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中学生編
本音
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「さぁ、準備はいいか!?」
「おぉーーーー!!」
地響きすら起きそうな戸田さんの野太い掛け声に、子供達が元気よく呼応する。
それに伴って、太鼓部隊のリズミカルな演奏が始まった。周りの喚声に負けないほど力強いその重低音はまるでハンマーで頭を殴られているようだった。
こんだけ真後ろでやられると耳がおかしくなるのも時間の問題だな……。
今僕たちは山車の最前列、つまり、運ぶために最も重要となる舵の部分にいる。僕らなんかにこんな所を任していいのだろうか。彩恵曰く、後ろにもちゃんと人がいるし、車輪がついてるからそんなに力はいらないということらしいが、絶対そんなことないだろ……こんな巨大な物人の手で運べるわけないって……。
積もる不安にあせあせしていると、隣から彩恵が顔をのぞかせてきた。
「もしかして璃都くん、緊張してる?」
からかい気味に聞いてくる彩恵だが、その瞳は何故かキラキラ輝きを放っていて、今から散歩に行くのが楽しみでたまらない子犬を彷彿とさせた。
「緊張する気にもならないよ……ここに来るだけでヘトヘトだったのに、今からこれを引っ張って村内一周なんて。しかも太鼓の音が耳元で聞こえてくるし、軽い拷問だよ。逆に君はよく平気な顔してられるね」
「えーだって年に数回のビッグイベントだよ? 楽しまずにはいられないじゃん。九戸の男なら祭り! ってね」
お前は女だろというツッコミは懐にしまいつつ、代わりに僕は盛大なため息をついた。
なんでこの村には脳筋しかいないのだろう……。
「お、もう出るみたいだよ」
彩恵の目配せに釣られるように、僕は山車の下段で激しい音色を響かせる太鼓部隊の方に顔を向けた。皆子供ながら精一杯にバチを振りかざしている。
もっともっとと戸田さんが鼓舞する度に、いくつもの重低音がヒートアップしていく。どうやらこれが出発が近づいている合図らしい。
ようやく音に慣れ始めた頃だったのに、これ以上盛り上がらなくっていいって。震動がこっちまで来てるから……。
ここにいる全ての人間のボルテージが上がっている中、一人リストラされたサラリーマンのような表情を浮かべる僕をよそに、ついにその時は来た。
「行くぞぉーーー!!」
張り切りすぎたのか、戸田さんの声はすっかり掠れていたが、決して祭囃子の音に負けてはいなかった。そしてそれは山車を持つ僕ら、太鼓部隊の子供達、観客、会場全員の耳にしっかりと届いたことだろう。
野獣のような雄叫びは、多くの人間の魂を呼び起こした。
「おぉーーーー!!」
色彩豊かな巨大リヤカーが鈍い音を立てながらゆっくりと動き出す。
しかし動き出したのも束の間、荷台の下に取り付けられた車輪が、その場でこれでもかと硬い黒土を掘り返して、深い窪みを作る。
うわ、重……。
腕に電撃が走る。
予想もしなかった負荷に仰天しつつ、僕はさらに強く持ち手を握りしめ、棒になった足を踏ん張る。しかし、子供一人が力を込めたところでそう簡単に山車は前へと進まない。
「璃都くん頑張れ! こんな時こそ気合だよ気合! 声だせー!!」
体力無尽蔵のモンスター彩恵も、さすがのこの重さには苦しんでいるようで、顔をしわくちゃにしながら小刻みに身体を震わせていた。
「声出せって言われてもそんな余裕ないよ……」
「いいから出すの! なんでもいいから頭に浮かんだ言葉を叫んでみて!」
頭に浮かんだ言葉、頭に浮かんだ言葉……。
僕は騒音でパンクしそうな頭をフル回転させて、脳内辞書から単語を必死に絞りだす。そうして数秒考えた挙句、なんとか出てきた言葉がこれだった。
