とある男のプロローグ

サイ

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第一章

十四話

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「リョー、そろそろ到着するぞ。」
「……うぅぅ……」

どことなく弾んだ呼びかけにほとんど呻き声で返事をしながら、込み上げる朝食を気合で喉の奥へと押し込める。
恐らく俺たちが上空をカッ飛んでいた時間はほんの10分にも満たなかっただろうが、生身で飛ぶどころか飛行機にすら乗ったことのない俺を呻き声を上げるだけの生き物に変えるには十分すぎる程の時間だった。
帰りもこの恐怖体験をしなければならないと思うと、憂鬱で仕方ない。

「大丈夫かい、リョー?」

涼しい顔で覗き込んでくるアルさんの綺麗な顔が、今だけはほんのちょっと憎らしい。

「……うっぷ………だ、だい、じょうぶ。でも、早く、おりたい……」
「すまない、早くリョーに見せてやりたくて、年甲斐もなく焦ってしまったようだ。」
「みせたい?」
「ああ。もう到着したから、少しの間目を閉じていてくれないか?」

コックリと頷いて言われた通りに目を閉じると、ふわりと体が降下していくのが分かる。
地面に降り立ったようで、アルさんが俺を抱えたまま数歩、歩く。
落ち葉や砂利を踏む音、囁くような水のせせらぎ、穏やかな風になびく葉擦れの音。
しばらく風の音ばかり聞いていた耳にそれらの音が妙に懐かしいように思えて、どれだけ自分は空中散歩に気を張っていたのだろうかと少し可笑しかった。
そうやって他愛ない思考を巡らせていると、アルさんが歩みを止めた。

「そろそろ降ろすが、足元には気を付けてくれ。」
「はい。」

ようやく小っ恥ずかしいお姫様抱っこから解放されて愛する地上に両足を着いたが、思いのほか柔らかな土に足を取られて少しふらついてしまった。
すかさず伸びて来た両腕に支えられて転ぶことはなかったが、つくづく彼のスマートさには感服するばかりだ。
イケメンで金持ちで優しくて気遣いも出来てこんなにスマートで、非の打ちどころがないとは正にこの事。
もしも俺が女だったらトキメキ過ぎて今頃心臓が止まって死んでいた事だろう。
きっとアルさんが街を歩いたらその後ろには無数の乙女たちの亡骸が転がる事になるんだろうな。
はっ!もしかして、だからアルさんはこんな森の奥に一人で暮らして……!?

「何か愉快な事を考えているな?」

なぜバレた。

「ぜんぜん、何も考え、ない。」
「そう言う事にしておこう。」

キッパリ首を振って答えたにも拘わらずアルさんが信じた様子はなく、実に大人な返事をして俺の手を引いて歩き出した。
覚束ない足取りで手を引かれるままついて行くと、仄かな水の匂いが鼻孔を擽った。
せせらぎの音と言い、川辺にでも来ているのだろうか?

「アルさん、まだ、目あける、ダメ?」
「まだ、もう少し瞑っていてくれ。」

言われるがままにもう数歩進んだところで、アルさんはようやく足を止めて俺から手を放した。

「アルさん?」
「ここにいる。」

置いて行かれたんじゃないかと思って自分でも驚くほど情けない声で彼の名を呼ぶと、いつの間に移動したのか背後から両肩にポンと手を乗せられてホッと安堵の息を吐く。

「ゆっくり、目を開けてご覧。」

そっと瞼を開く。
最初に見えたのは、光だ。
地面一杯に宝石を散りばめたような絢爛で華美なその輝きに目が眩む。
パチパチと目を瞬かせ、数秒の間を持ってようやくその輝きが宝石などではない事を理解した。

「みずうみ?」

そう、眼前一杯に広がっていたのは広大な湖だった。
目も覚めるようなエメラルドグリーンの湖面は穏やかな風に淡く波打ち、午後の暖かな日差しがキラキラと乱反射する様はまるで巨大な宝石箱のようだ。
そしてその宝石箱をぐるりと取り囲んでいる畔には、光に眩んだ目を優しく癒すような淡く可憐な薄紫色の花畑が一面に咲き乱れていた。

「綺麗だ……」

幻想的なまでに美しいこの光景を前に、久方ぶりに日本語が口から零れた。
うっとりと景色に見惚れる俺の背後でアルさんが言う。

「気に入ってもらえただろうか。」
「もちろん!すごい、すごいよアルさん!おれ、こんなきれい、風景、初めて見た!!」

クルリと振り返って興奮気味に何とか感想を捲し立てる俺に彼はフッと笑って頭を撫でてくれる。

「気に入ってもらえたようで何よりだ。」
「うん、うん、ありがとう!」

髪を撫でる温もりに一層機嫌をよくした俺は、締まりのない顔を更に緩めた。
都会育ちの俺は今までテレビや旅行雑誌でしかこんな景色を見たことはなかった。
更に言うと大自然の景色と言う物は俺にとって、本当は実在しないのだと言われてしまえば信じてしまいそうな程に非現実的で、縁遠い物だった。
そんな景色が今、目の前にある。
それがどれだけ凄い事なのか、きっと誰にも分からないだろう。
ドキドキと胸が高鳴り、興奮から頬が紅潮するのを自覚しながら、花を踏んでしまわないよう細心の注意を払って湖へと近づいて行く。
岸辺に立って湖面を覗くと、可愛らしい小魚が数匹、踊るようにして水中を泳いでいた。

