上 下
45 / 79

45

しおりを挟む



 
 
 「アーヴィング」

 それからどのくらいそうしていたのだろう。なにも考えられないまま立ち尽くすアーヴィングは、名前を呼ばれてようやく我に返った。
 横にいたキャロルは声の主に向かって素早く礼を取った。

 「殿下……」

 アーヴィングは礼をすることも忘れ、アナスタシアを見つめた。
 アナスタシアはアーヴィングの異変を感じ取ったのか、不敬な態度を咎めもせず、心配そうに側に寄った。

 「どうしたの?なにかあった?」

 「……あ……あの……」

 キャロルの話は本当なのですか?
 そう聞きたかったが、どうしても言葉が出てこない。いつもと違うアーヴィングの様子にアナスタシアは眉をひそめる。
 その時、アーヴィングの頭の中にキャロルの言葉が頭に浮かんだ。
 『殿下をダンスに誘ってみたらいかがでしょう?』
 そうだ。殿下がダンスに応じてくれればなんの心配もない。キャロルの言うことは嘘だと証明できる。

 「殿下」

 「うん?」

 「あの、俺とダンスを……一曲踊っていただけないでしょうか?」

 「ダンスを?」

 アナスタシアはとても驚いたような顔をして黙り込んでしまった。
 アーヴィングの瞳を真っ直ぐに見つめ、真意を推し量ろうとしているように見える。
 沈黙が痛かった。
 アナスタシアから目を逸らし、横のキャロルを盗み見る。するとキャロルの口元にはうっすらと勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
 やはり、キャロルの言うことは本当だったのか。

 「……いいわよ。でも久しぶりだから下手でも文句言わないでね」

 「えっ?」

 アナスタシアからの答えに声を上げたのは、アーヴィングではなくキャロルの方だった。
 キャロルは虚を衝かれたような表情でアナスタシアを見ている。

 「アドラム伯爵家のキャロル様でしたわね。どうかなさって?」

 微笑を浮かべるアナスタシアだったが、その瞳は笑っていなかった。

 「い、いえその……なんでもございません……」

 キャロルは怯えたように返事をすると、一歩後ろに下がった。

 「さあ、行きましょうか」

 「殿下……本当に……本当にいいのですか?」

 呆けたような顔をしたアーヴィングにアナスタシアは小さく笑う。

 「誘ったのはあなたの方よ。どうする?やめるの?」

 「いえ!やめません!!」

 アーヴィングはすかさず手を差し出した。
 手袋越しだが、アナスタシアの体温を感じ再び胸が高鳴りだす。
 やっぱりキャロルの言うことは違っていた。アナスタシアの命が短いなんて噂を流したのはいったいどこの誰なのか。
 けれどそんなことはもういい。
 
 ホールの中央に立つと、周囲の視線が一斉に集まった。
 突き刺すような視線。以前の自分ならきっと逃げ出していただろう。
 そして曲が鳴る。二人は向かい合い、微笑み合って礼をした。
 そして一度放した手をもう一度重ね、ステップを踏み出した。
 アナスタシアは久しぶりに踊ると言っていたが、とてもそんな風に思えない。慌てる素振りもなく、軽やかに舞うさまは妖精のように可憐だった。
 
 「殿下……とてもお上手ですね。俺のほうがリードされているような気分です」

 「あら、そんなことないわ。あなたが私を見ていてくれるから、安心して踊れるのよ」

 そう言われると少し恥ずかしい。
 きっと穴が空くほど見つめていたはずだから。

 「やけに女性とくっついているから、心変わりされたのかと思ったわ」

 「そんな!俺が殿下以外の女性となんて、そんなことありえません。ただ、彼女があまりにもひどいことを言うから……」

 「ひどいこと?」

 「ええ。その、殿下は長く生きられない身体だと……とんでもない冗談です」

 アーヴィングは踊りながらキャロルの姿を探した。根も葉もない噂を流したことをきっと今頃後悔しているだろう。
 しかしさっきまでいた場所に彼女の姿はなかった。
 曲が終わると会場からは二人に惜しみない拍手が贈られた。

 「アーヴィング。少し話をしましょうか」

 「あ……はい」

 てっきりこのあと陛下たちに挨拶をするものだと思っていたアーヴィングは拍子抜けしたが、アナスタシアの雰囲気がいつもと違うことに気づき、黙って彼女のあとをついていくことにした。