「何度も何度も振り回すなー! 少しは僕のことも考えろこの脳筋女ー!」
自分でもびっくりするほどに、大きな声が出た。
地下深くに溜まった溶岩が爆発的に噴火するみたいに、身体中をモヤモヤが駆け巡って、一気に大気中へ雲散していく。
これは解放感というのだろうか、すごくスッキリする。一瞬頭の中が真っ白になって、今自分がどこにいるのか、何をしているのかさえも忘れてしまう。こんな感覚初めてだ。静寂な無の境地にしばらく浸っていると、隣からのただならぬ視線にハッと我に帰った。
「へー。璃都くんそんなこと思ってたんだ」
「あ、いや、これは……」
声を出そうとするが、肺の中の酸素が枯渇しているせいで思ったように弁解出来ない。
「別にいいよー。私だって自覚はあるし。好きでやってることだからね」
少しいじけるように彩恵は肩をすくめて、トボトボと声を湿らせる。
さすがに言い過ぎたかと僕はすかさずフォローを入れようとしたが、それよりも先に一転、彩恵はひまわりのような満面の笑みを浮かべた。
「でも、出せたじゃん。声」
提灯の灯りに照らされた褐色肌に、綺麗に並んだ真っ白な歯が浮かぶ。
屈託のない笑顔に、ドクンと胸の中で太鼓が鳴った。
思い返せば、こんなにも大きな声で叫んだのはこれが初めてだった。それも心からの言葉で。今まで嘘に嘘を塗りたくってきた僕にとって、それがこの上ない経験で、まさに今の僕が求めていたもの。本音。
叫ぶって、楽しい……。
気づけば僕は笑っていた。
「……まだまだ、こんなもんじゃないよ」
「よし! その意気だ璃都くん!」
「おめえら! 力合わせろー! せーの!」
戸田さんの合図に合わせて、もう一度拳に力を込める。
「オーエス! オーエス!」
皆の声が一つに合わさる。山車を運ぶ僕らだけじゃない、周りで見ている人、屋台で遊んでいた人。ここにいる全員が、同じ掛け声を会場内に響かせた。
「オーエス! オーエス! オーエス! オーエス!」
この掛け声が力となったのか、山車の重さに皆が慣れ始めたのか、微かに車輪が動き始めた気がした。
——よし、もう少しだ!
「動けぇえええええ!!」
「いっけぇええええ!!」
その刹那、一気に身体が軽くなって、前へ倒される感覚に陥る。車輪が掘り返され続けた窪みからようやく抜けたのだ。
「や、やった……」
思わず安堵のため息が漏れた。
しかし山車が動いたからといって安心している場合ではない。勢いをつけた車輪は休む暇もなく前に進む。僕はただ物理法則に押されるままに歩数を合わせた。
「さぁ、ここからが本番だ! 九戸魂を村中に見せつけてこい!」
「おぉーーーー!!」
✳︎✳︎✳︎
そこからのことはあまり覚えていない。
唯一覚えているのは、僕も彩恵も無我夢中だったということだ。
神社を出たところからすぐの大通りを抜けて、商店街、駅前、河川敷、住宅街、九戸村の隅から隅まで練り歩いた。
どこへ行っても村は祭りムードで、懸命に山車を引く僕たちを熱い声援で迎えてくれた。でも、それ以上に僕も熱くなっていた。本当今日の自分はどうしてしまったのだろうか。神社に帰ってきた今でも、僕が本当にそれをやったということが信じられない。
ふと空を見上げると、真っ黒なキャンパスを無数の星々がびっしりと埋め尽くしていた。
闇夜に溶け込むように、近くに生えていた木に腰掛け、ただそれをボーッと眺める。
——綺麗だなぁ……。
視線を落とすと、目の前では彩恵が瓶ラムネをクピクピと飲んでいた。
鮮やかなスカイブルーの瓶の中で大きな気泡が行ったり来たりを繰り返している。ラムネがある程度の量まで減ると、彩恵は生き返ったと言わんばかりに、プハーっと盛大に息を吐いた。
「璃都くんも飲みなよ。おいしいよ?」
「疲れててそれどころじゃないんだよ……」
