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16歳

折られた桜 

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 あれ以来、鏡を見るのが怖くなった。病院にも行ったが、腫れがひけば大丈夫だと言われるだけ。

 つい最近行った修学旅行の画像の私は笑っている。とても自然に綺麗に笑っている。まるで自分じゃない誰かを見てるよう。

 鏡を嫌うようになった私は、シャワーも洗顔もしなくなり、髪はベトベトし、眉毛は伸び、産毛は生え、顔中ニキビだらけ。

 そして家中から鏡は無くなった。正確にいえば、バスルームのは取り外され、大きな洗面所のは新聞紙とガムテープで被われ、姿見などは物置にしまわれた。鏡の中の真実はあまりにも残酷過ぎたのだ。

 現実を受け入れたくなかった。受け入れられなかった。だから私は私を拒絶した。そして今までの自分を否定した。

 高校生としての新学期がもうすぐ始まるが、私は休学することになった。鼻は順調に治っているらしいが、私は今も通院している。整形外科ではなく、精神科に。

 私には鼻が曲がって見えるのに、医者に気にしすぎだと言われ、私はふざけないで! と食いかかった。

 お母さんと看護師が必死に私を押さえ付け、医者は冷静な表情で注射を打った。そんな私を見て、お母さんは泣いていた。

 醜形恐怖症、または鏡恐怖症というらしい。

 笑いながら泣いて、泣きながら笑っている。そんな自分が誰なのか、何なのかわからなくなる。そして今も私の心は、爆発を繰り返すように叫び続けている。
  
 そして今日も白いニット帽と大きめのマスクをして通院する。カウンセリングをすることに意味や必要性を感じないが、これをしないと薬を貰えない。

 不謹慎だけど病院にいる時は少しだけ安心する。ニット帽とマスクをしている不審者のような私でも、ここではあまり目立たたなくなるからだ。

 柔らかい陽光が私を包む。桜の香りが鼻孔をくすぐるような春と呼ぶ以外は何にも当て嵌まらない完璧なまでの春だ。

 比較的に広い病院の敷地内から整列した桜たちが見える。病院の前は果てしなく長い桜並木の道路だ。それを見渡せるベンチがあったので座ってみた。満開のピークを過ぎ、もうすぐ桜も終わる。

 黒っぽい私の心の沼に淡いピンク色の花びらが浮かぶ。暗色にピンク色はとても映えて、私の心に絶妙なコントラストを描く。でも次第に花びらは沼に沈んでいき、元通りの私の心の色になってしまう。

 私の躰はずしりとベンチに沈み、頭が重いから重力に逆らわず首を折り曲げた。そんな時、私の座るベンチの端に誰かが座って言った。

「いつ見ても桜は綺麗ですね」

 私のことを言っているのかと思い一瞬ドキッとしたが、それは薄紅色の桜に向けられた言葉だと知って、何故か消沈した。

 少年と呼ぶべきか、青年と呼ぶべきか、どちらともいえない曖昧な表現がぴったりな男が、桜を眺めていた。

 白いニット帽を被った彼の横顔は桜のように儚げで美しかった。桜の花びらが一枚、はらりと舞う。風に流され私と彼の間を通り抜ける時、目と目が合った。彼の瞳は琥珀色で桜の色が反射してしまうかのような白い肌をしている。

 お揃いだね、と言って彼は白いニット帽を指差して優しく微笑んだ。私も白いニット帽を被っていたことを思い出し、深く被り直した。
  
 私は誰とも繋がりたくない。誰にも自分を見られたくない。だけど琥珀色の瞳がとても綺麗で不覚にも見とれてしまった。

「ここから見る桜は最高なんだ。まあ病院の敷地内に限っての話だけどね」

 彼と私の間には松葉杖が立て掛けてある。

「僕はトミー。きみは?」

「トミー?」

 会話するつもりなど全くなかったが、『僕はトミー』の意味がわからなくて咄嗟に聞き返してしまった。でも鼻筋が通って高く、ハーフなのかもしれないと思った。

 彼はいたずらに笑ってもう一度言った。

「名前だよ。富士山の『富』に井戸の『井』で富井だよ。『とみい』のイントネーションを変えて『トミー』だよ。僕のあだ名さ。お母さんはハーフだから、僕はクォーターってわけ。だから外国人の名前みたく『トミー』って呼ばれるようになったってわけさ」

