花は咲く

柊 仁

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中学生編

らしさ

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 門を出て敷地全体を囲う塀に沿って家の裏側に回ると、庭とちょうど同じくらいの広さの畑に辿り着いた。

 とくに穀物や野菜が植えられているわけでもない一面真っ茶色の畑を、端から端へなぞるように見渡す。

 すると突として、視界のど真ん中にくわを大きく振りかぶって土を耕すさっきの老人の後ろ姿が現れた。

「……」

 僕はふぅーっと息を吐いて畑に足を踏み入れる。
 彼のゴツゴツした背中が目の前に来るまでゆっくり、ゆっくりと歩み寄って行った。

「誰だ」

 背後から来る僕の気配に気づいたのか、彼は作業する手を止めてこちらに振り向いた。

「あの——」

「……またお前か。自首でもしに来たのか」

 老人は僕の顔を確認するとすぐに身を翻してまた土を耕し始めた。

「いえ、自首をするつもりはありません」

 僕は冷静に伝えるべき最低限の事を彼の背中に投げかけた。

「……だったら何故来た。交番に突き出されたくなかったらとっとと去れ」

「礼華さんの事、聞きました」

「っ!」

 僕がその名前を口にした途端、老人の白髪頭がピクッと動いた。

「……婆さんに聞いたのか」

「はい。あなたの名前も。高田源三さん」

「何が言いたい」

「……本当にすみませんでした」

 源三さんの背中に僕は深々と頭を下げる。
 すると何秒か間を置いた後、彼は僕の方にゆっくりと振り向いた。

「謝ったところで何も変わらん。……それより手伝え」

 そう言って源三さんは僕の胸に持っていたくわを押し当ててきた。

「え?」

「いいから手伝え」

「は、はぁ」

 僕は彼の苛立ちの混じった声に押し負けて、心ならずも土がこびりついたままの持ち手を掴んだ。



 ***



「駄目だ腰が入っとらん! もっとこうだ!」

「は、はい……」

 源三さんは自分の動きを見せつけるかのように僕の横でくわを大きく振りかぶる。

 僕はといえばくわを持つのも精一杯で、ヘトヘトになりながらも源三さんと同じ動作をした。

 ……何故あの流れで手伝う事になってしまったのだろうか。畑仕事なんて僕に一番向いていない仕事なのに。

 それでもなるべく文句は言わずに、黙々と土を耕し続けた。

 二人の間に流れる重い沈黙の中、僕のゼェゼェという吐息だけが柔らかい土にすうっと染み込んでいく。

 僕はチラと源三さんの汗で濡れた横顔を見る。

 ……さっきはあんなに声を上げて怒ってきたのに今はやけに落ち着いてるなぁ。
 あのままのテンションだったら本当に交番に突き出されてた。

 今の彼は、数分前とは全く別人のように静かで、あの鬼のような目つきはすっかり弱々しくなっていた。

 ――爺さんにとってあの桜の木は、自分の命より大切なものなのよ。

 ……やっぱり十五年経っても、愛するものを失った悲しみは忘れられないのだろうか。
 人は、そういう生き物なのだろうか。

「……分かっとるさ」
 
 その時、源三さんの掠れた声が重い沈黙を切り裂いた。

「……え?」

 僕は急に横から聞こえてきた声にハッとすると土を耕す手を止めた。

 源三さんは作業をしながらそのまま話を続ける。

「お前さんがあの木を盗もうとしてないことなんて分かっとる。ただ自分のイライラを他人にぶつけたかっただけなんじゃ。さっきは悪かった」

「……」

 僕は源三さんの口から出てきた意外な言葉に目をパチクリさせた。

「あの桜の木を完成させた後に思ったんじゃ。どれだけ長い時間を掛けて苦労しても、礼華はもうわしの元には戻ってこない。そんな事分かってるはずなのに何でわしはこんなもの作ったんだろうって馬鹿馬鹿しくなって来てな。孫がいなくなった悲しみを忘れるために作った木が、今ではそれのせいでもっと忘れなくなってしまったんじゃ。……もう、切り倒してしまった方がいいのだろうか」