 アナスタシアがアーヴィングを案内したのは、会場を出て回廊を少し歩いた先にある一室。ここは夜会の時はいつも王族のための休憩室として使われているそうだ。
 アナスタシアは自身の護衛とイアンに外で待っているよう言いつけた。
 二人だけの部屋。中央に置いてある応接用のソファとテーブルに向かい合って座ろうとしたアーヴィングを、先に腰を下ろしたアナスタシアが自身の隣をぽんぽんと叩いて誘う。

 「失礼します」

 遠慮がちに腰を下ろす。
 アナスタシアはアーヴィングを隣に座らせたが、しばらくの間口を開かずなにか考え込んでいた。

 「……さっきの話なんだけどね」

 「え?」

 「あなたがアドラム嬢から聞いた、私が長く生きられないという話よ」

 「あ……あの、気分のいい話ではなかったですよね……それにとても不敬でした……申し訳ありません」

 いくら聞いた話とはいえ、キャロルはなにか処分を受けることになるのだろうか。
 娘思いのアドラム伯爵を思うとほんの少し胸が痛む。

 「本当なの」

 「……は……?」

 「本当なのよアーヴィング。私は幼い頃病に冒され、三十歳まで生きられれば幸運だろうと医師に言われたわ」

 「そんな……そんなの嘘だ……」

 しかしいつまで経ってもアナスタシアは、アーヴィングの言葉を肯定してくれない。

 「どうして……それが本当だというのなら、どうしてそんな大事なことをこれまで黙っていたんですか!?俺にならなにをしても大丈夫だと思ったんですか?自分を救ってくれたあなたの言うことならなんでも聞いて、言うとおりにすると!?」

 「そんなこと一度だって思ったことないわ」

 「ならどうして!!」

 「死ぬ気なんてないからよ。私が告げられた余命は、あくまでこの病にかかった人間を数多く診てきた医師の見解でしかない。数は少ないけれど、長く生きることができた人だっているんだもの。確かに私の身体は強くないわ。しょっちゅう熱も出すし、人とは同じようにできないことのほうが多い。けれどこれまで大きな発作に見舞われたこともなければ、本当は禁止されているダンスを踊っても倒れなかったわ。ほら、あなたも見たでしょう?」

 ダンスを踊った自分の今の状態を見ろと言わんばかりに胸を張るアナスタシア。
 アーヴィングは息を呑んだ。
 何気ない自分の一言が、彼女を試すようなあの行為が、どれほど危険なことだったのか理解したからだ。

 「誰かに決められた寿命を悲観して、閉じこもって守られるだけの人生なんて歩むつもりはないの。私は私の人生を生きるために、できる努力はなんだってしてきた。これからだってどんなことをしてでもこの生にしがみつくわ。結婚して、子供も産んで、孫の顔だって見てみせる。他の誰でもないアーヴィング、あなたと一緒に」

 なんて強い光を宿した瞳だろう。そこに迷いや恐怖など微塵もない。
 一番つらいのは彼女のはずなのに、それに引き替えどうして自分はこんなにも弱いんだ。

 「あ……愛しているんです……あなたがいなければ生きていても意味がないと、そう思えるほど俺にとってはあなたがすべてなんです……!!」

 この気持ちに、想いに名前をつけたことなどない。けれどそれしか思い浮かばなかった。
 愛している。代わってやれるものなら代わってやりたい。自分なんかより、彼女の生のほうが何倍も価値がある。それなのにどうしてこんな自分には健康な身体が与えられて、彼女のような素晴らしい人からただでさえ限られた時間を奪ってしまうのだ。
 だがそれを伝えるとアナスタシアは笑った。

 「神様はきっと、こんなに強くて短気な女は少しくらい怖がらせておくのが丁度いいと思ったのよ」

 アナスタシアは泣き虫なアーヴィングの涙をハンカチで拭い、そっと唇にキスをした。
 柔らかく甘い果実のような小さな唇。
 あまりの愛おしさに、アーヴィングの心は震えた。