「飲んだら回復するかもよ。汗もかいたんだし、ほら水分補給水分補給」
「……」
そこまで言うならと僕は地面に置かれたラムネ瓶を手に取る。
山車に参加した子供には、一人一本自治会からラムネを貰えることになっている。身体中を酷使する辛い労働の中、これを貰えたことが唯一の救いだ。もしかして、彩恵はこれ目当てで僕を誘ったわけじゃ……。
余計な疑問は捨てて、代わりにラムネを流し込む。
甘い爽やかな香りが、乾ききった喉を潤す。キンキンに冷えていたせいか、いつもより炭酸が強く感じた。
「今日はどうだった?」
彩恵が僕の隣に腰掛ける。気のせいか、顔と顔の距離が近い。
「とにかく疲れた。喉がらがら」
「あははっ、確かにいっぱい声出してたもんね。あんな璃都くん見たことないよ」
「僕も見たことない。何か変なことしてなかった? 大丈夫?」
「……」
「なんで黙るんだよ。ここはツッコむところだろ」
「いやだって、璃都くんが冗談言うと思わなかったから……」
あまりに意外だったのか、彩恵は目をぱちくりさせてこちらを見つめる。
普段見ることのない視線と正面に向き合ったせいで、徐々に恥ずかしさが込み上げてきた。
「ごめん。忘れて……」
「忘れなーい。健兄に言っちゃおーっと」
跳ねるように立ち上がる彩恵の背中を僕は目で追う。
ちらほらと消えかけてきた提灯の微かな灯りが、人型のシルエットを形作った。
「ねぇ。璃都くん」
「……何?」
シルエットは数秒沈黙したのち、左右にゆらゆらと揺れた。
「璃都くんは私といて、楽しくない?」
自信なさげに飛んでくるその言葉を聞いて、僕は少し前のことを思い出す。
『何度も何度も振り回すなー! 少しは僕のことも考えろこの脳筋女ー!』
まだ根に持ってたのか……。
「そりゃまぁ……楽しいよ」
そういうのはあまり気にしないタイプと思ってたけど、彩恵も案外気にするんだなぁ。
「本当に?」
「本当に」
訝しげな視線に返した僕の言葉は、紛れもない本心だった。
確かに彩恵といると疲れるし、嫌なことも多かったかもしれないけど、それと同じくらい楽しいこともあった。
川で遊んだことも、海で魚を釣ったことも、全て彼女がいたから出来た経験だ。もちろん今日だって、身体の疲労面で言えば今にも殴ってやりたいくらいだけど、楽しいという感情に間違いはない。その気持ちに嘘はつきたくなかった。
「……そっか」
彩恵は僕から一歩遠ざかる。背中を向けられているため、その表情は見えない。
「私ね、不安だったんだ。璃都くん、最近になってようやく笑ってくれるようになったけど、時々思い詰めたように急に真剣な顔するから。本当は私といるの嫌なんじゃないかって」
風鈴のような吐息が、湿った大気に漏れる。一度言葉を区切って、彩恵は続けた。
「でも、安心した。山車を運んでる時の璃都くんの顔見たら、そんな心配吹き飛んじゃった。過去に何があったのか私には分からないけど、私は今の璃都くんを見ていたい。本当の君を、見ていたい」
ガラス玉のように透き通った目がゆっくりとこちらへ振り返る。細く艶やかな黒髪が夜風に靡いた。
「これからも一緒にいてね」
その時だった。まるで彩恵の言葉が合図であったかのように、夜空に大輪の花が咲いた。胸を強く叩かれているような炸裂音が辺り一帯に響く。
それをきっかけに、次々と細高い音が打ち上がり、色とりどりの花が上空で光っては消え、光っては消えを繰り返す。
「わぁ……花火だ!」
「これが……」
花火を生で見たのはこれが初めてだった。正直ここまでの迫力とは思ってもみなかった。星々で埋め尽くされていたキャンパスをカラフルな発光色が塗り重ねている。
「見て見て璃都くん花火だよ!」
彩光が放たれる度、はしゃぐように夜空を眺める彩恵の横顔が映る。
