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第三章
二話
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手を引かれるままにアルさんの居室へ招かれ、窓際のビストロテーブルへと腰掛ける。
どこぞのご令嬢に対するかのような丁寧さでエスコートされるがまま阿呆みたいにボーっとアルさんの挙動を眺めるばかりの俺に紅茶まで出して、彼はようやく正面の椅子へと腰を下ろした。
「さて、何から話したものか。」
神妙な面持ちで華奢な指先で口元に触れるその何気ない動作にさえ胸がザワついて落ち着かない。
毎朝訪れている彼の部屋をまるで初めて訪問したかのようにソワソワと無駄に見渡してしまうが、スッカリ見慣れた物寂しい部屋がそこに広がるばかりである。
当然か。
「ふむ。」
徐ろに頷いて何かを決めたような表情をしてみせるアルさんにとうとう観念した俺は、彷徨わせていた視線を彼へと集中させた。
「少し長くなるが……はやり初めから話すとしよう。」
「初めから?」
「そうだ。私がどのように産まれ、どのように生き、何故この森に居るのか。………そのためにも、まずは790年前の世情から、話すとしよう。」
790年前と言う聞き捨てならない単語に反応するよりも先に、アルさんは静かな声で語り始めた。
「……遥か昔より、この世界には人間種と亜人種が暮らしていた。
人間種は文字通り君と同じ種族であり、亜人種とは妖精やエルフ、ドワーフに獣人等と言った、人間種と似て非なる姿をした種族の総称を言う。
人間種は平地や盆地を開墾し国を作って暮らし、亜人種は森林の中でそれぞれが小さな部族を作り自然と共に暮らしていた。
長い間この2つの種が深く関わりを持つ事はなく神代の時代から平和が続いていたが、ある時を以てその平和は終わりを迎える事となった。
それが今から790年前……フロノス1263年、時の王ヘイス・プロゴノス・フォン・ピトレスク王が、人間種の人口増加による資源不足を理由に亜人種の住まう森林を侵略し始めたのだ。
魔具の素材となる妖精は狩り尽くされ、鍛冶技術を発展させてきたドワーフは鉱奴に、美しい容姿を持つエフルは奴隷に。
長きに渡り平和に暮らしていた亜人種達は戦いを知らず蹂躙されるばかりであったが、同胞達への無残な仕打ちが知れ渡ると、ついに武器を取るに至った。
こうして負の歴史として今なお語り継がれる“150年戦争”の火蓋が切って落とされたのだ。
戦争が始まってから16年が経過し、1279年。
侵略を開始した張本人たるヘイス王が病に倒れ、デュオ・アブリエート・フォン・ピトレスク王子が即位。
世代交代と共に戦争も終結かと思いきやそうもいかない。
ヘイス王よりも遥かに苛烈な性質を持っていたデュオ王は亜人種に対し徹底抗戦の姿勢を崩す事は生涯なかった。
亜人種が口を揃えて“悪魔”と称したと文献に残る程だから、相当に残虐な方だったのだろう。
しかし人間種にとっては間違いなく賢王であったろう。
現存する文献には内政から軍略に至るまで論うべき点が何一つ見つからないとまで言われているのだから。
欠点があるとするならば、跡取りに恵まれなかった事か。
2人の息子には王位は譲らず、何故かまだ幼い孫であるトゥリア・パテラス・フォン・ピトレスク王子に後見人まで立てて王位を継がせた。
そして1364年。
トゥリア王が御成人し正式に即位なさると、勇猛果敢なヴァリエンテ将軍より祝いの貢物にと戦利品として引っ立てて来た奴隷の女エルフが献上された。
すると、トゥリア王は何を血迷ったか、その場で女エルフの拘束を解くなり自身の側室として迎えると宣言してしまったのだ。
その場に身近な臣下だけが居たならば冗談で済ますこともできたろう。
しかし、事もあろうに戴冠式の最中に、それも声高に、宣言してしまったのだ。
王の言葉をそう易々と撤回できようはずもなく。
女エルフはあれよあれよと奴隷の身から王の側室へと成り上がった。
本来であれば性奴隷…良くて側女扱いが精々であろうところを側室とする程だ、余程の美貌だったのであろうな。
そしてやがて、エルフは王の子を身籠った。
国王は寵愛するエルフの懐妊を大層喜んだが、周囲はそうではない。
薄汚い亜人でありながら王から最も寵愛を受けたエルフの懐妊とあっては、正妻やその他側室達が目の敵にするのは必然だ。
万が一にも薄汚い亜人との混血児を王族として認知する事など、できようはずもない。
そして謀略の末、エルフの女は暗い暗い地下牢へと監禁された。
その冷たく過酷な環境に身重の体が耐えきれるはずもなく、やがて女は衰弱死した。
しかし、腹の中の赤子は死ななかった。
妖精に次いで多くの魔力を擁するエルフの腹の中で、赤子は残った魔力を糧に成長したからだ。
そして無残に腐り果て裂けた腹から産まれた赤子は、母親の亡骸から発せられる濃厚な魔素を乳代わりに成長した。
どれ程経った頃か。
女の亡骸を処理するために地下牢を訪れた下男は、腐乱した肉に寄り添う赤子の存在に驚愕し、恐怖した。
その不気味な生物を殺す事さえ忌避した下男は赤子を国の外まで連れて行き、森の中へ捨てた。
きっと野生動物にでも処理させようとでも思ったのだろう。
しかし幸運なことに、偶然にも山菜採りに森を訪れていた老婦人が泣き叫ぶ赤子を見つけ、家に連れ帰った。
子宝に恵まれず夫にも先立たれ、小さな村の外れでひっそりと余生を過ごすばかりであった彼女は、明らかに亜人種である赤子に“アルギュロス”と名前をつけ、我が子として育てる事を決意した。
……本当に彼女、母には感謝している。
ハーフとは言え亜人を育てている事が周囲に知れればタダでは済まなかったろうに、最期まで愛してくれたのだから。
それから15年。
亜人種の中で最も高い戦闘力を持つ獣人が、人間の侵略と搾取から抗おうとあらゆる亜人種を取りまとめた連合軍を結成し、これまで小規模な小競り合いであった戦争をより大規模な戦争へと激化させていった。
連合軍の兵達は、積年の恨みから軍人も一般人も問わず手当たり次第に人間を蹂躙し始めた。
戦争のために若い男手を国に徴兵されてしまった末端の村などは一溜まりもない。
………私の育った村も、例外ではなかった。
激しい炎に包まれた村中を人間達が逃げ惑い、それを追う人とよく似た生き物達が老若男女問わず殺戮してゆく様はまさにこの世の終わりと言った風体だったよ。
そんな惨劇の渦中へ引きずり出されながら、彼女は『この子の命だけはどうか!』と、血の繋がりどころか種族さえ違う私の命乞いをしてくれていた。
そんな優しい母は、首をもがれて死んだ。
彼女の血に全身を染めた獣人が、母の亡骸に泣き縋る私を見て言った。
『混血児など穢らわしい。殺せ。』
と。
その瞬間、私の心に産まれて初めてどす黒い殺意が芽生え……ふと気が付くと、村の中には私だけが立っていた。
周囲に散らばる人間と亜人達の肉片が炎に照らされてヌラヌラと赤く輝く悍しい光景を作り出したのが、他ならぬ自分自身である事はすぐに理解した。
その方法も。
正確な詠唱と適切な魔力操作が求められる魔術と違い、魔法は周囲に漂う魔素と己の想像力さえあれば何だってできる。
私の中に産まれた殺意がこの光景を作り出したのだと、本能的に理解した。
それからすぐに私は人間側の軍への入隊を志願した。
その頃は亜人と人間のハーフが奴隷として従軍させられる事は珍しくもなかったからな……幸いにも滞りなく入隊は叶った。
しかし、初めて接した母以外の人間の醜悪さには驚いたものだ。
何せ私達ハーフの扱いは口にするのも憚られるほど酷いものだったからな。
人目を避けて育った故に世情を知らなかった私が、この戦争が何に起因するものかを知ったのもこの頃だ。
虐げられる亜人達にも、正直に言うと同情した。