 「愛してるわアーヴィング。誰よりも痛みを知っているあなたは、きっとたくさんの人を幸せに導ける。もちろん、私のことも」

 愛してる。
 これまで生きてきて、初めて与えられたその言葉は、アーヴィングの心を優しく包んでいくようだった。

 「……俺のことは、殿下が幸せにするとおっしゃったじゃないですか……」

 「あら、言うわね。もちろんそのつもりよ。さあ、行きましょうか。お父様たちが首を長くして待ってるだろうから」

 アーヴィングは立ち上がろうとするアナスタシアの手を咄嗟に掴む。

 「アーヴィング?」

 アーヴィングはアナスタシアの青い瞳を見つめた。
 あなたに触れたい。だからどうか、もう少しだけここにいて。
 そう祈るような気持ちだった。
 アナスタシアは困ったように微笑むと、いつかのように両手を広げ、アーヴィングの膝の上へ腰を下ろした。
 抱きしめた身体はやはり華奢で、柔らかい。
 規則正しいアナスタシアの鼓動の音をアーヴィングは黙って聞いていた。
 
 「死なせません……俺が絶対に見つけてみせる、あなたが少しでも長く生きられる方法を……」

 アナスタシアはなにも言わなかった。
 だが答えの代わりのように、強く強くアーヴィングの身体を抱きしめた。


 *
 

 「どういうことです!?聞いていた話と全然違うじゃないですか!」

 テラスに人気がないのをいいことに、キャロルは盛大に怒りをぶつけていた。
 怒りの矛先を向けられていたのはアーヴィングの兄ヴィンセント。

 「王女の病気は間違いない!確かな情報だ」

 「ですが、これでは私だけが悪者ではありませんか!!王女殿下の怒りを買って社交界から追放されでもしたら私……!!」

 「そんなことはさせないさ……なぁキャロル……」

 誰かに見られてもいいように、ヴィンセントはキャロルを隠すように後ろへ回ると、自身の右手をスカートの中へ潜り込ませた。

 「あっ……ん……こんなところでいけません……!」

 いけませんと言いながら、それがだんだんと嬌声に変わるのをヴィンセントは嘲笑うような顔で聞いていた。

 「あいつは単純だから君が謝りさえすれば大丈夫さ」

 「そんな……っ!」

 「私には君が必要なんだよキャロル……ほら、君だってそうだろう?」

 「あぁ…………っん……」

 「これくらいのことで怖気づいているようじゃ由緒正しきラザフォード侯爵夫人になんてとてもなれないよ?これは君のためでもあるんだ。だからもう少し頑張ってもらわなきゃね。……愛してるよキャロル」

 甘い言葉とは裏腹に、ヴィンセントは醜く顔を歪ませながら、ぎりぎりと奥歯を噛みしめるのだった。






 

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

生まれたときから今日まで無かったことにしてください。

はゆりか
恋愛
産まれた時からこの国の王太子の婚約者でした。 物心がついた頃から毎日自宅での王妃教育。 週に一回王城にいき社交を学び人脈作り。 当たり前のように生活してしていき気づいた時には私は1人だった。 家族からも婚約者である王太子からも愛されていないわけではない。 でも、わたしがいなくてもなんら変わりのない。 家族の中心は姉だから。 決して虐げられているわけではないけどパーティーに着て行くドレスがなくても誰も気づかれないそんな境遇のわたしが本当の愛を知り溺愛されて行くストーリー。 ………… 処女作品の為、色々問題があるかとおもいますが、温かく見守っていただけたらとおもいます。 本編完結。 番外編数話続きます。 続編(2章) 『婚約破棄されましたが、婚約解消された隣国王太子に恋しました』連載スタートしました。 そちらもよろしくお願いします。

【完結】あの頃からあなただけが好きでした

Mimi
恋愛
バロウズ王国の地方都市コーカスの高等学園に入学したオーブリー子爵家の次女マリオンはブルーベル商会の次男カーティスから声をかけられた。 彼の兄キーナンとマリオンの姉ジュリアが交際しているらしい。 羽振りのよい商会の跡取りとはいえ、平民との交際を父オーブリー子爵が許すとも思えないが、マリオンは姉の為にカーティスと共にふたりの交際に協力することになった。 そしてそのうちにマリオンもカーティスに惹かれていくのだった。 ところが、マリオン達の卒業前にキーナンが別の女性と駆け落ちをしてしまい…… そして6年後マリオンは、実家の商会ごとコーカスを離れたカーティスと王都で再会する。 大学の友人クレアの恋人になっていた彼は マリオンに対して丁寧だが、冷たい対応をする男性になっていた。 注意  ⚠️多人数視点で時系列が前後します   サブタイトルでご確認の上お読みください  ⚠️男主人公は爽やかヒーローではありません  ⚠️ささやかなざまぁはありますが、スカッと系ではないです  ⚠️メインではありませんが、同性愛カップルが登場します  ⚠️ストレートなラブストーリーを目指しましたが無理でした  ⚠️誰にも共感出来ず、結末にモヤる方もいらっしゃるかもしれません どうぞよろしくお願い致します 他サイトで公開中です

