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17歳
新世界
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カーテンを突き抜けるような光が差し込む。東側の大きな窓と南側にはベランダがあり、早朝から夕方まで絶えず光で満たされる部屋。
駅まで徒歩17分とのことだが、実際歩いてみると20分はかかる。築28年、6畳の1K、オートロックは当然無し、水垢まみれの外壁に、ベランダの欄干は何度も塗り重ねられたペンキが剥がれ落ち、錆びた茶色い涙があちらこちらで見受けられる。古くて小汚いというのが第一印象だった。
だけど部屋の中はリフォーム済みで、ユニットバスはいかにもだが、希望に満ち溢れるような光に包まれるような印象を受け、私はこの部屋に即決した。これから始まる新生活を、後押しするような部屋に巡り逢えたことを私は素直に喜んでいた。
でも、よくよく考えてみろよ。ただ日当たりがいいだけの、どこにでもある角部屋だろ。ああ……私が望んでいたのはこんなことだったのかな……。あんだけウザかった寮生活では常に誰かが居た。数えるほどだが一緒にご飯を食べてくれる人もいた。独りってこんな寂しいものなのかな……。
このネジ曲がった性格では対人関係はそつなくこなす程度。わざわざ遊びに出かけるような関係の人も居ない。
休日はこの光に満ち溢れた部屋でただ時間が過ぎるのを待つだけだ。今となってはその光さえも眩しすぎて、希望を遮るようにカーテンを閉めきっている。
趣味もなければ友達も居ない。当然、家族なんてこの世に存在しない。無意味に鳴り続けるテレビから目を離し、冷蔵庫に手を伸ばす。
「よいしょ……」
久しぶりに言葉を発したことに侘しくなる。からっぽの冷蔵庫は無駄に電気代を消費しているだけだ。私はこの冷蔵庫に存在意義を与えるため、駅の方まで買い物に出かけることにした。駅に近づくにつれ賑やかになっていくが、私はそれに反比例して虚しくなる。
マックでポテトをくわえながら女子高生達が楽しそうにおしゃべりをしている。手を繋ぐカップルの彼女の左手には、いつか貰ったピンキーリングと同じブランドの紙袋がぶら下がっている。……記念日だったのかな? 誕生日だったのかな? ああ眩しい……その笑顔が眩し過ぎてウザいんだよ。私にはあんな笑顔はできない。いや、私もしてたんだっけ? 急に思い出す。あの時の自分が滑稽で無性に恥ずかしくなる。……クソっ! 死ね!
すれ違う人達が次々とすれ違い遠ざかっていく。まるで誰にも私が見えていないようだ。こんなにも人がいるのに私は誰も知らない。こんなにも人がいるのに誰も私を知らない。愛してくれとはいわないが、誰か私に気付いてくれ。そして誰か教えてくれ。私がいったい誰なのか……何者なのか……。
このイカれた気持ちを鎮めるため、たまたま目の前にあったゲーセンに入ることにした。重低音が利いた店内の音楽を軸に、それぞれのゲーム機からの音と色が交じり合い、視覚と聴覚がほどよくイカれだす。
見渡せば私に似たような奴らがゲームに没頭している。音ゲーのボタンを一心不乱で叩き続ける奴……。対戦格闘ゲームに感情を剥き出しにしてる奴……。無気力でコインを投入し続ける奴……。ケータイをいじりながらパチンコを打つ奴……。気怠そうにタバコを吹かしながらオンラインの麻雀ゲームをする奴……。こいつらも私と同じなのだろうか。私がこいつらと同じなのだろうか。
私も目の前のクレーンゲームに百円玉を入れ、べつに欲しくもないぬいぐるみに標準を合わせ、クレーンを降ろした。ぬいぐるみを引っ掛けたクレーンは、頼りなさげにそれを運んでいくが、穴の寸前で微力なクレーンはぬいぐるみを落とし、絶妙な具合にぬいぐるみは穴の縁に引っ掛かってしまった。
「なんだよ! 落ちろよ!」
このくらいの些細なシアワセくらいあったっていいだろ。ぬいぐるみくらい、くれたっていいだろ。
落ちろ……落ちろ……と私は念じて機械を揺すった。揺らしてダメなら蹴ってみる。オラッ……オラッ……堕ちろ!
