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第4章
帰り道の夕焼けは目に眩しい30
しおりを挟むちいさい手のひらが頬に触れる。指先でムニムニと頬をつまもうとしている。手が勝手に母親のお乳を求めて動いているのか。
指先は透けて、その体内の神秘をちらりと感じさせた。
目が大きく開いて必死に抱き上げいている腕の主を見定めようとしているのだろうか。
赤い瞳が目を逸らさない。
「あうー」
「こんにちは、俺のことを覚えている?」
そう尋ねると何がおかしいのかキャッキャッと頬を連打しながら笑い始めた。ベチベチと広い部屋にその音が響く。
そして目の前のソファに座っている妹があきれたように言う。
「本当、お父さんに懐かないのはまだわかるけど、夫より兄さんに懐くなんてどういう事?」
「それは、俺の人格がにじみでてるんだろー。うりゃー、口のなかはだめだぞー」
「ありえないわよ。幼い妹を残して、家出した兄さんに懐くなんて。兄さん、何か怪しい魔法使ってるんじゃない?」
「……そうだな」
赤ん坊の相手をしている兄を複雑な表情で見ている妹に厳しいことを言われ、スピカもそう返すしかない。
つい最近、出産祝いをするということで本当に久しぶりにこの家に足を踏み入れた。
生まれたての赤ん坊を見て、妹と、妹を支えているその婿と、父がいて。それ以外は誰もおらず、これで家族が勢ぞろいですねと婿が言った。
なかなかできる婿のようで、スピカもそう言っていただけてありがたいですと言った。
その日は終始ぎくしゃくしていたが、赤ん坊がいるだけで和やかな空気になるものだからすごいものだ。
妹に泊まっていって、兄さんの部屋もきれいにしてあるのよ、と部屋に連れられて行ったのだが、その日は帰った。
部屋は当時の場所のまま、ベッドや棚が大きくなっていて、壁紙の柄も変わっていた。ここで過ごさなかった時間は過ぎ去って、戻ってこないのだと改めて感じさせられた。
目の前の妹はもう母親だというのに頬を膨らませてふんっと横を向く。
強気なのに、人が弱みを見せると困った顔をする。変わらない。
「っ、冗談よ。兄さんだって家を出て大変だったんだし、何かあればお祝い届けてくれたでしょ?」
「してないよ、そんなこと」
「ふふっ、毎年律儀に誕生日にカシオさんから届く届け物。兄さんが家出した年にもらったクッキーの詰め合わせについていた飾り、あれ、お星さまだったでしょう。次の年には星の刺繍のハンカチ、次の年には星の髪飾り、星のイヤリング、星のペンダント、デビュタントの時には星がきらめくようなガラス細工がついた靴。私、全部とっても嬉しかった」
妹が嬉しそうに話す贈り物はもちろんスピカも思い出せる。
自分のお金で買えるものだったから、それほど高価なものではなかった。一人前になるまではセイリオスの家を間借りさせてもらっていたから、なんとか贈り物をする費用も捻出できた。
妹は知らないだろうけど、ハンカチはスピカが刺繍したものだ。母が存命だったら、母のきれいな刺繍でたくさん囲まれていただろう妹へ贈ったもの。
全部、カシオの名で贈ってもらった。
でも、それを自分の名前で出すことはできなかった。今更どんな顔で兄貴面すればいいのかわからなかった。
自分が嫡男として外れるということは、次を継ぐのは妹なのだから。
6歳下の妹。あの時たった6歳。母が恋しくて、毎日毎日兄であるスピカに寂しさをどうにかしてほしいとお願いしていた妹。俺がいなくなればあの大きな家で一人ぼっちになる妹に。
その重責を負わせたのだ。
会わせる顔などなかった。
なのに、この子はどこで聞きつけたのか度々、スピカの前に現れた。
「兄さん、あれがカシオさんからだというのなら、私、求婚されていると真に受けてしまうけれどいいのかしら?」
今も昔も変わらない温度で兄さんと呼ぶこの子に、言われるたびに笑えばいいのか、泣けばいいのかわからないで、他人の距離で接したら、ひどく悲しそうな顔をしてそれに付き合ってくれた。
いつもしくしく情けない顔で泣いていた妹は、スピカがいなくなってから泣かない子になっていた。
悪口を皮肉で返せるようなレディになっていた。