半分とは言え同じ血を引く同胞としての義憤もあった。
しかしそれ以上に母へのあの仕打ちが……最後のあの姿が脳裏に焼き付いて、どうしても……………どうしても、許せなかった。
…………軍内でどれほど虐げられ蔑まされようと、私は戦い続けた。
己の特異な体質を利用して、殺して殺して殺して、殺し尽くした。
いつしか冷めやらぬ私の殺意は武功として人間に評され、ついにはトゥリア王の耳に届くまでに至った。
1394年の春。
褒誉の言葉を直接賜る機会を与えられ登城した先で、トゥリア王は私の顔を見て大層驚いておられたよ。
きっと、私の顔が余程生みの親であるエルフに似ていたのだろうな。
王はすぐに家臣たちを下がらせ、私の出生についての経緯を包み隠さず語って聞かせて下さった。
語らう内に分かったよ。
トゥリア王は、王足り得ぬ程に優しいお人柄なのだと。
あの方は……争いを何より嫌っておられた。
人も亜人も動物も、物言わぬ植物さえも、この世に生きとし生きる全てを慈しんでおられたあの方にとって、戦乱冷めやらぬあの時世を生きるのは辛かったことだろう。
戦争や亜人種への差別を止める手立てを探して随分苦心されていたようだ。
私の産みの親である女エルフを側室に迎えたのも、僅かでも差別意識が無くなればと思っての行動だったそうだ。
しかし、女エルフの意思をスッカリ聞きそびれたまま初夜を迎え寝室で顔を合わせた時、後悔したそうだ。
何せ、彼女がこの世の終わりのような顔をしていたのだから。
その日は何もせずにすごすご帰ったそうだよ。
それから、トゥリア王は王自ら彼女に甲斐甲斐しく世話をし、宝石やドレスを与え、庭園を共に愛で、互いの知らぬ異国の物語を語り合い、花を送った。
そうしていく内に、ただ政略的に迎え入れたはずがいつの間にか、誰より愛おしく感じていたそうだ。
そして愛を告げれば彼女は受け入れてくれたのだと…本当に嬉しそうに仰っていた。
だが、歴代の王に比べ王としての求心力が圧倒的に劣っていた事を御自覚なさっていたトゥリア王は、彼女の死は己が招いた必然であったと、生涯嘆いておられたよ。
『私が不甲斐ないばかりに……すまないな。』
恐らく、あれは王としての言葉では無かった。
きっとあれは……いや。
トゥリア・パテラス・フォン・ピトレスク王は後の歴史家達から歴代稀に見る愚王であったと謗られているし否定もしないが……少なくとも私は、嫌いではなかったよ。
………ふふ、私見はともかく、その後の話をしようか。
王との謁見から半年後、武功を認められた私は騎士叙勲を受け、“ケラヴノス”の姓を賜った。
あの時は亜人のハーフが騎士叙勲など前代未聞だと、暴動寸前の大反発があってね。
私は当然の事態だと思ったが、トゥリア王は腰を抜かす程驚かれて逆に私が驚かされたものだ。
何もかも慌ただしい戦の渦中に生まれ育った弊害だろうな……絶対に死なせないよう温室で育てられたせいで余りに世間を知らず、そして何より国王としての素養があまりに未熟だった。
その未熟さと生頼持ち合わせた心根の優しさが、不敬ではあるが、哀れに思えてならなかったよ。
その後、私が前線で戦い続ける事を条件に一先ず反発を収める事には成功した。
そして、1408年。
凡そ140年にも及ぶ戦争で国民の心が疲弊しきっているところに追い打ちをかけるかのように、歴史上最も悲惨であったと語り継がれる大天災が起こった。
5年と言う長きに及ぶ、大干ばつだ。
井戸は枯れ、田畑は干上がり、人々は飢えと渇きに苦しんだ。
トゥリア王は年貢を大幅に減らし、私財を投じて炊き出しを行い、各地貴族にも大々的に民を救うよう呼び掛けた。
しかしいかに国王や貴族の私財と言えど、全国民を5年間も養えるほどの蓄えがある筈はない。
何せ元を正せば資源不足のために亜人を侵略し始めたのだから当然だ。
1412年12月の暮れ。
ついに食い物も水も尽き果て、あれ程トゥリア王の惜しみない援助に感謝と敬意を示していた国民たちが唾を飛ばして罵声を上げる様は……王の御目には一体どのように映っていたのだろうか。
それでも、王は仰られた。
『この大干ばつは、天の啓示やも知れぬ。我が先祖の起こした愚かな戦を、もういい加減やめよと……民も兵も、この国そのものが疲弊しきっている。もう限界なのだ。プロドシア宰相、ヴァリエンテ将軍、テネシティ侯爵。亜人の住む地には未だ緑が茂り、澄んだ水が湧き出でると聞く。であれば、我ら人間種の巻き起こした大きな間違いを正し、今こそ人間種と亜人種同士、共存の道を探すべきではないだろうか。』
絶句したよ。
戦争を止めるのには大賛成だ。
こんな状況で戦争など続けられないし、現に衰弱しながらも戦地に送り出された人間が何千人も死んでいた。
それでも人々が戦地に赴くのは愛国心ゆえではない。
農村にいるよりは、軍から配給される物資で餓死する可能性が僅かでも下がると言う、ただ一点に付きたからだ。
飢えて死ぬか殺されて死ぬかの違いだ。
そんな地獄もかぐやという状況を打開してくださると言うならば是非にとお任せしたい所だったが、残念ながら王の提示した議題は多くの有識者が寄り集まり150年掛けても答えの出せなかった難題だった。
それどころか、トゥリア王がされようとしていた交渉は要するにこう言う事だ。
“150年程前、我々の祖先は資源欲しさに貴殿らの祖先を数万人殺戮し奴隷にし、現在も奴隷としてこき使っているが必ず解放する。本当に申し訳なかった。ところで、今干ばつでとても苦しい状況だ。これまでの事は水に流して助けてはくれまいだろうか?”
……と。
…………………
………………………
私は、亜人種を好ましく思ったことは無いが、産まれて初めて心から詫びたい気持ちで胸が満たされたものだ。
絶句する家臣団……しかもあろうことか私を名指ししつつ王は仰った。
『我が親愛なるケラヴノス卿。亜人の血が流るる卿なればこそ、頑なな亜人連言軍も耳を傾けてくれるやも知れん。あちらとてこれ以上の犠牲を出すのは本意ではないはず。特使の任、引き受けてくれるか。』
玉座で妙案だとばかりに微笑む王の正気を疑った。
戦場で誰より亜人を殺した人物を特使に選ぶなど狂気の沙汰だ。
相手の神経を逆なでするのが目的と言うのであれば大正解だが、今回の目的は正反対である。
それに亜人族はハーフに対し決して同情的ではない。
むしろ、人間種に血を穢された存在として忌避感すら抱いている。
そんな存在を特使なんぞに選出した上あんな風に煽ればどうなる事か……考えるだけでも背筋が凍る。
周囲に助けを求めて視線を彷徨わせたが、みな意味ありげに目配せし合うばかりでチラリともこちらを見ようともしなかった。
かくして強引に結成された使節団と共に、亜人連合軍より指定された獣人の村へと向かった。
が。
『使節団が来るなんて聞いてない。しかもお前ハーフだろう?穢れた血を特使に寄越すなど、貴様ら人間種の王は気でも狂ったか。』
と、普通に門番に追い返されてな。
それからは三日三晩は門番との押し問答だ。
まずは使節団であることの証明証を受け取ってもらうのに1日、それを獣人王に届けてもらい承認されるのに更に1日。
今度は我々使節団総勢15人を1日がかりでみっちり身体検査。
オマケに獣人王の具合が優れないだとか何とかで更に1日を無駄に過ごした。
何かがおかしいと獣人の村内を探ってみれば案の定だ。
獣人の王は、そもそも村に居もしなかった。
数人拷問に掛けて分かった事は3つ。
一つ、人間種の王城内部に裏切り者あり。
二つ、陽動として周囲の村々が焼き討ちに遭っている。
三つ、トゥリア・パテラス・フォン・ピトレスク王を始め、その血縁者全てを皆殺すものとする。
幸いにも使節団の者達は私の直属の部下で優秀な魔術者が多く在籍していたからね。
即座に各地へ防備を固めるよう連絡を取らせ、応援に向かわせた。
あぁ、私?