様々な音がぶつかりあい混雑するゲームセンターの中で明らかに異質な音が鳴り響く。
「何見てんだよ! うぜえんだよ!」
やっぱりコイツらは私とは違う。違いすぎる。辺りを睨みつけ、私はびくともしないぬいぐるみを視殺したその時だった。
「おいっ!」
その怒鳴り声に慌てて振り返ると男が宙を舞っていた。私は頭を抱えその場にしゃがみ込んだ。この時、突然のことで頭は真っ白だったが、私の本能はこう思っていたに違いない。殺される……。
ゲームセンターの中にいる誰もが振り返るほどの、衝撃音がクレーンゲームを襲った。どうやら男は勢いをつけてクレーンゲームにドロップキックをかましたらしい。
私はというと、尻餅をつきクレーンゲームのけたたましい警報に包まれながら、呆気に取られていた。
男は取り出し口に山積みになっているぬいぐるみを、何体か取り出して言った。
「どれが欲しかったん?」
「え……」
「え、じゃねえよ! はやく選びな」
男は笑顔だった。私は戸惑いながら、適当に指差した。
「よっしゃ、これな、ほれっ」
私にぬいぐるみをそっと投げると、男はにんまりと笑った。
「何してるんだ!」
ゲーセンの従業員が駆け付けてきた。
「逃げんぞ!」
男は強引に私の手を引いた。私は男の背中を見ながら夢中で走った。すべての音が消え、景色がスローモーションで流れていく。でも私の胸の鼓動は暴れる狂ったように加速した。
出口にたどり着くと、男は自販機の横にあったゴミ箱を倒してぶち撒ける。店の外に出るとバイクに腰掛け電話している一般人を突き飛ばした。
「ちょっと貸して」
そう言って男はバイクに跨がりエンジンかけた。
「痛えな!」
「乗れ!」
男は後ろのシートを叩く。私が跨がると同時にフロントタイヤを軽く浮かせて急発進した。バイクの持ち主の怒号が一瞬で遠ざかる。バイクから振り落とされないように、私は自然と男にしがみついていた。
交差点の赤信号の手前で乱暴にアクセルをフカすと、車達が減速して私達に道を譲る。
男は車のドライバー達を睨みつけ、アクセルを握る右手が小刻みに踊る。
唸りを上げる暴力的な咆哮は、雑居ビルの群れに反響して空の向こう側まで轟きそうだ。
真昼間に信号無視。今までバイクの音なんて不快としか思わなかった。迷惑にしか思わなかった。でも今は違う。唸れ唸れ唸れもっと唸れ。叫べ叫べ叫べもっと叫べ。自分自身から音が吐き出されているような感覚に酔いしれる。
此処にいる誰もが、しかめ面で軽蔑の目を私たちに向ける。私は風に髪をまき散らすようにして笑った。世界中の誰もが私という存在を認識している。
ファック ザ ワールド! 改め ニュー 舞 ワールド!
これは新世界だ……。物凄い速さで景色が後ろに流れ、前を走る車が物凄い速さで迫ってくる。まるでこの世界が私中心に動いているようだ。
対向車線のパトカーとすれ違ったようだ。ノーヘルの私と目が合うと、瞬時に赤色灯が廻りサイレンは唸りを上げUターンをした。心臓がイカれたように速くなり、しがみつく手に力が入る。
それを察知したのか男が振り返って言った。
「問題ねえから安心しろ」
その言葉には余裕が感じられ、私は自然と身を委ねることができた。でも相変わらず心臓は速い。まるで全身の毛細血管までが脈打つようだ。
信号待ちの車列の左脇にノーブレーキで突っ込んでいく。私はぶつからないように男の尻を両膝で強く挟んだ。次々と車のミラーが私の右膝を、左膝をガードレールが掠める。
交差点に差し掛かると、ちょうど信号は青に変わった。バイクは左側へ大きく倒れ込む。
こんなスピードでカーブを曲がるのは初めてだ。まるでジェットコースターだ。ビビった私は地面から反り返るように身体を起こした。
「うわっ、何してんだよ!」
男が声を上げる。すると寝かし込んだはずのバイクが起き上がり、曲がりきれずに対向車線にはみ出てしまった。
対向車が迫ってくる。私は目を閉じて男の背中に顔を伏せた。硝子が弾け飛ぶ音と同時に私は目を開けた。対向車のミラーとバイクのミラーが接触し、弾け飛んだ破片が、天の川のようにキラキラと輝きながら流れ去る。対向車はよろけていた。
「おい、よく聞けよ!」
男は走行風に掻き消されないように声を張っているが、慌てた様子はない。
