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夜明けの幻想曲 3章 救国の旗手

28 キンモクセイの君へ

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「さぁフェリクス。彼女を捕らえなさい。出来なければ殺したって構わないわ」

 甘い甘い果実の蜜が溢れるのを音で表しているかのような声だった。フェリクスにしなだれかかったベアトリクスは視線だけをミセリアに向けていた。嘲笑だ。ミセリアを嘲笑っているのだ。
 ――この太陽に救われるのは私なのよ。貴女は救われなくても良い。
 黙って見ていたミセリアはペンダントに触れ、そしてベアトリクスに向けて笑んだ。嘲笑とは違う、自身に満ちた微笑みを。

「お前は分かっていない。そんなことをしなくてもフェリクスはお前もちゃんと救ってくれるさ。私を変えてくれたように、お前も太陽の下へ導いてくれる」
「知ったような口を聞かないで。私にあの場所で救われるのを待ち続けろと言うの?あのまま待ち続けて私は本当に救われるのかしら? ――いいえ、いいえ。待っているだけじゃ私は自由になれなかったわ」
「そうかもしれない。ただ暗闇の中で待っているだけが正解ではないとは思う。……だが」

 それからミセリアは目を細めてベアトリクスを睨み付けるようにした。研ぎ澄まされたナイフのように、鋭い金色がベアトリクスを射貫く。

「そのために、こんな方法を取るべきではなかった」

 静かな一言にベアトリクスは無言でフェリクスから離れる。ミセリアを睨む彼女の周りを白い煙が少しずつ舞い、覆っていく。

「フェリクス、お願いよ」

 怒りを滲ませながら王女は白へと溶けていく。
 普通に考えるならば不自然な現象にミセリアは尋ねた。あくまで冷静に。

「これはお前の力か? フェリクス」
「……」

 小さく首が横に振られる。どうやら簡単な質問には答えられるらしかった。
 肩をすくめたミセリアはしっかりと持っていたナイフをフェリクスの足下に投げてよこす。カラン、と軽い音をたてて落ちたそれはフェリクスの靴に当たって動きを止める。それを拾い上げるフェリクスに向けて、ミセリアはその場から一歩も動かないまま両腕を広げた。

「その旗じゃあ私を殺すのは難しいだろう。殺したいのなら、それを使え。かつて私がお前にしたように」

 ミセリアはあの日のことを後悔はしていなかった。フェリクスの暗殺依頼を引き受けたからこそ出会えたのだから。――もちろん、殺そうとしたことに対しての罪悪感は今でも胸の奥底に燻っているのだが。
 フェリクスはナイフを手にミセリアに歩み寄る。迷うこと無く近づいてきた彼はミセリアと人一人分の空間を空けた場所で立ち止まる。こてん、と幼子のように首を傾げて今度はフェリクスの方から尋ねた。

「君は、殺されたい? それが望み?」
「いや。当たり前だが殺されたくない。でも、お前が望むのならばお前にしてきたことの償いは受けようと思う」

 ミセリアは腕を伸ばしてフェリクスの腕を指す。

「私はお前のここを刺した。そのナイフで、私の意志で。それを許せないと思うのならば私の腕を同じように刺しても良い」

 それは暗殺組織が根城にしていた地下遺跡でのことだった。姉ケセラが傷つけられる様に焦り、頭領に命じられるままにミセリアはフェリクスを傷つけた。深い傷だった。そんな傷を負わせたミセリアにフェリクスは何をしたか。
 フェリクスはナイフを持った手を自らの胸の前まで持ち上げる。
 ベアトリクスに操られているはずのフェリクスだ。すぐに刺してきてもおかしくはない。

(信じているよ、お前は――)

 カタカタと刃が震える。石榴石の瞳が揺れている。まるで何かに耐えているかのように。
 それを見たミセリアはやっぱりな、と眉を下げる。

「どこまでも優しいやつだ」

 次の瞬間、ミセリアはフェリクスの手首を掴んだ。有無を言わせずナイフを握った手を引き寄せた。その刃はミセリアの左腕へと吸い込まれていく。
 フェリクスの目が大きく見開かれた。それを見てミセリアは確信する。
 フェリクスはまだ抗っているのだ。勝手に動く身体とままならない意識の中、それでも自由になろうと足掻いている。ミセリアの血を見て確かな動揺を見せたのがその証だ。この王子は誰かが傷つく姿を見ることを望まない。本来の意識が浮上しかけている。
 深々とナイフが刺さった箇所から痛いというよりは熱を感じる。ミセリアはフェリクスの目を見つめ続けた。フェリクスはミセリアが流す血を呆然と見つめ、口を開きかけた。

