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第二章
二十話
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扉を開いた瞬間に糸の切れた人形のように頽れた華奢な身体を抱き止めた男は、腕の中で固く目を閉じている青年を再び抱き上げて室内へと足を踏み入れた。
老朽化して傷んでいる箇所は見受けられるが、しかし他の部屋に比べれば遥かに清潔に保たれたその部屋は、男の言うところの“思い出の場所”であった。
弛緩した体を大事に抱いたまま胡座をかいて床に座り、黒く長いまつ毛を微かに震わせて眠る青年の頬を撫でながら、男は感慨に耽る。
20年前も、二人はここで細やかな温もりを分け合って過ごしていた。
初めて彼を見た時は驚いたものだ。
育ての親が病死してから己以外立ち入りの一切なかった部屋の片隅で、ふんだんにレースをあしらった上等なネグリジェを纏う少女が膝を抱えて泣いていたのだから。
その上、どんなに声を掛けても少女がこちらに気づく様子もなく、ひたすらメソメソと泣くばかり。
空腹のあまり幻覚でも見えているのかと我が目を疑った。
しかしどんなに目を擦っても小さな背中は消えないし、哀れな啜り泣きは部屋に響き続けている。
驚きは次第に苛立ちへと変わった。
街中駆けずり回って食料を盗み、それが失敗すれば残飯を漁ってどうにか食いつなぎ、クタクタになって帰宅したら見知らぬ少女に自室を占拠されていたのだから、当然の感情である。
けれど自分より幼い、それも泣いている女の子を叩き出すほどの非道さを当時は持ち合わせなかった。
かと言って気を使って他の部屋へ移るのも腑に落ちない。
だから、気にしないことに決めた。
陰気な少女に背を向け、不貞寝した。
翌朝になると少女は消えていて、狐にでも化かされたような心地になりながらその日も遅くまで食料調達のために街中を駆けずり回った。
そして帰宅して、愕然とした。
何せまたあのメソメソと陰気な泣き声に出迎えられたのだから。
『勘弁してくれ。』と肩を落とし、その日も背を向けて眠りについた。
それからと言うもの、少女は毎日現れた。
夕暮れに染まった部屋で飽きもせず泣き続け、翌朝目を覚ませば消えている。
そんな幽霊みたいな存在を初めは目障りに思ったものだが、慣れてくるとどうしてそんなに泣いているのか涙の理由が気になってくるのが人情というものだ。
しかし理由を聞こうにも相手にこちらの声は届かない。
一体どうしたものかと頭を悩ませることおよそ一月。
いつものように泣き声を背にしながら眠りにつこうとしていたとある夕暮れに、ふと聞き慣れた泣き声が止んで、聞いたこともないような言葉がポツリと耳に届いて驚いた。
疲れた体に鞭打ち振り向いて、更に驚く。
少女が、こちらを向いていたのだ。
今までよく観察したことのなかった少女の姿は、これまで見てきたどの人間よりも美しかった。
濡れたように艶めく髪も、泣き腫らしていて尚大きく円な瞳も、共に夜を閉じ込めたかのように黒く煌めいて、愛らしいネグリジェも相まって夜の化身がこの部屋に現れたようだと似合わないメルヘンな想像をしてしまったほどだ。
物心つく前からスラムの更に裏側で溝鼠のような生活を送ってきた彼が、産まれて初めて目にした“綺麗な生き物”。
そんな存在に涙の余韻でキラキラと潤む眼差しを熱心に向けられては、どうしていいか分からない。
真っ白になった思考の果になぜそんな行動に出たのか……
気づけば彼は両手を広げて、『ん。』と少女を呼んでいたのだ。
垢や泥に塗れ汚れた体でこんな美しい生き物に触れようとは何を考えているのかと後悔するよりも先に、少女は何の躊躇いもなく彼の側に身を寄せ、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。
腕の中にある心底安心しきったような無防備な寝顔に心臓が熱くなって、腹が減って堪らないはずなのに何かが満たされたような気がして。
この不思議でいて綺麗な存在をきっと守ってやろうなどと、分不相応な誓いまで立てたものだ。