 琥珀色の瞳はクォーターだからか。

「ねえ、きみの名前は?」

 私は『桜』と答えようとしたが、目の前の桜に見劣ると思ったから苗字だけを言った。

「……清野だけど」

「下の名前は?」

「……言いたくない」

「どうして?」

 そんなやり取りを何度か交わしていたら、手を繋いだカップルがやってきて、一本の桜の木の前で足を止めた。見上げるようにして眺めはじめた。とても画になる。微笑ましい光景だ。

 それを見ている私に気付いたトミーという彼も、それを見て微笑んだ。気付けば私もマスクの下で口許が緩んでいた。笑ったのは久しぶりかもしれない。穏やかな風がそよぐ。気持ちいい。気持ちいいと感じたのも久しぶりかもしれない。そんな心地よさをもっと感じたくて目を閉じてみた。

 でも、しばらくすると、バキン! という音が鳴り、私は目を見開き、鼻が疼いた。

 私の視覚と聴覚に飛び込んできたのは、折られた桜だった。桜を眺めていたカップルの男がガードレールによじのぼり桜の木の枝を折って、女に手渡したのだ。痛々しい桜の木をよそに、女の口は『キレイ』と動いた。

 まるで綺麗だった一枚の絵画に墨汁をぶち撒けれたような気分だった。桜の木の痛みが伝わってくる。ただそこに咲いていただけなのに、運悪くどうしようもない人間に出会い、傷つけられた。

 この不条理はいいようがない。自分さえよければいいのか。私利私欲のためなら何でもしていいのか。

 私ははっとなり我に返る。折られた桜に感情移入していた私だけど、折られた桜は私ではなく舞だ。そして、折られた桜を握って喜んでいるのは私だ。
  
 私はなんて酷い人間なんだ。舞という名の木の枝を、私は何度も折り続けてきた。

 私がうなだれていると、立て掛けてあった松葉杖がふと消えた。

「そんなことしていいと思ってんのか!」

 彼は怒鳴りながら松葉杖を使って左足を引きづり、体を上下させながらフェンスに辿りつく。

 そして右手の松葉杖でフェンスを叩く。カンッ! カンッ! カンッ! と甲高い金属音にカップルが気付く。そして彼は叫び続ける。

 すると男が、女の持っていた折られた桜を奪い取り、こちらに歩み寄ってきた。

 私は慌てて立ち上がり彼を止めようとしたが、松葉杖を振り回すので近づけない。

「もうやめなよ!」

 私の声は届かない。折られた桜を持った男が目前に迫る。もう止められない。

「テメエうるせえんだよ! 病人は黙って死んでろよ!」

 男は彼を睨みつけ、折られた桜を投げつけた。でも、それは彼にではなく、私に向かって飛んできた。

「あぶない!」

 その声に目を開けると、彼が左手の松葉杖を高く上げ、折られた桜を弾いた。

 桜が散る。そして左足の不自由な彼はバランスを崩し、宙を舞う桜よりも先に地面に落ちた。

「ヤッベッ! 逃げるぞ!」

 カップルは一目散に立ち去った。

 横たわる彼に桜の花びらが降り注ぐ。白い頬に落ちる薄紅色の花びらは、白銀の雪原に舞いおちた薄紅の雪のようだ。現実にはありえないからこそ美しすぎる。

 それは赤と白のみの色で描かれた繊細なタッチと、淡いグラデーションで透明感のある水彩画のようだ。タイトルをつけるとしたら『桜の妖精のうたかた』といったところだろうか。

