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17歳

感謝

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 私の名字は変わった。清野 舞はいなくなったんだ。まるで別人に生まれ変わったようで嬉しかった。

 私は産婦人科で赤ちゃんの成長を見るのが楽しみだ。とても小くて丸っこかった命が、人間らしくなっていくのを見て生命の神秘を感じた。

 12週を過ぎると心音を聴かせてもらえた。予想以上の速さで命を刻んでいることに私は驚いた。私の身体の中には心臓が二つある。
 私はもう一つの心臓に触れるように、お腹に手をあてるのが癖になった。

『愛おしい』

 私はこの言葉の本当の意味を知った気がする。
 
 トーヤは生まれてくる子供のために、仕事を終えた後、夜は飲み屋でバイトをしてくれている。仕事が終わっても家に帰らず、そのままバイトへ行ってしまう。日によってはバイト先に泊まって、そのまま仕事に行くこともある。

 たまに帰ってくるけど、いつもトーヤは疲れ果てていて、ストレスが溜まっているようだった。今ではほとんど会話が無くなってしまった。

 私はお腹が大きくなってから働けなくなってしまった。トーヤ一人に働かせてしまって、負い目を感じてしまう。子供を産むという現実に私は少し戸惑っている。

 私にはトーヤしかいないんだ。トーヤの笑顔が見たいけど、外泊が多いし、帰ってきてもすぐに寝てしまう。赤ちゃんがお腹を蹴飛ばす度、少しだけ私の寂しさを和らげてくれる。

 キミがいるかぎり私は独りじゃないよね。キミが生まれてきてくれたら、私達、また笑いあうことができるよね……。出産予定日まで、あと少し……。


 だけど前にもましてトーヤは家に帰らなくなってしまった。着替えとか、どうしてるんだろう。電話してもメールしても返事がない。不安過ぎて気が狂いそうだ。

 そして、とある日トーヤから着信があった。

「もしもしトーヤ! 帰ってこないで何してんの?」

「もしも~し、舞さんですかあ~」

 女の声だった。

「……あんた、誰?」

「トーヤの女でえ~す」

 いちいち小馬鹿にしたような女の口調がカンに障る。

「はあっ!  私はトーヤの嫁だぞ! ふざけんじゃねえよ!」


「でもねえ~、トーヤがねえ~、あんたと別れたいってさあ~」

「そんなの誰が信じんだよ! トーヤ本人の口から聞かない限り信じられるわけねえだろ! トーヤ出せよ!」

 女は沈黙した。やっぱり何も言えねえでやんの。ムカつく……いったいどうなってんだよ。

「……もしもし、俺だ」

「……えっ!」

 それは紛れも無いトーヤの声だった……。 

「トーヤ! どういうこと!」


「やっぱり俺みたいのが子供なんて無理やなんよ……。俺な、お前に出会う前までめっちゃ遊でて借金あるんだよ。それ返そうと必死で働いてみたけど、やっぱり無理だったわ。俺はとことんハンパもんだな」

「バイク売ったんだし、赤ちゃんが産んで大きくなったら、保育園に預けて私も働くよ!」

「バイクの金はとっくに使ってもうた。それに子供なんて育てていく自信ないんよ。親にゴミみたく捨てられた奴が親になれるわけないんよ。あとな、俺キレたら何しちまうか自分でもわからんし、お前に暴力しちまったら最悪じゃんか。家に帰れなくなったんは、そういうことでもあるんだ」

「だ、だからって、なんでよ。いつ産まれてもおかしくないんだよ? こんな私をひとり置いていくっていうの?」

「勘弁してくれ……。離婚届け送るから出しといてな……」

「そんなの勝手すぎる! 許さない! 絶対許さない! 今すぐ戻ってこいよ!」

「今までありがとな、楽しかった。ほんとに愛してた……」

「トーヤッ! トーヤッ!」

 ケータイが手から零れ落ちる。なんで過去形なんだよ。私は今も愛してる……。

「愛してるのに……」

 
 あの女のせいだ。どこの女だ……どこの誰だ……。見つけてブッ殺してやる……。でもどうやって見つけりゃいいんだよ……。

「どこにいるいるんだよおおおおお!」

 部屋中をひっくり返していくが手がかりなんて見つからず、身篭った身体は思った以上に私の体力を奪っていく。立っていられなくなり荒れ果てた部屋に腰を落とした。

 これから、どうすりゃいいんだよ……。

「ねえ、どうしたらいい?」

 私はお腹をさすりながら訊ねた。当然、何も答えてはくれない。お腹の赤ちゃんが喋れるわけないのに……それでも何か言ってほしかった。
  
 私はトーヤのことを知ってるつもりでいたけど、実際は何も知らなかったんだ。勤務先もバイト先も知らなかったし、その手掛かりも見当たらなかった。

 女って誰だよ! 昔の女か? それともどっかでひっかけたのか? トーヤはモテそうだからな……。借金なんてどうにかなるんじゃねえのかよ……。借金! 嫌な予感が胸を貫通した。私は慌てて荒れ果てた荒野の土を掘り返した。

