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第一章
十五話
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今は草木も眠る丑三つ時。
いつもは健康優良児よろしく夜10時までには眠りについていた俺が、どうしてこんな真夜中に眠い目を擦って起きているのかと言うと、理由はたった一つ。
明日……厳密にいえば既に今日……この屋敷を離れる為の準備を行っているからだ。
湖での楽しいピクニックを終え地獄の空中飛行での帰還を果たした俺は、いつも通りアルさんとまったりお喋りし、いつも通りアルさんの作った夕食に舌鼓を打って、いつも通りお休みの挨拶をした。
あくまでも、いつも通りに。
本当はきちんと別れの言葉を述べて立ち去るのが筋であることは重々承知してはいるが、それだけはどうしても、できそうになかった。
別れを述べればアルさんはきっと俺を引き留めてくれるだろう。
気にせずにここに居ていいのだと、優しいあの人はそう言ってくれるはずだ。
そうやって差し伸べられた慈悲の手を、今の俺に振り払う事ができるだろうか?
際限なく与えられる優しさに甘えて縋って依存して、この温い日常にずぶずぶと溺れてしまうのもいいかもしれないと考え始めている、今の俺に。
答えは否だ。
だからこそ直接別れを告げる事なんて、俺にはできない。
その事実に行き着いた時………怖くなった。
あの時、湖でアルさんが浮かべたあの笑顔は、幾千万の言葉よりも雄弁に物語っていた。
彼の心からの信頼と、親愛を。
それが自分に向けられたものだと理解した俺が抱いたのは、身も震えんばかりの歓喜とそれ以上の、恐れだ。
向けられたその表情を、言葉を、眼差しを、信じてみたいなんて……そんな考えが脳裏を掠めた瞬間、温い日常にぐずぐずに溶かされた思考の片隅に僅かばかりに残っていた冷たい理性が獣のように叫んだのだ。
人はいつか必ず裏切る。
どんなに親切で善良そうな人間も、皮一枚隔てた向こう側に醜い本性を隠している。
お前は誰よりもそれを知っているだろうと。
そう、叫んだのだ。
今まで与えられた優しさも献身も言葉も、あの笑顔さえ、全てがまやかしだったと、いつか思い知らされる日がきっと来る。
それが怖い。
生れて初めて信じたいと思えた彼に裏切られるのが、何よりも怖くて、怖くて怖くて……仕方がなかった。
ならば、信じなければいい。
最初から信じていなければ、裏切りようがないのだから。
「我ながら最低だ。」
何が『巻き込まないため』だ。
結局俺は、自分自身のために逃げるのだ。
辛うじて手放せる、今の内に。
卑怯な自分に失望の吐息を零しながら、使い込んですっかり手に馴染んだ羽ペンをコトリと机に置く。
インクの乾ききらない紙には拙い文字が短く踊っていて、別れと呼ぶにはあまりにも味気ないその言葉の羅列の上に湖で摘んだ薄紫の花をそっと添えた。
「10年経っても、覚えてるもんだな。」
そう自嘲の笑みを浮かべ、瑞々しく咲く花びらに触れる。
俺を監禁した変態金持ちオヤジは、菓子作りや裁縫、花や宝石の種類やそれにまつわる物語などの知識をやたらと俺に覚えさせたがった。
小学生の頃の初恋の人が当時好きだったものだとアイツは壊れたカセットテープみたいに幾度となく語り、俺が少しでも間違えたり忘れたりしようものなら手酷い折檻を施したものだ。
それらの知識は身に着けた、と言うよりかは刻み込まれたと言った方が正しいだろう。
だからあの湖に咲くこの花を見た時、すぐに思い出した。
薄紫の可憐なその花は、俺の世界にあったアスター……紫苑によく似ていると。
花言葉は、追憶と。
「………貴方を、忘れない。」
この世界にも花言葉があるのかは知らない。
無いかもしれないし、あったとしても俺のいた世界の物とは全く違うかもしれない。
だから彼にこの花を手向けるのは、ただの自己満足だ。
彼と過ごした日々は間違いなく、俺の人生の中で最も穏やかで美しい、幸福な時間だった。
この花はそんな何物にも代え難く得難い物を惜しみなく与えてくれたアルさんへの感謝の印であり、手前勝手な理由で別れも告げずに恩人の元から逃げ去る己の恥の証でもある。
伝わらなくてもいい。
ただ俺だけが覚えていれば、それでいいのだ。
「さて、行くか。」
小さく呟き、部屋の扉を開いて最後に振り返る。
青白い月光に薄ぼんやりと照らされたこの部屋で、俺たちは初めて言葉を交わしたのだ。
テーブルの上には手紙と花と、作り立てのお菓子の山。
アルさんは意外な事に大のお菓子好きで、食事は摂らないくせに俺の作る菓子だけは見ているこっちが胃もたれするくらいモリモリ食べてくれたから、きっと喜んでくれるだろう。
そうだ、きっと、喜んでくれる。
きっと。
きっとだ。
「…………さようなら。」
情けないほどに震える声でそう告げて、音もなく、扉を閉めた。
いつもは健康優良児よろしく夜10時までには眠りについていた俺が、どうしてこんな真夜中に眠い目を擦って起きているのかと言うと、理由はたった一つ。
明日……厳密にいえば既に今日……この屋敷を離れる為の準備を行っているからだ。
湖での楽しいピクニックを終え地獄の空中飛行での帰還を果たした俺は、いつも通りアルさんとまったりお喋りし、いつも通りアルさんの作った夕食に舌鼓を打って、いつも通りお休みの挨拶をした。
あくまでも、いつも通りに。
本当はきちんと別れの言葉を述べて立ち去るのが筋であることは重々承知してはいるが、それだけはどうしても、できそうになかった。
別れを述べればアルさんはきっと俺を引き留めてくれるだろう。
気にせずにここに居ていいのだと、優しいあの人はそう言ってくれるはずだ。
そうやって差し伸べられた慈悲の手を、今の俺に振り払う事ができるだろうか?
