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1章 贖罪の憤怒蛍

9 モノクロの部屋

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 人気のないはずの廊下に悲鳴が聞こえたような気がして、レイの心はざわざわと落ち着かない。
 脳髄に直接響く雑音はもう無視できない。故に、その悲鳴が本当に聞こえたかも定かではない。
 しかし、悲鳴の有無に関わらず急がなければならないのは変わらない。小走りだった足取りが次第に速くなっていく。
 走っている途中、背筋を悪寒が走り抜ける。

「……ここ、か」

 立ち止まった先はとある扉の前だ。周りの扉との差異はないに等しく、のっぺりと白いスライド式の扉には部屋の名前も番号も何も書かれていない。
 この先に何かがあると、根拠もなしにレイは確信する。取っ手に手をかけるとひんやりとしており、軽く力を込めると簡単に開いてくれる。鍵はかかっていなかった。
 大した音もなく開かれたその部屋は無人だ。
 白い壁と白い床の立方体の部屋だ。
 正面には同じ形の別の扉があり、内装はいたってシンプルだ。中央に手術台のようなベッドがひとつ。近くに置かれた台にはメスや鋏など、銀色で統一された道具が並べられている。血こそついていないものの、見るだけでなんだか嫌な気分になる場所だ。おまけに、隅に乱雑に放置された麻袋が嫌な想像を掻き立てる。
 視界からそれらを外して、次の扉に手をかけて開いた。開くとき、扉の動作が重く感じた。
 その先は短い廊下で、防音壁だろうか――ただの壁材ではなさそうだ。突き当たりには最後と思われる扉があり、こちらは黒一色のいかにも重そうな造りだ。
 迷いなく次の扉に手をかけ、

「――たすけて」

 少女の声が聞こえたと同時に、勢いよく開け放った。


 その先は、まさに地獄だった。
 黒い嵐が部屋に満ちており、それはレイが立っていた廊下にも雪崩れ込んでくる。

「いやだ」「痛い」「なんで私が」「お母さん」「死にたくない」「憎い」「熱い」「アイツが死ねば良かったのに」「誰か」「たすけて」

 思わず耳を塞ぎたくなる嵐はレイの全身を撫でては痛みを与えてくる。しかし、絶えられないほどではない。それ以上の痛みを知っていて良かった、とこの時初めて思うのだった。
 割れそうな頭痛を堪えつつ向き直る。
 その部屋は最初の部屋と同じように立方体だ。正面、部屋の中央に鉄格子が印象的だった。壁には見たこともない道具と鎖が下がっている。――まるで、拷問部屋のような。
 実際に、鉄格子の手前には屍が転がっている。体中に裂傷が走り、中には顔すら判別できないようなものもあった。床に広がる血は新鮮なのだろう。濃い鉄の臭いが立ちこめていた。
 いくら世間知らずなレイでも分かる。彼らはもう、生きていない。
 この状況を引き起こした犯人だけが悠々と立っており、こちらに背を向けていた。

「あは、あははは」

 扉が開かれた気配に気付いたのだろう、彼は――シトロンは大袈裟な仕草で振り返る。こちらを見た顔や腕には真新しい火傷のような痕が刻まれているが、表情は実に楽しげだ。
 狂気に染まった目がレイを映すと、ふいに好奇心の光が宿る。

「あー……ねぇねぇ大神子ちゃん、どうすればこいつを殺せると思う? 女神の血を引くなら教えてよ」
「……」
「君の目の前で殺してみたいんだよ。精霊の反応も気になるし」

 そこでレイは気がついた。
 シトロンで見えなかったが、鉄格子の向こうに誰かが椅子に拘束されていることを。
 白金の長い髪に、膝丈のワンピース。白いはずの肌は半ば黒く染まっていて酷く痛々しい。
 力なく俯いていた彼女が、弱々しく顔を上げた。
 ――虚ろな、翡翠の瞳。

「シャルロット……!!」

 駆け出したレイだが、血塗れのダガーナイフを突きつけたシトロンによって足を止められる。狂気の次は殺意に満ちた眼差し。研究者を自称するには強すぎる彼がレイを殺すことなんて容易いだろうに、何故かそれをしようとしない。ただ、牽制だけはきっちりと行ってくる。
 それが煩わしくてたまらない。

「……れ、い」
「シャルロット、今助けるから」
「助ける、ねぇ」

 くすりと嗤い、非道な悪役は続ける。

「俺が発生させた瘴気。たった十数人ばかしだけど、その瘴気を大神子ちゃんは浄化しきれなかった。慣れていないせいもあるかもだけど、正直期待外れだね。世界を背負えるとは思えない。精霊があのレガリアっていう存在に頼るのもこれで漸く納得がいったさ」
「そんなのどうでもいい、どいてくれ」
「でもまだ検証の余地があると思うんだよね。今回は一気にやっちゃったけど、二人分くらいの瘴気を継続的に浄化すればどうなるかな。もう少し長い時間出来るかもしれないよね」
「……お前、もう黙れ」
「ふふ」

 突きつけられたダガーごとシトロンの腕を掴む。手が切れようがお構いなしに力を込めて自分より背の高い男を横へ押しやった。
 瘴気の中に立っていたせいだろう、その身体は大きくよろめいてレイに進路を譲ってくれる。しかし、その顔から嘲笑が消えたわけではない。

