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Book 1 – 第1巻
Op.1-5 – Transcribe
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「おー、やりよる、やりよる」
『どりーむ鈴』1207号室のベランダで1人の少女が手すりに手を置いて上階から聞こえてくるピアノの音色を聴きながら呟く。
「明里ー。あんた中入りなー。風邪ひくよー」
寒空の下、ベランダに出てピアノの音色に耳を傾けている娘を見かねた広瀬祐美が部屋の中へ入るように促す。
「え~、光ちゃまが練習しよるんよー? 多分扉閉めんで弾きよるけん、音聴こえるん今だけよ?」
光の練習部屋に防音対策が施されていることを知っている明里は、いつも以上に音漏れしていることから部屋を完全に閉め切っていないことを確信している。
「それなら部屋におっても聞こえるやろーも。そこ開けられとると寒いんよ」
母の声の調子から本気で迷惑がっていることを察した明里はしぶしぶ部屋の中へと入る。
「(おぉ、珍しい。今日はハノンちゃんと練習しよるやん)」
ハノン第3部・『超絶技巧を身に付けるための練習』に入ったのを聞いて明里は少し驚く。正直、ある程度のレベルに達すればハノンを丁寧に全て通ることはあまりしない。
しかし、今日は午前で学校も終わり、時間があることでハノン全編を通ることを決めたのだろうと明里は推測する。
「(大分、スタミナ付いてきてるなー)」
第3部に入っても一定のテンポ、一定の力で練習曲をこなしていくのを聞きながら明里は光の指が昔に比べて持久力がついたことに感心する。
「(この前までは46番辺りで息切れしとったとに……)」
ハノンの構成は【第1部 : 1番~20番】、【第2部 : 21番~43番】、【第3部 : 44番~60番】となっている。
教本にはハノンの練習指示が書かれている。例えば『1番と2番を途切れなく連続で2回繰り返す』といった具合にだ。
指が細く、手が大きくない光に付き纏う課題は指の持久力と音の力強さにある。速いパッセージの中でも一音一音しっかりと鍵盤の底まで押さなければ芯の通った音色は出せない。
これはよく言及されることであるが、音楽には強弱があり、一流のピアニストはppp (ピアニッシシモ: 出来るだけ弱く) であっても鍵盤の底まで押して音を奏でる。
そうして奏でられる音は小さくても芯のある、粒立ちある音を発することができ、音楽に奥行きをと説得力を与える。
そして芯のある音を常に奏でるために必要なものはその持続力と集中力。
元来、面倒くさがりの光がある程度の意思を持ってこの作業を続けているのは自身の課題を自覚しているからだろう。
「(はい、51番)」
51番に差し掛かったところで光のピアノの音に陰りが見えてきたのを明里は聞き逃さなかった。
そのまま60番まで完走しきったものの、最後の和音で必要以上に力を込めて鳴らしたことから本人にも途中から上手くいかなかった自覚があるのだろう。表記上はfff (フォルティッシッシモ: とても強く) ではあるが。
––––"はい、51番。エリア51~"
つい先日引退を表明したMLBで長く活躍した日本人外野手が守るライトの位置が、その選手の堅守とネバダ州ラスベガス郊外にある米空軍基地の厳重な警備とをなぞらえて『エリア51』と呼ばれていたという話をテレビ特集で知った明里は、それをもじったイジリを光にメッセージで送り付ける。
––––"うるさい"
光から間髪入れずに返信された短い言葉を見て明里は「アハハ」と1人で笑う。
明里は携帯を片手に持ったまま自室へと入り、ベッドの上に携帯を投げる。ボフッという気の抜けた音が鳴った後に携帯は2回弾み、動きを止める。
明里は机の上に置いてあるWac book proを起動、DAW (デジタル・オーディオ・ワークステーションの略。PCで音楽制作するソフトウェアのこと) であるLogicalを起動させる。
オーディオトラックを作った後に明里はギタースタンドに立てかけられている幾つかのベースギターの中からHAYAMAの5弦ベースを手にとってオーディオインターフェイスと接続、更にオーディオインターフェイスをPCと繋げて1度弦を弾く。きちんとLogicalが反応しているのを確認した後、満足そうな笑みを浮かべてベースストラップを肩にかける。