「曲がる時は曲がる方を見るんだ! そんで身体の力抜いて単車の動きに逆らうな! 今はお前も単車の一部だ! オレと一緒に単車寝かし込んでみ! 次、右行くぞ!」
バイクは右へと倒れ込む。男の言う通りに脱力して私も身体を曲がる方向へ傾けてみた。すると嘘みたいに気持ち良くカーブを曲がりぬけた。
顔を路面が舐めるように近付いて、遠心力に身体を押さえ込まれる。沈み混む車体、男の右足を乗せるステップが地面と接触して、コンクリートを削る。曲がりきると、状態も起き上がり、沸き上がるような排気音に伴って舞い上がるように加速する。カーブを曲がる度にこれを繰り返すと男は後ろを振り返る。
「気持ちいいだろ?」
「うん! 最高!」
私は気持ち良すぎてパトカーに追われていたことなんて、すっかり忘れてしまっていた。
「家どこ?」
男はスピードを緩めて私に訊ねた。
「すぐ近くだけど……」
「そうなんだ、送ってく」
もう終わり? もっと走ってたい、とはさすがに言えず私はただ頷いた。急に切なくなる。
ゆっくり走るのも、そよ風のようで気持ちいい。熱くなった気持ちが風に冷まされていく。あっという間に私のアパートに着いてしまった。
バイクから降りると、月面着陸のように脚がふわふわするような違和感を覚えた。
改めて男の顔を正面から見ると、背中越しに見ていた横顔とは違い、目がクリクリしててカワイイ顔をしているが、短髪のせいもあって男らしくも見える。
とてもクレーンゲームにドロップキックをかましたり、ごみ箱をぶちまけたり、バイクを奪って暴走したりするようにはとても見えなかった。この男がバイクを走らせてる時、どんな顔をしてるのか興味が沸いた。
「じゃあな」
男はそれだけ言ってクラッチをゆっくり繋いだ。そ、それだけ!?
「待って!」
私は男を呼び止めた。
「なんて言うか……私なんかほっとけばよかったのに……」
男はエンジンを切りバイクから降り、私の目を見据えた。
「なんかお前見てたらな、ほっとけなかったんよ。生きてんだか死んでんだか、わからんような目して……。だからお前のことちょっと笑かしたくなったんよ。そんでびっくりさせよ思ってドロップキックかましたら、お前腰抜かしてもうたし、警報がキャンキャン鳴るし、ちょっとやり過ぎたな」
軽快で愛嬌のあるしゃべりに、私の頬は緩んだ。
「笑とけ笑とけえ。その方が100倍かわいいじゃんよ」
男のわざとらしい変な作り笑顔に、私は久しぶりに声を出して笑った。だけど捻くれ者の私は皮肉を言った。
「でもさ、笑顔だけじゃ何も変わんないし、不幸のどん底にいる人に笑えって言っても笑えるわけないじゃん」
「お前なあ、あたまから否定すんなよ。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、笑顔でいろ。心は泣いてても顔だけは笑うんだ。そりゃあ悲しい顔してたら、みんな心配して寄ってくるよ。でもな心配かけて何が楽しいんだ? 心配してる人達はどんな思いで心配してんだ? その笑顔一つで心配が安心に変わるんよ。でもな、いつまでも辛気臭い面しとったら、みんなそっとしておこうってなるんだ。そりゃそうだろ、俺から言わせりゃ、振り込め詐欺みたいなもんや。悲しいから『心配』を貰うだけ貰って、『笑顔』を返さない。人騙してんのと一緒だ。そんで揚げ句の果てにほっとかれるようになって、独りぼっちになっちまう。それに『笑顔なんかじゃ何も変わらない』って言ってたけど、それは間違ってる。笑顔は世界を変えるぜ」
男の瞳が私の瞳の奥を覗き込むと心を見透かされているようだった。
「世界いうても地球上にある世界じゃない。その笑顔を取り巻く世界が変わるんよ。現にオレはお前の笑顔を見れて幸せな気分になったよ。お前が笑えばオレも笑う。嬉しくなってまた俺はまたお前を笑かしたくなる。そういう小さな笑顔の積み重ねがお前自身の世界を変えていくんじゃねえんかな。そう思わね?」
男の言葉は温かいシャワーのように私の全身を包み込み、冷めたきった私の心を優しく暖めた。でも素直じゃない私はおどけて笑ってみせた。
「熱く語ったオレがアホみたいじゃんかよ。まあ、でも、その笑顔に免じて許してやんよ」
