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第十一話 国王の祈り
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アレクシスが産気づいたと連絡が来たのは深夜のことだった。
それも通常の分娩ではなく緊急事態だ、と慌てた様子の侍従が寝室に飛び込んできた。その報を聞いて、エドワードは眉根を寄せる。
アレクシスとはつい先ほどまで顔を合わせていたのだ。執務終わりに彼の私室に行き、しばらく一緒に過ごした。そのときは普段と変わらない様子で腹を撫でさせてくれたというのに。どういうことだ、と気色ばむエドワードに侍従は急いで妃殿下の元へ、と繰り返した。
慌ててアレクシスの私室に向かうと、そこは侍医や侍従、それから産婆が忙しそうに動き回っていた。
アレクシスの部屋はいつだって彼の甘い匂いで満ちていた。清潔で芳しいフェロモンと、飾られた花の香り。エドワードが好ましいと思っていたそれらが、今ではむせ返るような鉄錆の臭いに替わっている。
「アレクシスの容態はどうだ!?」
そして聞かされたのが、アレクシスが大出血をしたということだった。
部屋に満ちる血の生臭さに目に刺さるほどの鮮やかな赤。彼が寝ている寝台が真っ赤に染まっていた。
「アレクシス……ッ!」
エドワードは人垣をかき分けてアレクシスの元へ駆け寄った。だらりと力なく垂れていた白い手を取る。
「アレクシス!?」
必死に呼びかけるのに反応はない。アレクシスはぐったりと目を瞑ったまま動かなかった。
「どうなっている!?」
「それが突然出血されて……、先ほどまでは意識もおありだったのですが」
おろおろと答えたのはアレクシス付きの侍従だった。彼が言うにはアレクシス自ら呼び鈴を鳴らして異変を知らせたという。
しかし、今ではどれほど呼びかけようとアレクシスは反応しなかった。その間にもじわじわと広がっていく赤は、まるで彼の命がそのまま零れ落ちているようだ。
「アレクシス、アレクシス!」
細い手がどんどん冷たく、青くなっていく。それを必死で掴んでエドワードは願うように自らの額に押し付けた。
目の奥が熱くなって、喉が引き攣れるように痛い。
オメガや女性にとって妊娠と出産が命がけであることは理解していた。しかし、アレクシスはこれまでに五度も無事に子を産んでいたから、エドワードは油断していたのかもしれない。
明日もいつもと変わらない笑顔で自分を迎えてくれると勝手に思っていた。それが奇跡のような幸せだったのだ、とエドワードはこのときようやく気付いた。
こみ上げてくる後悔を抑えきれなくて、緑の瞳から一粒の涙が溢れる。そのときだった。
アレクシスの指先が微かにピクリと震えた。そしてひどく弱い力で握り返してくる。
「へいか……」
小さな声でアレクシスがエドワードを呼ぶ。それは吐息のように頼りなく、儚いものだった。しかし、アレクシスはまるで慰めるようにエドワードに応えてくれた。
「アレクシス、頼む。死なないでくれ。アレクシス!」
エドワードの願いはアレクシスまで届いたのだろうか。薄っすらと開いたはずの青い瞳はすぐに隠れてしまい、いくら呼びかけても再び開くことはなかった。
取り乱して声を荒げるエドワードは、侍医たちから退室を促された。もちろん、アレクシスの傍にいたかったが、暗に邪魔だから出ていけと言われてしまえば大人しく引き下がるしかなかった。
振り返ったときに見た鮮烈な赤が、エドワードの心に刺さったままいつまでも消えることはなかった。
そこからの数時間は王にとって長い長い時間だった。
アレクシスはそのまま出産することになり、自然分娩は危険だからと帝王切開となったという報告が届いた。エドワードは彼らの姿を見て、唇を噛んだ。報告に来る侍従たちは、国王の前だというのにみな一様に血塗れだったからだ。緊急事態すぎて服装を整える時間もなかったのだろう。
その血は間違いなく全てアレクシスの血だ。彼らの服はおろか、敷布まで真っ赤に染め上げていた。
(あんなに血を流して、人は生きられるものなのだろうか……)
ついそんなことを思ってしまって、息が詰まるほどの緊張と焦燥がエドワードを襲う。何もできない自分にこれほど苛立ったことはない。
別室に待機していると、何度もはにかむように笑うアレクシスの顔が脳裏に浮かんだ。その淡く儚い笑顔に胸が締め付けられるようだった。
ようやく、ああやって笑ってくれるようになったのに。ようやく、自分のことを話してくれるようになったのに。次の発情期で番になることを了承してくれたのに。
――もう二度とあの笑顔を見られないかもしれない。
その可能性に気づいてしまい、エドワードはぞわりと全身に鳥肌が立つのを感じた。
失ってしまうのだろうか、永遠に。
アレクシスを――。
これまで彼は、いつだってエドワードの傍にいてくれた。どれほど冷遇しても、顧みなくても、ただ黙ってそばにいてくれた。それは彼にとっては義務だったのかもしれない。しかし、だとしても二十年近い時間を全てエドワードに捧げてくれた。その献身にエドワードはつい最近ようやく気付いたところだった。
己の愚かさと未熟さを反省して、彼と新しい関係を築きたいと――いや、築いていこうとしていた矢先だったというのに。アレクシス自身がエドワードの手の中から零れ落ちようとしている。
彼の命を何とか繋ぎとめたくて、エドワードは必死に両手を握りしめる。
しかし今この時、エドワードに出来ることは何もなかった。出来るのはただ祈りながら待つことだけだ。