「ふ……」
当時を振り返って、我ながらなんと傲慢なことかと自嘲の笑みを零す。
無力な少年に過ぎなかった当時、彼は生きるために方々で盗みを働く悪童であった。
苛烈な性格からどのコミュニティにも属さずたった一人で暮らす少年など、大人たちの目にはさぞ都合の良い捌け口に映ったことだろう。
そんな少年の側にいたのだから、あの日の出来事は当然の帰結に過ぎなかったのだ。
少女との静かな交流が始まって2年ほど経ったある日。
いつもより少し遅れて帰宅したら、大人の男達が少女を拐かそうとしている場面に出くわした。
抱え上げられた拍子に露わになったであろうか細い太腿を毛むくじゃらの穢らわしい手が撫でるのを見た瞬間、状況を理解するよりも先に駆け出していた。
雄叫びをあげて全力で体当たりを食らわせるが、所詮は子供の力。
驚きで少女を取り落とし数歩ふらついた程度で男は持ち直し、すぐさま反撃された。
容赦ない暴力に曝され朦朧とした意識の中にあっても、少女だけは守りたかった。
言葉も通じず名前すら知らない少女。
だが、彼女だけは。
虫けらのように扱われどこで野垂れ死のうと気にも留められない少年に寄り添い、笑いかけ、名前を呼んでくれた。
共に過ごした2年はあまりに細やかではあったが、それでも少年に確固たる意志を抱かせるには十分すぎる程幸福な時間だったのだ。
しかし。
ただの子供が大人に適うはずもなく、長年の栄養失調により頼りない体はあっという間に動かなくなってしまった。
それでも少女が逃げる時間だけは稼ごうと力を振り絞って男達の足にしがみついたその時、頭に衝撃を受け、視界が眩み、体がピクリとも動かなくなってしまった。
遠くで甲高い悲鳴が聞こえたが、それもすぐに止んで、男達の下卑た笑い声と足音が遠ざかっていく。
腫れた目をこじ開けて物音の方向へ視線をやれば、見たこともない、さながら大人の女のように蠱惑的で妖艶な笑みを浮かべた少女が男達を手招く様が映った。
本能的にその意図を察し、死に物狂いで手を伸ばして止めろと叫ぼうとしたが、最早声すら出ずに。
そんな無様な姿に優しく微笑んで『マタネ。』と何かを呟いた少女の姿が扉の奥へ消えて、常人より優れた聴覚が扉の奥で行われようとしている惨事を事細かに脳へと伝達する。
床板の軋み。
男達の荒い息遣い。
衣服をちぎる音。
そして、少女の押し殺した苦鳴。
その瞬間、今まで激情に高ぶっていた心臓が冷えた手で鷲掴まれたかのような感覚と共に全身の骨がミシミシと音を立てて軋んだ。
痛みはない。
それどころかあらゆる感覚が鈍くなり、沸き起こる奇妙な万能感に突き動かされるまま動かなかったはずの身を起こして少女への道を阻む扉を思う様蹴り崩した。
その後の光景は、20年経った今でも男の記憶に深く深く焼き付いている。
割り開かれた白い両足の間で男を受け入れていた少女の、ポッカリと空いた暗く深い穴のような。
そんな、真っ黒な絶望の目。
なぜそんな目で自分を見るのかと問う間もなく、少女の体がゆらりと蜃気楼のごとく掻き消えて。
………その後は、ただ只管に暴れた。
本能の赴くまま眼前の男達を引き裂き叩きつけ、醜い肉の塊へと変えてやった。
そうした所で、彼の元に少女が帰ってくることは二度となかったが。
「……やっとだ。」
つぅ、と。
青年の目尻から流れた涙を拭いながら、男は吐息のような笑みを零す。
20年。
かつての淡く透明に輝いていた想いをドス黒く濁った妄執に変えるにはあまりに十分すぎる歳月を、たった一人だけを求めて生きてきた。
そして20年越しに再び相見えた探し人には、最早あの頃の柔らかさも甘い香りも鈴を転がしたような可憐な声も残ってはおらず、あまつさえ端から少女ですらなかった。
だが、それがどうしたと言うのか。
記憶を失って尚彼から向けられる視線に侮蔑や恐怖が滲むことは一度としてなく、星の瞬く夜空のように澄んだ双眸は、あの頃から何一つ損なわれる事なく此処にあった。
それがやっと、この腕の中に。
腹の底からザワザワと沸き起こる仄暗い歓喜に口端を歪めながら、男は思う。
可哀想な人間だ、と。