男はきっと照れ隠しをした私を見抜いていたに違いなかった。
「じゃ、行くわ」
「あっ……ぬいぐるみ、ありがと」
男はにんまりと笑ってバイクに跨がりアクセルを煽った。
「あっ、そうだ!」
排気音に負けないように私は声を張り上げる。
「私、舞っていうんだけど!」
「俺はトーヤ!」
男は声を張り上げ屈託のない笑顔を残し走り去っていった。あんな風に笑えたらいいなと心底思った。トーヤと名乗った男の言葉には重みがあり、思いやりと優しさを感じた。また会えたらいいな。
駅まで徒歩17分とのことだが、実際歩いてみると20分はかかる。築28年、6畳の1K、オートロックは当然無し、水垢まみれの外壁に、ベランダの欄干は何度も塗り重ねられたペンキが剥がれ落ち、錆びた茶色い涙があちらこちらで見受けられる。古くて小汚いというのが第一印象だった。
だけど部屋の中はリフォーム済みで、ユニットバスはいかにもだが、希望に満ち溢れるような光に包まれるような印象を受け、私はこの部屋に即決した。これから始まる新生活を、後押しするような部屋に巡り逢えたことを私は素直に喜んでいた。
でも、よくよく考えてみろよ。ただ日当たりがいいだけの、どこにでもある角部屋だろ。ああ……私が望んでいたのはこんなことだったのかな……。あんだけウザかった寮生活では常に誰かが居た。数えるほどだが一緒にご飯を食べてくれる人もいた。独りってこんな寂しいものなのかな……。
このネジ曲がった性格では対人関係はそつなくこなす程度。わざわざ遊びに出かけるような関係の人も居ない。
休日はこの光に満ち溢れた部屋でただ時間が過ぎるのを待つだけだ。今となってはその光さえも眩しすぎて、希望を遮るようにカーテンを閉めきっている。
趣味もなければ友達も居ない。当然、家族なんてこの世に存在しない。無意味に鳴り続けるテレビから目を離し、冷蔵庫に手を伸ばす。
「よいしょ……」
久しぶりに言葉を発したことに侘しくなる。からっぽの冷蔵庫は無駄に電気代を消費しているだけだ。私はこの冷蔵庫に存在意義を与えるため、駅の方まで買い物に出かけることにした。駅に近づくにつれ賑やかになっていくが、私はそれに反比例して虚しくなる。
マックでポテトをくわえながら女子高生達が楽しそうにおしゃべりをしている。手を繋ぐカップルの彼女の左手には、いつか貰ったピンキーリングと同じブランドの紙袋がぶら下がっている。……記念日だったのかな? 誕生日だったのかな? ああ眩しい……その笑顔が眩し過ぎてウザいんだよ。私にはあんな笑顔はできない。いや、私もしてたんだっけ? 急に思い出す。あの時の自分が滑稽で無性に恥ずかしくなる。……クソっ! 死ね!
すれ違う人達が次々とすれ違い遠ざかっていく。まるで誰にも私が見えていないようだ。こんなにも人がいるのに私は誰も知らない。こんなにも人がいるのに誰も私を知らない。愛してくれとはいわないが、誰か私に気付いてくれ。そして誰か教えてくれ。私がいったい誰なのか……何者なのか……。
このイカれた気持ちを鎮めるため、たまたま目の前にあったゲーセンに入ることにした。重低音が利いた店内の音楽を軸に、それぞれのゲーム機からの音と色が交じり合い、視覚と聴覚がほどよくイカれだす。
見渡せば私に似たような奴らがゲームに没頭している。音ゲーのボタンを一心不乱で叩き続ける奴……。対戦格闘ゲームに感情を剥き出しにしてる奴……。無気力でコインを投入し続ける奴……。ケータイをいじりながらパチンコを打つ奴……。気怠そうにタバコを吹かしながらオンラインの麻雀ゲームをする奴……。こいつらも私と同じなのだろうか。私がこいつらと同じなのだろうか。
私も目の前のクレーンゲームに百円玉を入れ、べつに欲しくもないぬいぐるみに標準を合わせ、クレーンを降ろした。ぬいぐるみを引っ掛けたクレーンは、頼りなさげにそれを運んでいくが、穴の寸前で微力なクレーンはぬいぐるみを落とし、絶妙な具合にぬいぐるみは穴の縁に引っ掛かってしまった。
「なんだよ! 落ちろよ!」
このくらいの些細なシアワセくらいあったっていいだろ。ぬいぐるみくらい、くれたっていいだろ。
落ちろ……落ちろ……と私は念じて機械を揺すった。揺らしてダメなら蹴ってみる。オラッ……オラッ……堕ちろ!