周りの観客も皆彩恵と同じように顔を上げ、「おぉー」と歓声を上げる人もいれば、花火を静かに楽しむ人もいた。
ここにいる全員の視線が上を向いている中、何故か僕は目の前の少女に目を奪われていた。
初めて見る花火よりも、見慣れているはずの彼女にどうしても見入ってしまう。
高く整った鼻筋、くるりと巻かれたまつ毛、健康さを物語るさくらんぼ色の唇。よく見なければ気づかない彼女の大人びた顔のパーツが、花火の光に照らされている。
「……綺麗だ」
「ん? 何か言った?」
ポツリと呟いた言葉は、彩恵には聞こえていなかった。どうやら花火の音に助けられたようだ。
「この花火毎年やってるんだけどね、私のお父さんも打ち上げに関わってるんだよ。さっきの広場のすぐ隣で打ち上げてるの。知ってた?」
「へー。だからこんなに迫力あるのか」
「そうそう。でもまだまだこんなもんじゃないよ。ラストにどでかいの来るんだから! 時間的にもうそろそろかな」
そう言って彩恵は近くの時計塔を指さす。
「あ! 来た!」
彩恵の声に釣られるように、今度こそ僕は上空を眺めた。
口笛のような音が上がり、先程のものとは比べ物にならない爆音が鳴る。
その衝撃と同時に巨大なピンクの線が夜空を覆い尽くした。
「九戸名物、しだれ桜!」
光の雨は曲線を描き、まるで流星群のように四方八方に降り注いだ。
花火はキラキラと残光を残して消えていく。
スケールのデカさ故、散りゆく様は少し儚い。
終わった後の謎の虚無感に襲われながら、僕は元通りになったキャンパスを眺め続けた。
「終わっちゃった、ね……」
「……」
空気中に残った火薬の匂いが鼻を掠める。
気づけば、会場内の提灯の灯りは全て消えていた。楽しい時間もこれでお開き。別れは突然に訪れる。
一度枯れた花はもうしばらくは咲くことはないのだろうと、夜空に思いを馳せて煙の流れを見送った。
「楽しかったなぁ……」
侘しく吸い込んだ空気は、淡い夏の香りがした。
「おぉーーーー!!」
地響きすら起きそうな戸田さんの野太い掛け声に、子供達が元気よく呼応する。
それに伴って、太鼓部隊のリズミカルな演奏が始まった。周りの喚声に負けないほど力強いその重低音はまるでハンマーで頭を殴られているようだった。
こんだけ真後ろでやられると耳がおかしくなるのも時間の問題だな……。
今僕たちは山車の最前列、つまり、運ぶために最も重要となる舵の部分にいる。僕らなんかにこんな所を任していいのだろうか。彩恵曰く、後ろにもちゃんと人がいるし、車輪がついてるからそんなに力はいらないということらしいが、絶対そんなことないだろ……こんな巨大な物人の手で運べるわけないって……。
積もる不安にあせあせしていると、隣から彩恵が顔をのぞかせてきた。
「もしかして璃都くん、緊張してる?」
からかい気味に聞いてくる彩恵だが、その瞳は何故かキラキラ輝きを放っていて、今から散歩に行くのが楽しみでたまらない子犬を彷彿とさせた。
「緊張する気にもならないよ……ここに来るだけでヘトヘトだったのに、今からこれを引っ張って村内一周なんて。しかも太鼓の音が耳元で聞こえてくるし、軽い拷問だよ。逆に君はよく平気な顔してられるね」
「えーだって年に数回のビッグイベントだよ? 楽しまずにはいられないじゃん。九戸の男なら祭り! ってね」
お前は女だろというツッコミは懐にしまいつつ、代わりに僕は盛大なため息をついた。
なんでこの村には脳筋しかいないのだろう……。
「お、もう出るみたいだよ」
彩恵の目配せに釣られるように、僕は山車の下段で激しい音色を響かせる太鼓部隊の方に顔を向けた。皆子供ながら精一杯にバチを振りかざしている。
もっともっとと戸田さんが鼓舞する度に、いくつもの重低音がヒートアップしていく。どうやらこれが出発が近づいている合図らしい。