今日も旦那は愛人に尽くしている~なら私もいいわよね?~

コトミ
恋愛
 結婚した夫には愛人がいた。辺境伯の令嬢であったビオラには男兄弟がおらず、子爵家のカールを婿として屋敷に向かい入れた。半年の間は良かったが、それから事態は急速に悪化していく。伯爵であり、領地も統治している夫に平民の愛人がいて、屋敷の隣にその愛人のための別棟まで作って愛人に尽くす。こんなことを我慢できる夫人は私以外に何人いるのかしら。そんな考えを巡らせながら、ビオラは毎日夫の代わりに領地の仕事をこなしていた。毎晩夫のカールは愛人の元へ通っている。その間ビオラは休む暇なく仕事をこなした。ビオラがカールに反論してもカールは「君も愛人を作ればいいじゃないか」の一点張り。我慢の限界になったビオラはずっと大切にしてきた屋敷を飛び出した。  そしてその飛び出した先で出会った人とは? (できる限り毎日投稿を頑張ります。誤字脱字、世界観、ストーリー構成、などなどはゆるゆるです) hotランキング1位入りしました。ありがとうございます

望まぬ結婚の、その後で 〜虐げられ続けた少女はそれでも己の人生を生きる〜

レモン🍋
恋愛
家族から虐待され、結婚を機にようやく幸せになれると思った少女、カティア。しかし夫となったレオナルドからは「俺には愛するものがいる。お前を愛することはない。妙な期待はするな」と言われ、新たな家でも冷遇される。これは、夢も希望も砕かれた少女が幸せを求めてもがきながら成長していくお話です。 ※本編完結済みです。気ままに番外編を投稿していきます。

誰でもイイけど、お前は無いわw

猫枕
恋愛
ラウラ25歳。真面目に勉強や仕事に取り組んでいたら、いつの間にか嫁き遅れになっていた。 同い年の幼馴染みランディーとは昔から犬猿の仲なのだが、ランディーの母に拝み倒されて見合いをすることに。 見合いの場でランディーは予想通りの失礼な発言を連発した挙げ句、 「結婚相手に夢なんて持ってないけど、いくら誰でも良いったってオマエは無いわww」 と言われてしまう。

ゼラニウムの花束をあなたに

ごろごろみかん。
恋愛
リリネリア・ブライシフィックは八歳のあの日に死んだ。死んだこととされたのだ。リリネリアであった彼女はあの絶望を忘れはしない。 じわじわと壊れていったリリネリアはある日、自身の元婚約者だった王太子レジナルド・リームヴと再会した。 レジナルドは少し前に隣国の王女を娶ったと聞く。だけどもうリリネリアには何も関係の無い話だ。何もかもがどうでもいい。リリネリアは何も期待していない。誰にも、何にも。 二人は知らない。 国王夫妻と公爵夫妻が、良かれと思ってしたことがリリネリアを追い詰めたことに。レジナルドを絶望させたことを、彼らは知らない。 彼らが偶然再会したのは運命のいたずらなのか、ただ単純に偶然なのか。だけどリリネリアは何一つ望んでいなかったし、レジナルドは何一つ知らなかった。ただそれだけなのである。 ※タイトル変更しました

【完結】あなたを忘れたい

やまぐちこはる
恋愛
子爵令嬢ナミリアは愛し合う婚約者ディルーストと結婚する日を待ち侘びていた。 そんな時、不幸が訪れる。 ■□■ 【毎日更新】毎日8時と18時更新です。 【完結保証】最終話まで書き終えています。 最後までお付き合い頂けたらうれしいです(_ _)

心の中にあなたはいない

ゆーぞー
恋愛
姉アリーのスペアとして誕生したアニー。姉に成り代われるようにと育てられるが、アリーは何もせずアニーに全て押し付けていた。アニーの功績は全てアリーの功績とされ、周囲の人間からアニーは役立たずと思われている。そんな中アリーは事故で亡くなり、アニーも命を落とす。しかしアニーは過去に戻ったため、家から逃げ出し別の人間として生きていくことを決意する。 一方アリーとアニーの死後に真実を知ったアリーの夫ブライアンも過去に戻りアニーに接触しようとするが・・・。

処理中です...