「兄さんは私の為にもお父さんとケンカしてくれたんでしょう? お母さんが星になったって言われて、真に受けた私が取ってきてって兄さんに頼んだものだもの。毎日、毎日、飽きもせず。兄さんならできるでしょう? 何でできないの? 嘘つき嘘つきって。それから毎年、欠かさずにお星さまを届けてくれてたでしょう? ねぇ、兄さん?」
わたし、おぼえてるの。涙を流しながら妹が続ける。
「お母さんが私のせいで亡くなったって」
「それは違う。全然違うから」
「えぇ、お父さんも兄さんもそう言ってくれた。だから大丈夫なの。でも、当時の私は他人のその言葉にひどく傷ついて、兄さんはずっと違うよって私のベッドで毎日眠るまで、お母さんがどんなに私のことを愛していたか語ってくれた。それで、兄さんはお父さんとケンカしたのよね」
「ルピナス……」
「うふふ、兄さんにそう呼ばれるときは大抵怒られるときだったわ」
「そうだったな……。ルゥルゥ」
スピカが家出して一人前になって、医務課の持ち出し禁止の資料を読めるようになった時に頼まれた仕事の一つに「自白剤」の開発があった。
その見れるようになった持ち出し禁止の資料の中には違法な自白剤で亡くなった人の治療記録があった。
違法な自白剤を利用されてしまってまひが残ると書かれていた。
神経に作用するものにはよくあることだが、自白剤にはそれが顕著であった。
ある人は使用された量が多すぎて薬物依存治療になったと書いてあった。それらを読み込んでスピカは自白剤を現在の形に改良して、安定する製法も確立した。
ただ、がむしゃらで研究にのめり込んだだけだ。誰かの役に立っていないと自分の価値が確立できない気がしていて焦っていたのかもしれない。
離れても、妹に「兄さんになら出来るでしょう?」と言われたかったのかもしれないと、ふと思った。
「ルゥルゥ、君に一つ話しておきたいことがある」
スピカが幼い頃に読んでいた愛称で呼べば、あの頃の屈託のない顔で笑ってくれる。
出産祝いに帰ってきた日、帰ろうと一応父に断りを入れるため書斎に入ったら父がワインを片手に立っていた。
「行く前に飲まないか?」
「いえ、お酒は」
「そうか、彼はまだ君の保護対象なのか?」
「それは、どういう」
「いや、何でもないよ。じゃあ、お茶ならどうだ?」
「……では」
いやに強引な父に言われ一杯だけお茶を共にしようと促された椅子に座る。父が手ずからお茶を淹れてくれるらしい。
「今日は来てくれてありがとう」
「お礼を言われることではありません」
「そうか? もしくはお礼を言う相手が違うのかな」
どう答えたらいいものか、答えあぐねていると父が自分のお茶に持っていたブランデーを垂らす。
「眠れないと言ったら、君の母親が作ってくれたものだ。よく寝れるよ……。君は聴きたくもないかもしれないが、孫が生まれた爺さんの独り言として聞き流してくれたらいい」
お茶のカップを小さなスプーンで混ぜて、君には聞いていて欲しいんだと言った父が、前より小さく見えて何故か胸が苦しくなった。
「君の母親のことについてだ。君は彼女、チェレアーリのなくなった原因は何だと考えている?」
「……流行り病だと聞いています」
「他にも出産の予後が悪かったのだとかも聞いてはいないか? ルピナスにもいつか話そうとは思っていたんだが、まずは君に話さないことには、な」
そういって父が話した内容にスピカはさらに胸を苦しくした。そして、ルピナスには自分から伝えたいと頼んだ。
目の前に座るルピナスはもうあの時の妹ではないのかもしれない。一人ぼっちにしないでと泣いていた妹でないのかもしれない。
でも、兄だと言ってくれる妹に自分の口から伝えたいと思った。
「俺たちの母親は、君を生んだから死んだんじゃない」
「そうね。だから、私も大人よ。わかってるわよ、そんなこと。出産が命懸けだって言うのももう経験済み」
違う、違うんだ。
本当にお前は関係なかったんだ。
むしろ、母が亡くなった原因の一つなのは。
俺だ。
だからこそ、自分の口から伝えたいとスピカは父に頼んだのだ。
なんとなく、ヒカリがスピカの立場なら「お兄ちゃんの口から伝えたいんだ」と言うのではないだろうかと思ったから。
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