花は咲く

柊 仁

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中学生編

桜花

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 四月の中旬、雲一つ無い澄み切った青空の下で僕は家の周りの畑近くをフラフラと歩いていた。
 今日は珍しく気温もそこまで高くはなく、散歩をするのには十分適した気候だった。

 太陽は僕のはるか頭上で村全体を明るく照らしていて、生きるもの全てに命を吹き込んでいる。

 どうやら僕もその恩恵は受けているようで家の中とは違う屋外の新鮮な空気に自然と高揚感を覚えていた。
 
 道端に咲く菜の花の甘い匂いがすーっと鼻に入り込む。
 自然が作り出す甘味料は優しくて、どこか温かい。
 
 春という季節を身体全体で感じながら僕は辺りの景色を見渡した。
 すると、遠くに何軒か木造の民家が建っているのが見えた。周りにはコンクリートで舗装された小道
が家々を隔てるように細く通っている。

 そういえばあそこら辺行ったことないな……。

 僕は民家が見える方を目指して足を進めた。

 九戸村には都市部のような高い建物は無く、強いて言えばレンガ製の村役場があるくらいでその他は全て木造建築の古民家がこの村の景観を形成している。

 空を邪魔するものも無く、海や川を汚す工場も無い。
 近年農村部で開発化が進んできている日本でこのような典型的な田舎が存在しているのは中々珍しいことだ。

 先祖代々機械に頼らず自分達の力で生活してきた結果がこの自然豊かな村を作り出しているのだと、僕は目に見えない人達に僅かながら畏敬の念を抱いた。

 歩いているうちに徐々に地面が土からコンクリートへと移り変わっていく。

 僕はなるべく人に見つからないように、早歩きで民家が並ぶ通りを散策した。

 ……田舎の家ってやっぱどこも大きいんだなぁ。東京だったら軽く一億はしそうだ。

 そんな他愛も無いことを考えながら歩いていると、僕はある一軒の家の門前でふと足を止めた。

「……」

 桜の木……だろうか。僕が見つめるその先には満開に花を咲かせた樹木が広大な庭の真ん中にどんとそびえ立っていた。

 そのスケールとあまりの美しさに僕は目を奪われた。

 けれど何かがおかしい。
 確かに白い桜の花は咲いているのだけれど他の枝には何故かピンクや薄紫などの全く異なる色の花がごちゃ混ぜになって咲いていた。しかも色によって花の形が違う。

 もっと近くで見てみたい。

 気が付けば僕は門を通って庭の中に入っていた。

 木のすぐ近くまでやってくるとカラフルな花々がより鮮明に見えた。
 
 やっぱり僕の見間違いではなかった。
 一本の枝に何種類もの花を不揃いに咲かせるその木は今まで僕が見てきた中でもダントツで綺麗で、何かスピリチュアルなものを感じた。
 
 僕は子供ながらの好奇心で、桜の花に触れてみようとそーっと手を近づけた。

 その時、玄関の方から男の人の大きな怒鳴り声が飛んできた。

「何やっとるだ!」

 見ると薄汚れた白いTシャツに首にタオルを巻いた白髪の老人がくわを持ってこちらをギロリと鋭い眼光で睨みつけていた。

「え、や、あの僕はその……」

 僕は老人の圧倒的な威圧感に押されてしどろもどろになった。

「枝を折って盗もうとしたんだろ! この泥棒め!」

 老人は鬼の形相でこちらに迫ってくる。
 がっしりとした身体つきで武器を持ってるせいか、本当に鬼が迫ってくるようだった。

「いや、僕はもっと近くで見たかっただけで別に盗もうとした訳じゃ……」

「いいや違う! わしの目は誤魔化せん! このガキ、交番に突き出してやる!」

「ちょっとちょっと何の騒ぎよ?」

 老人が弱々しく否定する僕の胸倉を掴もうとした瞬間、縁側の障子がガラリと開くと同時に中から小太りでエプロン姿の中年女性が驚いた顔をして出てきた。

「このガキがわしの大切な木を盗もうとしたんだべ!」

 老人は僕を指差して女性に必死に訴えかけた。

「はぁ? 子供が桜なんて盗むわけねぇべ。どうせまた爺さんの勘違いでしょ」

「そんな訳ない! わしはこの目でしっかり見たんだべ!」

「……君は本当に盗もうとしたのかい?」

 女性は数拍置いた後、僕に優しく聞いてきた。

 僕は慌てて首を大きく横に振る。

「ほらみぃ。話を聞かずに決めつけるのは爺さんの悪い癖だべ。その子にしっかり謝りない」

「謝るものか! わしは認めんぞ!」

 そう言って老人は険しい表情のまま門を出て行った。
 
 僕はそれをただただ呆然と見つめてその場で立ち尽くすことしか出来なかった。

「……」

 さっき彼に言われた泥棒という言葉が、まだ僕の頭の中で残響のように響き渡っている。

 別に僕はこの木を盗もうだなんて微塵も思っていない。ただもっと近くで見てみたかっただけだった。

 それなのにあの言葉に過敏に反応してしまうのは、やはり前の事をまだ引きずっているからなのだろうか。

 僕はキュッと縮こまる心臓を右手で押さえた。

「ごめんねぇ。あの人ああいう性格だから誰にでも強く当たっちゃうのよ」

 女性は冗談めかすようにして笑う。

「いえ。勝手に敷地に入ってしまった僕も悪いので……」

「別にいいのよー。ここら辺じゃご近所さんの家に勝手に入るのはそんな変わった事じゃないんだから。だから気にすることはないわ。それよりお茶飲んでかない? ちょうど淹れたとこなの」

