32 / 33
中学生編
潮騒
しおりを挟む
ブオオオオオオン…………。
雄叫びのような力強いエンジン音が、アスファルトを這う。
人の気配すら感じられない静寂の中、その音だけがやけに響いていた。数十メートルおきに置かれた街路樹が、あっという間に過ぎ去っていく。
僕は今、町の臨海部に位置する県道を走っている。正確に言えば、健一さんが運転している原付バイクの荷台部分に乗せてもらっている。県道といえど、車通りは少なく、ぽつぽつと街灯が灯っているだけで辺りには目立った明かりも見当たらない。バイクに付属しているハロゲンライトを頼りに、連綿と続く夜の帳を掻き分けていた。
健一さんと二人きりになるのは初めてで、これがまた中々に気まずい。ただでさえ友達と言っていいのか分からない能天気な女との会話に苦労するのに、さらにその兄ともなると、話題を作ろうにも共通するものが見つからない。第一、僕はまだ健一さんのことを高校生で漁師を目指している良い人、くらいのことしか理解していないのだ。
一体この沈黙を埋めるにはどうすればいいのか、そんなことを考えながらかれこれ十五分は経過していた。
ふと見渡せば、右側にはいつか彼女と行った海岸が見えた。琥珀玉のような満月が、海面を淡いグラデーション色に照らしている。夜の海というのはまだ見たことがなく、僕はその新鮮さと美しさに目を奪われていた。
視線の向こうで、ウミネコが鳴いている。
すると、まるでそれに呼応するかのように、耳元から音の低い鼻歌が聞こえてきた。
押し寄せては引くさざ波のようなジャズ調のゆったりとしたメロディと、健一さんの優しく落ち着いた声音が、ゆるやかな潮風に乗って静寂の夜を漂う。
曲名こそ知らないものの、眼前に広がる景色とそれは見事にマッチしていて、さながら映画のワンシーンのようだった。
心地良い夜風に吹かれながら、のめり込むように、それを聞く。いっそこのまま眠ってしまいたかった。
やがて曲はサビを越え、クライマックスへと移る。歌声は単調に伸びていき、ゆったり、ゆったりと空気に溶け込むように消えていった。
月夜に再び沈黙が訪れる。だがこれは沈黙と言っていいのだろうか、どちらかといえば、コンサートを見た後のような、感動ゆえに起こる空虚感、寂寥感に近い。
しばらく余韻に浸っていると、静寂を拾い上げるように、健一さんが口を開いた。
「今日はありがとうな。彩恵に付き合ってくれて」
「……いえ、とても楽しかったです。けど……」
「けど?」
健一さんが尻目にこちらを見やる。
「死ぬほど疲れました……」
「だろうな」
冗談交じりに吐いたため息に、健一さんはハハハッと微笑んだ。
「あの祭りを初めて経験する人は皆そう言うよ。俺も最初はそうだった。何年も経験していくうちに自然と慣れていって、ようやくその地ならではの楽しさが分かってくるんだ。山車なら尚更な」
「……なんか、ちょっと分かる気がします」
現に、あの時僕が抱いていた感情はそれに近いものだ。疲労感の裏に、初めて経験する愉悦感を、身をもって感じた。それは祭りだけではなく、どんなことにも言える。食べ物や文化、人間関係。きっと人間はそうやって変化していきながら、今いる環境に慣れていくのだろう。
「……僕は、うまくやっていけるでしょうか」
気づけば、自嘲気味な笑みが漏れていた。
憂いを含んだ吐息が、健一さんの背中に触れる。
「もう十分出来てるよ。あの彩恵と仲良くやれてる奴なんてそうそういないぞ」
「別に仲良くないですよ。あいつが一方的にくるだけで。そもそも、何であんなに僕にこだわろうとするんですかね」
「……なんだ気づいてないのか。……まぁ、そうだよな」
ボソッとこぼした愚痴に健一さんは意外そうに目を丸めると、どこか腑に落ちたのか、虚空を見つめてフッと微笑を湛えた。その笑みの真意が分からず、僕は小首を傾げる。
「璃都、お前彩恵から何か聞いたか?」
「何かって、何をですか?」
「彩恵自身のことについて」
「いや、特には……」
そういえば、彩恵が自分の話をしているのをあまり聞いたことがないなぁと記憶を巡らせる。彼女が話すとすれば、いつも家族のことや中学の友達、食べ物の話題ばかりだった。僕はまだ、彼女の素性について知らないことが多すぎるのだ。今までうん、とか、はぁ、とか適当に話を聞き流してきたから全然気がつかなかった。本当は、ただ単に興味がないだけかもしれないけど。
