確かに俺は文官だが

パチェル

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第4章

まんまとしてやられたと思うけれど、それでよかったと思うんだ。

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 ある日、一人で中庭のベンチで寝ていたらご主人様がいて、思わず驚いて涙が出てしまったことがあった。
 すると、そのまま抱えられて寝台の上に連れていかれて。



「どうしてお前は俺に懐かない? こんなに、こんなに愛しているのに」


 と言った。


 そうして、また以前にも増して辛い時間が来た。乱暴な人を連れてきて、「あんなのより私の方がこんなに優しくしているんだぞ」と、結局同じように光を使って。




 ダメだと思った。


 あと何回こうすればいいのか。
 あと何日生きていればいいのか。

 自分が恐ろしい選択をしそうで怖い。


 帰ることはできないと言ってしまいそうで。
 できないのならいっそのこと。



 その選択をしようにも、今の光には四六始終周りに誰かいてできないのが幸いだったのか。

 嫌な薬を使われて、また自分が嫌いになりそうで。


 嫌な行為なのに、体がそう思わない時があって、それが気持ち悪くて。
 頭がおかしくなってしまった方がよかった。



 そうすると薬を使われている間でも、そうでなくても自分の記憶がひどく曖昧になるのに気づいた。


 決まって、心が叫ばなくなった頃だ。
 命を終わらせたいとか、こんな自分が生きていてもとか、頑張れとか、兄貴とは最後まで諦めないとか。そう言うのが小さい小さい声になってそういう時。





 まるで誰かが光の代わりに、ひどいことを担当してくれているように自分は上から見下ろしていた。


 光はふわふわした意識の中で彼に声をかける


「だいじょうぶ?」


 返事が聞こえたような気もしたけれど、それはただのきれいな音のようで。
 久しぶりにきれいだと思ったと気付いた。


 光はそこでようやく眠ることができた気がした。









 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆






 意識がはっきりしないまま、体が言われたように訪れた部屋で待っていたら人が現れた。


 このころには、自分はだいぶ寝ていたと思う。
 日付なんか一つもわからないし、熱い寒いもない。お腹が空いたも、喉が渇いたも。
 あんなに人らしくいようと思っていたのに、できないと眠くて眠くて、いつの間にかきれいな音が光に聞こえて、気付けば何でここにいるんだろうということが増えた。


 だからその時も状況を把握することなんかできなくて、訪れた人をまじまじと見た。



 おきゃくさまなのだろうか?



 酷くくたびれたよれよれのシャツを着て、髪も申し訳ない程度にまとめただけで、眼の下に隈がある。
 お仕事帰りなのかな。お疲れ様です。



 何だかその姿を見ていたら久しぶりに家族を思い出した。

 家族を思い出すと辛くて、この世界から消えたら戻れるだろうかと思うようになったころから、家族を思い出せなくなっていた。



 よれよれのお父さんが、じょりじょりした髭が生えた頬を光の頬にすりすりして「ただいまあー」と言ったことを思い出した。

 だから光は「お疲れ様です。ご飯にする? お風呂にする? それとも光と遊ぶ?」と抱きついた。



 するとお父さんが「そりゃ光とご飯食べて、お風呂に入って、いっぱい話して、歌って、踊って、遊んで、沢山寝るに決まってる!」と言って、眠そうな灯が来て、僕もとお父さんにだっこをせがんで、燈兄ちゃんも来た。

「へいへい、親父。とりあえず臭いから風呂入れよ。可愛い子どもたちに嫌われる前に」と言うと、お父さんが「がーん。お前にそう言われただけでもうショックだわ。立ち直れない。父を皆で風呂場に連れて行ってくれ」って燈兄ちゃんにしがみついて、皆で燈兄ちゃんにしがみついてはしゃいだ。

 するとお母さんが「夜にうるさくしてんじゃないっ! ご近所に迷惑でしょうが。あなた、お帰りなさい。さっさとお風呂入ってきて」って鼻をつまんで言って、お父さんが「本当に泣きそう」と仲良くお風呂場に入ったことを思い出した。



 楽しくって、だから目の前のこの人にもそう言おうと思った。


 そう思って口に出そうとしたけど、億劫で口を少し開いただけで何を言えばいいのかわからなくなった。言葉が通じないのだから。
 そもそも自分はこの世界では人間では。



 よれよれのお兄さんはその月の瞳でちゃんと光を見た。だって自分はその時、あ、お月さまがあると思ったから。


「君もお疲れさんだな。そこでずっと待ってたのか? 床の上は冷たいだろう。べっど……はなんか、やめとこう。ほら、クッション。ここにたくさん置いておいたから、こっちに来られるか? そうそう。そこにある飲み物とか食べ物は自由にしていいから。ほら、机の上に置いておくから。すまん、ちょっと今は相手できないんだ。大丈夫、そこでくつろいでくれてたらいいから、な? 俺は今からちょっと仕事するから。眠たかったら寝てていいぞ。また時間ができたら話を聞くから」