「は、はぁ」

 本当ならここから早く立ち去ってしまいたいくらいだけど、僕は先ほどの申し訳なさから断ることが出来ず、不本意ながらコクリと頷いた。

 それを見て女性は部屋の奥へと消えて行ったかと思うとすぐに戻ってきてお盆の上に乗せたお茶とお茶菓子を縁側に置いた。

「ほら、こっちきない」

 女性はちょいちょいと手を曲げてこちらに手招きしてくる。

 僕は気が乗らないまま縁側まで歩き、彼女から少しだけ距離をとって座った。

「こんなつまらない物しかないけど食べて」

「ありがとうございます……」

 女性は熱々の湯吞みと個包装されたお菓子をそれぞれ僕の横に差し出した。

「ところで君最近引っ越してきた子よね?」

「はい。三月に東京から……」

「東京! そりゃすごい。ここに来てなんも無くてびっくりしたでしょ」

「そんなことないです。素晴らしい所だと思います」

「はっはっは! お世辞が上手いわねー。別に気ぃ遣わなくてもいいのよ。本当に何も無いんだから」

 そう言って女性は個包装を開けて中のお菓子をぱくつき始めた。

 僕はといえばお菓子に手を付ける気にもならず、重くなった心にモヤモヤを溜め込んでいた。
 何であそこまでして老人は僕に怒ってきたのだろう。確かに綺麗だからという理由で触ろうとした僕にも十分非はあるけど……。

「あの、あの木って……」

 僕は彼女の横顔に尋ねた。

「あぁ、あの桜の木綺麗でしょ。交配種って言って種類の違う木の枝を繋ぎ合わせることによってああいうカラフルな木ができるの。爺さんが何回も試行錯誤して作ったのよ」

「そうなんですか……。あんな木初めて見ました」

「あそこまで綺麗に作るのは相当難しいからねぇ。しかも何年も時間が掛かるから誰もやろうとしないのよ」

 ……どうりであの人があんなに怒るわけだ。

「でも何でそこまでしてあの木を育てたんですか」

 興味本位で聞いてみると女性はさっきまで美味しそうに食べていたお菓子を食べる手を止めてどこか悲しそうな表情で俯いた。

「……ちょっとだけ長くなるけど、いいかい?」

「は、はい」

 ……何かいけないことを聞いてしまったのだろうか。
 
 気づけば僕の額からは汗が滲み出ていた。
 
 少しだけ間を置いた後、女性は湯吞みに浮かぶ茶柱をじっと見つめながら話し始めた。

「十五年前、私達には礼華れいかっていう五歳の孫がいてね。毎年春になると九戸に来て、家の近くにある川沿いの桜並木をとても嬉しそうに眺めていたの。爺さんもそれはそれは礼華の事を可愛がって春に一緒に桜を見に行くのを毎年のように楽しみにしていたわ。あの頃の爺さんは明るくて、優しくて、誰よりも孫に愛情を注ぐ人だった。それがある冬の日、礼華は車にはねられて死んでしまった。それを聞いた爺さんはショックのあまり三日間も寝込んでいたわ。もう少し、あともう少しで会えたのに。春が来たら一緒に桜を見れたのに。そう言って一人で何回泣き崩れていたことか。それからの爺さんは全く笑わなくなってしまった。孫のいない人生など生きている意味があるのだろうかと何度も死のうとしたけど私が必死に引き止めたわ」

「……」

「やがて孫を失った悔しさから爺さんは村の皆に八つ当たりをするようになって、今までの良かった評判はどんどん悪くなっていった。励ましてくれる人も、味方になってくれる人も誰もいない、ましてや周りから避けられるようにまでなってしまった。そのせいで礼華を失った悲しみから余計に立ち直ることが出来なくなって、一人部屋の隅っこでずっと悩んでいた。そこで思いついたのがあの木だったの。礼華がいつでも見に来てくれるように、いつかまた会えるように世界で一番美しい桜の木を作ろうと爺さんは必死に何年も掛けて試行錯誤した末、あの木を完成させた。これが孫への供養になれば。そういう思いで育てていたんだと思う。だから爺さんにとってあの桜の木は、自分の命よりも大切なものなのよ」

「……僕はそんな大切な木に触ろうとしてしまったんですね……すみません」

「謝ることないわ。むしろあの木を綺麗って思ってくれたことが私はとても嬉しい。きっと爺さんも表には出さないだけでそんなに怒ってないわよ」

 女性は桜の木を眺めながらニコッと微笑んだ。

 ……僕はなんて事をしてしまったのだろう。愛する孫の為に必死に育てた桜の木を部外者である僕が勝手に触ろうとするなんて。最低だ。この人だって本当は辛かったはずなのに……。

「あの……さっきのお爺さんの名前を伺ってもいいでしょうか」

 僕は汗で濡れた拳をギュッと握りしめて彼女に尋ねた。

「……源三、高田源三たかだげんぞうよ」

「ありがとうございます」

「爺さんの所に行くの?」

「……はい。今回は僕が悪いので」

「……そう。爺さんなら裏の畑にいるわ。許してもらえるといいわね」

 彼女の優しい笑顔に僕はコクリと頷き、その場を立った。

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