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本当の始まり
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快適だ。まさに快適だ。集会のないの毎日がこんなにも気持ちいいことだなんて知らなかった。
給食だって、何も疑わずに食べられる。全部食べられる。全部食べられるんだよ。こんな当たり前のことで幸福感を得られるなんて、感謝しなければならない。
「ねえ、本間……空からボクを見守っていてね」
曇りガラスを通り抜ける柔らかい陽だまりのある集会所に小さく反響したボクの声は、あの頃のけたたましい狂気の声に掻き消される。
給食後の臭い吐息と、むさ苦しい汗ばんだ男の体臭と熱気に四方八方を覆われ、無数に突き刺さる上履きの裏。頭を抱えて丸まって堪え続けた永遠のように永い昼休み……。
ボクは雄叫びを上げ、見えない本間を殴った、蹴った、踏んづけた、罵った。曇りガラスに頭突きをしし、割れた曇りガラスの向こう側には真っ青な空が広がっていた。ボクは正しい扉の開け方を知らなかったのか?
「最初から、こうしていればよかったのかな……」
まるで不意に零れ落ちた戯言を塗り潰すかのように、蒼い空は紅く染まっていった。
そんな姿を目撃されたもんだから、誰もボクに近寄らなくなった。快適だ。……快適? ……快適か? これを快適というのか?
誰もボクを見ようとしない……。当然、触れようとしない……。コイツラみんなボクに気付かない振りが上手すぎる。コイツラ劇団のエキストラかって思うほどにね。
でもボクに誰も関わろうとしない一番の理由は他にある。それはボクをイジメると不吉なことが起こるという噂が蔓延したからだ。
当然といえば当然かもしれない。だって本間は死んで、藤代は不登校になり、岩屋は大怪我をし、推薦が取り消されたのだから。受験生の今の彼らにとって内申書にマイナスになるようなことは、命を削り取られるのと同じことだからだ。
あの日、ボクのチョーク入りゲロを顔面に受け、後方に飛んだ岩屋は体操選手ゆえなのか、かなり飛んだと思う。
スローモーションでフェードアウトしていく、飛沫をあげるゲロを顔面で受け止める岩屋の姿をボクは鮮明に記憶している。
ボクと岩屋は救急車で搬送された。無論ボクは死んだふりをしていただけだから、身体の打撲や打ち身、軽い捻挫ぐらいで、大した怪我もなく、その日のうちに帰ることができた。しかし、身体の至る所にある無数の痣や傷痕が発覚し、滝沢先生は涙を浮かべた。そして母さんは、イジメに気付いてやれなかったことを悔み、声を上げて泣き崩れた。
岩屋は帰れなかった。ヤツは腰骨を骨折した。今も入院している。どうやら、もう体操はできないらしい。ていうか体育の授業も受けられないのかもしれない。歩けないのかもしれない。だから特待生扱いの推薦も取り消された。どのみちイジメの主犯として認知された岩屋は、どこの推薦も受けられないはずだ。
そして藤代もあれ以来、学校に来ていない。たかがボクに一度やられたぐらいで、学校に来れないなんて、なんてなんてなんてなんてなんて……弱い弱い弱い弱い弱い弱い……生き物なんだ。
ボクはこんなにもくだらない生物にイジメられてきたというのか。生きることは辛いんだぞ。学校は、このクラスは、昼休みは、物凄く痛くて辛いんだぞ。
「テメエ、それなのに簡単に逃げやがってえええええええ!」
ボクは藤代の机に飛び乗り飛び跳ねて、何度も踏みつけた。気がつくとボクは、床に背中を打ち付け、ひっくり返っていた。そんなボクに手を差し伸べるヤツは1人もいない。昼休みにも関わらず、この教室は異様な静けさに包まれていた。ここまでしてもボクのことが誰にも見えないなんてね……。
誰にもボクが見えないなら、いっそのこと全員殺してしまおうか? 見えてないなら、見えないなら何やってもいいってことだろ?