「そうか……彩恵の奴、話してないのか……」
「……あの、何かあったんですか?」
「……」
僕の問いに、それきり健一さんは黙り込んでしまった。
対向車線から車が一台通り過ぎる。白銀色のライトのあまりの眩しさに、思わず目を瞑った。震動が遠ざかっていくのを耳で聴いて、恐る恐る目を開ける。視界にはまだ白っぽい残像が残っていたが、そこにはすでに静寂が満ちていて、再び二人だけの空間になった。
目の前で健一さんの背中が小さく揺れる。
「璃都、彩恵と仲良くしてくれてるお前だから、伝える」
表情こそ窺えないが、その声音はどこか寂しい響きを含んでいて、ほんの少し覚悟に満ちているようにも思えた。
僕は息を呑んで、健一さんの次の言葉を待った。
すうーっと息を吸って、吐く。
そして、重々しく発せられた一言。
「俺と彩恵は、本当の家族じゃないんだ」
雄叫びのような力強いエンジン音が、アスファルトを這う。
人の気配すら感じられない静寂の中、その音だけがやけに響いていた。数十メートルおきに置かれた街路樹が、あっという間に過ぎ去っていく。
僕は今、町の臨海部に位置する県道を走っている。正確に言えば、健一さんが運転している原付バイクの荷台部分に乗せてもらっている。県道といえど、車通りは少なく、ぽつぽつと街灯が灯っているだけで辺りには目立った明かりも見当たらない。バイクに付属しているハロゲンライトを頼りに、連綿と続く夜の帳を掻き分けていた。
健一さんと二人きりになるのは初めてで、これがまた中々に気まずい。ただでさえ友達と言っていいのか分からない能天気な女との会話に苦労するのに、さらにその兄ともなると、話題を作ろうにも共通するものが見つからない。第一、僕はまだ健一さんのことを高校生で漁師を目指している良い人、くらいのことしか理解していないのだ。
一体この沈黙を埋めるにはどうすればいいのか、そんなことを考えながらかれこれ十五分は経過していた。
ふと見渡せば、右側にはいつか彼女と行った海岸が見えた。琥珀玉のような満月が、海面を淡いグラデーション色に照らしている。夜の海というのはまだ見たことがなく、僕はその新鮮さと美しさに目を奪われていた。
視線の向こうで、ウミネコが鳴いている。
すると、まるでそれに呼応するかのように、耳元から音の低い鼻歌が聞こえてきた。
押し寄せては引くさざ波のようなジャズ調のゆったりとしたメロディと、健一さんの優しく落ち着いた声音が、ゆるやかな潮風に乗って静寂の夜を漂う。
曲名こそ知らないものの、眼前に広がる景色とそれは見事にマッチしていて、さながら映画のワンシーンのようだった。
心地良い夜風に吹かれながら、のめり込むように、それを聞く。いっそこのまま眠ってしまいたかった。
やがて曲はサビを越え、クライマックスへと移る。歌声は単調に伸びていき、ゆったり、ゆったりと空気に溶け込むように消えていった。
月夜に再び沈黙が訪れる。だがこれは沈黙と言っていいのだろうか、どちらかといえば、コンサートを見た後のような、感動ゆえに起こる空虚感、寂寥感に近い。
しばらく余韻に浸っていると、静寂を拾い上げるように、健一さんが口を開いた。
「今日はありがとうな。彩恵に付き合ってくれて」
「……いえ、とても楽しかったです。けど……」
「けど?」
健一さんが尻目にこちらを見やる。
「死ぬほど疲れました……」
「だろうな」
冗談交じりに吐いたため息に、健一さんはハハハッと微笑んだ。
「あの祭りを初めて経験する人は皆そう言うよ。俺も最初はそうだった。何年も経験していくうちに自然と慣れていって、ようやくその地ならではの楽しさが分かってくるんだ。山車なら尚更な」
「……なんか、ちょっと分かる気がします」
現に、あの時僕が抱いていた感情はそれに近いものだ。疲労感の裏に、初めて経験する愉悦感を、身をもって感じた。それは祭りだけではなく、どんなことにも言える。食べ物や文化、人間関係。きっと人間はそうやって変化していきながら、今いる環境に慣れていくのだろう。
「……僕は、うまくやっていけるでしょうか」
気づけば、自嘲気味な笑みが漏れていた。