椅子に座りながらPCで動画投稿サイト『MeTube』を開き、"山内穂乃果トリオ"と検索する。
そこには大量にアップロードされている山内穂乃果トリオのライブ映像。その中で"Entrance"と題された動画を選ぶ。
「よし……」
明里は自分を鼓舞するように呟いた後、ハギトリ式12段五線譜とシャープペンシルを取り出す。
彼女はヘッドホンを着けると、動画を再生する。
動画では最初にしばらく拍手が鳴り響いた後、突然の沈黙が会場を包み込む。バンドリーダーであるピアニストの山内穂乃果がメンバーの紹介と演奏曲の紹介をした後に演奏が始まる。
それと同時に明里もベースを握り、演奏を始める。
動画内で演奏されている"Entrance"は山内穂乃果のデビューアルバムのタイトル曲である。ベーシストはハリー・ウォルトン。彼は山内がデビューした時からベーシストとして彼女を支え続けている技巧派ベーシストだ。
明里が現在行っている作業はトランスクライブ、いわゆる耳コピ作業だ。しかし、彼女はCD音源を何度も聴いており、そのベースラインは既にコピー済み。
ではなぜ明里はわざわざ動画を見て再びトランスクライブ作業を始めたのか、理由は2つある。
1つはハリーがCD音源とは全然違うベースラインを弾いているから。山内の曲調的にある程度は譜面に書かれていることが予想つくが、基本的にはコード進行が書かれていてそれに沿ってベーシストはその場で演奏している。
また、ドラマーやピアニストの呼吸に合わせてその時のベストなベースラインを選択して演奏しているため、CD音源とは全く違う演奏となっている。つまり音源の数だけ演奏が変化するのだ。
加えてこの大きな会場での演奏。昂ぶったテンションで明里にはまだ理解できないようなとんでもない技術をいくつも駆使して演奏しているに違いない。それを明里は感じ取りたいのだ。
そしてもう1つ、大きな理由がある。それはインプロヴィゼーションである。 (即興演奏、アドリブとも言われる)
殊、ジャズの演奏において醍醐味とされるセクションで、メロディーやリズムをバンドメンバーと共有しながら音楽をその場で創造していくという非常に高度な時間である。
CD音源ではベースによるアドリブは演奏されていない。しかし、このライブ音源ではハリーのアドリブが演奏されている貴重な資料である。その音を事細かに採譜し、自分の中に吸収してしまおうと明里は考えているのだ。
「(何しよーと!?)」
明里はハリーがアドリブパートに入って僅か5秒にも満たないところで動画を一時停止する。
その一瞬の間にハリーは明里が理解に及ばないメロディーを羅列させてしまったのだ。
「(ここのアドリブは曲のAセクションを回しよるんよね……)」
アドリブセクションは基本的に特定のセクションをコード進行に沿って演奏し、それを繰り返す。"Entrance"のベースソロはAセクションを回しているために基本的にそのコード進行に沿ってメロディーを奏でる。以前に書き取った譜面を見ながら明里は首を傾げる。
「(初っ端からコード違うくない……?)」
––––面倒くさいし、何も考えとらんよ
明里の脳裏に光の一言が鳴り響く。
先日、アドリブをできるようになるにはどうしたら良いかと相談した時に光から返ってきた言葉だ。
––––頭で考える前に勝手に指が……身体が動くっちゃん
「面倒くさいっすか……」
明里はそう呟いて「ハァ~」と大きく溜め息をついた後にもう一度動画を再生し、ハリーから奏でられる音を1つずつゆっくりと五線紙に書き取っていった。
<用語解説>
・Transcribe - 耳コピのこと。ミュージシャン間では『耳コピする』と言う代わりに『トランスクライブする』と言ったりする。
・DAW - デジタル・オーディオ・ワークステーションの略。PCで音楽制作するソフトウェアのこと。今作ではLogicalというソフトがこれにあたる。
・Improvisation - 即興演奏、日本ではアドリブと呼ばれる。それぞれの楽器がバンドメンバーとリズムを共有しながらその場でソロを取る。基本的に回すセクションを決めており、そこに記載されたコード進行に沿って演奏し、気が済むまで繰り返す。1コードのみだったり、コード無しで自由気ままに演奏するフリー・インプロといったものも存在する。