聞き齧った人生の一片でさえ悲惨であるのに、更には狂気の赴くままに血と死を撒き散らして生きてきた男にこうして絡め取られ、喰い尽くされようとしているのだから。
「ごめんな。」
そう軽やかに懺悔しつつ、男は喜色に歪んだ眼差しを閉じた扉へと向けた。
「……それで、俺達に何か用か?」
二人きりの静寂の中発された言葉は、第三者への問いかけ。
男の視線の先で扉が耳障りな音を立てて開くと、グレーの髪を上品に撫で付けた老人が姿を現した。
ピンと背を伸ばして佇むその姿は、ひょろりとか細いくせに圧倒的な威厳を発している。
「成る程な。アンタが報告にあったアルジャンとか言う厄介な爺さんか。」
配下であるオディギアから報告は受けていた。
獲物を連れて来る話の都合上、仕方なく雇ったと言う謎の老人。
獲物である青年に妙な執着を見せていると聞いていたが、対面してみて初めて何故たかが老人について大袈裟に報告されたのかを理解した。
確かに、この男はただの人間には荷が重い。
「……彼から手を放せ。」
よく研がれた剣を思わせる視線に晒されていながら、男は笑みを崩すことなく鼻を鳴らして拒否を示した。
「聞いてやる義理はねぇな。悪いが取り込み中だ、とっとと失せろ。」
にべもない返答に、アルジャンは沈黙を返した。
青年を渡さない限り退く気はないのだという強い意志をひしひしと受ていながら、男は意に介した風もなく艶めく黒髪を指先に絡めて遊びながら語る。
「20年だ。」
「……」
「何の歳月かって?俺がこいつを見つけるまでにかかった時間だよ。」
ふと男は唇から笑みを消し、ギロリと、初めて明確な敵意を含んだ鋭い眼差しでアルジャンを睨め付けた。
「俺たちはアンタと違って制限時間が短いんでな。感動の再開を邪魔されるワケにはいかねぇんだ。」
「……!」
「500年も経って気付かれないとでも思ったか?殺戮伯爵さんよ。」
その言葉に、老人の視線が揺らぐ。
「貴様、まさか獣人の……」
500年前に人の手によって蹂躙された種族の名を紡ぐアルジャンに、男は心底嘲るように吐き捨てた。
「興味ねぇな。」
「…………」
「一族も、人間も、テメェも。コイツ以外、どうでもいい。」
万感の念の込められた視線すら嘲笑い、男は黒髪を一房掬い上げ、恭しく口づけを落とす。
「コイツ以外、この世界に価値なんざありゃしねぇよ。」
「………その薄汚い手を放せ。」
ゆらり。
微かな殺気と空気の揺らぎに首筋の毛が総毛立ち、男の瞳孔がキュウと収縮する。
しかしそれでも、彼は薄笑いを止めずに口を開いた。
「おいおい。ここが尊い尊い王侯貴族サマ方のおわすペルマナントだっつー事を忘れたか?こんな魔素の薄い場所で、しかもそんな弱体化した体で、この俺を一撃で仕留められると思うかい?」
「……そうだな。今の私ではその子に配慮しながら貴様を一撃で屠ることは叶わないだろう。」
そう言いつつ、アルジャンは殺気を隠そうともしないまま指先を男へ突きつける。
「だが、魔法は魔術と違って色々な使い道があるのだよ。」
「あ?」
「例えばそう。君の中からその子に関する記憶を消してしまう、なんてどうだろうか。」
「!ふ、ははは……やれるもんならやってみろ。テメェが御大層な魔法を使うより先に、その首噛み千切ってやるからよ。」
「………」
「………」
シン……と、次の一挙手一投足で容易に破裂してしまいそうな程張り詰めた沈黙を破ったのは、殺意をぶつけ合う2人ではなく、今までまんじりともせず眠り続けていた彼だった。
「………んん~。」
間の抜けた声を上げた青年の瞼が開かれるよりも先に、室内に充満していた重苦しい殺気が霧散する。
「ようやくお目覚めかよ。」
先程までの険しい表情は何処へやら。
クシャリと笑って見せた男を見上げた青年は、ほんの一瞬だけ泣き出しそうに歪んだ表情を笑みの形に作り変えて「へへへ。」とはにかんだ。
「待たせて、ごめん………カガリくん。」
「…………!!」
深緑の双眸を大きく瞠って自身を見つめる男、カガリに微笑みつつ身を起こした青年は、固まって動かない大男をぎゅうと無遠慮に抱き締めた。
「ずっと言えなかった。おれ、名前、涼。よろしく。」
「リョー……」
「うん。」
「リョー。」
「うん、うん。」