私は勿論、城に向かったよ。
残念ながら一歩、手遅れだったけれど。
1413年1月1日。
色とりどりのステンドグラスから月光の降り注ぐ玉座の間で。
血溜まりに倒れ伏したトゥリア王を見下ろす巨大な真紅の狼を見て真っ先に心に浮かんだのは、何故だろうな、“美しい”と言う言葉だったんだ。
『これで漸く、戦も終わる。』
深緑の双眸に私を映しそう静かに唸る声は、諦観に塗れていた。
事実、激情に身を任せるまま魔法を揮った私に抵抗の意思を示すこともなく……狼の首は、月光射す玉座の間を舞う事となった。
真紅の狼の亡骸を手土産に獣人の村に戻ってみれば、みな面白いほど怒り狂って襲いかかってきたよ。
私は、長い間戦争に駆り出され多くの亜人を殺めたが、それを楽しんだ事は一度としてなかった。
ただ。
ただ、この時は。
この時だけは、大人も、子供も、老人も、男も、女も。
獣人と言う種を根絶やしにすべく楽しんで殺戮に興じていたように思う。
そして動くものが何もなくなって、初めて我に返った。
取り返しのつかない事をしてしまった。
嗚呼、何という惨憺たる有様か。
まさか己の内にこんなにも惨く、醜く、卑しく、浅ましい感情が宿っていたとは信じ難く、何より受け入れ難く………
せめてこの命で償おうと、心臓に剣を突き立てた。
だが、死ねなかった。
次は頸動脈を割いてみた。
だが、死ねなかった。
首を吊っても、飛び降りても、服毒しても、断頭しても、失血しても…………何をどうしても、私は死ねなかった。
そして理解した。
私は生みの親の子宮の中に居た頃より魔力と魔素を喰らい生きてきた異端児。
子宮の中で、体の作りが他の生物とは違う進化を遂げてしまったと考えるのが妥当だろう。
…………そうして、私は全てを諦めて帰国した。
ようやく帰り着くと、獣人王による殺戮から唯一逃げ延びたと言う第4王子テセラ・アデルフィア・フォン・ピトレスク様が戴冠式を終えておられた。
連合軍の中心であり各地でゲリラ戦を展開し続けて何とか戦況を保っていた獣人軍が壊滅した事で亜人連合軍は連携を失い、程なくして戦線は崩壊。
150年戦争はピトレスク国の勝利で幕を閉じた。
まるでそれを祝福するかのように雨が振り始めたのはお笑い草だ。
民は揃いも揃って、“テセラ王は神の祝福を受けられたお方!”と新王を崇め奉っていたものだ。
……戦争が終わると、次に問題になったのは戦死者の埋葬場所だ。
人の住む地ではとても埋めきれない程の亡骸を、当時は不毛の大地であったこの地に埋める事にした。
『亡骸が肥料となって緑が増えれば一石二鳥ではないですか!』
などと自信満々に宣っていた大臣の言葉通り、40年も経てば貧しい辺境の町スクレの側近くに緑が茂るようになった。
酷く濃い魔素のオマケつきでな。
判断を下した当時まだ28歳の青二才であったとは言え、家臣の言葉を鵜呑みにし過ぎたのはいささか軽率……と言うのはあまりに厳しい物言いだろうか。
ともあれ、1454年の春。
この世界で最も広大かつ強力な魔境を意図せず作ってしまった第4王子……失礼、テセラ王は、育ての母と共に暮らした廃村でヒッソリと隠居していた私をある日呼び出し、なんと爵位を授けると仰った。
その名も“魔境伯”。
辺境伯をもじって新たに作られた爵位のようでな、文字通り魔境を治めるのが務めだ。
この爵位と共に、スクレに生まれた大魔境の広大な土地を下賜された。
トゥリア王亡き後、時が流れるに身を任せてただ茫洋と生きて来た私にとって、正に晴天の霹靂の勅令だったよ。
しかしなぜ隠居したこの老いぼれに白羽の矢が立ったのか……
思い当たるのは、私と魔素の関わりの深さに他あるまい。
私が魔素を直接操り魔法を使うのは周知の事実であったが、魔素を喰らう性質を知るのは育ての親たる母だけ。
それ故、当時の私はこう考えた。
“魔境で多くの魔法を使い続ければいつかは魔素が尽き果てる。しかし攻撃魔法ばかりでは折角産まれた植物が死んでしまう………そうだ。魔法は想像力だ!ならば、攻撃でない魔法も新たに生み出せるのではないか?”
とな。
私の力は、人を傷付け殺めるための物だと長年思っていた。
しかしこんな私にも人の世に益をもたらす事が出来るのだと……その可能性を示して下さったテセラ王からのご下命に、心から感謝申し上げた物だ。
こうして魔境拍の叙爵を謹んでお受けし、今の私、“アルギュロス・マルク・フォン・ケラヴノス”なんて長ったらしい名前が完成してしまった訳だ。
その後すぐ、私はスクレの大魔境へ向かい40年も機能停止していた脳を叩き起こして仕事を開始した。
試行錯誤を重ね、失敗を繰り返し……苛立ちのあまり何度空に雷を轟かせてしまったことか。
お陰でスクレの民からは“ケラヴノス魔境”と称され、あまつさえその名称は全国各地に知れ渡る始末。
いくら得意魔法だったとは言え、限度があったと今では反省している。
…………ともあれ、20年もすれば慣れたものだ。
屋敷を建て、草木の世話をし、道を敷き、居住区を整え、将来の人々が心安らげるよう湖も作った。
どれほどの期間をそうしていただろうか。
次は何を作るかなどと考えながら読書をしていた折り、渡り図書がとある物語を読ませてくれた。
それこそが、今君が手にしている本の内容だ。
己が後世にどのように伝わっているのかを知った時、羞恥に震えたものだ。
何せ、新王は私を信じてこの地を預けたのではなかったのだから。
今思えば、恐らく新王は亜人とのハーフでありながらトゥリア王からのご寵愛を賜っていた私が元より気に入らなかったのであろう。
もしくは、私の出生について何かを知っていたのか。
どちらにしろ、魔境伯などと言う仰々しい地位も魔境を治めろと言う勅令も……全ては建前に過ぎなかったのだ。
あの時、新王が下した本来の勅令。
それはただ『死ね。』と言う、酷く単純で明快なもの。
何たる道化だ。
穴があったら入りたいとはまさにあの事だ。
まぁ、わざわざ穴など掘らずともこの地に居る限り他人に顔を見られる事はないのだが………
しかし、私個人の含羞ならば堪えられよう。
しかし……しかし、その書に記された真実は余りにも残酷だった!」
それまで寝物語を紡ぐように穏やかだった声が途切れ、アルさんは掌に顔を埋めて俯いた。
ほんの少し躊躇ったあと禍々しい黒く古ぼけた表紙を捲ってみれば、ビクリと跳ねた肩からハラリと銀の髪が流れ落ちた。
それでも顔を上げようとせず震えるばかりの彼を横目にページを読み進め、彼の言葉を詰まらせたであろうページを発見する。
タイトルは、“かしこい王子様”。
〈昔々、力が強くて強欲な王様と優しいけれど無力な王様がいました。
2つの国は長年戦争をしていましたが、なかなか決着がつきません。
何故なら、力が強くて強欲な王様は頭が悪いから。
優しいけれど無力な王様はこの世で最も冷酷な悪魔と契約していたから。
国民たちはもううんざり!