様々な音がぶつかりあい混雑するゲームセンターの中で明らかに異質な音が鳴り響く。
「何見てんだよ! うぜえんだよ!」
やっぱりコイツらは私とは違う。違いすぎる。辺りを睨みつけ、私はびくともしないぬいぐるみを視殺したその時だった。
「おいっ!」
その怒鳴り声に慌てて振り返ると男が宙を舞っていた。私は頭を抱えその場にしゃがみ込んだ。この時、突然のことで頭は真っ白だったが、私の本能はこう思っていたに違いない。殺される……。
ゲームセンターの中にいる誰もが振り返るほどの、衝撃音がクレーンゲームを襲った。どうやら男は勢いをつけてクレーンゲームにドロップキックをかましたらしい。
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男は取り出し口に山積みになっているぬいぐるみを、何体か取り出して言った。
「どれが欲しかったん?」
「え……」
「え、じゃねえよ! はやく選びな」
男は笑顔だった。私は戸惑いながら、適当に指差した。
「よっしゃ、これな、ほれっ」
私にぬいぐるみをそっと投げると、男はにんまりと笑った。
「何してるんだ!」
ゲーセンの従業員が駆け付けてきた。
「逃げんぞ!」
男は強引に私の手を引いた。私は男の背中を見ながら夢中で走った。すべての音が消え、景色がスローモーションで流れていく。でも私の胸の鼓動は暴れる狂ったように加速した。
出口にたどり着くと、男は自販機の横にあったゴミ箱を倒してぶち撒ける。店の外に出るとバイクに腰掛け電話している一般人を突き飛ばした。
「ちょっと貸して」
そう言って男はバイクに跨がりエンジンかけた。
「痛えな!」
「乗れ!」
男は後ろのシートを叩く。私が跨がると同時にフロントタイヤを軽く浮かせて急発進した。バイクの持ち主の怒号が一瞬で遠ざかる。バイクから振り落とされないように、私は自然と男にしがみついていた。
交差点の赤信号の手前で乱暴にアクセルをフカすと、車達が減速して私達に道を譲る。
男は車のドライバー達を睨みつけ、アクセルを握る右手が小刻みに踊る。
唸りを上げる暴力的な咆哮は、雑居ビルの群れに反響して空の向こう側まで轟きそうだ。
真昼間に信号無視。今までバイクの音なんて不快としか思わなかった。迷惑にしか思わなかった。でも今は違う。唸れ唸れ唸れもっと唸れ。叫べ叫べ叫べもっと叫べ。自分自身から音が吐き出されているような感覚に酔いしれる。
此処にいる誰もが、しかめ面で軽蔑の目を私たちに向ける。私は風に髪をまき散らすようにして笑った。世界中の誰もが私という存在を認識している。
ファック ザ ワールド! 改め ニュー 舞 ワールド!