 独り言のように呟いた後大きなため息を吐いた彼の横顔は、どこか哀愁が漂っていた。

 心なしかさっきより動作に威勢が無くなっている気がする。
 
 ……僕には愛する人を失う辛さが分からない。
 彼がどれだけ孫の事を愛していたか、どれだけ悲しんできたか、今日出会ったばかりの僕には知る由もない。

 こんな時どんな言葉を返したらいいのか。僕の頭からは彼を慰める言葉さえも出てこなかった。

「お前さん、歳はいくつじゃ」

 源三さんは僕の方は見ずに聞いてきた。

「……もうすぐで十三です」

「十三か、まだまだ若いな。わしはその頃元気に村中を駆け回っとった」

 一人苦心する僕に気を遣ってくれたのか、源三さんは話の話題を変えてくれた。

「……ずっとこの村に居たんですか」

「あぁ。生まれてから九戸村一筋じゃ。昔はよく親友たちと神社に行ったり、川で遊んだり色んな事をしたもんだ。でもその親友たちはほとんどあの世へ行ってしまった。わしももうそろそろなのかもな」

「……」

 彼の決して冗談ではない話に、僕は言葉が詰まる。
 すると源三さんは作業する手を止めて真顔のまま僕の方に向き直った。
 そして僕の目をじっと見つめて、再び口を開いた。

「いいか、人っていう生き物はな、いつも死と隣り合わせなんじゃ。お前さんの周りにいる人も、お前さん自身も、いつ死ぬか分からない。だからな、今出来ることを精一杯しろ。今日という日は一生戻ってこない。たとえどんなに悔いが残っていたとしても、どんなに楽しかったとしても、時は流れてすぐ明日という未来がやって来る。時間は人を待ってはくれないんじゃ」
 
「時間は人を、待ってはくれない……」

「そう。わしはこれまで七十年近く生きてきたけれど、礼華と一緒に過ごしている時間は本当にあっという間じゃった。礼華がいたあの五年間が、楽しくて楽しくて仕方が無かった。それでももっとしてあげれられる事があったんじゃないかとも今になって思う。だからな、わしみたいに後になって後悔するような人間では駄目だ。今を人生で一番笑って過ごせる人間であれ」

 そう言って源三さんは少しだけ口元を緩ませた。

 今日出会って初めて見る笑顔だった。あんなに仏頂面を貫いていた彼が、本当はこんなに優しい表情を作れるのかと、僕の心に何か込み上げてくるものがあった。

「お前さん、名前は何て言うんだ」

 源三さんは落ち着いた口調で僕に聞いてくる。

「……小鳥遊璃都です」

「そうか。いい名前だ」

 沈み始める太陽、風になびく草木、優しく微笑む彼の表情。
 その時僕の目に見える全てのものが、何故か歪んで見えた。



 ***



「あ、お帰りなさい。二人で帰って来たのね」

 畑仕事を終え、源三さんと二人で庭先に戻るとさっきのおばさんが縁側で茶を啜りながら待っていた。
 彼女は驚く様子もなく、まるで僕達が一緒に帰って来るのを知っていたかのようにとても落ち着いていた。

