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しおりを挟む「アーヴィング」
それからどのくらいそうしていたのだろう。なにも考えられないまま立ち尽くすアーヴィングは、名前を呼ばれてようやく我に返った。
横にいたキャロルは声の主に向かって素早く礼を取った。
「殿下……」
アーヴィングは礼をすることも忘れ、アナスタシアを見つめた。
アナスタシアはアーヴィングの異変を感じ取ったのか、不敬な態度を咎めもせず、心配そうに側に寄った。
「どうしたの?なにかあった?」
「……あ……あの……」
キャロルの話は本当なのですか?
そう聞きたかったが、どうしても言葉が出てこない。いつもと違うアーヴィングの様子にアナスタシアは眉をひそめる。
その時、アーヴィングの頭の中にキャロルの言葉が頭に浮かんだ。
『殿下をダンスに誘ってみたらいかがでしょう?』
そうだ。殿下がダンスに応じてくれればなんの心配もない。キャロルの言うことは嘘だと証明できる。
「殿下」
「うん?」
「あの、俺とダンスを……一曲踊っていただけないでしょうか?」
「ダンスを?」
アナスタシアはとても驚いたような顔をして黙り込んでしまった。
アーヴィングの瞳を真っ直ぐに見つめ、真意を推し量ろうとしているように見える。
沈黙が痛かった。
アナスタシアから目を逸らし、横のキャロルを盗み見る。するとキャロルの口元にはうっすらと勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
やはり、キャロルの言うことは本当だったのか。
「……いいわよ。でも久しぶりだから下手でも文句言わないでね」
「えっ?」
アナスタシアからの答えに声を上げたのは、アーヴィングではなくキャロルの方だった。
キャロルは虚を衝かれたような表情でアナスタシアを見ている。
「アドラム伯爵家のキャロル様でしたわね。どうかなさって?」
微笑を浮かべるアナスタシアだったが、その瞳は笑っていなかった。
「い、いえその……なんでもございません……」
キャロルは怯えたように返事をすると、一歩後ろに下がった。
「さあ、行きましょうか」
「殿下……本当に……本当にいいのですか?」
呆けたような顔をしたアーヴィングにアナスタシアは小さく笑う。
「誘ったのはあなたの方よ。どうする?やめるの?」
「いえ!やめません!!」
アーヴィングはすかさず手を差し出した。
手袋越しだが、アナスタシアの体温を感じ再び胸が高鳴りだす。
やっぱりキャロルの言うことは違っていた。アナスタシアの命が短いなんて噂を流したのはいったいどこの誰なのか。
けれどそんなことはもういい。
ホールの中央に立つと、周囲の視線が一斉に集まった。
突き刺すような視線。以前の自分ならきっと逃げ出していただろう。
そして曲が鳴る。二人は向かい合い、微笑み合って礼をした。
そして一度放した手をもう一度重ね、ステップを踏み出した。
アナスタシアは久しぶりに踊ると言っていたが、とてもそんな風に思えない。慌てる素振りもなく、軽やかに舞うさまは妖精のように可憐だった。
「殿下……とてもお上手ですね。俺のほうがリードされているような気分です」
「あら、そんなことないわ。あなたが私を見ていてくれるから、安心して踊れるのよ」
そう言われると少し恥ずかしい。
きっと穴が空くほど見つめていたはずだから。
「やけに女性とくっついているから、心変わりされたのかと思ったわ」
「そんな!俺が殿下以外の女性となんて、そんなことありえません。ただ、彼女があまりにもひどいことを言うから……」
「ひどいこと?」
「ええ。その、殿下は長く生きられない身体だと……とんでもない冗談です」
アーヴィングは踊りながらキャロルの姿を探した。根も葉もない噂を流したことをきっと今頃後悔しているだろう。
しかしさっきまでいた場所に彼女の姿はなかった。
曲が終わると会場からは二人に惜しみない拍手が贈られた。
「アーヴィング。少し話をしましょうか」
「あ……はい」
てっきりこのあと陛下たちに挨拶をするものだと思っていたアーヴィングは拍子抜けしたが、アナスタシアの雰囲気がいつもと違うことに気づき、黙って彼女のあとをついていくことにした。
アナスタシアがアーヴィングを案内したのは、会場を出て回廊を少し歩いた先にある一室。ここは夜会の時はいつも王族のための休憩室として使われているそうだ。
アナスタシアは自身の護衛とイアンに外で待っているよう言いつけた。
二人だけの部屋。中央に置いてある応接用のソファとテーブルに向かい合って座ろうとしたアーヴィングを、先に腰を下ろしたアナスタシアが自身の隣をぽんぽんと叩いて誘う。
「失礼します」
遠慮がちに腰を下ろす。
アナスタシアはアーヴィングを隣に座らせたが、しばらくの間口を開かずなにか考え込んでいた。
「……さっきの話なんだけどね」
「え?」
「あなたがアドラム嬢から聞いた、私が長く生きられないという話よ」
「あ……あの、気分のいい話ではなかったですよね……それにとても不敬でした……申し訳ありません」
いくら聞いた話とはいえ、キャロルはなにか処分を受けることになるのだろうか。
娘思いのアドラム伯爵を思うとほんの少し胸が痛む。
「本当なの」
「……は……?」
