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第七話 正妃の変化

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 数日前から身体がおかしかった。
 眩暈と軽い吐き気と強い眠気。その慣れた感覚にあぁ、もしかして、とアレクシスは自らの異変の原因にすぐに思い当たる。自分の予想が正しければ、吐き気はこれから起き上がれないくらいひどいものになっていくだろう。そして短くてもふた月以上は続くのだ。何度経験しても、これだけは慣れない。

 そんなことを思いながらぐったりと私室で横になっていると、エドワードの訪室があった。
 先ぶれもなく、本当に突然の訪れだった。もちろん、アレクシスも驚いたがアレクシス付きの侍従たちの動揺は大変なものだった。なにせ、エドワードがアレクシスの私室を訪れたのは、二十年以上の結婚生活の中でこれが初めてだったからだ。先ぶれがなかった、という話以前の問題だった。

 侍従たちからすると、国王エドワード三世は自分たちの主人を冷遇する、あまりよくない王だ。しかし、やって来た王はそんな印象とは違い、アレクシスの体調をいたく心配して侍医を呼び、おまけに公務を休むようにと言ってくれた。

「妃殿下が陛下のお叱りを受けず、本当に良かったです」

 なんて言われて、アレクシスとしては苦笑するしかない。
 そのとき、エドワードはアレクシスにと焼き菓子を置いていったらしい。これにもアレクシスは驚いた。これまでもエドワードは何故かアレクシスに対して、様々なものを贈ってくれたけれど、自ら持ってきたのは初めてだった。

「いかがされますか? 陛下は無理して食べる必要はないとおっしゃっておられました」
「いや、今すぐ食べます。せっかくだから、みんなで食べましょう。お茶を人数分用意して」

 侍従の差し出すリボンのかかった箱を見て、アレクシスはそう指示を出した。
 明日になれば吐き気はますますひどくなるだろう。食べるのであれば、今しかない。せっかくのエドワードの気遣いを無駄にしたくなかった。

 用意されたのは懐かしいレモンケーキだった。グラスアローのたっぷりのかかったそのレモンケーキは、まだ学生だった頃よく王が贈ってくれたものだ。

 なんでも王都でも老舗の定番菓子で、アルビオンの銘菓だから食べてほしいと贈られたのが始まりだ。喜ぶアレクシスを見て、エドワードはこれがアレクシスの好物だと思ったようだった。以降、決まり事のように贈られて、いつからかそれもなくなってしまった。

 実はアレクシスはこのケーキが特別好物というわけではない。もちろん嫌いではないが、同じ店で売っているドライフルーツをたっぷり使ったパウンドケーキの方が好きだった。

 エドワードに贈られて喜んだのは、「エドワードからの贈り物」が嬉しかったからだ。喜ぶアレクシスに「じゃあ、今度は一緒に店に食べに行こう」と言ってくれたことも嬉しかった。結局、それも実現することはなかったけれど。

 白いグラスアローとふんわりとした黄色いケーキ生地。レモンを輪切りにしたものが規則正しく並び、目で見ても楽しめる美しさだった。

 一口食べると口の中にグラスアローの甘味とレモンの酸味が広がった。思いがけず、今のアレクシスにはこの酸味が嬉しい。久しぶりに食べたレモンケーキは、とても懐かしい味がした。アレクシスがエドワードに恋焦がれていたあの頃の味だ。

 若い頃はこのケーキを食べるととても苦しかったし、エドワードに贈られなくなってからは一度も食べていない。しかし、今食べるレモンケーキは甘くて少しだけ酸っぱくてとても美味しかった。
 訪ねてきてくれたエドワードは、優しくアレクシスを労ってくれた。だからだろうか、少しだけ身体のきつさも軽くなった気がした。

 レモンの酸味がじんわりと身体の中に広がる。胸が苦しくなるのは、具合が悪いからではない。目の奥が熱くなって、アレクシスは必死でレモンケーキを飲み込んだ。

「美味しい……」
「妃殿下」

 ケーキを食べながら泣くアレクシスを見て、侍従たちはそっとその背中を撫でてくれた。



 それからの二ヶ月はひどいものだった。アレクシスはつわりが重い。
 これまで五回ほど妊娠を経験したが、いつもその時期は起き上がれないし、食べ物も食べられない。公務はすべてエドワードとアルバートが替わってくれた。

 アレクシスが寝込んでいる間、エドワードは毎日部屋を訪ねてきた。とはいえ、気分が悪くて碌に話すことも出来ないから、エドワードはただ黙ってアレクシスの寝台の脇に座っているだけだ。それでも時折、果汁水を取ってくれたり、吐くときに背中を擦ってくれたりと何くれとなく世話を焼いてくれた。
 こんなに気遣ってもらったのは、第一子であるアルバートのとき以来かもしれない。