「仕事を手伝わせてしまったからな。なんか食わせてやろうと思って連れて来た」

「そう。それなら準備しないとね」

 そう言っておばさんは湯吞みを置いてゆっくりと立ち上がった。

「それとな」

 源三さんは障子の奥に行こうとする彼女の背中に掠れた声を投げる。

「あの桜の木、もう切ってしまおうと思う。いつまでも悲しみに囚われてちゃ前を向けんからな。きっと礼華もわしが作った木なんて興味がないじゃろ。これでしまいだ」

 俯いて無理矢理笑顔を作る彼の言葉に、おばさんは数秒固まった後こちらに振り向いて優しく頬を緩ませた。

「……爺さんがそれでいいなら、私は何も言わないわ」

「すまないな。今までたくさん心配を掛けた」

「いいのよ。私はあんなにも美しい桜を見れただけで充分幸せだから」

「……」

 この二人の世界に割り込んではいけない。僕は彼らを後ろから眺めてそう悟った。

 でも本当にあの木を切ってしまっていいのだろうか。
 僕が悩むべき事ではないのは分かってる。なぜなら礼華さんのことで一番悩んできたのは彼らなのだから。

 源三さんが、おばさんが、本当にそれで納得出来るのなら僕は何も言う必要は無い。
 それでも二人の表情を見ていると、とても心の底から納得しているとは思えなかった。

 表面でぎこちなく微笑む彼らの笑顔の裏側には、後悔と、悲哀と、無念が確かに存在していた。

「おにぎり用意してくるから、二人とも上がりなさい」

 おばさんはそう言って、障子の向こうへと消えていった。

 源三さんはそれをじっと目で追った後、さっきの不慣れな笑顔のままこちらに振り向いた。

「身内の話に色々巻き込んですまなかったな」

「いえ、そんな事、ないです……」

 このまま終わりそうな話の展開にモヤモヤを抱えながら僕は首を小さく横に振る。

 それをどこか悲しそうに見ていた源三さんは、遠回しに慰めるかのように筋肉質の手をポンと僕の頭に置いて笑みを浮かべた。

「お前さんのお陰で前を向けそうじゃ。礼華もきっとそれが一番――」

 その時、彼は何故か途中で言葉を止めた。

「……どうしたんですか?」

「……」

 聞いても彼は僕の背後をポカンと見つめたままで、何も応えない。
 
「源三さん?」

 すると、源三さんは耳を澄まさなければ聞こえない程の小さな声でボソッと呟いた。

「礼華……」

「え?」

 僕はその言葉に驚いて、彼が見つめる先、桜の木に振り返る。
 そしてそこに見えたものに僕は目を疑った。

 そこには薄い光をまとった半透明の少女が、桜の木の前で立っていた。
 真っ白のワンピースを着て身体は透けていることから彼女がこの世の人間ではないのはすぐ分かった。

「礼華……礼華なのか?」

 源三さんは手足を震わせながらゆっくりと彼女の元に歩いていく。

「……」

 一体何が起こってるんだ……。

 僕は目の前の光景に理解が追い付かず、その場で呆然と立ち尽くした。

「あぁ……。礼華だ。礼華がここにいる……」

 源三さんは少女のすぐ傍に来ると、彼女をギュッと抱き寄せた。
 
「触れる、感触があるぞ。信じられない……」

 すると少女は源三さんの胸にそーっと顔をうずめた。

「おじいちゃん。わたしね、おじいちゃんのこと、ずっと見てたよ。わたしのためにこの桜の木を育ててくれたこと、知ってるよ」

「礼華……」

「いっしょに桜見れなくて、ごめんね」

「いいんだよ。わしは今こうして礼華に会えたことが一番嬉しいんじゃ」

「ありがとう。……おじいちゃんだいすき」

「わしもじゃ。わしも礼華のことが大好きじゃよ……」

 源三さんは、少女をさらに強く抱き寄せて、ありったけの涙を流した。

 その時、眩い光が彼女を包み込み始める。

 直視出来ない程の強い光を放つその光はまるで七色の虹のように色鮮やかで、ここは天国なのではないかと錯覚するくらいに辺り一帯をカラフルに照らした。
 
 すると光源から、幼くも温かい声が聞こえてくる。

「姿は見えなくても、いつも見てるからね。この桜の木から、ずっと見守ってるから」

 その声が僕と源三さん二人の心に優しく響き渡った時、目の前の光はすーっと消えていった。

 気が付くとそこにはもう、少女の姿は無かった。

「……」

「……」

 短い時間の間に起こった信じられない奇跡に、源三さんは余韻に浸ったような表情で足元をボーっと見つめていた。
 
 とはいえ後ろから眺めていた僕も彼と同様放心状態で、衝撃のあまり何も考えることが出来なかった。

 お互い何も言葉を発することが出来ず、長い沈黙が二人の間に流れる。

「あれ? 二人とも何してるの? そんな所に突っ立って」

 しばらくして沈黙を切り裂いたのは、大量のおにぎりが盛り付けられた大皿を持って障子の奥から出てきたおばさんの一声だった。

「っ……!」

 彼女のだみ声が耳に届いた時、僕と源三さんはハッとしてすぐに気を取り戻した。

「おにぎり作ったから、早くこっちに来ない」

 おばさんは庭で立ち尽くす僕達を縁側へと促す。

「あ、あぁ」

「どうしたのよ? 急にそんな黙り込んじゃって」

「……いや、なんでもない」

 源三さんは涙で濡れた顔をおばさんに見せたくないのか、彼女に背を向けたまま答える。

「……婆さん……」

「ん? 何?」

 数秒黙り込んだ後、源三さんは桜の木を見上げて再び口を開いた。

「やっぱり、切り倒すのは止めようと思う」

「……」

「礼華はしっかりとわしのことを見ていてくれてた。今までやって来たことは無駄じゃなかったんじゃ」

「爺さん……」

「途中からわしは、この桜の木を育てることへの意味を見失ってしまっていた。でも今日気づかされたよ。本当に大切なのは結果じゃない。誰かを想う″愛″なんじゃ。わしは育てることにこだわりすぎてそれを忘れていた。婆さん、お前がいなかったらここまで来ることは出来なかったよ。ありがとう」