「本当なのよアーヴィング。私は幼い頃病に冒され、三十歳まで生きられれば幸運だろうと医師に言われたわ」
「そんな……そんなの嘘だ……」
しかしいつまで経ってもアナスタシアは、アーヴィングの言葉を肯定してくれない。
「どうして……それが本当だというのなら、どうしてそんな大事なことをこれまで黙っていたんですか!?俺にならなにをしても大丈夫だと思ったんですか?自分を救ってくれたあなたの言うことならなんでも聞いて、言うとおりにすると!?」
「そんなこと一度だって思ったことないわ」
「ならどうして!!」
「死ぬ気なんてないからよ。私が告げられた余命は、あくまでこの病にかかった人間を数多く診てきた医師の見解でしかない。数は少ないけれど、長く生きることができた人だっているんだもの。確かに私の身体は強くないわ。しょっちゅう熱も出すし、人とは同じようにできないことのほうが多い。けれどこれまで大きな発作に見舞われたこともなければ、本当は禁止されているダンスを踊っても倒れなかったわ。ほら、あなたも見たでしょう?」
ダンスを踊った自分の今の状態を見ろと言わんばかりに胸を張るアナスタシア。
アーヴィングは息を呑んだ。
何気ない自分の一言が、彼女を試すようなあの行為が、どれほど危険なことだったのか理解したからだ。
「誰かに決められた寿命を悲観して、閉じこもって守られるだけの人生なんて歩むつもりはないの。私は私の人生を生きるために、できる努力はなんだってしてきた。これからだってどんなことをしてでもこの生にしがみつくわ。結婚して、子供も産んで、孫の顔だって見てみせる。他の誰でもないアーヴィング、あなたと一緒に」
なんて強い光を宿した瞳だろう。そこに迷いや恐怖など微塵もない。
一番つらいのは彼女のはずなのに、それに引き替えどうして自分はこんなにも弱いんだ。
「あ……愛しているんです……あなたがいなければ生きていても意味がないと、そう思えるほど俺にとってはあなたがすべてなんです……!!」
この気持ちに、想いに名前をつけたことなどない。けれどそれしか思い浮かばなかった。
愛している。代わってやれるものなら代わってやりたい。自分なんかより、彼女の生のほうが何倍も価値がある。それなのにどうしてこんな自分には健康な身体が与えられて、彼女のような素晴らしい人からただでさえ限られた時間を奪ってしまうのだ。
だがそれを伝えるとアナスタシアは笑った。
「神様はきっと、こんなに強くて短気な女は少しくらい怖がらせておくのが丁度いいと思ったのよ」
アナスタシアは泣き虫なアーヴィングの涙をハンカチで拭い、そっと唇にキスをした。
柔らかく甘い果実のような小さな唇。
あまりの愛おしさに、アーヴィングの心は震えた。
「愛してるわアーヴィング。誰よりも痛みを知っているあなたは、きっとたくさんの人を幸せに導ける。もちろん、私のことも」
愛してる。
これまで生きてきて、初めて与えられたその言葉は、アーヴィングの心を優しく包んでいくようだった。
「……俺のことは、殿下が幸せにするとおっしゃったじゃないですか……」
「あら、言うわね。もちろんそのつもりよ。さあ、行きましょうか。お父様たちが首を長くして待ってるだろうから」
アーヴィングは立ち上がろうとするアナスタシアの手を咄嗟に掴む。
「アーヴィング?」
アーヴィングはアナスタシアの青い瞳を見つめた。
あなたに触れたい。だからどうか、もう少しだけここにいて。
そう祈るような気持ちだった。
アナスタシアは困ったように微笑むと、いつかのように両手を広げ、アーヴィングの膝の上へ腰を下ろした。
抱きしめた身体はやはり華奢で、柔らかい。
規則正しいアナスタシアの鼓動の音をアーヴィングは黙って聞いていた。
「死なせません……俺が絶対に見つけてみせる、あなたが少しでも長く生きられる方法を……」
アナスタシアはなにも言わなかった。
だが答えの代わりのように、強く強くアーヴィングの身体を抱きしめた。
*
「どういうことです!?聞いていた話と全然違うじゃないですか!」
テラスに人気がないのをいいことに、キャロルは盛大に怒りをぶつけていた。
怒りの矛先を向けられていたのはアーヴィングの兄ヴィンセント。
「王女の病気は間違いない!確かな情報だ」
「ですが、これでは私だけが悪者ではありませんか!!王女殿下の怒りを買って社交界から追放されでもしたら私……!!」
「そんなことはさせないさ……なぁキャロル……」
誰かに見られてもいいように、ヴィンセントはキャロルを隠すように後ろへ回ると、自身の右手をスカートの中へ潜り込ませた。
「あっ……ん……こんなところでいけません……!」
いけませんと言いながら、それがだんだんと嬌声に変わるのをヴィンセントは嘲笑うような顔で聞いていた。
「あいつは単純だから君が謝りさえすれば大丈夫さ」
「そんな……っ!」
「私には君が必要なんだよキャロル……ほら、君だってそうだろう?」
「あぁ…………っん……」
「これくらいのことで怖気づいているようじゃ由緒正しきラザフォード侯爵夫人になんてとてもなれないよ?これは君のためでもあるんだ。だからもう少し頑張ってもらわなきゃね。……愛してるよキャロル」
甘い言葉とは裏腹に、ヴィンセントは醜く顔を歪ませながら、ぎりぎりと奥歯を噛みしめるのだった。
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