ようやく音に慣れ始めた頃だったのに、これ以上盛り上がらなくっていいって。震動がこっちまで来てるから……。
ここにいる全ての人間のボルテージが上がっている中、一人リストラされたサラリーマンのような表情を浮かべる僕をよそに、ついにその時は来た。
「行くぞぉーーー!!」
張り切りすぎたのか、戸田さんの声はすっかり掠れていたが、決して祭囃子の音に負けてはいなかった。そしてそれは山車を持つ僕ら、太鼓部隊の子供達、観客、会場全員の耳にしっかりと届いたことだろう。
野獣のような雄叫びは、多くの人間の魂を呼び起こした。
「おぉーーーー!!」
色彩豊かな巨大リヤカーが鈍い音を立てながらゆっくりと動き出す。
しかし動き出したのも束の間、荷台の下に取り付けられた車輪が、その場でこれでもかと硬い黒土を掘り返して、深い窪みを作る。
うわ、重……。
腕に電撃が走る。
予想もしなかった負荷に仰天しつつ、僕はさらに強く持ち手を握りしめ、棒になった足を踏ん張る。しかし、子供一人が力を込めたところでそう簡単に山車は前へと進まない。
「璃都くん頑張れ! こんな時こそ気合だよ気合! 声だせー!!」
体力無尽蔵のモンスター彩恵も、さすがのこの重さには苦しんでいるようで、顔をしわくちゃにしながら小刻みに身体を震わせていた。
「声出せって言われてもそんな余裕ないよ……」
「いいから出すの! なんでもいいから頭に浮かんだ言葉を叫んでみて!」
頭に浮かんだ言葉、頭に浮かんだ言葉……。
僕は騒音でパンクしそうな頭をフル回転させて、脳内辞書から単語を必死に絞りだす。そうして数秒考えた挙句、なんとか出てきた言葉がこれだった。
「何度も何度も振り回すなー! 少しは僕のことも考えろこの脳筋女ー!」
自分でもびっくりするほどに、大きな声が出た。
地下深くに溜まった溶岩が爆発的に噴火するみたいに、身体中をモヤモヤが駆け巡って、一気に大気中へ雲散していく。
これは解放感というのだろうか、すごくスッキリする。一瞬頭の中が真っ白になって、今自分がどこにいるのか、何をしているのかさえも忘れてしまう。こんな感覚初めてだ。静寂な無の境地にしばらく浸っていると、隣からのただならぬ視線にハッと我に帰った。
「へー。璃都くんそんなこと思ってたんだ」
「あ、いや、これは……」
声を出そうとするが、肺の中の酸素が枯渇しているせいで思ったように弁解出来ない。
「別にいいよー。私だって自覚はあるし。好きでやってることだからね」
少しいじけるように彩恵は肩をすくめて、トボトボと声を湿らせる。
さすがに言い過ぎたかと僕はすかさずフォローを入れようとしたが、それよりも先に一転、彩恵はひまわりのような満面の笑みを浮かべた。
「でも、出せたじゃん。声」
提灯の灯りに照らされた褐色肌に、綺麗に並んだ真っ白な歯が浮かぶ。
屈託のない笑顔に、ドクンと胸の中で太鼓が鳴った。
思い返せば、こんなにも大きな声で叫んだのはこれが初めてだった。それも心からの言葉で。今まで嘘に嘘を塗りたくってきた僕にとって、それがこの上ない経験で、まさに今の僕が求めていたもの。本音。
叫ぶって、楽しい……。
気づけば僕は笑っていた。
「……まだまだ、こんなもんじゃないよ」
「よし! その意気だ璃都くん!」
「おめえら! 力合わせろー! せーの!」
戸田さんの合図に合わせて、もう一度拳に力を込める。
「オーエス! オーエス!」
皆の声が一つに合わさる。山車を運ぶ僕らだけじゃない、周りで見ている人、屋台で遊んでいた人。ここにいる全員が、同じ掛け声を会場内に響かせた。
「オーエス! オーエス! オーエス! オーエス!」
この掛け声が力となったのか、山車の重さに皆が慣れ始めたのか、微かに車輪が動き始めた気がした。
——よし、もう少しだ!