「っ……!」


 こちらに振り返り濁りの無い表情で微笑む彼の言葉に、おばさんは感極まって手に持っていた大皿をガチャンと落として膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。

 その手はどこかプルプルと小刻みに震えているように見えた。

「どうした。泣いてるのか?」

「だって……だって……」

「……今まで本当に世話掛けたな」

「やめて……それ以上は何も言わないで……でないと私、もっと泣いちゃう……」

「……ごめんな……」

 その時、二人の頬には陽の光に照らされた小さな水晶玉が二滴、透明な小川を残して伝っていた。
 
「……」

 ようやく心の壁を打ち壊した二人に挟まれた僕は、どんな顔をすれば良いのか分からず、右と左を交互に見つめることしか出来なかった。

 大人がここまで感情を表に出して泣いているのを見るのは小学生以来だった。
 それでもあの時の哀しみの涙とは訳が違う。今二人が流しているのは辛い哀しみを乗り越えた、愛に満ちた涙だった。

 きっとおばさんが僕に話してくれた過去は、まだほんの一部に過ぎないのだろう。
 僕には想像も出来ないような長い長い葛藤が、彼らにはもっとあったはずだ。

 それは二人の表情を見れば一目瞭然だった。

 人には人それぞれの人生がある。
 ただその全てを他人は知ることが出来ない。

 いくら楽しそうに接していても、家では泣いているのかもしれない。いくら嬉しそうにしていても、心の中では嬉しくないのかもかもしれない。

 肉眼では見えない人生が、人には山ほどあるが、今日僕はその内側を見ることが出来た。
 決して裏の無い、心からの言葉と愛を。
 
 昔、よくこんな事を考えていた。

 僕以外の人達は本当に人間なのだろうかと。
 街中を歩いている人、犬の散歩をしている人、目に見えるだけでいろんな人がいたけど、本当は僕だけが感情を持っていて、他の人は全て人間のように緻密にプログラムされたサイボーグなのでは無いか。

 哲学的ゾンビという言葉が大昔にあったように、僕も同じような事を周りに対して疑っていたのだ。

 でも違った。皆人間だった。

 こんな当たり前の事、彩恵や幾ばあに言ったら笑われるのかもしれない。
 
 それでも笑ったり、泣いたり、喧嘩したり、人間にしか出来ないことを目の前にして見れたのは僕にとってはとても新鮮だった。

 ……本当は僕の方こそが、感情の無いサイボーグだったんだ。
 
 人間″らしさ″、それこそが本物の愛に繋がるのだと、咽び泣く彼らを見て悟った。



 ***



 

 
 おばさんに作り直してもらったおにぎりを食べ、家を出た頃にはもうすっかり日が暮れていた。

 田んぼの水面に輝く夕陽がオレンジ色と共に幻想的な雰囲気を四方八方に醸し出して、今日起こった出来事への情緒をより一層高まらせた。
 
 僕は塀の向こう側に見える桜の木へと振り向いて、帰り際源三さんに言われた一言を思い出す。

 ――お前さんのお陰で大切なものに気付けたよ。本当にありがとう。

 普段ありがとうと人に感謝される事が無い僕にとって、この言葉は妙に深く心に残った。

 本当に僕は、源三さんに感謝されるほどの事をしたのだろうか。
 ただ後ろで突っ立って彼らが泣いているのを見ることしか出来なかった僕が、一体何をしたというのだろうか。

 それでも、今はそんな疑念も数分間のありえない体験の前には遠く及ばず、徐々に僕の頭から消えかかっていた。

 一本の桜の木に舞い降りた奇跡、僕と源三さんにしか見えなかった少女。
 
 きっとこの先何十年、僕が大人になってもあの光景を忘れることは無いだろう。
 
 もしそれを忘れたのなら、その時は僕が深い闇の底から抜け出した時。僕が僕自身を取り戻した時だ。

 だがそれはまだ程遠い未来なのだと、心の中で悔恨を感じると共に、どこかホッと安心した。

「……散歩、続けてみようかな」

 辺り一帯を淡く照らす夕陽の下で、今日出逢った夢物語に別れを告げながら、僕は足早と帰路に就いた。
 

 

 




 

 

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