そこで、賢い王子様は思いついたのです。
絢爛豪華な贈り物を山積みに強欲な王様を訪ねた王子は言いました。
『ああ、力強い王様!あなたこそ僕らの王様にふさわしい!僕らの王宮に是非いらして、僕らの無能な王様をどうかやっつけて!』
その気になった強欲な王は王子の手引きで王宮に攻め込み、あっと言う間に無力な王を殺してしまいました。
契約相手を殺されてしまった悪魔は怒り狂い、強欲な王を刺し貫きました。
こうして、賢い王子様の機転によって長きに渡る戦争は幕を閉じることになったのでした。
めでたしめでたし。〉
「……こ、れは…!」
つまりテセラ王は敵軍と内通した上、実の父親と兄弟全員殺させたってことか!?
しかも、この感じだとアルさんがブチギレて獣人族を粛清するのも織り込み済みで計画していたように書かれてある。
だが、第4王子ってそんなに後ろ盾が多い印象がないんだけど、どうやって敵軍と……それも総大将である獣人王とコンタクトを取ったんだ?
「アルさん……」
「……君の言いたい事は察しが付く。恐らく手引きしたのはプロドシア宰相だろう。彼はテセラ王の御母堂の兄君でもあったからな、是が非でも王座を継がせたかったのだろう。その上、亜人への差別意識も激しい男だった。トゥリア王の望んでおられた共存の道なぞ死んでも進みたくなかったのだろうよ。」
ようやく気持ちが落ち着いてきたのか、スッカリ冷めきった紅茶を飲み干したアルさんがホッと一息ついておどけた風に肩を竦めた。
「しかし、もう少し早く気が付いていればトゥリア王の仇討ちのためにテセラ王を暗殺しにでも行ったんだが……残念ながら、真実に気が付くのに100年かかってしまった。復讐相手はとうに墓の中。我ながら間抜けな話だ。」
「……」
「と、まぁここまでが凡500年前に終わった私の人生の全てだ。与えられた仕事がそもそもないならばと放置した結果があの森の惨状だ。」
ツイと視線を滑らせる彼に釣られて、俺も窓の外を見やる。
月光に照らされた敷地内は丁寧に整えられているのに、白いロートアイアンの門の外は相変わらず鬱蒼とした森が黒々と広がっている。
本来であればこの外には彼の思い描いた活気ある街が広がり、幸せな人々の笑顔が咲き乱れていたのだろう。
しかし、今ここにそれはない。
黒い森からアルさんへと視線を戻せば、彼は微笑んでくれる。
「これが私の全てだ。人でも亜人でもない。最早生物であるかも怪しい殺戮者だ。君に、母に、“優しい”と評される資格など私にはない。」
椅子から立ち上がった彼がコツリコツリと踵を鳴らして歩み寄り、俺の足元に跪いて掌へと頬を寄せる。
「500年……私はこの森で怒りと孤独と悲しみばかりを胸に生きてきた。だが君に出会ってから、毎日が夢のように輝いてばかりいる。」
スリ、と。
工場仕事で荒れ切ったゴツい手はお世辞にも触り心地の良いものではないだろうに、アルさんは心底幸せそうに頬擦りして潤んだ眼差しをこちらへ向けた。
「リョー…私は、私の持てる全てを君に捧げる。だからどうか、私と共に生きる道を、考えてみてはくれないだろうか?」
ウルウルと揺蕩うオリオンブルーの真剣な眼差しに、心臓が鷲掴まれたような心地になって言葉に詰まる。
彼は、自身がリョーと言う人間なしには生きられない事を知ってほしいと、過去を語る前にそう言っていた。
こんなに重く辛い過去を語るのに、どれ程の勇気と覚悟がいった事だろう。
ましてやアルさんは自身の過去を他の誰より咎め、今もその咎に苦しんでいる。
その上で全てを打ち明けて、拒絶される事に怯えながらも共に生きようと手を伸ばしてくれている。
こんな、俺なんかのために。
「……リョー、やはり、だめか?」
「へ?」
突然暗く沈んだ声に驚いていつの間にか落としてしまっていた視線を上げると、どこか淀んだ色をした双眸が俺の顔を無遠慮に覗き込んできた。
白く華奢な両手が優しく顔を包みこんで、眦をそっと撫でる。
「私が、人でないのが恐ろしいか?それとも、大勢の人を殺めたのが許し難いか?ああ、もしくは……ふふ、年甲斐もなく君に劣情を抱くのが悍ましいか?」
蛇のようにスルリと体を這い上がり俺の膝の上へと跨ったアルさんの顔は、逆光になってしまって表情がよく読み取れない。
怒って興奮しているせいか、後半は難しい単語が多くて何言ってるかよくわからないし。
「アルさん。」
あえて冷静に呼びかけると、沈黙が返ってきた。
雰囲気は怖いままだがどうやら話を聞く気はあるようだ。
それに少し安心して、ダラリと垂れ下がったアルさんの両手をガシリと掴んで俺は言った。
「アルさん、俺、捨てない、誓う?」
「…………………………は。」
「アルさん、俺、捨てない、誓う?」
「ぇ……あ、あぁ。誓う。」
「じゃあここ居る。」
「……?………!?ぁ、そ、そう、か。」
ペースを崩されたせいか珍しく動揺を露わにするアルさんに「ちょっと重い。」と呟けば、彼は条件反射のように「すまない。」なんて言いながらすぐさま俺の上から退いてくれた。
微妙な空気に包まれたこの空間をどうしたものかと考えあぐねている様子のアルさんの手を引き、今まで俺の座っていた椅子へと座らせた。
キョトンと可愛い顔で見上げてきても許しませんからね。
先ほどの酷い暴言の数々。
俺はとても、これ以上ないくらい傷つきました。
「アルさん。」
「ハイ。」
アルさんの口から聞いたことないくらい小さい返事が聞こえてちょっと笑いそうになったけど、我慢我慢。
俺は怒ってるんだぞ。
「さっきアルさん、言った。アルさん人、違う、だから俺、怖がるか。アルさんいっぱい人、殺したの、俺許せないか。そのあとの言葉、ごめんなさい、勉強不足、わからない。」
「い、いや……」
言い淀む彼の両手を、もう一度力強く握り込む。
「アルさんこそ、勘違い。俺、ちょっとおかしい人間。」
「リョー?」
「俺、大事な人だけ、大事。その他、どうでもいい。だから、アルさん怖くない。アルさんがアルさんなら、俺、ちょっとも怖くない。人、いっぱい殺したの、どうでもいい。ここに居るアルさん、俺を捨てない優しいアルさん。それが、俺のすべて。」
「………………」
「ね?」
またウルウルし始めたオリオンブルーの双眸が愛おしくて、何か言いたげに震える唇に今度は俺からキスしてやった。
さっきされた時は冷たかったのに、今は温かかった。
真っ赤な顔で瞳を“これでもか!”ってくらい大きく見開いて両手で口元を押さえる彼の姿は相変わらず美しかったけれど、もう天使のようだとは思わなかった。
多分、アルさんも俺と同じなんだ。
「へへ、おかえし、です。」
俺と同じ、穴だらけ。
どこぞのご令嬢に対するかのような丁寧さでエスコートされるがまま阿呆みたいにボーっとアルさんの挙動を眺めるばかりの俺に紅茶まで出して、彼はようやく正面の椅子へと腰を下ろした。
「さて、何から話したものか。」
神妙な面持ちで華奢な指先で口元に触れるその何気ない動作にさえ胸がザワついて落ち着かない。
毎朝訪れている彼の部屋をまるで初めて訪問したかのようにソワソワと無駄に見渡してしまうが、スッカリ見慣れた物寂しい部屋がそこに広がるばかりである。
当然か。
「ふむ。」
徐ろに頷いて何かを決めたような表情をしてみせるアルさんにとうとう観念した俺は、彷徨わせていた視線を彼へと集中させた。