 そう言って、机に向かって何か書類を作成している。

 寝たほうがいいんじゃないのかな。そう思ったらつい歌が口から出ていて。




 歌い終わったら、男の人は机に突っ伏して寝ていた。


「兄さん、まって……、いか、ないで、おいて、いかないで……」


 と呟いて泣いていた。


 それがすごく悲しくて、でもきれいで。


 急いでベッドで寝かせてあげようと思っても重くて、ブランケットを持ってきて被せようとしてふと気づいた。






 あ、お兄さん。たってる。

 あ、そっか。自分は仕事をしに来たんだった。



 なんて言ってたのかわからないけれど、することと言えば一つしかないわけで。
 自分がこの世界に来て、教えられたことをする事にした。



 ちょっとまだ柔らかいし、歯を当てないようにしないと怒られるけど大きいし、起こしちゃ悪いからゆっくり口に含んで、でも頭がうまく動かないから、この後はどうやったらこの人は気持ちよくなるのかなと考える。



 だからかな。



 その後、お兄さんに吹っ飛ばされてびっくりした。
 何か間違ったのだろうか。


 でもすぐにお兄さんは光のそばに来て、多分謝って。
 でもその後、光の体を見て。




 とても悲しそうな顔をしていた。辛そうな。静かな怒りの表情をした。



「帰れ」と言われて、よくわからないけれど部屋を出されたので帰ることにした。
 そもそもどうやってここに来たのか思い出せなかったけれど、体がまた勝手に動いて、元のご主人様の部屋に向かった。




 お兄さんの名前を聞けばよかったなと、もう会うこともないだろうにそう思った。
 あの人なら僕の名前を呼んでくれるんじゃないかと思った。月の色の瞳が疲れているのに光を見て瞬いていたから、その煌めきが優しくてそう思ったんだ。




 帰ったらご主人様にすごく怒られて、久しぶりにたくさんの人の相手をさせられた。

 反応がないと楽しくないのか、疲れ切った体をつなげたままに痛みを与えられた。




 こっちは疲れてもあっちは疲れることがない。
 だって、何人もいるから。たくさんの言葉を浴びせかけられるけど、どれ一つとして聞いていていいものではないんだろうなと思ったのも覚えている。


 ぐちぐちした皮膚に鎖が食い込むけれど、ヒヤリとした痛さにまた意識が戻って悲しくなる。



 また戻って来た。
 そしてそう思ってしまった自分が嫌になった。




 絶対帰ると思っていたのに。
 諦めようとした自分がいるのが信じられなくて、そのやり取りを何度もして。



 誰かにたった一言でいいから言って欲しい。帰れるよ。日野光、きっと大丈夫と。もうずいぶん笑っていない気がする。




 夢の中で一回、お世話係の人が助けに来てくれたかもと思ったけれど、結局勘違いだったみたいで、ぼんやりしたところでたくさんの人に囲まれてて怖くて、鈍くなっていた体の感覚が戻ってきて怖くて、仕事をしなくちゃと思ったけど、どうやら自分は頭がおかしくなったのかとおもった。

 またお世話係の人がいたように思えたから。


 頭がおかしくなったのならそれでもいいかと思った。
 よくわからないけれど歌が聞こえたり、物語が聞こえたりした気がして時々、涙がでたような気もしたけど。



 諦めようかなと思った。




 でも、聞こえてくる歌が意味もわからないのに家族を思い出させた。
 諦めるなって言ってくれている気がした。



 聞こえてくる物語が頑張れって言っている気がした。


 それで、なんか美味しい匂いがして。
 おいしいを思い出した。




 瞼の裏に暖かい日の光が降り注いだ気がしてつい、目を開けてしまった。



 目を開けてって言われている気がしたから。








 全部、全部思い出した。

 本当はあの時、ぽっきり心が折れて、自分は死を選んでいたのかもしれないということも。



 それをきっとあのきれいな音が助けてくれていたことも。
 僕の弱い部分を助けてくれたあのきれいな音はずっとヒカリのそばにいた。



 それはきっと、この世界にもステキなきれいなものがあることを伝えたかったんじゃないか。



 この世界に落ちてきた意味は未だに分からないけれど、頑張って歩き続けた理由は分かった。

 きっとそのステキな、きれいなものに出会うためだったんでしょう。


 僕が愛したいって思うほどステキなものが沢山あるんだって自慢したかったんでしょう?






 まんまと頑張ってしまった。
 まんまと出会ってしまった。






 それで恋までしてしまっているのだから、僕は何てちょろいのだ。

 そう思うけれど、おかしくってクスクス笑ってしまう。






 ちょろくて良かった。じゃないと二人に会えないところだったんだから。





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