これは新世界だ……。物凄い速さで景色が後ろに流れ、前を走る車が物凄い速さで迫ってくる。まるでこの世界が私中心に動いているようだ。
対向車線のパトカーとすれ違ったようだ。ノーヘルの私と目が合うと、瞬時に赤色灯が廻りサイレンは唸りを上げUターンをした。心臓がイカれたように速くなり、しがみつく手に力が入る。
それを察知したのか男が振り返って言った。
「問題ねえから安心しろ」
その言葉には余裕が感じられ、私は自然と身を委ねることができた。でも相変わらず心臓は速い。まるで全身の毛細血管までが脈打つようだ。
信号待ちの車列の左脇にノーブレーキで突っ込んでいく。私はぶつからないように男の尻を両膝で強く挟んだ。次々と車のミラーが私の右膝を、左膝をガードレールが掠める。
交差点に差し掛かると、ちょうど信号は青に変わった。バイクは左側へ大きく倒れ込む。
こんなスピードでカーブを曲がるのは初めてだ。まるでジェットコースターだ。ビビった私は地面から反り返るように身体を起こした。
「うわっ、何してんだよ!」
男が声を上げる。すると寝かし込んだはずのバイクが起き上がり、曲がりきれずに対向車線にはみ出てしまった。
対向車が迫ってくる。私は目を閉じて男の背中に顔を伏せた。硝子が弾け飛ぶ音と同時に私は目を開けた。対向車のミラーとバイクのミラーが接触し、弾け飛んだ破片が、天の川のようにキラキラと輝きながら流れ去る。対向車はよろけていた。
「おい、よく聞けよ!」
男は走行風に掻き消されないように声を張っているが、慌てた様子はない。
「曲がる時は曲がる方を見るんだ! そんで身体の力抜いて単車の動きに逆らうな! 今はお前も単車の一部だ! オレと一緒に単車寝かし込んでみ! 次、右行くぞ!」
バイクは右へと倒れ込む。男の言う通りに脱力して私も身体を曲がる方向へ傾けてみた。すると嘘みたいに気持ち良くカーブを曲がりぬけた。
顔を路面が舐めるように近付いて、遠心力に身体を押さえ込まれる。沈み混む車体、男の右足を乗せるステップが地面と接触して、コンクリートを削る。曲がりきると、状態も起き上がり、沸き上がるような排気音に伴って舞い上がるように加速する。カーブを曲がる度にこれを繰り返すと男は後ろを振り返る。
「気持ちいいだろ?」
「うん! 最高!」
私は気持ち良すぎてパトカーに追われていたことなんて、すっかり忘れてしまっていた。
「家どこ?」
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「すぐ近くだけど……」
「そうなんだ、送ってく」
もう終わり? もっと走ってたい、とはさすがに言えず私はただ頷いた。急に切なくなる。
ゆっくり走るのも、そよ風のようで気持ちいい。熱くなった気持ちが風に冷まされていく。あっという間に私のアパートに着いてしまった。
バイクから降りると、月面着陸のように脚がふわふわするような違和感を覚えた。
改めて男の顔を正面から見ると、背中越しに見ていた横顔とは違い、目がクリクリしててカワイイ顔をしているが、短髪のせいもあって男らしくも見える。
とてもクレーンゲームにドロップキックをかましたり、ごみ箱をぶちまけたり、バイクを奪って暴走したりするようにはとても見えなかった。この男がバイクを走らせてる時、どんな顔をしてるのか興味が沸いた。
「じゃあな」
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「待って!」
私は男を呼び止めた。
「なんて言うか……私なんかほっとけばよかったのに……」
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「なんかお前見てたらな、ほっとけなかったんよ。生きてんだか死んでんだか、わからんような目して……。だからお前のことちょっと笑かしたくなったんよ。そんでびっくりさせよ思ってドロップキックかましたら、お前腰抜かしてもうたし、警報がキャンキャン鳴るし、ちょっとやり過ぎたな」
軽快で愛嬌のあるしゃべりに、私の頬は緩んだ。
「笑とけ笑とけえ。その方が100倍かわいいじゃんよ」
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「でもさ、笑顔だけじゃ何も変わんないし、不幸のどん底にいる人に笑えって言っても笑えるわけないじゃん」
「お前なあ、あたまから否定すんなよ。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、笑顔でいろ。心は泣いてても顔だけは笑うんだ。そりゃあ悲しい顔してたら、みんな心配して寄ってくるよ。でもな心配かけて何が楽しいんだ? 心配してる人達はどんな思いで心配してんだ? その笑顔一つで心配が安心に変わるんよ。でもな、いつまでも辛気臭い面しとったら、みんなそっとしておこうってなるんだ。そりゃそうだろ、俺から言わせりゃ、振り込め詐欺みたいなもんや。悲しいから『心配』を貰うだけ貰って、『笑顔』を返さない。人騙してんのと一緒だ。そんで揚げ句の果てにほっとかれるようになって、独りぼっちになっちまう。それに『笑顔なんかじゃ何も変わらない』って言ってたけど、それは間違ってる。笑顔は世界を変えるぜ」
男の瞳が私の瞳の奥を覗き込むと心を見透かされているようだった。
「世界いうても地球上にある世界じゃない。その笑顔を取り巻く世界が変わるんよ。現にオレはお前の笑顔を見れて幸せな気分になったよ。お前が笑えばオレも笑う。嬉しくなってまた俺はまたお前を笑かしたくなる。そういう小さな笑顔の積み重ねがお前自身の世界を変えていくんじゃねえんかな。そう思わね?」
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「じゃ、行くわ」
「あっ……ぬいぐるみ、ありがと」
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