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惑い惑わされ
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茉由花は、トップに就任することが決まってから、ますますストイックに稽古に打ち込むようになった。
以前なら、晩酌しながら語ることも珍しくなかったが、夜中まで稽古をしていて、晩酌する暇もなくなった。
電話も俺からかけることが増えて、でもその電話に答えてくれる回数は少なかった。
それでも時々、疲れた声で遅い時間に折り返してくれる。
きっと家に帰ってからも何かやっているのだろう。
昔なら家に帰ってすぐに折り返してくれていたのにな、と寂しくなっている自分が情けなかった。
彼女の頑張りを素直に応援してあげたいのに、どこかに心の狭い自分がいた。
時々茉由花からも電話をくれたが、話しているうちに茉由花は寝落ちしてしまう。
そういう時は、朝起きた茉由花が「ごめん」としきりに謝ってくれるのだが、そんな風に気を遣わせるのも申し訳なくて、電話もやたらと掛けないようにした。
そうこうしているうちに、次期トップスター就任ということが公式に発表になり、メディア関係の取材が殺到するようになった。
そうして、彼女は益々忙しくなった。
「今日、少し時間があるんだけど、会えないかな。」
このところ俺も仕事のスケジュールが詰まっていたが、それがひと段落した良いタイミングで茉由花から連絡があった。
前回のメッセージ履歴から、実に1カ月も経っていた。
「いいよ。待ってる。」
茉由花は近くまで来ていたようで、すぐにインターホンが鳴った。
外廊下を歩く音が聞こえたから、鍵を開けておくと、茉由花は自分でドアを開けた。
そうして入って来た茉由花は、顔もよく見せずに無言で俺に抱き着いてきた。
「ん?どうした?」
いつも人の顔色を伺うタイプで、突発的な行動を取らないタイプの彼女が、挨拶もなくこんな行動を取るのは初めてだった。
何かあったのかと、とりあえず背中をさする。
オンの彼女がいつもつけている男物の香水の香りがする。
「茉由花?」
返事がない。
抱き着く彼女の腕の力があまりにも強いので、何も聞かずに受け止めようと俺も静かに腕を回した。
そうして玄関に突っ立ったまま、静かに抱き合っていた。
「ありがとう。」
しばらくして、茉由花が自分から体を離す。
「とりあえず、部屋入ろうか。」
そう言ってから、今日初めて彼女の顔を見る。
すごく疲れた顔をしていた。
かなり痩せたように見えるし、目の下のクマがひどい。
心なしか足元もおぼつかない。
部屋に入れてソファに座らせると、彼女は少しだけ落ち着いたようだった。
「やっぱり大変なのか?」
「ちょっとね、堪えてる。」
明らかに元気がなくて、こんな姿を見るのは初めてで、どうしたらよいか分からない。
とりあえず、温かいコーヒーを入れて、茉由花の前に差し出した。
「まさくんも昨日まで大きなお仕事あったんだよね、支えられなくてごめん。」
俺の仕事状況もきちんと把握していたらしい茉由花が、申し訳なさそうに謝ってくる。
「いやいや、大したことないよ。」
「お仕事、上手くいった?」
自分が一番大変なときに、どうして俺のことを気遣うんだ。
そんな風に頑張りすぎないでくれよ。
俺の心はそう叫んでいるのだが、それを言うことさえ今の彼女にとっては批判と捉えられてしまう気がして、言えなかった。
「うん、上手くいったよ。」
「そっか。良かった。」
安堵した彼女が、やつれた顔で微笑む。
「茉由花はどう?」
さらりと話を交わして、茉由花に尋ねる。
「…ハードなのは、平気なんだけどね。劇団のみんなとの距離感が分からなくなってるんだ。」
重い口を開いた彼女の声はすでに震えていた。
