とある男のプロローグ

サイ

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第二章

十三話

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扉一枚隔てた向こう側で一人の男が今まさに後悔に打ち拉がれている事など知る由もなく。
パタリと閉じた扉に知らず知らずの内に強張っていた肩からほんの少しだけ力が抜る。
ホッと溜息しつつおっかなびっくり周囲へと視線を走らせてみると、そこには何の変哲もない安宿の内装が広がっていた。
部屋の広さはざっと16畳くらいだろうか?
壁際にはきちんと整えられたシングルサイズのベッドと年季の入ったクローゼット。
部屋の中央には3人掛けの草臥れたソファが二つ、テーブルを挟んで整然と配置されている。

「………」

ソファの内一つ。
扉側に背面を晒す形で配置されている方に視線が留まる。
背もたれには着古された黒いコートが乱雑に脱ぎ捨てられていて、肘掛にはブーツを穿いた両足が窮屈そうに投げ出されている。
生活感のない部屋であるが故に、衣服の一枚、体の末端だけでも異様な存在感を放つように感じられた。
固唾を呑む俺などお構いなしに、どうやら部屋の主はお昼寝中のようだ。
下の店主は『返事があったら帰った方がいい。』なんて言っていたけれど、むしろお昼寝の邪魔をする方が怒りを買うのでは?
お昼寝の邪魔をするのは忍びないし、出直した方がいいのかな。
そうだ、そうしよう。
全く、我ながらなんて気遣い上手なんだろう。
もしも俺があのソファに眠る人物ならば、こんな風に気を利かせてもらえたら涙を流して感謝の念に打ち震える事だろう。
そう自画自賛しつつクルリと背を向けた、その時。

「おいおい、もう帰るのか?連れねぇなぁ。」

ふと掛けられた笑みを含んだ低い声に、ドアノブへと伸ばしかけた手が止まる。
考えるのは“逃げそびれた”とか“起きてたのか”とか、そんな事ではない。
今俺の頭を占めるのはただ一つ、“どうしてここに?”だ。
背後で衣擦れの音がして、背後の人物は再び声を上げる。
聞き覚えのある声を。

「昨日はよく眠れたかよ。」

がばりと、勢いよく振り返る。
そこには一人の男がいた。
ソファの背もたれに逞しい腕を掛け、ひょっこりと精悍な顔を覗かせた男が。
もう会うことはないと諦めたばかりの深紅の男が、そこに居た。

「………、うん、寝た。」

何とか絞り出した返事は、情けないくらい掠れて震えている。

「……ったく、何つう顔してんだよ。」

男は呆れたような、反面どこか楽しそうな声で呟いて気怠げに立ち上がると、音もなく目の前まで歩み寄って来た。
昨夜も思ったが、やはり大きい。
190cmは優に超えているのではないだろうか?

「こんな所に突っ立ってんなよ。ほら、おいで。」

そう言ってさも当然と言わんばかりに俺を抱き上げた男は、ソファへどっかりと腰を落とした。
流れるような早業に、つい男の引き締まった太ももの間に挟まれたまま思考停止する。
処理落ちしているのをいい事に男は俺の腹にしっかりと両腕を回し、首筋に顔を埋めてスリスリと頬ずりをしていやがる。
本来ならば屈辱と嫌悪に震えそうな動作も、どうしてかこの男にされると拒絶しようとは思えない。
それどころか、いつもの事だとばかりに受け入れている自分がいる。
昨晩は色々あって頭が混乱していただけだとばかり思っていたが、どうやら素面でもこの不可思議な心持ちは変わらないようだ。
おかしい。
何なのだこの安心感は。
ぐぬぬと唇を噛み締めつつ厚みのある胸に背を預け、すぐに我に返ってピシッと姿勢を正した。

「くはっ!ふ、ふ、ははははっ!おま、お前……くくくっ、ほら、遠慮すんな可愛い奴め。」

盛大に噴出した男の両腕に軽く力が籠もり、引き寄せられる。
抵抗しようとする気概さえ抱けずに、俺の体は容易く男の胸板へともたれ掛かってしまった。
温かい。
聞きたい事も言いたい事も沢山あるはずなのに、この温もりに包まれるともう駄目だ。
心地よい温もりと体を抱きしめてくれる力強い両腕への安心感にへにょりと顔がだらしなく弛むのを自覚する。

「っ、う~、ぐぬぬぬぬ……俺、大人……子供扱い、ダメ……」

口では文句を言いつつ、体は完全にリラックスしてしまっていてもう動きたくないとばかりに根を下ろしてしまっている。
くそ、これが体は正直と言うやつか。
なんて葛藤など与り知らず、男はごく自然な動作で俺のフードを下ろし顕になった髪を撫でつつ穏やかに言った。

「そうだな。もうすっかり、大人だな。」

分厚い胸板から響く低い声に、微睡みかけていた目が開く。
大人。
彼は今、大人と言った。
その口調に揶揄いや生暖かい微笑ましさも仕方なく話を合わせる苦々しさもなく、ただ感慨深そうに。
この世界に来て誰も彼もに子供扱いをされて来て、こんな反応をされたのは初めての事で驚いてしまった。

「お前は今、幾つなんだ?」

肩に顎を乗せた男の問いかけに我に返り、短く「27。」と答える。

「そうか……なら俺は、さんじゅう……2…いや3、5……か?まぁ、何にせよお互い年を取ったもんだ。」

そうか。
彼の話しぶりで分かった。
俺たちはどうやら、幼い子供の時分に出会っていたようだ。
そして幼いまま別れたきりそれぞれが大人になって再開した、と言ったところか。
全然覚えてないけど。

「ずっと、探してた。」

首筋にあたる吐息にゾクリと背中が痺れる。
くすぐったくて身を捩ると、男はクスクス笑いながら俺の首を甘噛みした。
何てことしやがる。

「ふはっ、ちゃんといるな。」

文句を言ってやろうと振り返って、言葉を飲んだ。
男は笑っていた。
精悍な眉をたらし、目尻を赤く染めた深緑の瞳を柔らかく細め、鋭い犬歯を覗かせて。
嬉しそうで、それでいて今にも泣きだしそうな、そんな笑顔だった。

「よいしょ。」

温かな腕の檻の中でモゾモゾと身をくねらせてどうにか後ろを向くと、俺は男の両足に跨って驚きに目を見開く彼の頭を抱きしめた。

「いるよ。俺、ここ、いるよ。ちゃんと。」
「………っ!」

息を飲んだ男の両手がゆっくりと背中に回り、ぎゅうう、と抱きしめられる。

「お、まえ……記憶ないんじゃ、なかったのかよ。」
「ない。」
「そうかよ……あぁ、畜生。懐かしいなぁ……」

震える声で悪態を吐く男の赤毛を撫でながら、ゆっくりと語り掛ける。

「いっぱい、話そう。知らない時間、いっぱい。俺、知りたい。」

赤毛がサラリと揺れて指に絡まる。
顔を上げた彼の深緑の瞳が、上目遣いにこちらを見上げて弓形に笑んだ。

「上等だ。今夜は優しく寝かしつけてなんかやらねぇぞ。」
「昨日の、それ、忘れて。」

不貞腐れた声に男が再び噴出して、男はクシャッと破顔した。

「嫌だね。お前の事は、何一つだって忘れてやらねぇよ。」

嗚呼、この笑顔。
好きだったなぁ。


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