「うわぁ!!すごい、アルさん、魚!魚いる!」

岸辺にしゃがみ込んで好奇心の赴くままに冷たい湖面をちょんとつついてみると、驚かせてしまったのか小魚たちは慌てて遠くへ逃げて行ってしまった。

「あぁ……」

悲しげな声を上げて小魚たちの背びれを見送る俺の隣にアルさんもしゃがみ込む。

「リョーは動物が好きなのか?」
「好き!可愛いと思う。」

近所の家の窓から顔を覗かせていた猫や、毎朝通勤の道ですれ違っていた散歩にはしゃぐ柴犬、果ては駅前にたむろしていたカラスや鳩さえ俺にとっては日々の細やかな癒しだった。
一度でいいから動物園や水族館に行ってみたかったな。
噂に聞いていた猫カフェなる場所にも、金と時間に余裕さえあれば是非とも行ってみたかった。
今となっては後の祭りだが。
なんて遠い目をしていると、アルさんは真面目な面持ちで言った。

「なら、一刻も早くこの森が生命を取り戻せるよう、励まなくてはな。」
「???アルさん、何かがんばる?」
「ああ、私が果たすべき務めのことだ。」
「つとめ……」

俺が首を傾げて見せると、アルさんは森の方を指して言った。

「この湖にいる魚や私たち二人を除き、この森には生命がない。」
「へ?」
「リョーはここに来て一度でも聞いた事があるか?小鳥の囀りを。」
「!!」

言われてみれば、無い、かもしれない。
今だって、聞こえるのは微かな水音と木々の立てる葉擦れの音だけで、それ以外の音は不気味な程に聞こえてこない。
こんなにも深い森の中なら、小鳥の囀りどころか俺の知らない獣の鳴き声なんかが響いていたっておかしくない筈なのに。
それは今まで気が付かなかったのが不思議なくらいの不自然さだった。

「前に魔素と魔核の話をしただろう?」
「は、はい。」
「生き物は、体が小さければ小さい程それに伴って魔核も小さくなる。」
「はい。」
「つまりこの魔境は、ある程度小さな生き物は生息できない程に魔素が濃いのだ。」

なる程、それで動物がいないのか。
ならどうしてこの湖の中には魚がいるんだ?
さっきの小魚なんて、明らかに小鳥よりも小さかったのに。

「魚、大丈夫なの、なんで?」
「それは、私が環境を整えて放したからだ。」
「環境を?」

更に首を傾げる俺に、アルさんは答える。

「ただ、魔素を取り除いただけだ。」
「えぇ??」

ぱちくりと目を瞬かせる俺に、アルさんは何でもない事のように言った。

「濃くなり過ぎた魔素を取り除くこと、それが亡き王より賜った私の務めなのだ。」

務めなのだ……って、あっけらかんと言っちゃっているが、それってとんでもない事なんじゃ?
だってこの世界には確か、人間が立ち入る事の出来なくなってしまった土地、魔境がある。
一度魔境になってしまった土地を清める技術は今の人類にはまだなく研究中であると、本にはそう書かれていたはず。
それなのにアルさんは魔素を取り除くことができて、更には国からその任を与えられていると言う。
もしも魔境から魔素を取り除いて開拓できれば人類にとってどれほどの利益になる事か、学のない俺でも薄ぼんやりと察することができた。
ならば俺なんかよりも遥かに頭の良い人たちにとって、アルさんと言う一個人がどれ程価値のある存在か考えるまでもない。
そりゃあんな大豪邸に住んでいるのも当然と言うものだ。

「すごいすごい!アルさん、やっぱりすごい人!!キューセーチョー!!」
「きゅ、急成長??………!もしかして救世主か?」
「そうそれ!!」

ぶんぶん頭を上下に振って肯定して見せると、アルさんはカッと目を見開いてブンブン頭を横に振った。

「とんでもない!リョー、私は決して救世主なんて大それた存在ではない。むしろ、私はこれまで与えられた務めを手遊び程度にしか熟してこなかった無責任な男だ。非国民と罵られて当然の男なのだ。」
「でもこの池には生き物、いる!」
「それは……そうだが………」
「本に書いてあった。魔境、なったらもう戻らない、生き物住めない。でもここ、また魚生きてる。アルさんが、与えた命。」
「だが、たかが小魚だ。」

気まずそうに眼を逸らして湖へと視線を向けるアルさんに、ちょっとムッとする。
彼はたまにこうして、自身を謙遜……いや、卑下することがある。
そんな時、彼の光の失せた瞳には決まって空虚さが浮かでいるのだ。
アルさんの過去に何があったのかは知らないし俺には知る権利もないが、それでも、彼のそんな眼差しを見るのは悲しかった。