「動けぇえええええ!!」
「いっけぇええええ!!」
その刹那、一気に身体が軽くなって、前へ倒される感覚に陥る。車輪が掘り返され続けた窪みからようやく抜けたのだ。
「や、やった……」
思わず安堵のため息が漏れた。
しかし山車が動いたからといって安心している場合ではない。勢いをつけた車輪は休む暇もなく前に進む。僕はただ物理法則に押されるままに歩数を合わせた。
「さぁ、ここからが本番だ! 九戸魂を村中に見せつけてこい!」
「おぉーーーー!!」
✳︎✳︎✳︎
そこからのことはあまり覚えていない。
唯一覚えているのは、僕も彩恵も無我夢中だったということだ。
神社を出たところからすぐの大通りを抜けて、商店街、駅前、河川敷、住宅街、九戸村の隅から隅まで練り歩いた。
どこへ行っても村は祭りムードで、懸命に山車を引く僕たちを熱い声援で迎えてくれた。でも、それ以上に僕も熱くなっていた。本当今日の自分はどうしてしまったのだろうか。神社に帰ってきた今でも、僕が本当にそれをやったということが信じられない。
ふと空を見上げると、真っ黒なキャンパスを無数の星々がびっしりと埋め尽くしていた。
闇夜に溶け込むように、近くに生えていた木に腰掛け、ただそれをボーッと眺める。
——綺麗だなぁ……。
視線を落とすと、目の前では彩恵が瓶ラムネをクピクピと飲んでいた。
鮮やかなスカイブルーの瓶の中で大きな気泡が行ったり来たりを繰り返している。ラムネがある程度の量まで減ると、彩恵は生き返ったと言わんばかりに、プハーっと盛大に息を吐いた。
「璃都くんも飲みなよ。おいしいよ?」
「疲れててそれどころじゃないんだよ……」
「飲んだら回復するかもよ。汗もかいたんだし、ほら水分補給水分補給」
「……」
そこまで言うならと僕は地面に置かれたラムネ瓶を手に取る。
山車に参加した子供には、一人一本自治会からラムネを貰えることになっている。身体中を酷使する辛い労働の中、これを貰えたことが唯一の救いだ。もしかして、彩恵はこれ目当てで僕を誘ったわけじゃ……。
余計な疑問は捨てて、代わりにラムネを流し込む。
甘い爽やかな香りが、乾ききった喉を潤す。キンキンに冷えていたせいか、いつもより炭酸が強く感じた。
「今日はどうだった?」
彩恵が僕の隣に腰掛ける。気のせいか、顔と顔の距離が近い。
「とにかく疲れた。喉がらがら」
「あははっ、確かにいっぱい声出してたもんね。あんな璃都くん見たことないよ」
「僕も見たことない。何か変なことしてなかった? 大丈夫?」
「……」
「なんで黙るんだよ。ここはツッコむところだろ」
「いやだって、璃都くんが冗談言うと思わなかったから……」
あまりに意外だったのか、彩恵は目をぱちくりさせてこちらを見つめる。
普段見ることのない視線と正面に向き合ったせいで、徐々に恥ずかしさが込み上げてきた。
「ごめん。忘れて……」
「忘れなーい。健兄に言っちゃおーっと」
跳ねるように立ち上がる彩恵の背中を僕は目で追う。
ちらほらと消えかけてきた提灯の微かな灯りが、人型のシルエットを形作った。
「ねぇ。璃都くん」
「……何?」
シルエットは数秒沈黙したのち、左右にゆらゆらと揺れた。
「璃都くんは私といて、楽しくない?」
自信なさげに飛んでくるその言葉を聞いて、僕は少し前のことを思い出す。
『何度も何度も振り回すなー! 少しは僕のことも考えろこの脳筋女ー!』
まだ根に持ってたのか……。
「そりゃまぁ……楽しいよ」
そういうのはあまり気にしないタイプと思ってたけど、彩恵も案外気にするんだなぁ。
「本当に?」
「本当に」
訝しげな視線に返した僕の言葉は、紛れもない本心だった。
確かに彩恵といると疲れるし、嫌なことも多かったかもしれないけど、それと同じくらい楽しいこともあった。
