ゾンビの坩堝

GANA.

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ゾンビの坩堝【1】

ゾンビの坩堝(4)

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 右にゆがんだ背中を前に、自分はいくらか気が軽くなった。ここまでの部屋のほとんどが四人部屋らしく、同室者が多ければそれだけ気遣わなければいけないな、と憂鬱だったところだ。しかも女の子なら、おそらくは成人男性より気楽だろう。促された自分は自治会長の脇から148号室に近付き、コの字取っ手をそっとつかんで、深夜だからとそろそろ開けたところで止まった。暗闇がのぞく隙間から、先ほどの汚物処理室と似た臭いが……――
「3301番! 3301番!」
 自治会長が隣の147号室をのぞき、眉間のしわを深めた声を投げ込む。
「2049番が、共同トイレそばに座り込んでいるぞ」
 すると、ずんぐりしたウーパールーパー――ぱさついたもっさり髪、小粒の目をしたのっぺり顔の、二十代くらいの女子が荷物でも抱えているふうにもたもた出てきて、離れてそっぽを向く自治会長にうつむき、片言でぼそぼそ謝ってから共同トイレの方へ急ぐ。
「どうした?」
 斜に離れたまま腕組みし、こちらに横目を細める自治会長……マール、マール、マール……この行き止まりに流れ込んでくる斉唱……片引き戸の隙間からまとわりつく悪臭……頭がじりじりとかすみ、息苦しさに耐えかねて自分はがらっと引き開けた。通路からの明かりで室内の闇は薄まり、悪臭で鼻腔が荒らされていく……顔をしかめた自分は、ワンルームマンションの一室ほどの奥行きに目を凝らした。ちょうど正面奥、隅によどむ薄闇から歯ぎしりするようなうめき声がし、何かがうごめいた。
 ――し、尻……尻だ……――
 干し柿にも似た、肉の乏しい尻……犬猫用のトイレシートらしいものが四、五枚、端を重ねて雑に敷かれた上で足を開き、ぼさぼさの黒髪をストライプ柄の背中に垂れ流してしゃがんだ後姿は、下に何もはいていなかった。膝下まで下ろしているというわけではなく、何も……その貧相な尻の陰から、しゃっ、しゃっ、と出て、排尿を終えたそれは、がくっと両手両膝をつき、四つん這いでぎちぎちとこちらを振り返った。
 人間とは、思えなかった。
 頬のこけた顔は、よじれ、引きつったしわでひび割れており、目は左右とも焦点がずれている。枝毛、切れ毛だらけらしい、ばさばさの長髪……おそらくは着たきりであろうしわだらけの上衣が、かろうじて人間らしく見せてはいるが……筋張った首にはまるウォッチが、2540というナンバーをこちらの網膜に焼き付けてくる。
 もしかして、これが重症の……――
 見るに堪えないながら釘付けにされてしまう前で、2540番は数倍の重力がかかっているかのように這い、うめき、這ってはまたうめいて、間仕切りカーテンと床の間から這い入った。揺れが収まるカーテンの内側から、うめきともうなりともつかない息づかいが聞こえてくる……あれが、女の子……十代、二十代、あるいはそれ以上……薄暗くなかったとしても、年代はもとより、どんな容姿だったのかなんて想像もできない……つんとした臭いに目をやると、たっぷり尿を吸ってじめじめしたトイレシートからであり、よく見ればそちこちにカブトムシの幼虫大の黒ずんだものが転がっていて、踏まれたのか潰れているものもある。それらが何であるか、見当をつけるのは容易だった。 
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