「トップスターになるって決まってから、みんな崇め奉るような態度に変わっちゃって。もしかしたら、私が天狗みたいな態度取ってたのかなって考えたりもしたんだけど、就任が決まって喜びよりも不安の方が大きかったから、天狗にはなってなかったと思うし。だからきっとみんなの中で、意識が変わっちゃったんだよね。それで距離の縮め方が分からなくなっちゃって。」
茉由花から飛び出た悩みは、俺の想定していたものとは違うものだった。
それと同時に、俺は焦った。
俺も彼女がトップスターになると決まったときから、彼女の邪魔をしないようにと無意識に距離を取るようになっていた。
その結果、1カ月音信不通という事態を招いた。
彼女を不安定にさせている要因は俺にもあるということだ。
「仕事が大変なことよりも、仲間との関係が崩れる方が、私ダメみたい。」
天を仰ぐように天井を見つめた茉由花の目尻から、涙の雫が零れ落ちる。
「そうか。」
「まさくんも気を使って連絡しないで待ってくれていたでしょ。でも逆にそれが不安で、今日いきなり押しかけちゃった。驚かせてごめんね。でも会えば安心できるかなと思って。」
「不安にさせてごめん。…それで、安心出来た?」
「うん。今までと同じまさくんだった。」
茉由花がまた声を震わせて言う。
それから、また俺の首にぎゅっと腕を回して抱き着いてくる。
「ほんとに変わらなかった。それが嬉しくてね…」
彼女の華奢な体が震えている。
小さくなって震えている。
何か良い言葉を掛けてやれたらと思うのだが、結局ただずっと抱きしめることしかできなかった。
「俺はこれからもずっと変わらないよ。大丈夫。」
言えた言葉は、ありきたりなそんな言葉だった。
茉由花は何も答えなかった。
ただ、俺にずっと抱き着いて離れなかった。
茉由花の様子が変わってから、俺はなるべく頻繁に茉由花に連絡を取るようにした。
だが、茉由花はやはり忙しいらしく、ほとんど返信が来なかった。
俺の茉由花への想いは変わらなかったが、ただ何となく、彼女が向こう側にいってしまった気がした。
それは、トップスター就任が決定したからではない。
「忙しい」という言葉を使って、彼女が俺を遠ざけているように感じた。
以前なら、晩酌しながら語ることも珍しくなかったが、夜中まで稽古をしていて、晩酌する暇もなくなった。
電話も俺からかけることが増えて、でもその電話に答えてくれる回数は少なかった。
それでも時々、疲れた声で遅い時間に折り返してくれる。
きっと家に帰ってからも何かやっているのだろう。
昔なら家に帰ってすぐに折り返してくれていたのにな、と寂しくなっている自分が情けなかった。
彼女の頑張りを素直に応援してあげたいのに、どこかに心の狭い自分がいた。
時々茉由花からも電話をくれたが、話しているうちに茉由花は寝落ちしてしまう。
そういう時は、朝起きた茉由花が「ごめん」としきりに謝ってくれるのだが、そんな風に気を遣わせるのも申し訳なくて、電話もやたらと掛けないようにした。
そうこうしているうちに、次期トップスター就任ということが公式に発表になり、メディア関係の取材が殺到するようになった。
そうして、彼女は益々忙しくなった。
「今日、少し時間があるんだけど、会えないかな。」
このところ俺も仕事のスケジュールが詰まっていたが、それがひと段落した良いタイミングで茉由花から連絡があった。
前回のメッセージ履歴から、実に1カ月も経っていた。
「いいよ。待ってる。」
茉由花は近くまで来ていたようで、すぐにインターホンが鳴った。
外廊下を歩く音が聞こえたから、鍵を開けておくと、茉由花は自分でドアを開けた。
そうして入って来た茉由花は、顔もよく見せずに無言で俺に抱き着いてきた。
「ん?どうした?」
いつも人の顔色を伺うタイプで、突発的な行動を取らないタイプの彼女が、挨拶もなくこんな行動を取るのは初めてだった。
何かあったのかと、とりあえず背中をさする。
オンの彼女がいつもつけている男物の香水の香りがする。