「少し長くなるが……はやり初めから話すとしよう。」
「初めから?」
「そうだ。私がどのように産まれ、どのように生き、何故この森に居るのか。………そのためにも、まずは790年前の世情から、話すとしよう。」
790年前と言う聞き捨てならない単語に反応するよりも先に、アルさんは静かな声で語り始めた。
「……遥か昔より、この世界には人間種と亜人種が暮らしていた。
人間種は文字通り君と同じ種族であり、亜人種とは妖精やエルフ、ドワーフに獣人等と言った、人間種と似て非なる姿をした種族の総称を言う。
人間種は平地や盆地を開墾し国を作って暮らし、亜人種は森林の中でそれぞれが小さな部族を作り自然と共に暮らしていた。
長い間この2つの種が深く関わりを持つ事はなく神代の時代から平和が続いていたが、ある時を以てその平和は終わりを迎える事となった。
それが今から790年前……フロノス1263年、時の王ヘイス・プロゴノス・フォン・ピトレスク王が、人間種の人口増加による資源不足を理由に亜人種の住まう森林を侵略し始めたのだ。
魔具の素材となる妖精は狩り尽くされ、鍛冶技術を発展させてきたドワーフは鉱奴に、美しい容姿を持つエフルは奴隷に。
長きに渡り平和に暮らしていた亜人種達は戦いを知らず蹂躙されるばかりであったが、同胞達への無残な仕打ちが知れ渡ると、ついに武器を取るに至った。
こうして負の歴史として今なお語り継がれる“150年戦争”の火蓋が切って落とされたのだ。
戦争が始まってから16年が経過し、1279年。
侵略を開始した張本人たるヘイス王が病に倒れ、デュオ・アブリエート・フォン・ピトレスク王子が即位。
世代交代と共に戦争も終結かと思いきやそうもいかない。
ヘイス王よりも遥かに苛烈な性質を持っていたデュオ王は亜人種に対し徹底抗戦の姿勢を崩す事は生涯なかった。
亜人種が口を揃えて“悪魔”と称したと文献に残る程だから、相当に残虐な方だったのだろう。
しかし人間種にとっては間違いなく賢王であったろう。
現存する文献には内政から軍略に至るまで論うべき点が何一つ見つからないとまで言われているのだから。
欠点があるとするならば、跡取りに恵まれなかった事か。
2人の息子には王位は譲らず、何故かまだ幼い孫であるトゥリア・パテラス・フォン・ピトレスク王子に後見人まで立てて王位を継がせた。
そして1364年。
トゥリア王が御成人し正式に即位なさると、勇猛果敢なヴァリエンテ将軍より祝いの貢物にと戦利品として引っ立てて来た奴隷の女エルフが献上された。
すると、トゥリア王は何を血迷ったか、その場で女エルフの拘束を解くなり自身の側室として迎えると宣言してしまったのだ。
その場に身近な臣下だけが居たならば冗談で済ますこともできたろう。
しかし、事もあろうに戴冠式の最中に、それも声高に、宣言してしまったのだ。
王の言葉をそう易々と撤回できようはずもなく。
女エルフはあれよあれよと奴隷の身から王の側室へと成り上がった。
本来であれば性奴隷…良くて側女扱いが精々であろうところを側室とする程だ、余程の美貌だったのであろうな。
そしてやがて、エルフは王の子を身籠った。
国王は寵愛するエルフの懐妊を大層喜んだが、周囲はそうではない。
薄汚い亜人でありながら王から最も寵愛を受けたエルフの懐妊とあっては、正妻やその他側室達が目の敵にするのは必然だ。
万が一にも薄汚い亜人との混血児を王族として認知する事など、できようはずもない。
そして謀略の末、エルフの女は暗い暗い地下牢へと監禁された。
その冷たく過酷な環境に身重の体が耐えきれるはずもなく、やがて女は衰弱死した。
しかし、腹の中の赤子は死ななかった。
妖精に次いで多くの魔力を擁するエルフの腹の中で、赤子は残った魔力を糧に成長したからだ。
そして無残に腐り果て裂けた腹から産まれた赤子は、母親の亡骸から発せられる濃厚な魔素を乳代わりに成長した。
どれ程経った頃か。
女の亡骸を処理するために地下牢を訪れた下男は、腐乱した肉に寄り添う赤子の存在に驚愕し、恐怖した。
その不気味な生物を殺す事さえ忌避した下男は赤子を国の外まで連れて行き、森の中へ捨てた。
きっと野生動物にでも処理させようとでも思ったのだろう。
しかし幸運なことに、偶然にも山菜採りに森を訪れていた老婦人が泣き叫ぶ赤子を見つけ、家に連れ帰った。
子宝に恵まれず夫にも先立たれ、小さな村の外れでひっそりと余生を過ごすばかりであった彼女は、明らかに亜人種である赤子に“アルギュロス”と名前をつけ、我が子として育てる事を決意した。
……本当に彼女、母には感謝している。
ハーフとは言え亜人を育てている事が周囲に知れればタダでは済まなかったろうに、最期まで愛してくれたのだから。
それから15年。
亜人種の中で最も高い戦闘力を持つ獣人が、人間の侵略と搾取から抗おうとあらゆる亜人種を取りまとめた連合軍を結成し、これまで小規模な小競り合いであった戦争をより大規模な戦争へと激化させていった。
連合軍の兵達は、積年の恨みから軍人も一般人も問わず手当たり次第に人間を蹂躙し始めた。
戦争のために若い男手を国に徴兵されてしまった末端の村などは一溜まりもない。
………私の育った村も、例外ではなかった。
激しい炎に包まれた村中を人間達が逃げ惑い、それを追う人とよく似た生き物達が老若男女問わず殺戮してゆく様はまさにこの世の終わりと言った風体だったよ。
そんな惨劇の渦中へ引きずり出されながら、彼女は『この子の命だけはどうか!』と、血の繋がりどころか種族さえ違う私の命乞いをしてくれていた。
そんな優しい母は、首をもがれて死んだ。
彼女の血に全身を染めた獣人が、母の亡骸に泣き縋る私を見て言った。
『混血児など穢らわしい。殺せ。』
と。
その瞬間、私の心に産まれて初めてどす黒い殺意が芽生え……ふと気が付くと、村の中には私だけが立っていた。
周囲に散らばる人間と亜人達の肉片が炎に照らされてヌラヌラと赤く輝く悍しい光景を作り出したのが、他ならぬ自分自身である事はすぐに理解した。
その方法も。
正確な詠唱と適切な魔力操作が求められる魔術と違い、魔法は周囲に漂う魔素と己の想像力さえあれば何だってできる。
私の中に産まれた殺意がこの光景を作り出したのだと、本能的に理解した。
それからすぐに私は人間側の軍への入隊を志願した。
その頃は亜人と人間のハーフが奴隷として従軍させられる事は珍しくもなかったからな……幸いにも滞りなく入隊は叶った。
しかし、初めて接した母以外の人間の醜悪さには驚いたものだ。
何せ私達ハーフの扱いは口にするのも憚られるほど酷いものだったからな。
人目を避けて育った故に世情を知らなかった私が、この戦争が何に起因するものかを知ったのもこの頃だ。
虐げられる亜人達にも、正直に言うと同情した。
半分とは言え同じ血を引く同胞としての義憤もあった。
しかしそれ以上に母へのあの仕打ちが……最後のあの姿が脳裏に焼き付いて、どうしても……………どうしても、許せなかった。
…………軍内でどれほど虐げられ蔑まされようと、私は戦い続けた。
己の特異な体質を利用して、殺して殺して殺して、殺し尽くした。
いつしか冷めやらぬ私の殺意は武功として人間に評され、ついにはトゥリア王の耳に届くまでに至った。
1394年の春。
