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第一部
5.軽蔑
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***
リディアから婚約解消を提案された翌日、なんだかやけに早く目が覚めてしまった。カーテンの隙間からのぞく景色はまだ暗い。
もう少し寝ていようかと再び横になるが、目を瞑るとリディアの顔が浮かんできて眠れなかった。まったく、わずらわしいことだ。
仕方なくベッドから降りて支度を始める。
リディアはなぜ突然あんなことを言いだしたのだろう。考えても答えは出てこない。
朝早くから行われた生徒会の会議が終わり、教室に向かって歩いていると、偶然にも隣の校舎にリディアの姿を見つけた。
なんとなく目で追っていると、リディアのほかに人影が見えるのに気づく。明るいピンク色の髪の小柄な女生徒……そこにいるのはフィオナだった。
一体何を、と思わず窓に張り付いて隣の校舎の様子をうかがう。
ここからでは何を話しているのかわからないが、二人は何か言い争っているように見えた。
はらはらしながら様子を見守る。
一学年下で、ずっと身分の下の相手を前に、リディアは一体何をやっているのだ。
その時、フィオナがリディアの腕を掴むのが見えた。
リディアはまるで汚らわしいものにでも触れたように、乱暴にその手を振り払う。フィオナはバランスを崩したようで、倒れ込んでしまった。
窓枠の下に隠れてしまいこちらからでは彼女の姿が見えなくなる。
リディアは倒れているであろうフィオナに構う様子も見せず、さっさと別方向に歩いて行ってしまった。
……なんという冷たい女なのだろう。昨日からくすぶっていたわずかな罪悪感はきれいに消え去り、私の心はリディアへの軽蔑でいっぱいになった。
(リディアのことなど考えている場合ではない。フィオナは大丈夫なのか)
はっと我に返ると、隣の棟まで駆けだした。けがでもしていないだろうか。
急いで階段を駆け上がり、先ほど二人を見かけた場所まで辿り着くと、フィオナが床にしゃがみ込んでいるのが見えた。
「フィオナ!」
「アデルバート様……? どうしたんですか?」
フィオナは驚いた顔でこちらを見る。
「さっき向こうの校舎からリディアに突き飛ばされる君が見えたんだ。けがはないか? 本当にひどい女だな」
「まぁ、みっともないところをお見せして……」
フィオナは恥ずかしそうに視線を逸らして言う。
「みっともないと言うならリディアのほうだ。人を突き飛ばして、構わず去っていくなど……!」
「私も悪かったんです。ちょっとむきになって言い返しちゃったので。腕までつかんで……。それで怒らせてしまったんですね」
フィオナは眉根を寄せて困った顔をして言う。その姿がまるで傷ついた小動物のようで胸が痛んだ。
相手を一方的に悪く言わないところが彼女のいいところだが、リディアのあの態度にはもう少し怒ってもいいのではないか。
「君がむきになるなんて、よっぽどのことを言われたんだろう? 一体何を言われたんだ」
「アデルバート様にお聞かせすることではありませんから」
「教えてくれ。私は不本意ながら彼女の婚約者だ。知っておく義務がある」
真剣に尋ねると、迷っている様子だったフィオナは決意したように言った。
「……その、アデルバート様に近づくなと……いつものように言われました。今は距離を置いているつもりですと返したら、そんな風に見えない、王子に媚び売ってまるで商売女みたいだって。その上、ああ、あなたの母親ってまさに商売女だったんでしたっけ? なんて言われて……。私、悔しくて……」
フィオナは途切れ途切れにそう言った後、唇を噛んだ。彼女の大きな目からぽたぽた涙が流れ落ちる。
フィオナの母親は、彼女が十三歳の時に亡くなっている。商売女なんてとんでもない、れっきとした女優として活躍していた人だ。
彼女を経済的に支援していた男性はいたそうだが、そんなものは珍しくもないことだ。懸命に働く人間に対して下卑た悪口を言うなど、リディアはなんと愚かしい女なのだろう。
「フィオナ。君の母君が立派に仕事をしていたことはよくわかっている。悲しむことはない。リディアが失礼なことを言って悪かった」
「ありがとうございます。でも、アデルバート様に謝っていただくことではありません」
フィオナは小さく微笑みを浮かべ、きっぱりと言った。
「……アデルバート様、そろそろ授業が始まっちゃいますね。もう行かないと」
「あ、ああ。そうだな」
「来てくれてありがとうございました」
フィオナはそう言って立ち上がり、制服の汚れを払う。そうして私に向かって頭を下げると、教室の方へ歩いていった。
去っていくフィオナを見送った後も、私はそこでずっと考え込んでいた。
いっそ、本当に婚約解消してしまってもいいのかもしれない。向こうから言い出したのだから、問題ないだろう。
こんな風に人を思いやれない人間が王妃になるなど、あってはいけないことだ。