ただ願い続けて、どれほどの時間が経っただろうか。正確にはそう長い時間でもなかったかもしれない。しかし、エドワードには永遠にも近い時間に感じられた。
それも通常の分娩ではなく緊急事態だ、と慌てた様子の侍従が寝室に飛び込んできた。その報を聞いて、エドワードは眉根を寄せる。
アレクシスとはつい先ほどまで顔を合わせていたのだ。執務終わりに彼の私室に行き、しばらく一緒に過ごした。そのときは普段と変わらない様子で腹を撫でさせてくれたというのに。どういうことだ、と気色ばむエドワードに侍従は急いで妃殿下の元へ、と繰り返した。
慌ててアレクシスの私室に向かうと、そこは侍医や侍従、それから産婆が忙しそうに動き回っていた。
アレクシスの部屋はいつだって彼の甘い匂いで満ちていた。清潔で芳しいフェロモンと、飾られた花の香り。エドワードが好ましいと思っていたそれらが、今ではむせ返るような鉄錆の臭いに替わっている。
「アレクシスの容態はどうだ!?」
そして聞かされたのが、アレクシスが大出血をしたということだった。
部屋に満ちる血の生臭さに目に刺さるほどの鮮やかな赤。彼が寝ている寝台が真っ赤に染まっていた。
「アレクシス……ッ!」
エドワードは人垣をかき分けてアレクシスの元へ駆け寄った。だらりと力なく垂れていた白い手を取る。
「アレクシス!?」
必死に呼びかけるのに反応はない。アレクシスはぐったりと目を瞑ったまま動かなかった。
「どうなっている!?」
「それが突然出血されて……、先ほどまでは意識もおありだったのですが」
おろおろと答えたのはアレクシス付きの侍従だった。彼が言うにはアレクシス自ら呼び鈴を鳴らして異変を知らせたという。
しかし、今ではどれほど呼びかけようとアレクシスは反応しなかった。その間にもじわじわと広がっていく赤は、まるで彼の命がそのまま零れ落ちているようだ。
「アレクシス、アレクシス!」
細い手がどんどん冷たく、青くなっていく。それを必死で掴んでエドワードは願うように自らの額に押し付けた。
目の奥が熱くなって、喉が引き攣れるように痛い。
オメガや女性にとって妊娠と出産が命がけであることは理解していた。しかし、アレクシスはこれまでに五度も無事に子を産んでいたから、エドワードは油断していたのかもしれない。
明日もいつもと変わらない笑顔で自分を迎えてくれると勝手に思っていた。それが奇跡のような幸せだったのだ、とエドワードはこのときようやく気付いた。
こみ上げてくる後悔を抑えきれなくて、緑の瞳から一粒の涙が溢れる。そのときだった。
アレクシスの指先が微かにピクリと震えた。そしてひどく弱い力で握り返してくる。
「へいか……」
小さな声でアレクシスがエドワードを呼ぶ。それは吐息のように頼りなく、儚いものだった。しかし、アレクシスはまるで慰めるようにエドワードに応えてくれた。
「アレクシス、頼む。死なないでくれ。アレクシス!」
エドワードの願いはアレクシスまで届いたのだろうか。薄っすらと開いたはずの青い瞳はすぐに隠れてしまい、いくら呼びかけても再び開くことはなかった。
取り乱して声を荒げるエドワードは、侍医たちから退室を促された。もちろん、アレクシスの傍にいたかったが、暗に邪魔だから出ていけと言われてしまえば大人しく引き下がるしかなかった。
振り返ったときに見た鮮烈な赤が、エドワードの心に刺さったままいつまでも消えることはなかった。
そこからの数時間は王にとって長い長い時間だった。
アレクシスはそのまま出産することになり、自然分娩は危険だからと帝王切開となったという報告が届いた。エドワードは彼らの姿を見て、唇を噛んだ。報告に来る侍従たちは、国王の前だというのにみな一様に血塗れだったからだ。緊急事態すぎて服装を整える時間もなかったのだろう。
その血は間違いなく全てアレクシスの血だ。彼らの服はおろか、敷布まで真っ赤に染め上げていた。
(あんなに血を流して、人は生きられるものなのだろうか……)
ついそんなことを思ってしまって、息が詰まるほどの緊張と焦燥がエドワードを襲う。何もできない自分にこれほど苛立ったことはない。
別室に待機していると、何度もはにかむように笑うアレクシスの顔が脳裏に浮かんだ。その淡く儚い笑顔に胸が締め付けられるようだった。
ようやく、ああやって笑ってくれるようになったのに。ようやく、自分のことを話してくれるようになったのに。次の発情期で番になることを了承してくれたのに。
――もう二度とあの笑顔を見られないかもしれない。
その可能性に気づいてしまい、エドワードはぞわりと全身に鳥肌が立つのを感じた。
失ってしまうのだろうか、永遠に。
アレクシスを――。
これまで彼は、いつだってエドワードの傍にいてくれた。どれほど冷遇しても、顧みなくても、ただ黙ってそばにいてくれた。それは彼にとっては義務だったのかもしれない。しかし、だとしても二十年近い時間を全てエドワードに捧げてくれた。その献身にエドワードはつい最近ようやく気付いたところだった。
己の愚かさと未熟さを反省して、彼と新しい関係を築きたいと――いや、築いていこうとしていた矢先だったというのに。アレクシス自身がエドワードの手の中から零れ落ちようとしている。
彼の命を何とか繋ぎとめたくて、エドワードは必死に両手を握りしめる。
しかし今この時、エドワードに出来ることは何もなかった。出来るのはただ祈りながら待つことだけだ。
ただ願い続けて、どれほどの時間が経っただろうか。正確にはそう長い時間でもなかったかもしれない。しかし、エドワードには永遠にも近い時間に感じられた。
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