際限なく与えられる優しさに甘えて縋って依存して、この温い日常にずぶずぶと溺れてしまうのもいいかもしれないと考え始めている、今の俺に。
答えは否だ。
だからこそ直接別れを告げる事なんて、俺にはできない。
その事実に行き着いた時………怖くなった。
あの時、湖でアルさんが浮かべたあの笑顔は、幾千万の言葉よりも雄弁に物語っていた。
彼の心からの信頼と、親愛を。
それが自分に向けられたものだと理解した俺が抱いたのは、身も震えんばかりの歓喜とそれ以上の、恐れだ。
向けられたその表情を、言葉を、眼差しを、信じてみたいなんて……そんな考えが脳裏を掠めた瞬間、温い日常にぐずぐずに溶かされた思考の片隅に僅かばかりに残っていた冷たい理性が獣のように叫んだのだ。
人はいつか必ず裏切る。
どんなに親切で善良そうな人間も、皮一枚隔てた向こう側に醜い本性を隠している。
お前は誰よりもそれを知っているだろうと。
そう、叫んだのだ。
今まで与えられた優しさも献身も言葉も、あの笑顔さえ、全てがまやかしだったと、いつか思い知らされる日がきっと来る。
それが怖い。
生れて初めて信じたいと思えた彼に裏切られるのが、何よりも怖くて、怖くて怖くて……仕方がなかった。
ならば、信じなければいい。
最初から信じていなければ、裏切りようがないのだから。
「我ながら最低だ。」
何が『巻き込まないため』だ。
結局俺は、自分自身のために逃げるのだ。
辛うじて手放せる、今の内に。
卑怯な自分に失望の吐息を零しながら、使い込んですっかり手に馴染んだ羽ペンをコトリと机に置く。
インクの乾ききらない紙には拙い文字が短く踊っていて、別れと呼ぶにはあまりにも味気ないその言葉の羅列の上に湖で摘んだ薄紫の花をそっと添えた。
「10年経っても、覚えてるもんだな。」
そう自嘲の笑みを浮かべ、瑞々しく咲く花びらに触れる。
俺を監禁した変態金持ちオヤジは、菓子作りや裁縫、花や宝石の種類やそれにまつわる物語などの知識をやたらと俺に覚えさせたがった。
小学生の頃の初恋の人が当時好きだったものだとアイツは壊れたカセットテープみたいに幾度となく語り、俺が少しでも間違えたり忘れたりしようものなら手酷い折檻を施したものだ。
それらの知識は身に着けた、と言うよりかは刻み込まれたと言った方が正しいだろう。
だからあの湖に咲くこの花を見た時、すぐに思い出した。
薄紫の可憐なその花は、俺の世界にあったアスター……紫苑によく似ていると。
花言葉は、追憶と。
「………貴方を、忘れない。」
この世界にも花言葉があるのかは知らない。
無いかもしれないし、あったとしても俺のいた世界の物とは全く違うかもしれない。
だから彼にこの花を手向けるのは、ただの自己満足だ。
彼と過ごした日々は間違いなく、俺の人生の中で最も穏やかで美しい、幸福な時間だった。
この花はそんな何物にも代え難く得難い物を惜しみなく与えてくれたアルさんへの感謝の印であり、手前勝手な理由で別れも告げずに恩人の元から逃げ去る己の恥の証でもある。
伝わらなくてもいい。
ただ俺だけが覚えていれば、それでいいのだ。
「さて、行くか。」
小さく呟き、部屋の扉を開いて最後に振り返る。
青白い月光に薄ぼんやりと照らされたこの部屋で、俺たちは初めて言葉を交わしたのだ。
テーブルの上には手紙と花と、作り立てのお菓子の山。
アルさんは意外な事に大のお菓子好きで、食事は摂らないくせに俺の作る菓子だけは見ているこっちが胃もたれするくらいモリモリ食べてくれたから、きっと喜んでくれるだろう。
そうだ、きっと、喜んでくれる。
きっと。
きっとだ。
「…………さようなら。」
情けないほどに震える声でそう告げて、音もなく、扉を閉めた。
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