私の心はじわじわと婚約解消のほうに揺れていった。
リディアから婚約解消を提案された翌日、なんだかやけに早く目が覚めてしまった。カーテンの隙間からのぞく景色はまだ暗い。
もう少し寝ていようかと再び横になるが、目を瞑るとリディアの顔が浮かんできて眠れなかった。まったく、わずらわしいことだ。
仕方なくベッドから降りて支度を始める。
リディアはなぜ突然あんなことを言いだしたのだろう。考えても答えは出てこない。
朝早くから行われた生徒会の会議が終わり、教室に向かって歩いていると、偶然にも隣の校舎にリディアの姿を見つけた。
なんとなく目で追っていると、リディアのほかに人影が見えるのに気づく。明るいピンク色の髪の小柄な女生徒……そこにいるのはフィオナだった。
一体何を、と思わず窓に張り付いて隣の校舎の様子をうかがう。
ここからでは何を話しているのかわからないが、二人は何か言い争っているように見えた。
はらはらしながら様子を見守る。
一学年下で、ずっと身分の下の相手を前に、リディアは一体何をやっているのだ。
その時、フィオナがリディアの腕を掴むのが見えた。
リディアはまるで汚らわしいものにでも触れたように、乱暴にその手を振り払う。フィオナはバランスを崩したようで、倒れ込んでしまった。
窓枠の下に隠れてしまいこちらからでは彼女の姿が見えなくなる。
リディアは倒れているであろうフィオナに構う様子も見せず、さっさと別方向に歩いて行ってしまった。
……なんという冷たい女なのだろう。昨日からくすぶっていたわずかな罪悪感はきれいに消え去り、私の心はリディアへの軽蔑でいっぱいになった。
(リディアのことなど考えている場合ではない。フィオナは大丈夫なのか)
はっと我に返ると、隣の棟まで駆けだした。けがでもしていないだろうか。
急いで階段を駆け上がり、先ほど二人を見かけた場所まで辿り着くと、フィオナが床にしゃがみ込んでいるのが見えた。
「フィオナ!」
「アデルバート様……? どうしたんですか?」
フィオナは驚いた顔でこちらを見る。
「さっき向こうの校舎からリディアに突き飛ばされる君が見えたんだ。けがはないか? 本当にひどい女だな」
「まぁ、みっともないところをお見せして……」
フィオナは恥ずかしそうに視線を逸らして言う。
「みっともないと言うならリディアのほうだ。人を突き飛ばして、構わず去っていくなど……!」
「私も悪かったんです。ちょっとむきになって言い返しちゃったので。腕までつかんで……。それで怒らせてしまったんですね」
フィオナは眉根を寄せて困った顔をして言う。その姿がまるで傷ついた小動物のようで胸が痛んだ。
相手を一方的に悪く言わないところが彼女のいいところだが、リディアのあの態度にはもう少し怒ってもいいのではないか。
「君がむきになるなんて、よっぽどのことを言われたんだろう? 一体何を言われたんだ」
「アデルバート様にお聞かせすることではありませんから」
「教えてくれ。私は不本意ながら彼女の婚約者だ。知っておく義務がある」
真剣に尋ねると、迷っている様子だったフィオナは決意したように言った。
「……その、アデルバート様に近づくなと……いつものように言われました。今は距離を置いているつもりですと返したら、そんな風に見えない、王子に媚び売ってまるで商売女みたいだって。その上、ああ、あなたの母親ってまさに商売女だったんでしたっけ? なんて言われて……。私、悔しくて……」
フィオナは途切れ途切れにそう言った後、唇を噛んだ。彼女の大きな目からぽたぽた涙が流れ落ちる。
フィオナの母親は、彼女が十三歳の時に亡くなっている。商売女なんてとんでもない、れっきとした女優として活躍していた人だ。
彼女を経済的に支援していた男性はいたそうだが、そんなものは珍しくもないことだ。懸命に働く人間に対して下卑た悪口を言うなど、リディアはなんと愚かしい女なのだろう。
「フィオナ。君の母君が立派に仕事をしていたことはよくわかっている。悲しむことはない。リディアが失礼なことを言って悪かった」
「ありがとうございます。でも、アデルバート様に謝っていただくことではありません」
フィオナは小さく微笑みを浮かべ、きっぱりと言った。
「……アデルバート様、そろそろ授業が始まっちゃいますね。もう行かないと」
「あ、ああ。そうだな」
「来てくれてありがとうございました」
フィオナはそう言って立ち上がり、制服の汚れを払う。そうして私に向かって頭を下げると、教室の方へ歩いていった。
去っていくフィオナを見送った後も、私はそこでずっと考え込んでいた。
いっそ、本当に婚約解消してしまってもいいのかもしれない。向こうから言い出したのだから、問題ないだろう。
こんな風に人を思いやれない人間が王妃になるなど、あってはいけないことだ。
私の心はじわじわと婚約解消のほうに揺れていった。
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