オマエラ、どうせボクがいなくなった途端、ボクの陰口のオンパレードだろ? イライラする。なんなんだコイツラ。マジで何なんだコイツラは。一人残らず消えてくれ。心の底から思うよ。本当に本当に心の奥の奥の奥底から、そう思うよ。お願いですから、……オマエラ全員死んでくれ。
そんな願いに切実に想いを馳せながら、いつも通りの道順を辿って下校していたその時だった。
ボクの背後で轟音が唸りを上げた。全身の毛が逆立ち、心臓が胸の中を跳ね回っている。普通なら、すぐさま振り返るのだろうけど、それができない。それをしたくないと言った方が適切だろうか。
すぐさま、もう一度、轟音が唸る。きっと車の空吹かしだ。それもめいいっぱいアクセルを踏み込んでいる。ボクの脳裏に焼き付いているあの体験がフラッシュバックしているのだ。盗難車を猛然と加速させる彼の横顔を……。
ボクは振り返らず、頼りない脚で歩みを再開した。脚の感覚はないが景色は動いているので進んではいるのだろう。しかしボクは道路の端を歩いているのに、後ろにいる車はボクより前に行こうとしない。
またエンジンが唸り、冷たい汗がこめかみを滑り落ちる。
本間をヤッた後、ボクは入院し、退院した後も最上階へは行っていない。つまり本間を殺してから、一度も彼に会っていない。
ああ、どうしよう……もう、どうしよう……落ち着け……落ち着くんだ……。ボクはまだ振り返ってはいない。即ち、後ろの車に乗っている誰かを確認してはいない。だから、ボクは立ち止まる理由などない。
もしかしたら、後ろの車に乗っているのが、彼ではないかもしれない。もしかしたら、ボクを攫おうとしている身代金要求目的の誘拐犯かもしれない。もしかしたら、ボクを攫ってレイプした後、山奥に捨てようとしているゲイなのかもしれない……。考えたらキリがないぞ。逃げてしまおう。犯罪に繋がる可能性がある。快楽殺人鬼が後ろにいるかも知れないんだ。
走れええええええ!
「ひゃっ!」
情けない声が、走り出そうと力んだボクの何処からか出る。ポケットのケータイがバイブしたからだ。恐る恐るケータイを取り出す。知らない番号だ。
「もしもし」
「大丈夫⁉︎」
聴いたことある声。聴き慣れた声……。
「えっ、母さん……?」
「今ね、教育実習生の先生から、会社に電話があったのよ。様子がおかしいから、すぐに電話してやってくれって。また学校でイジメられたりしたんじゃないの?」
何言っているんだ。今、学校に教育実習生なんていない……。母さんは慌てふためいている。
「落ち着いて。母さん、落ち着いて。ボクは何ともないし、何もされてないよ。それより教育実習生の名前は聞いたの?」
ボクの質問は母さんには届いていない。母さんがそうなるのも仕方ない。つい最近、岩屋が階段が落ちた時、様々なことが明るみになった。毎日、暴力を受け、給食にはチョークを入れられ、それを食べさせられていたということを。あの時はチョークを食べたことにしていた事が、母さんにとっては衝撃的な事実であり、またそのようなことがあれば、気が動転するのもわからなくはない。
「そんなことより、本当に大丈夫なの? ねえ、また何かされたんじゃないの? 大丈夫なの?」