「リョー、か。……そうか。…………そうか。」
涼の背中にカガリの両腕が回り、青年と呼ぶには華奢な身体をすっぽりと閉じ込めてしまうように抱き締め返す。
自身の首筋に埋まる赤毛を愛おしげに撫でて隠れた耳を晒すと、涼はその耳元に唇を寄せて悪戯っぽく囁いた。
「いい思い出、しか、なかった。」
「……ふ、強がりめ。」
明らかに信じていない返答にムッと唇を尖らせて、ようやく密着していた身体を離す。
「俺が、弱かったせい。カガリくんに、げ、げ……げん…えっと。」
「……幻滅か?」
「そうそれ!ゲンメツされた、思った。あんな、イヤな姿見せた、から……それで、悲しくて………いちばん、悲しくて……」
俯こうとした涼の頬をカガリの大きな両手が包み、そっと上を向かせる。
柔らかく笑んだ深緑の瞳を見上げると、カガリはさながら睦言でも囁くような低く甘い声で言った。
「幻滅なんざするかよ。例えお前が全人類を敵に回す大悪党になろうが、二目と見れない醜い怪物になろうが……リョー。お前がお前である限り、俺の想いは変わらねぇよ。」
「カガリくん……」
鼓膜を溶かしてしまいそうな艷やかな声に、熱を帯びた真っ直ぐな眼差しに、涼の瞳が潤む。
互いをジッと見つめ合う二人の距離が徐々に縮まって、そして………
「ごほん。」
不意に響いた第三者の咳払いに涼の体がビクリと跳ね、首を痛めてしまわないか心配になるほど勢い良く戸口へと顔を向ける。
そして咳払いの主を初めてその視界に収め、涼は「へぁ!?ジャンさん!?」と何とも間抜けな声を上げたのだった。
老朽化して傷んでいる箇所は見受けられるが、しかし他の部屋に比べれば遥かに清潔に保たれたその部屋は、男の言うところの“思い出の場所”であった。
弛緩した体を大事に抱いたまま胡座をかいて床に座り、黒く長いまつ毛を微かに震わせて眠る青年の頬を撫でながら、男は感慨に耽る。
20年前も、二人はここで細やかな温もりを分け合って過ごしていた。
初めて彼を見た時は驚いたものだ。
育ての親が病死してから己以外立ち入りの一切なかった部屋の片隅で、ふんだんにレースをあしらった上等なネグリジェを纏う少女が膝を抱えて泣いていたのだから。
その上、どんなに声を掛けても少女がこちらに気づく様子もなく、ひたすらメソメソと泣くばかり。
空腹のあまり幻覚でも見えているのかと我が目を疑った。
しかしどんなに目を擦っても小さな背中は消えないし、哀れな啜り泣きは部屋に響き続けている。
驚きは次第に苛立ちへと変わった。
街中駆けずり回って食料を盗み、それが失敗すれば残飯を漁ってどうにか食いつなぎ、クタクタになって帰宅したら見知らぬ少女に自室を占拠されていたのだから、当然の感情である。
けれど自分より幼い、それも泣いている女の子を叩き出すほどの非道さを当時は持ち合わせなかった。
かと言って気を使って他の部屋へ移るのも腑に落ちない。
だから、気にしないことに決めた。
陰気な少女に背を向け、不貞寝した。
翌朝になると少女は消えていて、狐にでも化かされたような心地になりながらその日も遅くまで食料調達のために街中を駆けずり回った。
そして帰宅して、愕然とした。
何せまたあのメソメソと陰気な泣き声に出迎えられたのだから。
『勘弁してくれ。』と肩を落とし、その日も背を向けて眠りについた。
それからと言うもの、少女は毎日現れた。
夕暮れに染まった部屋で飽きもせず泣き続け、翌朝目を覚ませば消えている。
そんな幽霊みたいな存在を初めは目障りに思ったものだが、慣れてくるとどうしてそんなに泣いているのか涙の理由が気になってくるのが人情というものだ。
しかし理由を聞こうにも相手にこちらの声は届かない。
一体どうしたものかと頭を悩ませることおよそ一月。
いつものように泣き声を背にしながら眠りにつこうとしていたとある夕暮れに、ふと聞き慣れた泣き声が止んで、聞いたこともないような言葉がポツリと耳に届いて驚いた。
疲れた体に鞭打ち振り向いて、更に驚く。
少女が、こちらを向いていたのだ。
今までよく観察したことのなかった少女の姿は、これまで見てきたどの人間よりも美しかった。