「君の本性が知れて嬉しい限りだよ」

 今自分がどんな表情をしているのかレイには分からない。だが、そんな細かいことを考えてやるほど優しくはない。
 レイは重なる屍たちを越えて、鉄格子の側に歩み寄った。捕らわれた愛しい少女をどう救出するべきか。怒りを通り越して冷静な頭脳が思考を巡らせる。
 頑丈そうな鉄格子だが鍵は南京錠だけで、道具さえ使えば無理矢理こじ開けることも出来るだろう。そう判断して佩いていた鞘からあまり使ったことのない剣を抜いた。
 切っ先を引っかけて、力いっぱいひねり上げればみしみしと音を立てて歪んでくれる。やがてばっきり割れた南京錠が濡れた床に落ち、それと同時に鉄格子を開け放つ。

「シャルロット、シャルロット……!」
「きて、くれた」

 顔の半分が黒く染まり、涙の跡を刻んだ少女は安心したように微笑んだ。
 レイは知っている。瘴気の浄化は痛みを伴うことを。
 それを無理矢理行わせ、無辜の人間を殺し――シャルロットがどれほど苦しんだか。か細い声は今にも消えてしまいそうで、彼女の消耗具合が窺えた。

「ここにはいないけど、ルシオラさんも近くに来ているよ。三人で帰ろう」
「うん」

 四肢を戒める鎖は外せていないが、レイはそれごとシャルロットを抱きしめた。
 無事とは言い難いが、彼女が生きていて本当に良かった。本来ならば安心するには早い。しかし、一番大切な事実が分かっただけでこんなにも力を貰える。
 それはシャルロットにとっても同じで、レイの首筋に顔をうずめたあとにもう一度涙を流す。

「帰る……みんなで一緒に」

 その意志が息を吹き返したからこそ、ゆっくりと歩み寄ってきたシトロンへ牙を向けられる。
 黒い嵐の中に突如顕現する黄金の花。五枚の花弁からなるそれが花開き、それぞれ分裂してから切っ先を憎き男へと向ける。
 今までそれを発動させることが出来なかったのは花弁を別の人々に直撃させてしまう恐れがあるためだった。外ならともかく、この狭い空間で巨大な花を操ることは今のシャルロットには不可能だったのだ。それに加え、慣れない瘴気の浄化に手間取っていたせいもある。

「守れなくて、ごめんなさい」

 弱々しく呟かれた懺悔と同時に放たれる神の刃。
 シトロンは身を翻して避け続ける。屍ごと切り裂いて床に刺さった花弁は役目を終えて霧散する。
 最後の一枚が消えた瞬間、シャルロットは大きく咳き込んだ。
 息が荒く、取り戻しかけた瞳の光がまたぼんやりと滲んでいる。体力を削られすぎたのだ。
 その代わりにシトロンとの距離は少し開いてくれた。

「残念だよ、本当に」

 どうにかしてシャルロットの動きを封じている鎖を解こうとしている最中呟かれた言葉。一瞬手を止めかけたレイだが、瞬時に無視を決め込んで奮闘を再開する。
 どこかうっとりとした声が気持ち悪く背を撫でた。

「女神に、精霊に、人々に……あぁ、もっと早く君という存在を見つけるべきだった。警戒される前に君を補足して、血を採取して、腸を取り出して、調べ尽くすべきだった。今日のことも大神子よりもリスクを度外視してでも君を捕らえるべきだった。今まで好き勝手生きてきた俺だけど、唯一の失敗がここだった。出来ることなら時間遡行したいくらいに後悔してる」

 何度も打ち付けた鎖が、少し緩んできた気がする。

「そもそもさ、君は分かっているのかな? ここ一年間の出来事の多くが何を中心に廻っていたか。裏に何の思惑があって、それが誰のためのものなのか」

 やっと解放できた右手首は赤くなっており、少女がどれほど抜け出そうと足掻いていたかが窺えた。

「うーん見事なシカト。でもこれだけは言っておくよ」

 次の鎖に剣の切っ先を向ける。真っ黒な肌をこれ以上傷つけることのないように、細心の注意を払いながら。

「君はさ、愛し子なんだよ。きっとこの先、君の行動が世界の命運を握ることになる」
「君、君って煩いんですよ」
「……」
「愛し子だかなんだか知りませんけど、少なくとも貴方はここで終わりだ。ほら、彼が幕を下ろしてくれる」

 漸く口を開いたレイの発言には全く温度がない。普段の温厚な彼を知る者ならば唖然としただろう。実際、シャルロットは息を詰まらせていた。
 シトロンもそんなレイの反応が意外だったようで、片眉を上げる。
 しかし、その変化の理由を絞殺する前に一発の熱が胸を穿った。
 パン。
 乾いた銃声。背中に咲いた、赤い花。
 思考という隙を与えてしまった故の一撃に、シトロンは一度咳き込んだ。口から血が溢れ、銃弾が肺まで到達していることは明白だった。

「遅かったね」
「安心しろ。その分、早く終わらせてやる」

 膝をついたシトロンの背後、両手で銃を構えていたのは――翡翠の瞳に憤怒を湛えた復讐鬼だった。
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