川で遊んだことも、海で魚を釣ったことも、全て彼女がいたから出来た経験だ。もちろん今日だって、身体の疲労面で言えば今にも殴ってやりたいくらいだけど、楽しいという感情に間違いはない。その気持ちに嘘はつきたくなかった。
「……そっか」
彩恵は僕から一歩遠ざかる。背中を向けられているため、その表情は見えない。
「私ね、不安だったんだ。璃都くん、最近になってようやく笑ってくれるようになったけど、時々思い詰めたように急に真剣な顔するから。本当は私といるの嫌なんじゃないかって」
風鈴のような吐息が、湿った大気に漏れる。一度言葉を区切って、彩恵は続けた。
「でも、安心した。山車を運んでる時の璃都くんの顔見たら、そんな心配吹き飛んじゃった。過去に何があったのか私には分からないけど、私は今の璃都くんを見ていたい。本当の君を、見ていたい」
ガラス玉のように透き通った目がゆっくりとこちらへ振り返る。細く艶やかな黒髪が夜風に靡いた。
「これからも一緒にいてね」
その時だった。まるで彩恵の言葉が合図であったかのように、夜空に大輪の花が咲いた。胸を強く叩かれているような炸裂音が辺り一帯に響く。
それをきっかけに、次々と細高い音が打ち上がり、色とりどりの花が上空で光っては消え、光っては消えを繰り返す。
「わぁ……花火だ!」
「これが……」
花火を生で見たのはこれが初めてだった。正直ここまでの迫力とは思ってもみなかった。星々で埋め尽くされていたキャンパスをカラフルな発光色が塗り重ねている。
「見て見て璃都くん花火だよ!」
彩光が放たれる度、はしゃぐように夜空を眺める彩恵の横顔が映る。
周りの観客も皆彩恵と同じように顔を上げ、「おぉー」と歓声を上げる人もいれば、花火を静かに楽しむ人もいた。
ここにいる全員の視線が上を向いている中、何故か僕は目の前の少女に目を奪われていた。
初めて見る花火よりも、見慣れているはずの彼女にどうしても見入ってしまう。
高く整った鼻筋、くるりと巻かれたまつ毛、健康さを物語るさくらんぼ色の唇。よく見なければ気づかない彼女の大人びた顔のパーツが、花火の光に照らされている。
「……綺麗だ」
「ん? 何か言った?」
ポツリと呟いた言葉は、彩恵には聞こえていなかった。どうやら花火の音に助けられたようだ。
「この花火毎年やってるんだけどね、私のお父さんも打ち上げに関わってるんだよ。さっきの広場のすぐ隣で打ち上げてるの。知ってた?」
「へー。だからこんなに迫力あるのか」
「そうそう。でもまだまだこんなもんじゃないよ。ラストにどでかいの来るんだから! 時間的にもうそろそろかな」
そう言って彩恵は近くの時計塔を指さす。
「あ! 来た!」
彩恵の声に釣られるように、今度こそ僕は上空を眺めた。
口笛のような音が上がり、先程のものとは比べ物にならない爆音が鳴る。
その衝撃と同時に巨大なピンクの線が夜空を覆い尽くした。
「九戸名物、しだれ桜!」
光の雨は曲線を描き、まるで流星群のように四方八方に降り注いだ。
花火はキラキラと残光を残して消えていく。
スケールのデカさ故、散りゆく様は少し儚い。
終わった後の謎の虚無感に襲われながら、僕は元通りになったキャンパスを眺め続けた。
「終わっちゃった、ね……」
「……」
空気中に残った火薬の匂いが鼻を掠める。
気づけば、会場内の提灯の灯りは全て消えていた。楽しい時間もこれでお開き。別れは突然に訪れる。
一度枯れた花はもうしばらくは咲くことはないのだろうと、夜空に思いを馳せて煙の流れを見送った。
「楽しかったなぁ……」
侘しく吸い込んだ空気は、淡い夏の香りがした。
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