「大丈夫か」
「……大丈夫です」
「まったく大丈夫そうではないが」

 アレクシスが答えると、エドワードが渋い顔で言う。
 そんなやりとりを何回繰り返しただろうか。つわりの時期も二ヶ月をすぎて、ようやく重たい吐き気に回復の兆しが見え始めた。そのことにアレクシスは大いに安堵した。

 なにせ、三人目の王子のときは産むまでずっと気持ちが悪かった。六度目のつわりでそれなりに慣れているとはいえ、平気かと言われると決してそういうわけではない。同じようでいて毎回微妙に違うので、アレクシスは自分の身体ながら不思議に思っていた。

 身体が回復してくると、エドワードはさらに足繁くアレクシスの元に通うようになった。
 朝、顔を見て執務に行き、夕方の執務終わりにまた訪ねてくるのだ。夕食を一緒にと言われることもあった。

 エドワードとともに夕食をとるなど、これまでは決められた週に一度の晩餐会以外ではしたこともない。晩餐会ではない夕食は王族専用の豪華であるが狭く小さな食堂で食べる。広々とした晩餐の間とは違い、エドワードとの距離も近く声もよく届いた。

「南部の穀倉地帯の治水計画につてだが、アレクシスはどう思う?」
「街道の整備は今年度はここまででいいだろうか」
「君が支援している貧民院の方はアルバートが代行を務めているが、特に気にかけた方がいい町はあるだろうか」

 そんな話をされて、アレクシスは如才なく答えた。どれも王国の重要な案件で、アレクシス自身もつわりで寝込む前は詳しく調べていたものばかりだった。相談された内容に答えていると、エドワードが目を眇めてじっとこちらを見ていた。まるで眩しいものを見るようなその視線に、何やら居心地が悪くなる。

「あの、何か?」
「いや、君が妃で本当によかったと思ってな」

 感嘆するように言われてアレクシスは首を傾げる。

「そうでしょうか」
「そうだとも。よく努力してくれていると思う。妃が君以外だったなら、俺はきっとここまで上手く国を治められなかった。俺と結婚してくれてありがとう」

 いきなりそう言われてアレクシスはひどく驚いた。同時に、心の中に染み渡るような感動があって、視界が微かに歪む。もしかしたらそれは、アレクシスがエドワードに言われて一番嬉しい言葉だったのかもしれない。

 ――オメガとして、人として愛してもらえなくても、せめて妃として役に立とう。

 アレクシスはまだ十代だった頃、そう心に決めた。それはちょうど、件のオメガとの駆け落ち騒動の直後だったように思う。正妃になるために育てられてきた自分ではなく、平民のオメガを彼は伴侶にと望んだ。その衝撃から、純粋で柔らかい心を守るために、考え抜いた結果だった。

 そのためにアレクシスは二十年以上努力してきた。その努力をエドワード本人が理解し労ってくれた。その事実に幼い頃に諦めた恋心が報われたような気がした。

「それは、妃として当然のことです」

 嬉しくて火照る頬を隠しながら言えば、エドワードは破顔した。常に無表情なアレクシスの表情が崩れたのが嬉しかったらしい。

「君はそんな顔もするんだな」

 幸せそうに言われて、アレクシスはとうとうエドワードと目を合わせていられなくなった。
 そんな顔とはどんな顔だろう。恥ずかしい。きっと今の自分は変な顔をしている。

「見ないでください」

 あまりの羞恥に顔を隠そうとすると、王に両手を取られる。

「何故隠す。とても可愛らしいのに」
「か、かわ……っ!?」

 その言葉を聞いて、アレクシスは頭が爆発したかと思った。きっと顔は真っ赤で、先ほどよりもさらにひどいことになっているだろう。醜い自分を見られたくないのに、王はそれを可愛らしいと言う。
 可愛らしいだなんて。

 そんなの、この二十年間に一度だって言われたことはない。
 心がじんわりと熱くなる。遥か昔に諦めて蓋をした「何か」がまた芽吹きそうで、それがアレクシスにはとても恐ろしく感じられた。

「可愛らしくなどありません」
「言われたことはないか? まぁ、君は可愛いというより、美しいからな」

 エドワードはそう言うと、ふむ、と少し考える仕草をした。男らしく形のいい唇が楽しそうに弧を描く。

「では、その顔は俺しか知らないのか。今後も俺以外の前でそのような顔はしないように」 

 ――他の者に見られたくない。

 そう続けられて、アレクシスはますます狼狽えた。まだ夕食は途中だったけれど、もはや食事どころではなかった。行儀の悪いことに食事を投げ出して、逃げるように私室に帰ってきてしまった。食事に付き従っていた侍従の微笑ましげな視線が堪らなかった。


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