濡れたように艶めく髪も、泣き腫らしていて尚大きく円な瞳も、共に夜を閉じ込めたかのように黒く煌めいて、愛らしいネグリジェも相まって夜の化身がこの部屋に現れたようだと似合わないメルヘンな想像をしてしまったほどだ。
物心つく前からスラムの更に裏側で溝鼠のような生活を送ってきた彼が、産まれて初めて目にした“綺麗な生き物”。
そんな存在に涙の余韻でキラキラと潤む眼差しを熱心に向けられては、どうしていいか分からない。
真っ白になった思考の果になぜそんな行動に出たのか……
気づけば彼は両手を広げて、『ん。』と少女を呼んでいたのだ。
垢や泥に塗れ汚れた体でこんな美しい生き物に触れようとは何を考えているのかと後悔するよりも先に、少女は何の躊躇いもなく彼の側に身を寄せ、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。
腕の中にある心底安心しきったような無防備な寝顔に心臓が熱くなって、腹が減って堪らないはずなのに何かが満たされたような気がして。
この不思議でいて綺麗な存在をきっと守ってやろうなどと、分不相応な誓いまで立てたものだ。
「ふ……」
当時を振り返って、我ながらなんと傲慢なことかと自嘲の笑みを零す。
無力な少年に過ぎなかった当時、彼は生きるために方々で盗みを働く悪童であった。
苛烈な性格からどのコミュニティにも属さずたった一人で暮らす少年など、大人たちの目にはさぞ都合の良い捌け口に映ったことだろう。
そんな少年の側にいたのだから、あの日の出来事は当然の帰結に過ぎなかったのだ。
少女との静かな交流が始まって2年ほど経ったある日。
いつもより少し遅れて帰宅したら、大人の男達が少女を拐かそうとしている場面に出くわした。
抱え上げられた拍子に露わになったであろうか細い太腿を毛むくじゃらの穢らわしい手が撫でるのを見た瞬間、状況を理解するよりも先に駆け出していた。
雄叫びをあげて全力で体当たりを食らわせるが、所詮は子供の力。
驚きで少女を取り落とし数歩ふらついた程度で男は持ち直し、すぐさま反撃された。
容赦ない暴力に曝され朦朧とした意識の中にあっても、少女だけは守りたかった。
言葉も通じず名前すら知らない少女。
だが、彼女だけは。
虫けらのように扱われどこで野垂れ死のうと気にも留められない少年に寄り添い、笑いかけ、名前を呼んでくれた。
共に過ごした2年はあまりに細やかではあったが、それでも少年に確固たる意志を抱かせるには十分すぎる程幸福な時間だったのだ。
しかし。
ただの子供が大人に適うはずもなく、長年の栄養失調により頼りない体はあっという間に動かなくなってしまった。
それでも少女が逃げる時間だけは稼ごうと力を振り絞って男達の足にしがみついたその時、頭に衝撃を受け、視界が眩み、体がピクリとも動かなくなってしまった。
遠くで甲高い悲鳴が聞こえたが、それもすぐに止んで、男達の下卑た笑い声と足音が遠ざかっていく。
腫れた目をこじ開けて物音の方向へ視線をやれば、見たこともない、さながら大人の女のように蠱惑的で妖艶な笑みを浮かべた少女が男達を手招く様が映った。
本能的にその意図を察し、死に物狂いで手を伸ばして止めろと叫ぼうとしたが、最早声すら出ずに。
そんな無様な姿に優しく微笑んで『マタネ。』と何かを呟いた少女の姿が扉の奥へ消えて、常人より優れた聴覚が扉の奥で行われようとしている惨事を事細かに脳へと伝達する。
床板の軋み。
男達の荒い息遣い。
衣服をちぎる音。
そして、少女の押し殺した苦鳴。
その瞬間、今まで激情に高ぶっていた心臓が冷えた手で鷲掴まれたかのような感覚と共に全身の骨がミシミシと音を立てて軋んだ。
痛みはない。
それどころかあらゆる感覚が鈍くなり、沸き起こる奇妙な万能感に突き動かされるまま動かなかったはずの身を起こして少女への道を阻む扉を思う様蹴り崩した。
その後の光景は、20年経った今でも男の記憶に深く深く焼き付いている。
割り開かれた白い両足の間で男を受け入れていた少女の、ポッカリと空いた暗く深い穴のような。
そんな、真っ黒な絶望の目。
なぜそんな目で自分を見るのかと問う間もなく、少女の体がゆらりと蜃気楼のごとく掻き消えて。
