とある男のプロローグ

サイ

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第二章

十六話

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「あ~、えっと……うん……」

ようやく気分が落ち着いた頃。
つい先程のあれやこれへの羞恥と気不味さが込み上げてきて、居心地の悪さを紛らわせるように両手の指を組んでは解き組んでは解きしつつ、視線を床に落とす。
何だか彼に出会って……否、再会してからというもの、妙に感情が乱れてならない。
普段は過去を思い出してここまで気分が落ち込んで卑屈になることもなかったのに。
それもこれも、彼に抱く奇妙怪奇な感慨がそうさせているのかもしれない……
何て真面目ぶって気を紛らわせようとしてみたが、いっそ消えてなくなってしまいたい程の羞恥心は一向に消えてはくれなかった。

「…………っく、くくく…」

隣から押し殺した笑い声が聞こえて、俺は一層縮こまって熱い顔を俯けた。

「ふはっ!そんな可愛い態度するなよ。せっかく我慢してやったのに、食っちまいたくなる。」
「………う~。」
「何だ、威嚇か?よしよし、怖くないぞ~。」

両手で顔を覆って唸る俺の頭を撫でつつ、男は楽しげに続ける。

「まぁ、安心しな。お前がその気にならなきゃ手出しはしねぇさ。俺は“待て”が得意なんでな。」
「そ、その気って……」
「何だ、全部言わせる気か?」

自分は一向に構わないとばかりにニヤニヤ笑う男に、俺はブンブン首を振って見せた。
これ以上は顔が発火してしまう。

「さて、本気の話はここまでにしとくか。」

そこは冗談にする所じゃないのかなんて心中でボヤきつつ、切り替わった真剣な空気にようやく顔を上げる。
すると男はキリリと真面目な顔で俺の目を見据えた。

「昨夜から薄々感じていたが、お前、切欠さえあれば全部思い出せるんじゃないのか?」
「え?」

思いもしなかった言葉に呆けていると、男は骨ばった指先で顎を撫でながら続ける。

「昨夜は俺と再開したことで記憶が無い事を自覚し、今日は会話だけで断片を思い出した。」
「……」
「もっと過去を掘り返せば、恐らくは。」
「……たしかに。」

この20年間記憶がないことすら無自覚に生きてきたが、たった2日……否、実質はたった数時間か……彼と関わっただけで記憶を刺激されているのだ。
彼の言う通り、全ての記憶を取り戻すのにそう時間はかからなさそうに思う。
しかし………

「…………でも……その。」
「?」

言いよどむ俺に、男は不思議そうに首を傾げた。
俺の反応が予想外だったとでも言うようなその反応に更に口ごもる。
中々言い出さない俺を彼は辛抱強く待ってくれていて、その見守るような優しい眼差しに背を押されるようにようやく口を開いた。

「思いだす、時。」
「ああ。」
「その……すごく、いた、くて……」
「あ?」
「いたいの、ちょっと嫌だなぁ、て、思った、だけ。」
「……………」
「……………………」

無言のまま僅かに瞠目した彼の表情にいたたまれなくなって、視線を右往左往と泳がせる。
そんな俺に何を思ったのか、彼はフッと表情を緩めて「なんだ…そう言う事か…」と零した。

「お前が思い出したくないなんて言い出すんじゃないかとヒヤヒヤした。」

思いもしなかった言葉に目を瞬かせると彼は自嘲的に笑った。

「お前にとっては、いい思い出ばっかりじゃねぇからな。」

妙に断定的な言葉に、初めて彼に対して怒りにも似た苛立ちを覚えた。

「どうして……」

どうしていい思い出ばかりでないと言えるのか。
そう言い切るよりも早く、彼が言う。

「思い出したくない事が起きたから、忘れたんだ。」

吐き捨てるような、憎しみのこもった声。
優しく細められていた瞳には今や堪えきれない殺意が滲み、彼の狂暴な本性の一端を晒していた。
けれどそんな彼に抱くのはやはり、恐怖ではない。
感じるのはただただ泣きたくなる程の、深い悲しみ。
けれどこの感情を口にするには余りに漠然としていて、そんな俺の拙い言葉が彼に伝わるとはとても思えなかった。
黙り込んだ俺にハッとして、彼は慌てて目を逸らした。

「悪い、これは……八つ当たりだ。お前は何も悪くないのにな。」
「ううん。」
「お前が望まないなら、無理強いはしない。俺はお前がお前なら、記憶がなくたって構いやしない。あんなこと言っておいて信憑性がないかも………っ?」

繕うように言葉を紡ぐ彼の唇に人差し指を当てて黙らせると、目を丸くして静かになった彼に微笑んで立ち上がる。

「あなた、間違ってる。」
「………」
「いい思い出、しか、なかった。全部、思い出して、俺、そう言う。かならず。」

そう断言して見せて、彼へと手を差し伸べた。

「だから、思い出させて。」

切なげに細められた視線が、無骨な手のひらに注がれる。

「…………痛いの、嫌だったんじゃねぇの。」

僅かな沈黙の後に紡がれたその声はどこか不貞腐れていて、俺はおどけて肩を竦めて見せた。

「痛いの、みんな嫌。でも、思い出す。思い出したい。」
「………そうかよ。もうお前がどんなに嫌がろうが痛がろうが、容赦しねぇぞ。」
「いいよ。でも、側、いてね。」
「当たり前だ。」

差し伸べた手を彼の大きな手が包み、引き起こすつもりが逆に彼の胸の中へと引き寄せられてしまった。
想定外の行動にあっさりと体制を崩した俺を事も無げに抱き留めると、彼はほんの数秒間だけ俺の首筋に顔を埋め、すぐに立ち上がった。
まるで子供のように俺を自分の腕に座らせるようにして抱き上げた男は、あの好ましい笑みを浮かべて言う。

「さて、お前の記憶を叩き起こすなら心当たりは一つだ。」
「ひとつ?」
「ああ。所謂あれだ、思い出の場所って奴。」

なるほど。
それは確かに記憶を取り戻すには打って付けじゃないか。
だがしかし、だ。

「でも、何でだっこ?」
「ん?コッチの方が早いからってのと。」

そう言いつつ、男は床を軋ませながら何故か猫の額程度の広さのテラスへと出た。
ちょっと、まさか。

「ドアの前はちょいと通るには湿っぽい奴がいるんでな。」

悪戯っぽくニヤリと口角を吊り上げて告げられた言葉を理解する間もなく、彼は手摺をひょいと乗り越えて、飛び降りた。

「うひゃい!?」

喉の奥から飛び出た情けなさすぎる悲鳴に彼が爆笑したのは言うまでもない。


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