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2章 蒼穹の愛し子

0 決意の夜

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 僅かに蝶番の軋む音がしても、シャルロットは動かない。
 シアルワ城の客室、そのベッドに腰掛けて窓越しの満月を見上げる。小さな足音が耳をくすぐり、やがて彼が自分の隣に訪れる。同じようにベッドに腰掛けて、肩を寄せてくれる。
 こつん、と優しい衝撃。

 いつから彼が隣にいることが当たり前になっただろう、と考えてみる。
 そう、あれは約一年前。精霊ビエントに襲われて逃げた先で彼が自分を助けてくれたのだ。あれが全ての始まりだったように思う。
 あれからずっと共にいた。『一緒にいよう』と約束もした。彼の傷を知って、癒やしてあげたいと願った。何より、彼が隣にいてくれるだけで世界が明るく染まっていった。
 人知れず孤独を胸に秘めた少女もまた、彼という存在に救われていたのだ。
 それほどまでに気を許していた。だからこそ、心からの弱音を吐いてしまえる。

「……レイ」
「うん」
「私ね、私ね」

 炭のように黒い左手と、元々の肌の色の右手を握りしめる。
 孤独とは言いつつも、彼女は確かに自分を愛してくれていた兄たちや両親が大好きだった。側にいられない故の寂しさがあるだけだった。
 シャルロットが生まれ落ちた直後に精霊から庇って命を落とした両親。
 自らの意志を貫き通し、苦しむ仲間を救う代わりに命を落とした二番目の兄。
 罪を償うため、そして妹を苦しめた元凶への復讐を遂げて命を落とした一番目の兄。
 全員、シャルロットを深く愛してくれていた。
 それを全て理不尽に奪われて、どうして笑顔でいられようか。
 どうして怒りを覚えずにいられるだろうか。

「許せない。許せないの」
「うん」
「私がちゃんとしていればみんな生きていられたかもしれないのに。なんで、なんで……」

 もしもを考えればきりがない。しかし、弱った心に思考の坩堝を切り抜ける力はなかった。
 抜け出せない苦しみが……胸に拘泥し続けていた感情が喉に、目に、体中にこみ上げて爆発する。

「なんでお兄ちゃんたちが死ななければならなかったの!? なんで私は理不尽に家族を奪われなければならないの!? 身体もずっと痛いの、痛みが止まらないの、沢山声が聞こえるの、お前を許さないって、憎いって……私が何をしたっていうの!?」

 少女の華奢な身体は瘴気に蝕まれ、焼けるような痛みと誰とも知らぬ怨嗟の声が常に襲い来る。それは耳を塞ごうが無意味で、脳裏に延々と囁かれ続けていた。黒く染まった皮膚の触覚は最早機能しておらず、温かさも冷たさも感じない。痛みと虚無だけを与えてくるこの黒色もまた酷く憎かった。
 静かに怒りを受け止めてくれていた青年は、耐えきれくなったようにシャルロットの身体を抱き寄せてくれる。
 優しい匂いと柔らかな感覚。目から涙が溢れる。

「シャルロットは何も悪くない。誰がなんと言おうと、悪くない」
「わたし、わたし……!!」

 シャルロットは僅かに感じ取れる温もりを手放すまいと青年の背中に腕を回した。そのまま声をあげて泣きじゃくる。
 そんな可哀想な少女を包み込む青年は、少し顔の位置をずらすと、互いの額をこつりとぶつけ合う。

「……シャルロット。俺、決めたよ」
「う……あぁ……」
「どんな手段を使おうと、君を必ず救ってみせる。かつて君が俺を救ってくれたように……今度は俺の番だ」

 涙に濡れた目で青年を見上げると、彼は闇を孕んだ眼差しで見つめ返してくる。
 シャルロットの心はもうはち切れそうなほどいっぱいになっていて、青年の言葉の意味を深く理解することが出来なかった。ただただ与えられる温もりにすがりついて泣くことしか出来ない。
 泣いて泣いて泣いて泣いて、どれくらい泣いたか。
 泣くこと、そして絶え間ない痛みに疲れてしまった少女はやがて自然と眠りに落ちる。削られ続けた体力は彼女が起きていることを許さず、生きるための本能が意識を深淵へと連れて行く。
 瞼を閉じる間際、ぼんやりと認識した青年の表情は――これ以上になく美しく、哀しく微笑みを湛えていた。



 シャルロットをベッドに横たえ、苦しげな寝顔をそっと撫でる。
 今のところ治す手段は存在せず、このままであれば彼女はいずれ激痛と怨嗟に飲まれて壊れてしまうかもしれない。大神子の直径の血筋がもう残されていない以上死ぬことはないだろうが、それは永遠の苦しみを意味し、死ぬ以上の地獄となる。
 少女を失うことを誰よりも恐れている自覚がある分、胸に秘めた決意はより強固なものとなる。
 頬を撫でているうち、身体が勝手に彼女の側へ近づこうとしていることに気がついた。ただでさえ隣にいたのに、さらに近くへ。やがてもう一度額同士が触れて、そして。
 触れるだけの、キスをした。
 あまりにも身勝手な行為に、好意に、自分で嫌気が差す。
 音を立てないように立ち上がった彼はまた泣きたくなるような感情に襲われて――しかし、やはり涙は出ない。

「……君に誓う」

 満月の中、女神に忠誠を誓う騎士のように跪く。

「俺は君を救う。そのために――あいつを必ず殺す。絶対に。だから」

 神殺しを口にした青年が再び立ち上がったとき、その顔から迷いは抜け落ちていた。
 部屋に懺悔がひとつ零れる。

「約束、守れなくてごめんね」


***


 次の日、シャルロットが目覚めた時に愛しき青年の姿はどこにもなかった。


***
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