褒誉の言葉を直接賜る機会を与えられ登城した先で、トゥリア王は私の顔を見て大層驚いておられたよ。
きっと、私の顔が余程生みの親であるエルフに似ていたのだろうな。
王はすぐに家臣たちを下がらせ、私の出生についての経緯を包み隠さず語って聞かせて下さった。
語らう内に分かったよ。
トゥリア王は、王足り得ぬ程に優しいお人柄なのだと。
あの方は……争いを何より嫌っておられた。
人も亜人も動物も、物言わぬ植物さえも、この世に生きとし生きる全てを慈しんでおられたあの方にとって、戦乱冷めやらぬあの時世を生きるのは辛かったことだろう。
戦争や亜人種への差別を止める手立てを探して随分苦心されていたようだ。
私の産みの親である女エルフを側室に迎えたのも、僅かでも差別意識が無くなればと思っての行動だったそうだ。
しかし、女エルフの意思をスッカリ聞きそびれたまま初夜を迎え寝室で顔を合わせた時、後悔したそうだ。
何せ、彼女がこの世の終わりのような顔をしていたのだから。
その日は何もせずにすごすご帰ったそうだよ。
それから、トゥリア王は王自ら彼女に甲斐甲斐しく世話をし、宝石やドレスを与え、庭園を共に愛で、互いの知らぬ異国の物語を語り合い、花を送った。
そうしていく内に、ただ政略的に迎え入れたはずがいつの間にか、誰より愛おしく感じていたそうだ。
そして愛を告げれば彼女は受け入れてくれたのだと…本当に嬉しそうに仰っていた。
だが、歴代の王に比べ王としての求心力が圧倒的に劣っていた事を御自覚なさっていたトゥリア王は、彼女の死は己が招いた必然であったと、生涯嘆いておられたよ。
『私が不甲斐ないばかりに……すまないな。』
恐らく、あれは王としての言葉では無かった。
きっとあれは……いや。
トゥリア・パテラス・フォン・ピトレスク王は後の歴史家達から歴代稀に見る愚王であったと謗られているし否定もしないが……少なくとも私は、嫌いではなかったよ。
………ふふ、私見はともかく、その後の話をしようか。
王との謁見から半年後、武功を認められた私は騎士叙勲を受け、“ケラヴノス”の姓を賜った。
あの時は亜人のハーフが騎士叙勲など前代未聞だと、暴動寸前の大反発があってね。
私は当然の事態だと思ったが、トゥリア王は腰を抜かす程驚かれて逆に私が驚かされたものだ。
何もかも慌ただしい戦の渦中に生まれ育った弊害だろうな……絶対に死なせないよう温室で育てられたせいで余りに世間を知らず、そして何より国王としての素養があまりに未熟だった。
その未熟さと生頼持ち合わせた心根の優しさが、不敬ではあるが、哀れに思えてならなかったよ。
その後、私が前線で戦い続ける事を条件に一先ず反発を収める事には成功した。
そして、1408年。
凡そ140年にも及ぶ戦争で国民の心が疲弊しきっているところに追い打ちをかけるかのように、歴史上最も悲惨であったと語り継がれる大天災が起こった。
5年と言う長きに及ぶ、大干ばつだ。
井戸は枯れ、田畑は干上がり、人々は飢えと渇きに苦しんだ。
トゥリア王は年貢を大幅に減らし、私財を投じて炊き出しを行い、各地貴族にも大々的に民を救うよう呼び掛けた。
しかしいかに国王や貴族の私財と言えど、全国民を5年間も養えるほどの蓄えがある筈はない。
何せ元を正せば資源不足のために亜人を侵略し始めたのだから当然だ。
1412年12月の暮れ。
ついに食い物も水も尽き果て、あれ程トゥリア王の惜しみない援助に感謝と敬意を示していた国民たちが唾を飛ばして罵声を上げる様は……王の御目には一体どのように映っていたのだろうか。
それでも、王は仰られた。
『この大干ばつは、天の啓示やも知れぬ。我が先祖の起こした愚かな戦を、もういい加減やめよと……民も兵も、この国そのものが疲弊しきっている。もう限界なのだ。プロドシア宰相、ヴァリエンテ将軍、テネシティ侯爵。亜人の住む地には未だ緑が茂り、澄んだ水が湧き出でると聞く。であれば、我ら人間種の巻き起こした大きな間違いを正し、今こそ人間種と亜人種同士、共存の道を探すべきではないだろうか。』
絶句したよ。
戦争を止めるのには大賛成だ。
こんな状況で戦争など続けられないし、現に衰弱しながらも戦地に送り出された人間が何千人も死んでいた。
それでも人々が戦地に赴くのは愛国心ゆえではない。
農村にいるよりは、軍から配給される物資で餓死する可能性が僅かでも下がると言う、ただ一点に付きたからだ。
飢えて死ぬか殺されて死ぬかの違いだ。
そんな地獄もかぐやという状況を打開してくださると言うならば是非にとお任せしたい所だったが、残念ながら王の提示した議題は多くの有識者が寄り集まり150年掛けても答えの出せなかった難題だった。
それどころか、トゥリア王がされようとしていた交渉は要するにこう言う事だ。
“150年程前、我々の祖先は資源欲しさに貴殿らの祖先を数万人殺戮し奴隷にし、現在も奴隷としてこき使っているが必ず解放する。本当に申し訳なかった。ところで、今干ばつでとても苦しい状況だ。これまでの事は水に流して助けてはくれまいだろうか?”
……と。
…………………
………………………
私は、亜人種を好ましく思ったことは無いが、産まれて初めて心から詫びたい気持ちで胸が満たされたものだ。
絶句する家臣団……しかもあろうことか私を名指ししつつ王は仰った。
『我が親愛なるケラヴノス卿。亜人の血が流るる卿なればこそ、頑なな亜人連言軍も耳を傾けてくれるやも知れん。あちらとてこれ以上の犠牲を出すのは本意ではないはず。特使の任、引き受けてくれるか。』
玉座で妙案だとばかりに微笑む王の正気を疑った。
戦場で誰より亜人を殺した人物を特使に選ぶなど狂気の沙汰だ。
相手の神経を逆なでするのが目的と言うのであれば大正解だが、今回の目的は正反対である。
それに亜人族はハーフに対し決して同情的ではない。
むしろ、人間種に血を穢された存在として忌避感すら抱いている。
そんな存在を特使なんぞに選出した上あんな風に煽ればどうなる事か……考えるだけでも背筋が凍る。
周囲に助けを求めて視線を彷徨わせたが、みな意味ありげに目配せし合うばかりでチラリともこちらを見ようともしなかった。
かくして強引に結成された使節団と共に、亜人連合軍より指定された獣人の村へと向かった。
が。
『使節団が来るなんて聞いてない。しかもお前ハーフだろう?穢れた血を特使に寄越すなど、貴様ら人間種の王は気でも狂ったか。』
と、普通に門番に追い返されてな。
それからは三日三晩は門番との押し問答だ。
まずは使節団であることの証明証を受け取ってもらうのに1日、それを獣人王に届けてもらい承認されるのに更に1日。
今度は我々使節団総勢15人を1日がかりでみっちり身体検査。
オマケに獣人王の具合が優れないだとか何とかで更に1日を無駄に過ごした。
何かがおかしいと獣人の村内を探ってみれば案の定だ。
獣人の王は、そもそも村に居もしなかった。
数人拷問に掛けて分かった事は3つ。
一つ、人間種の王城内部に裏切り者あり。
二つ、陽動として周囲の村々が焼き討ちに遭っている。
三つ、トゥリア・パテラス・フォン・ピトレスク王を始め、その血縁者全てを皆殺すものとする。
幸いにも使節団の者達は私の直属の部下で優秀な魔術者が多く在籍していたからね。
即座に各地へ防備を固めるよう連絡を取らせ、応援に向かわせた。
あぁ、私?