『どりーむ鈴』1207号室のベランダで1人の少女が手すりに手を置いて上階から聞こえてくるピアノの音色を聴きながら呟く。
「明里ー。あんた中入りなー。風邪ひくよー」
寒空の下、ベランダに出てピアノの音色に耳を傾けている娘を見かねた広瀬祐美が部屋の中へ入るように促す。
「え~、光ちゃまが練習しよるんよー? 多分扉閉めんで弾きよるけん、音聴こえるん今だけよ?」
光の練習部屋に防音対策が施されていることを知っている明里は、いつも以上に音漏れしていることから部屋を完全に閉め切っていないことを確信している。
「それなら部屋におっても聞こえるやろーも。そこ開けられとると寒いんよ」
母の声の調子から本気で迷惑がっていることを察した明里はしぶしぶ部屋の中へと入る。
「(おぉ、珍しい。今日はハノンちゃんと練習しよるやん)」
ハノン第3部・『超絶技巧を身に付けるための練習』に入ったのを聞いて明里は少し驚く。正直、ある程度のレベルに達すればハノンを丁寧に全て通ることはあまりしない。
しかし、今日は午前で学校も終わり、時間があることでハノン全編を通ることを決めたのだろうと明里は推測する。
「(大分、スタミナ付いてきてるなー)」
第3部に入っても一定のテンポ、一定の力で練習曲をこなしていくのを聞きながら明里は光の指が昔に比べて持久力がついたことに感心する。
「(この前までは46番辺りで息切れしとったとに……)」
ハノンの構成は【第1部 : 1番~20番】、【第2部 : 21番~43番】、【第3部 : 44番~60番】となっている。
教本にはハノンの練習指示が書かれている。例えば『1番と2番を途切れなく連続で2回繰り返す』といった具合にだ。
指が細く、手が大きくない光に付き纏う課題は指の持久力と音の力強さにある。速いパッセージの中でも一音一音しっかりと鍵盤の底まで押さなければ芯の通った音色は出せない。
これはよく言及されることであるが、音楽には強弱があり、一流のピアニストはppp (ピアニッシシモ: 出来るだけ弱く) であっても鍵盤の底まで押して音を奏でる。
そうして奏でられる音は小さくても芯のある、粒立ちある音を発することができ、音楽に奥行きをと説得力を与える。
そして芯のある音を常に奏でるために必要なものはその持続力と集中力。
元来、面倒くさがりの光がある程度の意思を持ってこの作業を続けているのは自身の課題を自覚しているからだろう。
「(はい、51番)」
51番に差し掛かったところで光のピアノの音に陰りが見えてきたのを明里は聞き逃さなかった。
そのまま60番まで完走しきったものの、最後の和音で必要以上に力を込めて鳴らしたことから本人にも途中から上手くいかなかった自覚があるのだろう。表記上はfff (フォルティッシッシモ: とても強く) ではあるが。
––––"はい、51番。エリア51~"
つい先日引退を表明したMLBで長く活躍した日本人外野手が守るライトの位置が、その選手の堅守とネバダ州ラスベガス郊外にある米空軍基地の厳重な警備とをなぞらえて『エリア51』と呼ばれていたという話をテレビ特集で知った明里は、それをもじったイジリを光にメッセージで送り付ける。
––––"うるさい"
光から間髪入れずに返信された短い言葉を見て明里は「アハハ」と1人で笑う。
明里は携帯を片手に持ったまま自室へと入り、ベッドの上に携帯を投げる。ボフッという気の抜けた音が鳴った後に携帯は2回弾み、動きを止める。
明里は机の上に置いてあるWac book proを起動、DAW (デジタル・オーディオ・ワークステーションの略。PCで音楽制作するソフトウェアのこと) であるLogicalを起動させる。
オーディオトラックを作った後に明里はギタースタンドに立てかけられている幾つかのベースギターの中からHAYAMAの5弦ベースを手にとってオーディオインターフェイスと接続、更にオーディオインターフェイスをPCと繋げて1度弦を弾く。きちんとLogicalが反応しているのを確認した後、満足そうな笑みを浮かべてベースストラップを肩にかける。
椅子に座りながらPCで動画投稿サイト『MeTube』を開き、"山内穂乃果トリオ"と検索する。