気がつくとボクの横にはワンボックスの車が停まっていた。目尻がつり上がった鎌のように鋭い眼がボクの心を覗いていた。そして、その下にある口が大きく動いている。車の窓が閉まっているから、何を言っているのかわからない。母さんは相変わらず、喚いている。パワーウィンドウがスルスルと下りていく。
「人殺しいいいいいい!」
その悪魔の声が住宅街に反響する。震える指先は慌てて電話を切っていた。
そして鎌の眼の男は言った。
「教育実習生のコウヤで~す」
目眩がして倒れそうになるボクを横目に彼はタバコに火をつけた。ジッポライターの甲高い金属音が、まるで仏壇の鈴ようだと思いボクは薄く笑った。
「乗れや……」
終わった……と思った。
恐る恐る車に乗り込もうとするボクをじっと凝視する鎌の眼。座席が高いワンボックスのステップに掛けた脚が震えていてうまく力が入らない。悟られまいと必死に平静を装ってみたが、鎌の眼がボクの心の輪郭を撫でるように引っ掻く。
ボクが座席に乗り込んだ途端、窓を閉めてしまう彼。行き場を失った煙は僕の鼻からから肺へと流れ込む。むせ返りそうになるが、また平静を装ってみる。そんなボクを見て彼は口許だけで笑っている。これはボクに対する無言の当て付けなのだろうか。
確かにボクは彼を避けていた。これ以上彼に関わってしまうのはマズイと思ったからだ。最上階へ行かなければ逃げ切れると思っていたのは、やはり浅はかだった。
よくよく考えてみたら、本間を殺しに行った日、ボクは一度、着替えるために自宅に戻った。そして部屋を出た時には彼が待っていた。ボクの自宅は彼に知られているんだ。きっと母さんを尾行して勤務先を突き止めたのかもしれない。住所と会社名が分かれば電話番号を調べる事は容易なはずだ。何のために母さんを尾行したんだ。まさか母さんにも危害を加えるつもりなのだろうか。
恐ろしい。恐ろしくてたまらない。彼はボクの何処までを知っていて、ボクの何を知らないのだろう。逃げても隠れても、最終的には必ず見つかってしまうのだろう。
「これからどこに行くんですか?」
「ちょっとみんなで遊びに行こうかと思ってよ」
「……えっ、みんな? 他に誰かいるんですか?」
「後ろ」
「うわあっ!」
後ろを振り返ったボクは思わず声を上げてしまった。何故なら後部座席に田口が乗っていたからだ。そんなボクの様子を見て、田口はほくそ笑んだ。
「おい! どうしてキミが此処に居るんだ!」
慌てふためくボクに田口は吊り上げた口端を下げることはしなかった。
「うるせえぞ! コーチ!」
ボクは前へ向き直り、表情と身体を硬直させた。さっき彼は『人殺し』と叫んだのに落ち着いた様子だ。田口は知っているのか? いや、彼が話したのだろうか。もしかしたら彼が田口を使ってボクのことを監視していたかもしれない。もしそうだとしたら……。でも何のために……。
しばらくすると、人気のない公園の前で車は停車した。此処は奇しくもガス銃で制裁を下した公園だった。辺りはもう薄暗く、オレンジの空は今から始まる何かから身を隠すように明日へと消えていく。
「行け、田口。いつもどうりやれよ」
「はい」
いつもどうり? ってことは初めてじゃない? これは何度目? いつから?