私は勿論、城に向かったよ。
残念ながら一歩、手遅れだったけれど。
1413年1月1日。
色とりどりのステンドグラスから月光の降り注ぐ玉座の間で。
血溜まりに倒れ伏したトゥリア王を見下ろす巨大な真紅の狼を見て真っ先に心に浮かんだのは、何故だろうな、“美しい”と言う言葉だったんだ。
『これで漸く、戦も終わる。』
深緑の双眸に私を映しそう静かに唸る声は、諦観に塗れていた。
事実、激情に身を任せるまま魔法を揮った私に抵抗の意思を示すこともなく……狼の首は、月光射す玉座の間を舞う事となった。
真紅の狼の亡骸を手土産に獣人の村に戻ってみれば、みな面白いほど怒り狂って襲いかかってきたよ。
私は、長い間戦争に駆り出され多くの亜人を殺めたが、それを楽しんだ事は一度としてなかった。
ただ。
ただ、この時は。
この時だけは、大人も、子供も、老人も、男も、女も。
獣人と言う種を根絶やしにすべく楽しんで殺戮に興じていたように思う。
そして動くものが何もなくなって、初めて我に返った。
取り返しのつかない事をしてしまった。
嗚呼、何という惨憺たる有様か。
まさか己の内にこんなにも惨く、醜く、卑しく、浅ましい感情が宿っていたとは信じ難く、何より受け入れ難く………
せめてこの命で償おうと、心臓に剣を突き立てた。
だが、死ねなかった。
次は頸動脈を割いてみた。
だが、死ねなかった。
首を吊っても、飛び降りても、服毒しても、断頭しても、失血しても…………何をどうしても、私は死ねなかった。
そして理解した。
私は生みの親の子宮の中に居た頃より魔力と魔素を喰らい生きてきた異端児。
子宮の中で、体の作りが他の生物とは違う進化を遂げてしまったと考えるのが妥当だろう。
…………そうして、私は全てを諦めて帰国した。
ようやく帰り着くと、獣人王による殺戮から唯一逃げ延びたと言う第4王子テセラ・アデルフィア・フォン・ピトレスク様が戴冠式を終えておられた。
連合軍の中心であり各地でゲリラ戦を展開し続けて何とか戦況を保っていた獣人軍が壊滅した事で亜人連合軍は連携を失い、程なくして戦線は崩壊。
150年戦争はピトレスク国の勝利で幕を閉じた。
まるでそれを祝福するかのように雨が振り始めたのはお笑い草だ。
民は揃いも揃って、“テセラ王は神の祝福を受けられたお方!”と新王を崇め奉っていたものだ。
……戦争が終わると、次に問題になったのは戦死者の埋葬場所だ。
人の住む地ではとても埋めきれない程の亡骸を、当時は不毛の大地であったこの地に埋める事にした。
『亡骸が肥料となって緑が増えれば一石二鳥ではないですか!』
などと自信満々に宣っていた大臣の言葉通り、40年も経てば貧しい辺境の町スクレの側近くに緑が茂るようになった。
酷く濃い魔素のオマケつきでな。
判断を下した当時まだ28歳の青二才であったとは言え、家臣の言葉を鵜呑みにし過ぎたのはいささか軽率……と言うのはあまりに厳しい物言いだろうか。
ともあれ、1454年の春。
この世界で最も広大かつ強力な魔境を意図せず作ってしまった第4王子……失礼、テセラ王は、育ての母と共に暮らした廃村でヒッソリと隠居していた私をある日呼び出し、なんと爵位を授けると仰った。
その名も“魔境伯”。
辺境伯をもじって新たに作られた爵位のようでな、文字通り魔境を治めるのが務めだ。
この爵位と共に、スクレに生まれた大魔境の広大な土地を下賜された。
トゥリア王亡き後、時が流れるに身を任せてただ茫洋と生きて来た私にとって、正に晴天の霹靂の勅令だったよ。
しかしなぜ隠居したこの老いぼれに白羽の矢が立ったのか……
思い当たるのは、私と魔素の関わりの深さに他あるまい。
私が魔素を直接操り魔法を使うのは周知の事実であったが、魔素を喰らう性質を知るのは育ての親たる母だけ。
それ故、当時の私はこう考えた。
“魔境で多くの魔法を使い続ければいつかは魔素が尽き果てる。しかし攻撃魔法ばかりでは折角産まれた植物が死んでしまう………そうだ。魔法は想像力だ!ならば、攻撃でない魔法も新たに生み出せるのではないか?”
とな。
私の力は、人を傷付け殺めるための物だと長年思っていた。
しかしこんな私にも人の世に益をもたらす事が出来るのだと……その可能性を示して下さったテセラ王からのご下命に、心から感謝申し上げた物だ。
こうして魔境拍の叙爵を謹んでお受けし、今の私、“アルギュロス・マルク・フォン・ケラヴノス”なんて長ったらしい名前が完成してしまった訳だ。
その後すぐ、私はスクレの大魔境へ向かい40年も機能停止していた脳を叩き起こして仕事を開始した。
試行錯誤を重ね、失敗を繰り返し……苛立ちのあまり何度空に雷を轟かせてしまったことか。
お陰でスクレの民からは“ケラヴノス魔境”と称され、あまつさえその名称は全国各地に知れ渡る始末。
いくら得意魔法だったとは言え、限度があったと今では反省している。
…………ともあれ、20年もすれば慣れたものだ。
屋敷を建て、草木の世話をし、道を敷き、居住区を整え、将来の人々が心安らげるよう湖も作った。
どれほどの期間をそうしていただろうか。
次は何を作るかなどと考えながら読書をしていた折り、渡り図書がとある物語を読ませてくれた。
それこそが、今君が手にしている本の内容だ。
己が後世にどのように伝わっているのかを知った時、羞恥に震えたものだ。
何せ、新王は私を信じてこの地を預けたのではなかったのだから。
今思えば、恐らく新王は亜人とのハーフでありながらトゥリア王からのご寵愛を賜っていた私が元より気に入らなかったのであろう。
もしくは、私の出生について何かを知っていたのか。
どちらにしろ、魔境伯などと言う仰々しい地位も魔境を治めろと言う勅令も……全ては建前に過ぎなかったのだ。
あの時、新王が下した本来の勅令。
それはただ『死ね。』と言う、酷く単純で明快なもの。
何たる道化だ。
穴があったら入りたいとはまさにあの事だ。
まぁ、わざわざ穴など掘らずともこの地に居る限り他人に顔を見られる事はないのだが………
しかし、私個人の含羞ならば堪えられよう。
しかし……しかし、その書に記された真実は余りにも残酷だった!」
それまで寝物語を紡ぐように穏やかだった声が途切れ、アルさんは掌に顔を埋めて俯いた。
ほんの少し躊躇ったあと禍々しい黒く古ぼけた表紙を捲ってみれば、ビクリと跳ねた肩からハラリと銀の髪が流れ落ちた。
それでも顔を上げようとせず震えるばかりの彼を横目にページを読み進め、彼の言葉を詰まらせたであろうページを発見する。
タイトルは、“かしこい王子様”。
〈昔々、力が強くて強欲な王様と優しいけれど無力な王様がいました。
2つの国は長年戦争をしていましたが、なかなか決着がつきません。
何故なら、力が強くて強欲な王様は頭が悪いから。
優しいけれど無力な王様はこの世で最も冷酷な悪魔と契約していたから。
国民たちはもううんざり!