「ミセリア」
「さぁ、そのままよ。そのまま心臓を貫いて――」

 なんてことを、と紡ごうとしたフェリクスへどこからか呪縛の言葉が降り注ぐ。

「いっ……」

 容赦なく引き抜かれたナイフに、ミセリアは思わず顔をしかめる。ベアトリクスの言葉はミセリアにも聞こえていた。鮮血が舞うのを見てフェリクスは顔を青ざめさせた。何の感情もなかった顔に漸く色が戻ってきたところだったのに。ミセリアは舌打ちをする。
 振り下ろされたナイフを避ける。痛む左腕は使い物にならない。ミセリアはフェリクスによる攻撃を何度か避ける。フェリクスの意識が戻りつつあるからかベアトリクスの操り方が拙いのか、その動きは少々雑だ。避けるのは簡単だった。
 それよりも気を付けるべきは出血多量によって意識を失ってしまうことだ。それよりも先にフェリクスを解放しなければならない。

『これを貴女に預けます』

 ふと思い出した。ミセリアは隠し持っていた小瓶を右手で取り出す。中身は無事なようだ。左腕が仕えない以上、どうやって蓋を開けるか一瞬だけ考えた後にミセリアは小瓶を口元に持って行く。ナイフの動きに気を付けながら蓋に噛みつき、引き抜いた。蓋は迷いなく捨てる。早く右手を自由にするために小瓶の中身を呷る。
 鉄のニオイ。小瓶の中身を察して思わず吐き出しそうになるが、これを託したセラフィの思いを無駄にすることはできない。用済みの小瓶を投げ捨ててミセリアはフェリクスに意識を戻す。

(覚悟しろ)

 心の中でそう言って、自由になった右腕を軸に体勢を低くする。ミセリアの頭があった位置を銀色のナイフが掠めた。ミセリアの真横にはふらついたフェリクスの脚がある。今のフェリクスなら、ミセリアからのどんな攻撃も自らの意志で避けることはしないだろう。そんな確信があった。
 それを信じて回し蹴りをする。ミセリアの確信通り、それは見事に命中してフェリクスの体勢を崩す。
 後ろへと倒れゆく身体。瞬時に起き上がったミセリアは咄嗟に左腕を伸ばしてフェリクスの腕を掴む。痛みなんて今は気にしていられなかった。ぐい、と力任せに引き寄せる。右手はフェリクスの胸ぐらを掴み、頭突きをするかのように顔を寄せた。

(すまない)

 ふわりと微かに甘い香りがした。不快になる香りではなく、よほど近づかなければ感じないであろう微かな香り。誰かを虜にする、優しくも芳醇な香り。
 フェリクスは花だ。あたたかな陽の光を浴びてキラキラと輝き、その見た目と香りで人を癒やしていく。ある者はその花を愛でるだろう。ある者はその花に魅了されてしまうかもしれない。ミセリアを含めた仲間達は前者。国王やベアトリクスは後者といったところか。

 そんなシアルワが誇る黄金の花フェリクスへと、ミセリアは噛みついた。

 もちろんフェリクスは抵抗しようとはしなかった。鏡のような石榴石の瞳にミセリアを映し瞼を閉ざした。
 二人で床に膝をつく。ミセリアは噛みついていた唇から離れ、けほ、と一回咳をした。フェリクスにも共有した口の中の苦さはまだ残っている。

「……」

 数秒の沈黙の後、ぴくりとフェリクスの指が動いた。両腕が持ち上げられる。恐る恐る背中へと回されるその腕をミセリアは退けようとはしなかった。その手にはナイフも旗もなく、空っぽの手のひらはミセリアの体温を感じ取ろうとむき出しの背に触れた。
 思い切り抱きしめられる形になり、ミセリアはそれに応えた。あの日、初めてフェリクスに抱きしめられた時はできなかった――抱きしめ返すという行為を今はできる。あの時は感じていただけの温もりを、今度は感じさせてやるのだ。

「ミセリア……」
「起きたか?」

 小さく呼ばれ、小さく問いかける。フェリクスは閉じていた瞼を開いてミセリアを真っ直ぐに見つめた。その瞳はミセリアが求めたような、キラキラと太陽のような輝きを取り戻していた。一瞬いつもの笑みを浮かべ、すぐ半泣きになって情けない表情になる。

「これ、苦いよ……」
「最初に言うことがそれか、馬鹿」
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