 そんな彼の横顔から額縁が外れる。彼は眠っているのではない。頭を打って気絶しているのだ。私は叫びながら助けを求め、院内へと走った。

 看護師を見つけて現場に戻ると、彼はまだ気を失っていた。倒れたことで身体に何らかの影響があったのだろうか。彼は私を庇って転倒した。罪悪感が私を襲う。私のせいで彼がどうにかなってしまったら、私はどうすればいい。

 折られた桜が無情に横たわる。

 駆けつけた医者が彼の白いニット帽をはぎ取ると私は驚愕した。彼の頭は短く刈られており、大きな縫い跡があったのだ。まるで大きくて太くて長いムカデが頭に張り付いているようだ。

 驚きを隠せない私をよそに、彼はストレッチャーで処置室に運ばれていった。
  
 あの傷痕は恐らく開頭手術をしたのだろう。彼の頭は化け物が口を開くように開けられて、タマゴの殻のようにカンッカンッと頭蓋骨は割られたのだろうか。

 それを想像すると少し怖くなって、このまま彼が目覚めなかったらと思うと、動脈破け身体中の血液が一気に抜けていくような気分だった。

 私は両手を組んで神に祈った。彼を助けてください、と。私は無力だ。今まで神など信じていなかった。当然祈ることもしたこともない。困った時の神頼みとはよくいったものだ。都合がよすぎる。自分でどうしようもなくなった時だけ、神に祈る。

 そんな私が姑息だとしても、彼の無事を祈る。神に都合がいい奴だと思われても祈る。

 この命がチーズのように削り取ることができるなら、いくらでも彼に分け与えてください。むしろそっくりそのまま持っていってくれてもかまわない。私のような化け物はこの世界に悪を産むだけだ。それなら、いっそのこと私を消してくれ。
  
 しばらくの間、切実に祈っていた。ただずっと祈っていた。すると不意に彼の声がした。

「もしかして、ずっと待っててくれたの?」

 ニット帽を被っていないストレッチャーに乗った彼は何事もなかったかのように驚いた。

「大丈夫なの?」

「頭のキズ見てびっくりしたでしょ? でも大丈夫だよ。今から念のためCT撮りにいくんだ。そんなことどうでもいいんだけどさ、下の名前なんていうの?」

「……桜」

 私はあっけらかんとした彼に面食らって、隠していた桜という名前を、あっさりと言ってしまった。

「マジで! じゃあ僕は飛んできた桜から、桜ちゃんを守ったのか。なんかウケるね」

 彼が無邪気に笑うので、彼の醸し出す雰囲気の中に溶けるように私も笑った。

「笑った目が素敵だね」

 彼は厭味でもなく、お世辞でもなくマスクとニット帽で顔を隠した私にそう言ってくれた。

 今の私は取り繕った私じゃない。素の私。こんな惨めな私を素敵だと言ってくれた。

 嬉しかった。私の目だけを見て話してくれることが、こんなにも新鮮なことだったんだ。

 琥珀色の瞳が私の視線を吸い寄せるから、私は彼の瞳だけを見てまた笑った。
  
「さっきはいきなり怒鳴って見苦しいところを見せちゃってごめんね。桜ちゃんが責任を感じることはないよ。カッとなった僕のせいなんだから。でも待っててくれてありがとね。それじゃあ」

 彼は何処かへ運ばれていってしまった。

 彼の安否が確認できてよかったが、その姿が見えなくなると、膨らんだ私の気持ちは一気に萎んだ。

 そしてもう一度、桜の見えるベンチに行ってみた。

 折られた桜は無くなっていた。清掃員にゴミとして処理されたのだろう。きっとゴミ袋に入れらる前に、折られた桜はもっと細かく折られたに違いない。私がへし折ってきた舞の心はどうなってしまったのだろうか。

 舞……あなたの心のカタチは今どうなっていますか?

 虚無感と罪悪感に苛まれ、私は私に絶望した。

 

 

 
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