「茉由花?」
返事がない。
抱き着く彼女の腕の力があまりにも強いので、何も聞かずに受け止めようと俺も静かに腕を回した。
そうして玄関に突っ立ったまま、静かに抱き合っていた。
「ありがとう。」
しばらくして、茉由花が自分から体を離す。
「とりあえず、部屋入ろうか。」
そう言ってから、今日初めて彼女の顔を見る。
すごく疲れた顔をしていた。
かなり痩せたように見えるし、目の下のクマがひどい。
心なしか足元もおぼつかない。
部屋に入れてソファに座らせると、彼女は少しだけ落ち着いたようだった。
「やっぱり大変なのか?」
「ちょっとね、堪えてる。」
明らかに元気がなくて、こんな姿を見るのは初めてで、どうしたらよいか分からない。
とりあえず、温かいコーヒーを入れて、茉由花の前に差し出した。
「まさくんも昨日まで大きなお仕事あったんだよね、支えられなくてごめん。」
俺の仕事状況もきちんと把握していたらしい茉由花が、申し訳なさそうに謝ってくる。
「いやいや、大したことないよ。」
「お仕事、上手くいった?」
自分が一番大変なときに、どうして俺のことを気遣うんだ。
そんな風に頑張りすぎないでくれよ。
俺の心はそう叫んでいるのだが、それを言うことさえ今の彼女にとっては批判と捉えられてしまう気がして、言えなかった。
「うん、上手くいったよ。」
「そっか。良かった。」
安堵した彼女が、やつれた顔で微笑む。
「茉由花はどう?」
さらりと話を交わして、茉由花に尋ねる。
「…ハードなのは、平気なんだけどね。劇団のみんなとの距離感が分からなくなってるんだ。」
重い口を開いた彼女の声はすでに震えていた。
「トップスターになるって決まってから、みんな崇め奉るような態度に変わっちゃって。もしかしたら、私が天狗みたいな態度取ってたのかなって考えたりもしたんだけど、就任が決まって喜びよりも不安の方が大きかったから、天狗にはなってなかったと思うし。だからきっとみんなの中で、意識が変わっちゃったんだよね。それで距離の縮め方が分からなくなっちゃって。」
茉由花から飛び出た悩みは、俺の想定していたものとは違うものだった。
それと同時に、俺は焦った。
俺も彼女がトップスターになると決まったときから、彼女の邪魔をしないようにと無意識に距離を取るようになっていた。
その結果、1カ月音信不通という事態を招いた。
彼女を不安定にさせている要因は俺にもあるということだ。
「仕事が大変なことよりも、仲間との関係が崩れる方が、私ダメみたい。」
天を仰ぐように天井を見つめた茉由花の目尻から、涙の雫が零れ落ちる。
「そうか。」
「まさくんも気を使って連絡しないで待ってくれていたでしょ。でも逆にそれが不安で、今日いきなり押しかけちゃった。驚かせてごめんね。でも会えば安心できるかなと思って。」
「不安にさせてごめん。…それで、安心出来た?」
「うん。今までと同じまさくんだった。」
茉由花がまた声を震わせて言う。
それから、また俺の首にぎゅっと腕を回して抱き着いてくる。
「ほんとに変わらなかった。それが嬉しくてね…」
彼女の華奢な体が震えている。
小さくなって震えている。
何か良い言葉を掛けてやれたらと思うのだが、結局ただずっと抱きしめることしかできなかった。
「俺はこれからもずっと変わらないよ。大丈夫。」
言えた言葉は、ありきたりなそんな言葉だった。
茉由花は何も答えなかった。
ただ、俺にずっと抱き着いて離れなかった。
茉由花の様子が変わってから、俺はなるべく頻繁に茉由花に連絡を取るようにした。
だが、茉由花はやはり忙しいらしく、ほとんど返信が来なかった。
俺の茉由花への想いは変わらなかったが、ただ何となく、彼女が向こう側にいってしまった気がした。
それは、トップスター就任が決定したからではない。
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