そこには大量にアップロードされている山内穂乃果トリオのライブ映像。その中で"Entrance"と題された動画を選ぶ。
「よし……」
明里は自分を鼓舞するように呟いた後、ハギトリ式12段五線譜とシャープペンシルを取り出す。
彼女はヘッドホンを着けると、動画を再生する。
動画では最初にしばらく拍手が鳴り響いた後、突然の沈黙が会場を包み込む。バンドリーダーであるピアニストの山内穂乃果がメンバーの紹介と演奏曲の紹介をした後に演奏が始まる。
それと同時に明里もベースを握り、演奏を始める。
動画内で演奏されている"Entrance"は山内穂乃果のデビューアルバムのタイトル曲である。ベーシストはハリー・ウォルトン。彼は山内がデビューした時からベーシストとして彼女を支え続けている技巧派ベーシストだ。
明里が現在行っている作業はトランスクライブ、いわゆる耳コピ作業だ。しかし、彼女はCD音源を何度も聴いており、そのベースラインは既にコピー済み。
ではなぜ明里はわざわざ動画を見て再びトランスクライブ作業を始めたのか、理由は2つある。
1つはハリーがCD音源とは全然違うベースラインを弾いているから。山内の曲調的にある程度は譜面に書かれていることが予想つくが、基本的にはコード進行が書かれていてそれに沿ってベーシストはその場で演奏している。
また、ドラマーやピアニストの呼吸に合わせてその時のベストなベースラインを選択して演奏しているため、CD音源とは全く違う演奏となっている。つまり音源の数だけ演奏が変化するのだ。
加えてこの大きな会場での演奏。昂ぶったテンションで明里にはまだ理解できないようなとんでもない技術をいくつも駆使して演奏しているに違いない。それを明里は感じ取りたいのだ。
そしてもう1つ、大きな理由がある。それはインプロヴィゼーションである。 (即興演奏、アドリブとも言われる)
殊、ジャズの演奏において醍醐味とされるセクションで、メロディーやリズムをバンドメンバーと共有しながら音楽をその場で創造していくという非常に高度な時間である。
CD音源ではベースによるアドリブは演奏されていない。しかし、このライブ音源ではハリーのアドリブが演奏されている貴重な資料である。その音を事細かに採譜し、自分の中に吸収してしまおうと明里は考えているのだ。
「(何しよーと!?)」
明里はハリーがアドリブパートに入って僅か5秒にも満たないところで動画を一時停止する。
その一瞬の間にハリーは明里が理解に及ばないメロディーを羅列させてしまったのだ。
「(ここのアドリブは曲のAセクションを回しよるんよね……)」
アドリブセクションは基本的に特定のセクションをコード進行に沿って演奏し、それを繰り返す。"Entrance"のベースソロはAセクションを回しているために基本的にそのコード進行に沿ってメロディーを奏でる。以前に書き取った譜面を見ながら明里は首を傾げる。
「(初っ端からコード違うくない……?)」
––––面倒くさいし、何も考えとらんよ
明里の脳裏に光の一言が鳴り響く。
先日、アドリブをできるようになるにはどうしたら良いかと相談した時に光から返ってきた言葉だ。
––––頭で考える前に勝手に指が……身体が動くっちゃん
「面倒くさいっすか……」
明里はそう呟いて「ハァ~」と大きく溜め息をついた後にもう一度動画を再生し、ハリーから奏でられる音を1つずつゆっくりと五線紙に書き取っていった。
<用語解説>
・Transcribe - 耳コピのこと。ミュージシャン間では『耳コピする』と言う代わりに『トランスクライブする』と言ったりする。
・DAW - デジタル・オーディオ・ワークステーションの略。PCで音楽制作するソフトウェアのこと。今作ではLogicalというソフトがこれにあたる。
・Improvisation - 即興演奏、日本ではアドリブと呼ばれる。それぞれの楽器がバンドメンバーとリズムを共有しながらその場でソロを取る。基本的に回すセクションを決めており、そこに記載されたコード進行に沿って演奏し、気が済むまで繰り返す。1コードのみだったり、コード無しで自由気ままに演奏するフリー・インプロといったものも存在する。
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