幸薄少女の捧げる愛

りんごちゃん

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8.父親

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「おまえはいつまでもなにをやってる」
「お父さま……」

 コンコンと扉をノックしたのは、わたしを呼びに来たメイドだった。呼び出しの内容はコルネイユ公爵の突然の来訪。つまり、あの男がなんの催促もなしにこの家に来たということ。
 会いたくない、なんて言えるはずがなかった。
 身支度を整えて、父親の待つ客間へと移動する。その間、ネスもわたしの肩に乗って移動した。
 来ないで、と言ったのに、「面白そうだから」と無理矢理ついてきたのはネス。強く言えなかったのは、ネスの姿や声がわたし以外に見えてないと教えられたから。
 なにもない空間に話しかけていると思われて、イデアルさまにご迷惑をおかけしたくない。

 父のいる客間へと着くと、父は「久しぶりに会った娘と語り合いたい」ともっともらしいことを言って人払いをした。

「いつ殺すんだ」
「わたしは、でも、」
「口答えするな」

 ピシャリと言葉を遮られて、びくりと身体が強張る。
 嫌い、この男は嫌い。お母さまを閉じ込めて、わたしからお母さまを感じられるもの全てを奪った。
 大嫌い。そう思うのに、わたしは彼に逆らえる気がしなかった。

「早くあの男を始末しろ。私が聞きたいのはあの男の訃報だ」
「……イデアルさまを殺すなんて……。ねえ、お父さま」

 震える声で問いかける。あの男はギョロリとわたしを見下ろした。
 初めて会ったときは、整っていて清潔感も感じる顔だった男は、母が亡くなってからは頬が痩せこけ、目縁は窪み、瞳の中だけが絶望を映すように爛々に輝いていて、まるで別人のような風貌になった。
 その目に晒され、心の底から冷える感覚がわたしを襲う。

「お、お父さまは、どうしてイデアルさまを……?」
「どうして? おまえは知らなくてもいいことだ。おまえは私の言った通りにしていればいい」
「っ、」

 希望の見えない瞳。愛情のカケラの一切を許さない瞳はわたしを見下ろし、冷たく光った。
 母といるときのこの男は、もう少しマシだったたように思う。拒絶する母。その中に父を愛している仕草を小さく見せる母に気付いていた父は、その小さなカケラを愛しく大事にしていた。

 きっと、お母さまはこの男を愛していたのだと思う。

 言葉でそう言ったことはない。けれど、母が父を拒絶するのは、あの男に家族があったから。
 母は決してあの男の家族を壊そうとなんてしていなかった。

 だからだろうか。わたしを冷たく見下ろす男を心底嫌いになれるはずがなかった。
 父がわたしのことをただの道具としか思っていなくても、母の愛した男を、母を殺された復讐を遂げることだけを理由に生きているこの男を、どうでもいい存在だと片付けることができなかった。

「方法ならたくさんあるだろう。幸いあの男はおまえを気に入っている。毒でもなんでも使って早くやれ」
「そんな……」

 簡単に言うけど、そんな簡単に人一人を殺せるわけがない。
 グッと下唇を噛む。なにか言わなくちゃ、そう思うのに言葉が出てこない。やりたくない、そう一言言えればいいのに、言葉は出てきてくれない。

『お、またきもちーのきた。ねちねちずんずん、いい感じだぞ!』

 肩の上でネスが楽しそうに囀った。
 うるさい。ネスはわたしを馬鹿にしているのはだろうか。そう思って肩の方を見つめると、目があったネスがニッと笑う。
 苛立ち気にネスを睨みつけると、「ヴィティ!」と大きな声で名前を呼ばれた。

「お、とうさま……」
「聞いているのか? なんだその反抗的な目は」
「これは、……っ、申し訳ございません……」
「そんな言葉が聞きたいんじゃない」

 どうしてわたしが怒られなくちゃいけないの? どうしてわたしなの?
 イデアルさまを殺すのは、わたしでなくてもよかったはずなのに。
 そんな理不尽な想いが湧き上がるけど、お父さまと目が合って言葉は引っ込んだ。俯いて、男の視界から少しでも逃げようと試みる。

 心底呆れを含んだ目。その目に自分が映ると、どうして身が竦んでしまう。

「おまえは、ルミのことをなんとも思わないのか?」
「そんなことっ! お母さまは素敵な人で……」
「なら、私の言うことを聞け」

 おかあさまのため。
 婚前前に何度も言われた言葉が、今日はどうしてかとても冷たく聞こえてしまって、ポタポタと床にシミができる。
 おかあさまのために。おかあさまのため。すべてすべて、おかあさまのため。
 わかってる。わたしがいたから、お父さまから逃げることのできなかったお母さま。最後の最後まで一人になるわたしを心配していたお母さま。
 母の生のほとんどは、わたしのためにあった。

『ぷぷぷぷ、ヴィティのねちねちずんずん、おれさま最高にすきだぜ! もっとねちねちずんずんしろよー!』

 まるで悪魔の囁きだと思った。

『なあ、イデアルを殺したらもっとねちねちずんずん増えんじゃねぇ?』

 わたしを地獄の淵に落とす悪魔。
 ネスの言葉を否定するようにふるふると首を振る。
 殺したくない。殺してはいけない。あの人はわたしの分まで生きるべきの人なの。

「……それは私の言うことを聞けないということか」

 父の声が降ってきて、ハッとして顔を上げる。そこにいたのは少しだけ傷付いた顔をしてしかめっ面をしている男。

 ──だから、卑怯。
 この人はわたしを道具として扱おうとするくせに、母によく似たわたしに否定されると少しだけ傷付いた顔をする。
 そんな顔を見たくないと思うわたしはおかしいのだろうか。

「違い、ます……。わたし、あなたが、言うなら……」
「そうか。ならいい」

 ホッとしたように息を吐く男は、いまどんな顔をしているのかわからないのだろうか。
 わたしに高圧的に話すくせに、どうしてそんなに安心したような顔をするのだろう。
 母を亡くしてから、その顔に安らぎにも似た優しい表情が現れることはなかった。──わたしに命令して、受け入れられたときを除いて。
 そんな顔をされたら否定できない。拒否できない。命令の根本に母のことがあるのなら、余計。

「早くあいつを始末して、ルミを幸せにしてやるんだ」
「おかあさまを、しあわせに」

 どうすればそうできるんだろう。
 気まぐれにわたしの頭を撫でて、ぎこちなく微笑む父の顔をジッと見つめる。

 この先に待つのは主人公の二人だけが幸せになる世界。父は、幸せになんてなれない。だって、悪者だから。
 悪者は幸せになれない。ことさら、漫画の世界では。

「おまえはルミを幸せにするだけでいいんだ」
「それがわたしの生きる価値」
「ああ、そうだ。わかってるじゃないか」
「お父さまは、」
「大丈夫。俺の生きる価値もルミだけだ」

 この人は本気でそう思ってる。少し前の私だったら同じように思っていた。
 けれどイデアルさまと出逢った今、そう思えない。

 彼の幸せな未来のために死ぬのならそれも悪くない。
 少しだけ本気でそう思ってるの、わたし。
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