………その後は、ただ只管に暴れた。
本能の赴くまま眼前の男達を引き裂き叩きつけ、醜い肉の塊へと変えてやった。
そうした所で、彼の元に少女が帰ってくることは二度となかったが。
「……やっとだ。」
つぅ、と。
青年の目尻から流れた涙を拭いながら、男は吐息のような笑みを零す。
20年。
かつての淡く透明に輝いていた想いをドス黒く濁った妄執に変えるにはあまりに十分すぎる歳月を、たった一人だけを求めて生きてきた。
そして20年越しに再び相見えた探し人には、最早あの頃の柔らかさも甘い香りも鈴を転がしたような可憐な声も残ってはおらず、あまつさえ端から少女ですらなかった。
だが、それがどうしたと言うのか。
記憶を失って尚彼から向けられる視線に侮蔑や恐怖が滲むことは一度としてなく、星の瞬く夜空のように澄んだ双眸は、あの頃から何一つ損なわれる事なく此処にあった。
それがやっと、この腕の中に。
腹の底からザワザワと沸き起こる仄暗い歓喜に口端を歪めながら、男は思う。
可哀想な人間だ、と。
聞き齧った人生の一片でさえ悲惨であるのに、更には狂気の赴くままに血と死を撒き散らして生きてきた男にこうして絡め取られ、喰い尽くされようとしているのだから。
「ごめんな。」
そう軽やかに懺悔しつつ、男は喜色に歪んだ眼差しを閉じた扉へと向けた。
「……それで、俺達に何か用か?」
二人きりの静寂の中発された言葉は、第三者への問いかけ。
男の視線の先で扉が耳障りな音を立てて開くと、グレーの髪を上品に撫で付けた老人が姿を現した。
ピンと背を伸ばして佇むその姿は、ひょろりとか細いくせに圧倒的な威厳を発している。
「成る程な。アンタが報告にあったアルジャンとか言う厄介な爺さんか。」
配下であるオディギアから報告は受けていた。
獲物を連れて来る話の都合上、仕方なく雇ったと言う謎の老人。
獲物である青年に妙な執着を見せていると聞いていたが、対面してみて初めて何故たかが老人について大袈裟に報告されたのかを理解した。
確かに、この男はただの人間には荷が重い。
「……彼から手を放せ。」
よく研がれた剣を思わせる視線に晒されていながら、男は笑みを崩すことなく鼻を鳴らして拒否を示した。
「聞いてやる義理はねぇな。悪いが取り込み中だ、とっとと失せろ。」
にべもない返答に、アルジャンは沈黙を返した。
青年を渡さない限り退く気はないのだという強い意志をひしひしと受ていながら、男は意に介した風もなく艶めく黒髪を指先に絡めて遊びながら語る。
「20年だ。」
「……」
「何の歳月かって?俺がこいつを見つけるまでにかかった時間だよ。」
ふと男は唇から笑みを消し、ギロリと、初めて明確な敵意を含んだ鋭い眼差しでアルジャンを睨め付けた。
「俺たちはアンタと違って制限時間が短いんでな。感動の再開を邪魔されるワケにはいかねぇんだ。」
「……!」
「500年も経って気付かれないとでも思ったか?殺戮伯爵さんよ。」
その言葉に、老人の視線が揺らぐ。
「貴様、まさか獣人の……」
500年前に人の手によって蹂躙された種族の名を紡ぐアルジャンに、男は心底嘲るように吐き捨てた。
「興味ねぇな。」
「…………」
「一族も、人間も、テメェも。コイツ以外、どうでもいい。」
万感の念の込められた視線すら嘲笑い、男は黒髪を一房掬い上げ、恭しく口づけを落とす。
「コイツ以外、この世界に価値なんざありゃしねぇよ。」
「………その薄汚い手を放せ。」
ゆらり。
微かな殺気と空気の揺らぎに首筋の毛が総毛立ち、男の瞳孔がキュウと収縮する。
しかしそれでも、彼は薄笑いを止めずに口を開いた。
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「あ?」
「例えばそう。君の中からその子に関する記憶を消してしまう、なんてどうだろうか。」
「!ふ、ははは……やれるもんならやってみろ。テメェが御大層な魔法を使うより先に、その首噛み千切ってやるからよ。」
「………」
「………」
シン……と、次の一挙手一投足で容易に破裂してしまいそうな程張り詰めた沈黙を破ったのは、殺意をぶつけ合う2人ではなく、今までまんじりともせず眠り続けていた彼だった。