「えい。」

冷たい水を少量掬い、ピシャリとアルさんの寂し気な頬へと水滴を飛ばす。

「!?リョー、突然何を……」

驚いて咄嗟にこちらへと視線を戻したアルさんの言葉は、いつになく真面目な俺の表情に尻すぼみに消えた。
風が止み、耳が痛くなるほどの静けさが俺たちを包み込む。
この美しい世界に2人だけ取り残されたかのような静寂の中、俺は囁くように言う。

「たかが、違う。キューセーシュは、人だけを救うの、違う。少なくともここには、アルさんの救った命、たくさん。ここの小魚も……」

アルさんの濡れた頬を右手で拭い、俺はヘラリと笑った。

「この俺も。」

一瞬、アルさんの表情が今にも泣きだしそうに歪んだ。
しかしすぐにいつもの穏やかな無表情に戻って、フッと目元を優しく弛める。

「君はどうしていつもそう、私を喜ばせる言葉ばかり言ってくれるのだろうな……」
「思ったこと、言っただけ。」
「………無意識とは、空恐ろしいな。」
「え、なんで?何が?おれ、何かだめ?」
「いいや、リョーは何も悪くないとも。むしろ、実に好ましく思うよ。」

アルさんのその言葉にほっと胸を撫でおろす。
知らぬ間に彼を不快にさせていたなんて言われた日にはショック過ぎて寝込む自信しかない。
彼から受けた恩を返すことすどころか、後ろ足で砂を掛けるような真似をしでかそうとしている俺ではあるが、できれば、アルさんに嫌われたくはないんだ。

「それはそうと。」

不意にそう呟いたアルさんに首を傾げると、彼は意地悪そうに片眉を吊り上げて続けた。

「さき程はよくもやってくれたな。」
「へ?」

初めてみた表情に驚いてしまったばっかりに、体の反応が遅れた。
パシャリ。

「へぶ!」

顔面に結構な量の水しぶきがかかり珍妙な悲鳴が上がる。

「ふ……っくく………凄い声がでたな。」

目を白黒させている間に立ち上がったのか、頭上から微かな笑い声が降って来る。
慌てて顔を拭って視線を上げたが、アルさんはいつも通りの涼しい顔でこちらを見下ろしていた。

「この私に水を掛けたのは、後にも先にもリョーが初めてだ。」

揶揄うような軽やかなその口どりに、むくむくと対抗心が沸き上がる。

「おれ、さっきちょっと、掛けただけ!しかえし!!」

負けじとニヤリと笑って遠慮なく今度は両手いっぱいに水を掬ってアルさんめがけて飛沫を飛ばすと、彼はよけもせずに水を浴びて「やったな。」と言う。
何だかお互い妙なスイッチが入ってしまってしばらく水をかけ合い、しまいには靴を放り捨てスラックスの裾をたくし上げて湖に飛び込む始末。
服が汚れるのも構わず、いい歳した大人が2人で飛んだり跳ねたりまるで子犬が転げまわるようにして水遊びを堪能した。
しかし悲しきかな。
2人そろって引きこもりがちな生活を続けていたせいで30分とせず息が上がってしまって、短時間で濡れネズミになってしまった俺たちはよろよろと老人のように岸へと這い上がった。
息を切らして草原くさはらへと共に倒れ込み、2人でぼんやりと雲一つない青空を眺める。
隣へ視線を向けると、アルさんもこちらを向く。
木々の騒めき、緩やかな呼吸、水と草木の香り、紫の花に囲まれたアルさん。
綺麗な時間だと思った。

「……」

目を細めて彼を見つめていると、おもむろに伸びて来た白魚のような指先が俺の頬にかかった髪をそっと払った。
頬を掠めた指先が遊ぶように目尻を撫で、鼻先をくすぐり、唇に触れる。
嫌悪感なんて、微塵も感じない。
それどころか心底心地良くて、思わず顔が綻んでしまう。
そんな俺の締まりのない顔をしばらくぼんやりと眺めた後、アルさんはふと、眩しそうに眼を細めて俺を呼んだ。

「リョー。」

俺は微睡んだ声で答える。

「なぁに、アルさん。」

アルさんはまだ、答えない。
この時間を惜しむような沈黙。
しばらく黙って見つめ合っていると、不意に、澄んだオリオンブルーの瞳が柔らかく弧を描き。

「君に出会えたのは、人生最大の僥倖だ。」

そう言って、彼は笑ったのだ。
あるかなしかの、見落としそうな程の微かな笑みではない。
桜色の唇から白い歯を覗かせてニッコリと、心から笑ったのだ。
身に余るほどの言葉が面映くて、それ以上に初めて見せてくれたその表情が嬉しくて、俺も負けじと笑って見せた。

「俺も、アルさんに会えて、良かった。」

明日、彼の元を去ろう。
そう心に決めながら。


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