何をする? いくつもの疑問が頭の中を駆け巡らせてるうちに、田口はベンチに腰掛けて、しばらくすると女性がやってきた。あ、あれは……同じクラスの吉澤だ。顔面偏差値は高いが性格が悪く、女子の中ではリーダー的存在だ。本間に比べたら、可愛いものだが、机に何度も落書きをされたし嫌がらせもされた。
田口は彼女と話しながらペットボトルを手渡し、彼女がそれを口にした。すると彼のケータイが鳴り通話ボタンを押した。ケータイから微かに漏れ聞こえる声の主は田口だ。嫌な予感がする。
「了解だ」
彼はそういうと、スルスルと車を動かし、二人が座るベンチの後ろに停車させて、周囲を確認した後。
「そっちが大丈夫なら、行動開始だ」
すると田口は女を抱きかかえるようにして立ち上がり、こちらに向かってくる。女の足許は覚束ない様子だ。後部座席の自動スライドドアがゆっくりと開く。彼はじっと前を見ながらバックミラー、サイドミラー、右手だけを動かしていた。
田口と女が近づいてくると、彼は後部座席に身を乗り出し腕を伸ばした。田口が女を後部座席へ押し込むと同時に、彼は女の襟元掴み軽々と中へ引きこんだ。すると田口は震える手で薬品のような瓶を傾け布を濡らし、女の鼻と口を塞いだ。
「そんな強く押さえたら死ぬぞ!」
彼の怒号が本間をヤった時をフラッシュバックさせゲロが喉元までせり上がってきた。ボクは女と田口から視線を外すと、いつの間にか車は走り出していた。
例によって、おぞましく醜悪な息遣いが後ろから聴こえてくる。彼はバックミラーを見て鼻で笑った。
「もう、おっぱじめやがった」
遅る恐る振り返ると、女のスカートの中に頭を突っ込んだ田口は、くちゃくちゃと音を起てて喰らいついていた。その光景を目の当たりにしたボクから声にならないような声が漏れてしまった。すると田口の動きが止まり、スカートからぬるりと頭を出した。静電気のせいなのかわからないが髪が逆立っていた。薄暗さも手伝いコイツが誰のか一瞬わからなくなってしまう。コイツは振り向いたが余計に誰だか分らなくなった。赤黒い血でを口と鼻を汚したコイツは肉食獣なのだと理解した。その獣はボクに向かって吠えた。
「見るなああああああああああ!」
ボクは悲鳴を上げ、頭を抱えて身を屈めた。隣からけたたましい笑い声がしている。その笑い声も醜悪で、耳を塞いでも聴こえ続けた。苦しい。この場所から逃げ出したい。ボクはドアノブに手をかけた。開かない開かない、ドアが開かない。運転席からロックをされている。むせかえるような熱気と共に獣臭が漂ってくる。呼吸しづらい。新鮮な空気を吸いたい。窓も開かない。パワーウインドウもロックされている。ボクは窓をたたき割ろうと拳を固め振りかぶった。窓ガラスに映っていたのはボクのはずだった。でも違った。笑っているのか何なのか相変わらずのフワフワした表情の本間がボクを見つめていた。
給食だって、何も疑わずに食べられる。全部食べられる。全部食べられるんだよ。こんな当たり前のことで幸福感を得られるなんて、感謝しなければならない。
「ねえ、本間……空からボクを見守っていてね」
曇りガラスを通り抜ける柔らかい陽だまりのある集会所に小さく反響したボクの声は、あの頃のけたたましい狂気の声に掻き消される。
給食後の臭い吐息と、むさ苦しい汗ばんだ男の体臭と熱気に四方八方を覆われ、無数に突き刺さる上履きの裏。頭を抱えて丸まって堪え続けた永遠のように永い昼休み……。
ボクは雄叫びを上げ、見えない本間を殴った、蹴った、踏んづけた、罵った。曇りガラスに頭突きをしし、割れた曇りガラスの向こう側には真っ青な空が広がっていた。ボクは正しい扉の開け方を知らなかったのか?
「最初から、こうしていればよかったのかな……」
まるで不意に零れ落ちた戯言を塗り潰すかのように、蒼い空は紅く染まっていった。
そんな姿を目撃されたもんだから、誰もボクに近寄らなくなった。快適だ。……快適? ……快適か? これを快適というのか?
誰もボクを見ようとしない……。当然、触れようとしない……。コイツラみんなボクに気付かない振りが上手すぎる。コイツラ劇団のエキストラかって思うほどにね。
でもボクに誰も関わろうとしない一番の理由は他にある。それはボクをイジメると不吉なことが起こるという噂が蔓延したからだ。
当然といえば当然かもしれない。だって本間は死んで、藤代は不登校になり、岩屋は大怪我をし、推薦が取り消されたのだから。受験生の今の彼らにとって内申書にマイナスになるようなことは、命を削り取られるのと同じことだからだ。
あの日、ボクのチョーク入りゲロを顔面に受け、後方に飛んだ岩屋は体操選手ゆえなのか、かなり飛んだと思う。
スローモーションでフェードアウトしていく、飛沫をあげるゲロを顔面で受け止める岩屋の姿をボクは鮮明に記憶している。
ボクと岩屋は救急車で搬送された。無論ボクは死んだふりをしていただけだから、身体の打撲や打ち身、軽い捻挫ぐらいで、大した怪我もなく、その日のうちに帰ることができた。しかし、身体の至る所にある無数の痣や傷痕が発覚し、滝沢先生は涙を浮かべた。そして母さんは、イジメに気付いてやれなかったことを悔み、声を上げて泣き崩れた。
岩屋は帰れなかった。ヤツは腰骨を骨折した。今も入院している。どうやら、もう体操はできないらしい。ていうか体育の授業も受けられないのかもしれない。歩けないのかもしれない。だから特待生扱いの推薦も取り消された。どのみちイジメの主犯として認知された岩屋は、どこの推薦も受けられないはずだ。
そして藤代もあれ以来、学校に来ていない。たかがボクに一度やられたぐらいで、学校に来れないなんて、なんてなんてなんてなんてなんて……弱い弱い弱い弱い弱い弱い……生き物なんだ。
ボクはこんなにもくだらない生物にイジメられてきたというのか。生きることは辛いんだぞ。学校は、このクラスは、昼休みは、物凄く痛くて辛いんだぞ。
「テメエ、それなのに簡単に逃げやがってえええええええ!」
ボクは藤代の机に飛び乗り飛び跳ねて、何度も踏みつけた。気がつくとボクは、床に背中を打ち付け、ひっくり返っていた。そんなボクに手を差し伸べるヤツは1人もいない。昼休みにも関わらず、この教室は異様な静けさに包まれていた。ここまでしてもボクのことが誰にも見えないなんてね……。
誰にもボクが見えないなら、いっそのこと全員殺してしまおうか? 見えてないなら、見えないなら何やってもいいってことだろ?
オマエラ、どうせボクがいなくなった途端、ボクの陰口のオンパレードだろ? イライラする。なんなんだコイツラ。マジで何なんだコイツラは。一人残らず消えてくれ。心の底から思うよ。本当に本当に心の奥の奥の奥底から、そう思うよ。お願いですから、……オマエラ全員死んでくれ。
そんな願いに切実に想いを馳せながら、いつも通りの道順を辿って下校していたその時だった。
ボクの背後で轟音が唸りを上げた。全身の毛が逆立ち、心臓が胸の中を跳ね回っている。普通なら、すぐさま振り返るのだろうけど、それができない。それをしたくないと言った方が適切だろうか。
すぐさま、もう一度、轟音が唸る。きっと車の空吹かしだ。それもめいいっぱいアクセルを踏み込んでいる。ボクの脳裏に焼き付いているあの体験がフラッシュバックしているのだ。盗難車を猛然と加速させる彼の横顔を……。
ボクは振り返らず、頼りない脚で歩みを再開した。脚の感覚はないが景色は動いているので進んではいるのだろう。しかしボクは道路の端を歩いているのに、後ろにいる車はボクより前に行こうとしない。
またエンジンが唸り、冷たい汗がこめかみを滑り落ちる。
本間をヤッた後、ボクは入院し、退院した後も最上階へは行っていない。つまり本間を殺してから、一度も彼に会っていない。
ああ、どうしよう……もう、どうしよう……落ち着け……落ち着くんだ……。ボクはまだ振り返ってはいない。即ち、後ろの車に乗っている誰かを確認してはいない。だから、ボクは立ち止まる理由などない。
もしかしたら、後ろの車に乗っているのが、彼ではないかもしれない。もしかしたら、ボクを攫おうとしている身代金要求目的の誘拐犯かもしれない。もしかしたら、ボクを攫ってレイプした後、山奥に捨てようとしているゲイなのかもしれない……。考えたらキリがないぞ。逃げてしまおう。犯罪に繋がる可能性がある。快楽殺人鬼が後ろにいるかも知れないんだ。
走れええええええ!
「ひゃっ!」
情けない声が、走り出そうと力んだボクの何処からか出る。ポケットのケータイがバイブしたからだ。恐る恐るケータイを取り出す。知らない番号だ。
「もしもし」
「大丈夫⁉︎」
聴いたことある声。聴き慣れた声……。
「えっ、母さん……?」
「今ね、教育実習生の先生から、会社に電話があったのよ。様子がおかしいから、すぐに電話してやってくれって。また学校でイジメられたりしたんじゃないの?」
何言っているんだ。今、学校に教育実習生なんていない……。母さんは慌てふためいている。
「落ち着いて。母さん、落ち着いて。ボクは何ともないし、何もされてないよ。それより教育実習生の名前は聞いたの?」
ボクの質問は母さんには届いていない。母さんがそうなるのも仕方ない。つい最近、岩屋が階段が落ちた時、様々なことが明るみになった。毎日、暴力を受け、給食にはチョークを入れられ、それを食べさせられていたということを。あの時はチョークを食べたことにしていた事が、母さんにとっては衝撃的な事実であり、またそのようなことがあれば、気が動転するのもわからなくはない。
「そんなことより、本当に大丈夫なの? ねえ、また何かされたんじゃないの? 大丈夫なの?」
気がつくとボクの横にはワンボックスの車が停まっていた。目尻がつり上がった鎌のように鋭い眼がボクの心を覗いていた。そして、その下にある口が大きく動いている。車の窓が閉まっているから、何を言っているのかわからない。母さんは相変わらず、喚いている。パワーウィンドウがスルスルと下りていく。
「人殺しいいいいいい!」
その悪魔の声が住宅街に反響する。震える指先は慌てて電話を切っていた。
そして鎌の眼の男は言った。
「教育実習生のコウヤで~す」
目眩がして倒れそうになるボクを横目に彼はタバコに火をつけた。ジッポライターの甲高い金属音が、まるで仏壇の鈴ようだと思いボクは薄く笑った。
「乗れや……」
終わった……と思った。
恐る恐る車に乗り込もうとするボクをじっと凝視する鎌の眼。座席が高いワンボックスのステップに掛けた脚が震えていてうまく力が入らない。悟られまいと必死に平静を装ってみたが、鎌の眼がボクの心の輪郭を撫でるように引っ掻く。
ボクが座席に乗り込んだ途端、窓を閉めてしまう彼。行き場を失った煙は僕の鼻からから肺へと流れ込む。むせ返りそうになるが、また平静を装ってみる。そんなボクを見て彼は口許だけで笑っている。これはボクに対する無言の当て付けなのだろうか。
確かにボクは彼を避けていた。これ以上彼に関わってしまうのはマズイと思ったからだ。最上階へ行かなければ逃げ切れると思っていたのは、やはり浅はかだった。
よくよく考えてみたら、本間を殺しに行った日、ボクは一度、着替えるために自宅に戻った。そして部屋を出た時には彼が待っていた。ボクの自宅は彼に知られているんだ。きっと母さんを尾行して勤務先を突き止めたのかもしれない。住所と会社名が分かれば電話番号を調べる事は容易なはずだ。何のために母さんを尾行したんだ。まさか母さんにも危害を加えるつもりなのだろうか。
恐ろしい。恐ろしくてたまらない。彼はボクの何処までを知っていて、ボクの何を知らないのだろう。逃げても隠れても、最終的には必ず見つかってしまうのだろう。
「これからどこに行くんですか?」
「ちょっとみんなで遊びに行こうかと思ってよ」
「……えっ、みんな? 他に誰かいるんですか?」
「後ろ」
「うわあっ!」
後ろを振り返ったボクは思わず声を上げてしまった。何故なら後部座席に田口が乗っていたからだ。そんなボクの様子を見て、田口はほくそ笑んだ。
「おい! どうしてキミが此処に居るんだ!」
慌てふためくボクに田口は吊り上げた口端を下げることはしなかった。
「うるせえぞ! コーチ!」
ボクは前へ向き直り、表情と身体を硬直させた。さっき彼は『人殺し』と叫んだのに落ち着いた様子だ。田口は知っているのか? いや、彼が話したのだろうか。もしかしたら彼が田口を使ってボクのことを監視していたかもしれない。もしそうだとしたら……。でも何のために……。
しばらくすると、人気のない公園の前で車は停車した。此処は奇しくもガス銃で制裁を下した公園だった。辺りはもう薄暗く、オレンジの空は今から始まる何かから身を隠すように明日へと消えていく。
「行け、田口。いつもどうりやれよ」
「はい」
いつもどうり? ってことは初めてじゃない? これは何度目? いつから?
何をする? いくつもの疑問が頭の中を駆け巡らせてるうちに、田口はベンチに腰掛けて、しばらくすると女性がやってきた。あ、あれは……同じクラスの吉澤だ。顔面偏差値は高いが性格が悪く、女子の中ではリーダー的存在だ。本間に比べたら、可愛いものだが、机に何度も落書きをされたし嫌がらせもされた。
田口は彼女と話しながらペットボトルを手渡し、彼女がそれを口にした。すると彼のケータイが鳴り通話ボタンを押した。ケータイから微かに漏れ聞こえる声の主は田口だ。嫌な予感がする。
「了解だ」
彼はそういうと、スルスルと車を動かし、二人が座るベンチの後ろに停車させて、周囲を確認した後。
「そっちが大丈夫なら、行動開始だ」
すると田口は女を抱きかかえるようにして立ち上がり、こちらに向かってくる。女の足許は覚束ない様子だ。後部座席の自動スライドドアがゆっくりと開く。彼はじっと前を見ながらバックミラー、サイドミラー、右手だけを動かしていた。
田口と女が近づいてくると、彼は後部座席に身を乗り出し腕を伸ばした。田口が女を後部座席へ押し込むと同時に、彼は女の襟元掴み軽々と中へ引きこんだ。すると田口は震える手で薬品のような瓶を傾け布を濡らし、女の鼻と口を塞いだ。
「そんな強く押さえたら死ぬぞ!」
彼の怒号が本間をヤった時をフラッシュバックさせゲロが喉元までせり上がってきた。ボクは女と田口から視線を外すと、いつの間にか車は走り出していた。
例によって、おぞましく醜悪な息遣いが後ろから聴こえてくる。彼はバックミラーを見て鼻で笑った。
「もう、おっぱじめやがった」
遅る恐る振り返ると、女のスカートの中に頭を突っ込んだ田口は、くちゃくちゃと音を起てて喰らいついていた。その光景を目の当たりにしたボクから声にならないような声が漏れてしまった。すると田口の動きが止まり、スカートからぬるりと頭を出した。静電気のせいなのかわからないが髪が逆立っていた。薄暗さも手伝いコイツが誰のか一瞬わからなくなってしまう。コイツは振り向いたが余計に誰だか分らなくなった。赤黒い血でを口と鼻を汚したコイツは肉食獣なのだと理解した。その獣はボクに向かって吠えた。
「見るなああああああああああ!」
ボクは悲鳴を上げ、頭を抱えて身を屈めた。隣からけたたましい笑い声がしている。その笑い声も醜悪で、耳を塞いでも聴こえ続けた。苦しい。この場所から逃げ出したい。ボクはドアノブに手をかけた。開かない開かない、ドアが開かない。運転席からロックをされている。むせかえるような熱気と共に獣臭が漂ってくる。呼吸しづらい。新鮮な空気を吸いたい。窓も開かない。パワーウインドウもロックされている。ボクは窓をたたき割ろうと拳を固め振りかぶった。窓ガラスに映っていたのはボクのはずだった。でも違った。笑っているのか何なのか相変わらずのフワフワした表情の本間がボクを見つめていた。
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