そこで、賢い王子様は思いついたのです。
絢爛豪華な贈り物を山積みに強欲な王様を訪ねた王子は言いました。
『ああ、力強い王様!あなたこそ僕らの王様にふさわしい!僕らの王宮に是非いらして、僕らの無能な王様をどうかやっつけて!』
その気になった強欲な王は王子の手引きで王宮に攻め込み、あっと言う間に無力な王を殺してしまいました。
契約相手を殺されてしまった悪魔は怒り狂い、強欲な王を刺し貫きました。
こうして、賢い王子様の機転によって長きに渡る戦争は幕を閉じることになったのでした。
めでたしめでたし。〉
「……こ、れは…!」
つまりテセラ王は敵軍と内通した上、実の父親と兄弟全員殺させたってことか!?
しかも、この感じだとアルさんがブチギレて獣人族を粛清するのも織り込み済みで計画していたように書かれてある。
だが、第4王子ってそんなに後ろ盾が多い印象がないんだけど、どうやって敵軍と……それも総大将である獣人王とコンタクトを取ったんだ?
「アルさん……」
「……君の言いたい事は察しが付く。恐らく手引きしたのはプロドシア宰相だろう。彼はテセラ王の御母堂の兄君でもあったからな、是が非でも王座を継がせたかったのだろう。その上、亜人への差別意識も激しい男だった。トゥリア王の望んでおられた共存の道なぞ死んでも進みたくなかったのだろうよ。」
ようやく気持ちが落ち着いてきたのか、スッカリ冷めきった紅茶を飲み干したアルさんがホッと一息ついておどけた風に肩を竦めた。
「しかし、もう少し早く気が付いていればトゥリア王の仇討ちのためにテセラ王を暗殺しにでも行ったんだが……残念ながら、真実に気が付くのに100年かかってしまった。復讐相手はとうに墓の中。我ながら間抜けな話だ。」
「……」
「と、まぁここまでが凡500年前に終わった私の人生の全てだ。与えられた仕事がそもそもないならばと放置した結果があの森の惨状だ。」
ツイと視線を滑らせる彼に釣られて、俺も窓の外を見やる。
月光に照らされた敷地内は丁寧に整えられているのに、白いロートアイアンの門の外は相変わらず鬱蒼とした森が黒々と広がっている。
本来であればこの外には彼の思い描いた活気ある街が広がり、幸せな人々の笑顔が咲き乱れていたのだろう。
しかし、今ここにそれはない。
黒い森からアルさんへと視線を戻せば、彼は微笑んでくれる。
「これが私の全てだ。人でも亜人でもない。最早生物であるかも怪しい殺戮者だ。君に、母に、“優しい”と評される資格など私にはない。」
椅子から立ち上がった彼がコツリコツリと踵を鳴らして歩み寄り、俺の足元に跪いて掌へと頬を寄せる。
「500年……私はこの森で怒りと孤独と悲しみばかりを胸に生きてきた。だが君に出会ってから、毎日が夢のように輝いてばかりいる。」
スリ、と。
工場仕事で荒れ切ったゴツい手はお世辞にも触り心地の良いものではないだろうに、アルさんは心底幸せそうに頬擦りして潤んだ眼差しをこちらへ向けた。
「リョー…私は、私の持てる全てを君に捧げる。だからどうか、私と共に生きる道を、考えてみてはくれないだろうか?」
ウルウルと揺蕩うオリオンブルーの真剣な眼差しに、心臓が鷲掴まれたような心地になって言葉に詰まる。
彼は、自身がリョーと言う人間なしには生きられない事を知ってほしいと、過去を語る前にそう言っていた。
こんなに重く辛い過去を語るのに、どれ程の勇気と覚悟がいった事だろう。
ましてやアルさんは自身の過去を他の誰より咎め、今もその咎に苦しんでいる。
その上で全てを打ち明けて、拒絶される事に怯えながらも共に生きようと手を伸ばしてくれている。
こんな、俺なんかのために。
「……リョー、やはり、だめか?」
「へ?」
突然暗く沈んだ声に驚いていつの間にか落としてしまっていた視線を上げると、どこか淀んだ色をした双眸が俺の顔を無遠慮に覗き込んできた。
白く華奢な両手が優しく顔を包みこんで、眦をそっと撫でる。
「私が、人でないのが恐ろしいか?それとも、大勢の人を殺めたのが許し難いか?ああ、もしくは……ふふ、年甲斐もなく君に劣情を抱くのが悍ましいか?」
蛇のようにスルリと体を這い上がり俺の膝の上へと跨ったアルさんの顔は、逆光になってしまって表情がよく読み取れない。
怒って興奮しているせいか、後半は難しい単語が多くて何言ってるかよくわからないし。
「アルさん。」
あえて冷静に呼びかけると、沈黙が返ってきた。
雰囲気は怖いままだがどうやら話を聞く気はあるようだ。
それに少し安心して、ダラリと垂れ下がったアルさんの両手をガシリと掴んで俺は言った。
「アルさん、俺、捨てない、誓う?」
「…………………………は。」
「アルさん、俺、捨てない、誓う?」
「ぇ……あ、あぁ。誓う。」
「じゃあここ居る。」
「……?………!?ぁ、そ、そう、か。」
ペースを崩されたせいか珍しく動揺を露わにするアルさんに「ちょっと重い。」と呟けば、彼は条件反射のように「すまない。」なんて言いながらすぐさま俺の上から退いてくれた。
微妙な空気に包まれたこの空間をどうしたものかと考えあぐねている様子のアルさんの手を引き、今まで俺の座っていた椅子へと座らせた。
キョトンと可愛い顔で見上げてきても許しませんからね。
先ほどの酷い暴言の数々。
俺はとても、これ以上ないくらい傷つきました。
「アルさん。」
「ハイ。」
アルさんの口から聞いたことないくらい小さい返事が聞こえてちょっと笑いそうになったけど、我慢我慢。
俺は怒ってるんだぞ。
「さっきアルさん、言った。アルさん人、違う、だから俺、怖がるか。アルさんいっぱい人、殺したの、俺許せないか。そのあとの言葉、ごめんなさい、勉強不足、わからない。」
「い、いや……」
言い淀む彼の両手を、もう一度力強く握り込む。
「アルさんこそ、勘違い。俺、ちょっとおかしい人間。」
「リョー?」
「俺、大事な人だけ、大事。その他、どうでもいい。だから、アルさん怖くない。アルさんがアルさんなら、俺、ちょっとも怖くない。人、いっぱい殺したの、どうでもいい。ここに居るアルさん、俺を捨てない優しいアルさん。それが、俺のすべて。」
「………………」
「ね?」
またウルウルし始めたオリオンブルーの双眸が愛おしくて、何か言いたげに震える唇に今度は俺からキスしてやった。
さっきされた時は冷たかったのに、今は温かかった。
真っ赤な顔で瞳を“これでもか!”ってくらい大きく見開いて両手で口元を押さえる彼の姿は相変わらず美しかったけれど、もう天使のようだとは思わなかった。
多分、アルさんも俺と同じなんだ。
「へへ、おかえし、です。」
俺と同じ、穴だらけ。
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弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
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それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
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でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
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