「……ない……ない……ない、ないないない……」

 私の通帳と印鑑がなくなっていた。働き出してからずっと贅沢もせずこつこつと貯めてきた。

 金も……夢も……希望も……幸せも……すべて何もかも……。
   
 横たわった姿の中の私が哀れな顔で私を見ていた。鏡はいつだって真実だけを映しだす。なんて惨めなんだ。またかよ。また裏切られた。もういいよ。私のこれから人生も、こんなことが繰り返し続いてくんでしょ? 

 壁にかけてある二人の写真が隙間なく貼られたコルクボードを鏡に投げつけた。けたたましい音を起ててな私は粉々に砕け落ちた。

 私はナイフより尖った鏡の破片を右手にとり、コルクボードから左手で写真を剥がしとる。

 尖ったほうを下に向けて写真の上にかざした。血の色が破片を縁取る。尖った先端に赤色の涙が溜まりぶら下がる。少し粘着質な赤色は揺れている。握力を強めると赤い涙が激しく揺れた。ぽたり……ぽたり……と涙が落ちる。写真の上で愛は弾け飛んだ。この愛は偽物だった……。悲しい現実が痛覚を奪う。

 雑巾を絞るように破片を握り締めると、二人の笑顔がみるみるうちに血に染まった。

 ねえ、トーヤ……痛いよ……痛いよ……心が痛いよ……。

 私は写真にキスをしてべっとり纏わりついた真っ赤な涙を舐めた。写真の中のトーヤは笑っている。それを奥歯で喰いちぎり吐き捨てた。そして手首の血管を見て思った。

 どうして血は赤いのに血管は青いのだろうか。無性に血管を破ってみたくなった。破片を左手首にゆっくりと突き立てた。

「……痛い……痛い!」

 徐々に近づく破片の先端が手首に触れる寸前、お腹に居る赤ちゃんが暴れだしたのだ。まるで私の愚かな行為を止めるかのように……。そして破水し陣痛が始まった。

「痛い……いたっあああい!」

 この痛みが何なのかを思い知る。私は独りじゃなかった。私の身体にはもう一つの命……いや、もう一人いるんだよね。キミの命まで奪う権利は私にはないよね。危うく人殺しになるところだったよ。

 私は今まで、ろくでもない人生だったけど、母親としてキミに夢や希望や幸せを与えてあげられるかもしれない。

 きっとそうすることが私にとっての、夢や希望や幸せになるんだ。何もなくなっちゃったけど、キミを想う愛情だけは、たくさん残ってたみたいだね。早くキミに逢いたくなってきたよ。

 私は右手にガムテープをぐるぐるに巻き付けて病院へ向かった。

 手に巻きつけたガムテープを、剥がすとき傷口が引っ付いて血が滲み出る。だけど陣痛の痛みのが強すぎて手の痛みなんてまったく気にならなかった。 
 私の他にも産まれそうな妊婦さんが何人かいて、旦那さんや家族が腰をさすっていた。

 私を訪ねてくる家族などいるはずもなく、一人ぼっちでベッドの取っ手を歪むぐらい強く握りしめながら、五分おきにくる陣痛の波に死ぬ気で堪え、手当してもらった右手の包帯は、いつの間にか赤く染まっていた。そして陣痛が始まってから18時間後、やっと産声をあげた。

「元気な女の子よ」

 助産婦さんの両手にすっぽりおさまる程の大きさだった。

「キミがずっと私のお腹にいたのか……」

 私は赤ちゃんの手に触れた。

 すると、もみじのような小さい手が、私の真っ赤に染まった包帯の人差し指をギュッと握り返したのだ。涙がとめどなく溢れ出た。

『ママはひとりぼっちなんかじゃないよ。わたしがいるからね』

 まだ産まれて間もない赤ちゃんに、そう言われた気がした。声にならない声で私から産まれた赤ちゃんにお礼を言った。

 私は愛を見た。愛の姿形を見た。愛そのものを見た。これを愛と呼ばず何と呼ぶ。これだけは断言できる。これ以上の愛は存在しない。私はこの愛を守るためならなんでもする。自分を殺したってかまわない。この愛を知るための……この愛と出会うための……これまでのくだらない人生だったのならば……すべてくらい尽くして糞にしてやる。

 この出会いのための運命だったのならば……喜んで全部受け入れてやる。だってさ、忌ま忌ましい今までがなければ、この愛に出会えなかったんだからね、……。

「今まで出会ったクソみたいな奴ら……」

感謝してやるよ!
  
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