憂いを含んだ吐息が、健一さんの背中に触れる。
「もう十分出来てるよ。あの彩恵と仲良くやれてる奴なんてそうそういないぞ」
「別に仲良くないですよ。あいつが一方的にくるだけで。そもそも、何であんなに僕にこだわろうとするんですかね」
「……なんだ気づいてないのか。……まぁ、そうだよな」
ボソッとこぼした愚痴に健一さんは意外そうに目を丸めると、どこか腑に落ちたのか、虚空を見つめてフッと微笑を湛えた。その笑みの真意が分からず、僕は小首を傾げる。
「璃都、お前彩恵から何か聞いたか?」
「何かって、何をですか?」
「彩恵自身のことについて」
「いや、特には……」
そういえば、彩恵が自分の話をしているのをあまり聞いたことがないなぁと記憶を巡らせる。彼女が話すとすれば、いつも家族のことや中学の友達、食べ物の話題ばかりだった。僕はまだ、彼女の素性について知らないことが多すぎるのだ。今までうん、とか、はぁ、とか適当に話を聞き流してきたから全然気がつかなかった。本当は、ただ単に興味がないだけかもしれないけど。
「そうか……彩恵の奴、話してないのか……」
「……あの、何かあったんですか?」
「……」
僕の問いに、それきり健一さんは黙り込んでしまった。
対向車線から車が一台通り過ぎる。白銀色のライトのあまりの眩しさに、思わず目を瞑った。震動が遠ざかっていくのを耳で聴いて、恐る恐る目を開ける。視界にはまだ白っぽい残像が残っていたが、そこにはすでに静寂が満ちていて、再び二人だけの空間になった。
目の前で健一さんの背中が小さく揺れる。
「璃都、彩恵と仲良くしてくれてるお前だから、伝える」
表情こそ窺えないが、その声音はどこか寂しい響きを含んでいて、ほんの少し覚悟に満ちているようにも思えた。
僕は息を呑んで、健一さんの次の言葉を待った。
すうーっと息を吸って、吐く。
そして、重々しく発せられた一言。
「俺と彩恵は、本当の家族じゃないんだ」
0
お気に入りに追加
40
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
思い出を売った女
志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。
それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。
浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。
浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。
全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。
ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。
あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。
R15は保険です
他サイトでも公開しています
表紙は写真ACより引用しました
私と継母の極めて平凡な日常
当麻月菜
ライト文芸
ある日突然、父が再婚した。そして再婚後、たった三ヶ月で失踪した。
残されたのは私、橋坂由依(高校二年生)と、継母の琴子さん(32歳のキャリアウーマン)の二人。
「ああ、この人も出て行くんだろうな。私にどれだけ自分が不幸かをぶちまけて」
そう思って覚悟もしたけれど、彼女は出て行かなかった。
そうして始まった継母と私の二人だけの日々は、とても淡々としていながら酷く穏やかで、極めて平凡なものでした。
※他のサイトにも重複投稿しています。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました
東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。
攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる!
そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる