ゾンビの坩堝

GANA.

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ゾンビの坩堝【7】

ゾンビの坩堝(63)

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「985番はいるか」
 指導員は居丈高に問い、プラスチックバッグ入りタブレットを軽く振った。すぐに戻ってきます、と腰を低くしているところにバケツを提げたディアが来る。
「面会だぞ、985番」
 タブレットを突き出されたディアはびっくりし、とりあえずバケツを置いて、現実感のない顔で受け取った。
「やり取りはチェックしているからな。不適切な発言は慎むように」
 念押しして指導員は離れ、ディアがディスプレイをタッチ……するとスピーカーから、木漏れ日をほうふつとさせる声が聞こえてきた。寝床であぐらをかき、顔を背けた自分には見えないが、ディアは地獄で仏に会ったような声になり、涙ぐみながら健康状態や闘病生活について問われるままに語った。丁寧なしゃべり方から察するに、身内や親しい友人ではないらしい。やがて話は同室者のことに及んだ。
「いい人ですよ。いろいろ助けてくれるし」
 温茶を一口飲んだ後のような口調……自分の胸はさざ波立った。こっちは、あんたを利用しているだけだ……外からの徳念に意識を向けていたところ、あっ、とディアの悲鳴がある。どうしたことか、スピーカーの声は途絶えていた。ずかずかと足音が迫り、がらっと入ってきた指導員が有無を言わさずタブレットを取り上げる。
「不適切な発言はするなと言っただろ」
 くぐもったとげとげしさにディアはおろおろし、そんなことは言っていません、と弁明するも聞く耳は持たれなかった。奥のうなり声にちらとスモークシールドを向け、一方的に言うだけ言って指導員は出ていった。ディアは壁際で肩を落とし、何がまずかったのかさっぱりといった、霧に包まれた表情をしていた。奥のうめきは低くなり、何となく気まずい思いでいるとディアはふらっと腰を下ろし、相手は支援団体の人なの、と話し出した。
「……ここに入れられる前、老人ホームで働いていて……そのときの同僚がつないでくれたんだって……」
 反芻するように、あらためてかみ締めるようにディアは口にした。
「力になってくれるから、よかったらあなたにも紹介するよ」
 あいまいにうなずき、目の端でうかがう。介護の仕事をしていたのか……なるほどな……自分は両手をつき、のっそりと腰を上げた。
 ちょっと運動してくるので……少しそこで横になってもいいですよ……――
 相手を見ず、寝床を示して自分は部屋を出た。ディアがそうするかはともかく、口にしたことでちょっとは楽になった。いたずらに貸しを作られるのは面白くない……行き止まりの壁を前にし、壁腕立て伏せを始める。一……二……回数を重ねるほど汗ばみ、すえた臭いが立ちのぼる。何とか目標までこなし、壁をずり落ちるようにしゃがんで……――
 一休みしたら、今度はスクワット……――
 そのつもりだったが、腰はいつまでも重いまま……マール、マール、マール……じりじりと頭がぼやけ、黒ずんでいく……――
『北館の担当者、2049番の担当者に連絡します』
 スピーカーから響き、しばし口を半開きにして……はっとした。自分のことだ……――
『2049番が南館をうろついています。至急対応してください。繰り返します、2049番をどうにかしてください』
 ロバ先生が――通路の手すりにつかまり、もたもたと急いで……北東の角を曲がった先にその後ろ姿はあった。手すりにすがり、裸足でよたよたするみじめな背中……鈍臭い歩みに追い付くと尿臭がし、太もも半ばまでストライプ柄が変色している。
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