「………んん~。」
間の抜けた声を上げた青年の瞼が開かれるよりも先に、室内に充満していた重苦しい殺気が霧散する。
「ようやくお目覚めかよ。」
先程までの険しい表情は何処へやら。
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「待たせて、ごめん………カガリくん。」
「…………!!」
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「リョー……」
「うん。」
「リョー。」
「うん、うん。」
「リョー、か。……そうか。…………そうか。」
涼の背中にカガリの両腕が回り、青年と呼ぶには華奢な身体をすっぽりと閉じ込めてしまうように抱き締め返す。
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「いい思い出、しか、なかった。」
「……ふ、強がりめ。」
明らかに信じていない返答にムッと唇を尖らせて、ようやく密着していた身体を離す。
「俺が、弱かったせい。カガリくんに、げ、げ……げん…えっと。」
「……幻滅か?」
「そうそれ!ゲンメツされた、思った。あんな、イヤな姿見せた、から……それで、悲しくて………いちばん、悲しくて……」
俯こうとした涼の頬をカガリの大きな両手が包み、そっと上を向かせる。
柔らかく笑んだ深緑の瞳を見上げると、カガリはさながら睦言でも囁くような低く甘い声で言った。
「幻滅なんざするかよ。例えお前が全人類を敵に回す大悪党になろうが、二目と見れない醜い怪物になろうが……リョー。お前がお前である限り、俺の想いは変わらねぇよ。」
「カガリくん……」
鼓膜を溶かしてしまいそうな艷やかな声に、熱を帯びた真っ直ぐな眼差しに、涼の瞳が潤む。
互いをジッと見つめ合う二人の距離が徐々に縮まって、そして………
「ごほん。」
不意に響いた第三者の咳払いに涼の体がビクリと跳ね、首を痛めてしまわないか心配になるほど勢い良く戸口へと顔を向ける。
そして咳払いの主を初めてその視界に収め、涼は「へぁ!?ジャンさん!?」と何とも間抜けな声を上げたのだった。
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そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!!
そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?

男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。

普通の男の子がヤンデレや変態に愛されるだけの短編集、はじめました。
山田ハメ太郎
BL
タイトル通りです。
お話ごとに章分けしており、ひとつの章が大体1万文字以下のショート詰め合わせです。
サクッと読めますので、お好きなお話からどうぞ。

ヤンデレだらけの短編集
八
BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。
全8話。1日1話更新(20時)。
□ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡
□ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生
□アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫
□ラベンダー:希死念慮不良とおバカ
□デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち
ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。
かなり昔に書いたもので芸風(?)が違うのですが、楽しんでいただければ嬉しいです!
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