒会は、生徒たちの統率をとることを目的に作られている。
役員は生徒の投票で決まるが、結局のところその代にいる最も高位の貴族令息がなることが多い。今の生徒会長は確か侯爵家の息子でゲオルグの従兄だった。オメガにあまり偏見のない武人肌のアルファで、曲がったことが大嫌いな男だったはずだ。
彼に言えば、しっかりとした調査の上で該当の生徒には然るべき処罰を与えてくれるだろう。
生徒会に相談することにアデルは最後まで難色を示していた。
教科書が燃やされたことには困っているが、主犯の生徒に罰を与えるなんて考えていなかったようだった。けれども、この学園にいるオメガはアデルだけではない。平民は確かにアデルだけではあるが、下位貴族のオメガも幾人か在籍しているのだ。
このまま暴挙を許していれば、被害はアデルだけでは済まないかもしれない。
そう言い聞かせれば、アデルもその可能性に思い至ったのだろう。その足で生徒会室に行くというから、ルードヴィヒはその背中を見送った。
一緒に行けばまた何か余計な噂をたてられて、アデルに迷惑がかかるからだ。
アデルが人目も憚らずルードヴィヒの元に駆け込んで来たのは、教科書を燃やされた三日後のことだった。
「王太子殿下!」
「どうしたんだ、ヴァイツェン」
その勢いに驚いたのは、ルードヴィヒだけではないはずだ。
教室では決して目すら合わせなかったアデルが、いきなりルードヴィヒに詰め寄ったのだ。その礼儀も何もない態度に、ちょうど隣にいたアロイスがものすごい顔をしている。
それには敢えて気づかないふりをして、ルードヴィヒはアデルに向き直った。飛び込んで来たアデルは興奮しているのか、そのきらきらした瞳を逸らすことなくルードヴィヒに向けていた。
「ロートリヒト様に話を通してくれたのは、王太子殿下でしょう!」
弾むように言われて、彼の興奮の理由を理解した。
どうやら、ルードヴィヒの小さな企みは上手く行ったらしい。
「ああ、そのことか。確かに僕はいらない教科書を持っている上級生がいれば紹介してくれとは言ったな」
「ありがとうございます、おかげで何とかなりそうです」
「それはよかった。でも、無償というわけではなかったろう?」
代わりに何をすることになったのか、と問えばアデルは騎士団の鍛錬場の整備をひと月することになった、と答えた。
「それも朝一番で」
「はあ、それは大変そうだな」
「でもそれで教科書をもらえるので本当に助かりました。しかも、今回燃えた分だけではなく、二年次からのものも融通してくれるそうです」
朗らかに笑うアデルに、ルードヴィヒもつい頬を緩めてしまう。
ルードヴィヒが行ったのは、騎士候補生として上級生にも関わっているゲオルグに事情を話しただけのことだ。気のいいゲオルグはその話を聞いて、すぐさま知り合いの先輩たちに声をかけてくれた。
案の定、上級生には不要ではあるが捨てていない、という教科書を持っている者が多数いた。しかし、使い古したとはいえ教科書は高価なものである。アデルはそれを無償で譲り受けることはしないと踏んだルードヴィヒは予め手を打っていた。
教科書を譲るために、アデルに条件を出して欲しいと伝えていたのだ。
騎士団であれば雑用は山のようにある。本来であれば騎士候補生たちの仕事であるそれを行う代わりに教科書を得る。それは労働の対価として報酬を得るということだ。
ならば、きっとアデルも納得するとルードヴィヒは思ったのだ。
騎士団を総括している騎士団長にはルードヴィヒから話を通しておいた。
ゲオルグの実父である騎士団長――ロートリヒト公爵は困っている若者に手を差し伸べない男ではなかった。そういう事情であるならば、と快く許可をくれたので、今後アデルが上手く立ち回れば毎年騎士候補生の先輩たちに教科書を譲ってもらえるはずだ。
「僕はゲオルグに頼んだだけだ」
何でもないことだ、と言えばアデルはそれだけではない、と首を横に振った。
「これをくれたのは、殿下でしょう」
そう言ってアデルが見せたのは、確かにルードヴィヒがゲオルグに教科書に紛れ込ませて欲しいと頼んだ本だった。学園の教科書に比べれば随分と薄くて、けれども表紙には金の細工が付いている。
「これ、魔力操作の手順を書いた絵本ですよね」
「あー、まあそうだね。本棚の整理をしていたら見つけたから、よければとおもって。僕はもう使わないから」
アデルが持っているのは、彼の言うとおり、魔力操作の方法を詳しく記した幼児向けの絵本だ。貴族の子息たちはああいった本を使って、幼い頃から魔力操作を学ぶ。
成長しきったアデルにあの本が役に立つかは分からないけれど、魔力操作はその感覚を掴むことが重要なのだ。小難しい指南本よりも、ああいった絵本の方が分かりやすく、コツも掴み易い。
それにあれには基本的な生活魔法の種類と、その発動方法も記されている。装丁は貴族向けに無駄に豪華できらきらしいが、中身は真面目なものだ。
「僕の部屋の本棚がもういっぱいになってしまってな。いらない本を捨てろと侍従に怒られたんだ。それもヴァイツェンがもらってくれると助かるんだが」
嘘である。
確かにルードヴィヒの部屋の本棚は多種多様な本で埋め尽くされているが、まだまだ余裕はあるし、本当にいっぱいになってしまえば王宮の図書室に移動させればいいだけの話だ。
そのことを知っているアロイスは、やっぱりよく分からない顔をしてルードヴィヒを見た。それからアデルを見て、眉根を寄せる。息子であるルードヴィヒよりもよほど母にそっくりな従兄弟が変な顔している。
けれども、そうでも言わないとアデルが受け取らないことをルードヴィヒは知っているのだ。案の定、アデルは迷ったような素振りを見せた。ルードヴィヒ――否、他者から何かをもらうことを嫌がっている。後で見返りを期待されることを警戒しているのだろうか。
「本当に、いらない本だから」
そう言えば、アデルはようやく小さく頷いてくれた。
そして最後に安堵したように微笑んだ。
――ありがとう。
本当に小さな声でそう呟いたアデルの言葉を、教室にいたどれほどの者が聞き取れただろうか。それは分からないけれど、そのときのアデルの愛らしさを目にしたものは多かったはずだ。
それまで一切笑顔を見せることなく、不愛想を貫いてきたアデル・ヴァイツェンの微笑みはとんでもない破壊力だった。
これまでしつこく彼に構ってきたルードヴィヒですら初めて見たアデルの笑顔に、しばらく動くことが出来なかった。出会ったときと同じように雷に打たれたような衝撃で、身体中の魔力回路が馬鹿になってしまったのだ。
それは間違いなく恋だった。
きっと生涯でたった一度だけの恋だ。
決して叶わないことを知っているから、ルードヴィヒはその恋をそっと胸に秘めることにした。
ルードヴィヒにとってアデルは間違いなく運命の相手だ。けれど、アデルにとって自分はそうでなくて構わなかった。
結ばれない相手であることは分かっていた。だから、自分以外の誰かとまた巡りあって欲しいと思った。
ルードヴィヒがアデルに望むのはたったひとつ。
――願わくば、アデル・ヴァイツェンが幸せでありますように。
これが、王太子ルードヴィヒ・クライス・シュテルンリヒトが自分の運命に出会った瞬間の話だ。
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