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第一章
一二話
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「ふふふ……アルさん、やさしい。」
柔らかく微笑んでそんな事を宣う涼に、アルギュロスは一瞬心臓を鷲掴まれたような衝撃を覚えた。
「……やさしい。」
告げられた言葉を鸚鵡のように反芻してようやくその意味を飲み込むと、鼓動がドキリと高鳴り、頬に熱がこもった。
優しいなどと。
そんな風にアルギュロスを評した人間など涼を除いてはたった一人しか居なかったし、そのたった一人の人物も、今となっては最早顔を思い浮かべることすらできない程遠い遠い過去の人物だ。
彼女を亡くした時、アルギュロスは己を優しいなどと評してくれる人間はこの先2度と現れることはないと考えていたし、また、現れなくとも良いと考えていた。
何百年間も、ずっと。
それが今になって。
「私にそんな事を言うのはリョーくらいのものだ。」
「そう?アルさん、ずっと、いつも、いっぱい、やさしい。」
彼の言葉の中にほんの僅かにも媚びの色があったなら、アルギュロスはかつての思い出を汚されたように感じて不快を露わにしたことだろう。
しかしニコニコと何の衒いもなく告げられた言葉に、嘘はない。
それ故に不快感を覚えるどころか、懐かしいような面映いような名状しがたいむず痒さにただ顔を反らして「揶揄うのはやめなさい。」と不貞腐れたように呟くことしかできなかった。
逸らした視界の外からクスクスと控えめながらもどこか悪戯っぽい笑い声が聞こえて来る。
コッソリと横目に伺い見ると、涼は美しい黒曜の瞳をとろりと和らげて心底楽しそうに微笑んでいた。
「………っ。」
己に向けられたその柔らかな眼差しにようやく落ち着きかけていた鼓動が再び飛び跳るのを自覚したアルギュロスは、苦虫を嚙み潰したような心地で涼を視界から外した。
涼の事は概ね好ましく思っているが、彼が時折見せるこの視線だけは、どうにも苦手だった。
決して不快なわけではない。
信頼や親愛、感謝や尊敬と言ったありとあらゆる好意と呼ばれる感情をかき集めて凝縮したようなその眼差しを、どうして不快に思うことが出来るだろう。
ただ、涼のその一切の悪意なき眼差しに、激しい罪悪感を抱くのだ。
その罪悪感とはどこから生じる感情なのか。
それは涼が普通の人間とは異なる、と言う事が主な要因と言えよう。
見識の広いアルギュロスですら知らない言語を操り、なぜか女性貴族に近しい礼儀作法を弁え、宮廷のパティシエールにも引けを取らない程の菓子作りの腕を持つのに対し、共通語たるイズィーク語はたった一言すら話せも書けもせず、街の子供さえ知っているような一般常識も持たず、魔法や魔術の存在も知らない。
そんな歪で極端な知識の偏りは、きっと奴隷であった頃に偏執的な人間たちによって躾けられた物に違いないとアルギュロスは考えていた。
外の世界で生きるために必要な知識を何一つ与えられることなく、他人の都合のいいように育てられた彼は、それでもそんな境遇から独力で逃げおおせて見せる程の胆力と勇気を持っていた。
その事を思えばこそ、アルギュロスはこう思わずにはいられないのだ。
(嗚呼、可哀想に。)
と。
何故ならば、涼は本当の意味で忌まわしい人間達から解放されたわけではないのだから。
「私が……」
「?……アルさん?」
不思議そうに首を傾げる涼。
警戒心など微塵もなく全幅の信頼を露わにするかのような危ういまでの無防備さは、まるで無垢な子犬のように愛らしい。
アルギュロスは再び思う。
(可哀想に。)
足が血塗れになろうが矢傷を受けようが、文字通り決死の覚悟で生き延びた先でも尚、彼には傲慢な人間達によって与えられた無知と言う名の枷が呪いのように付きまとっている。
街の子供さえ知っているような一般常識すら与えられなかったせいで、彼はこうして人類が最も忌み嫌い警戒すべき生き物を前に無防備を晒しているのだ。
これが哀れでなくて何だと言うのか。
「私が本当に優しかったなら……」
アルギュロスが本当に優しい生き物であったなら、彼は渡り図書の物語をはぐらかすことはしなかったろう。
己の全てを明かした上で、涼を本当の意味で開放し自由にしてやったのだろう。
しかし彼はこれ以上ないほど、自覚していた。
涼の無知を誰より利用しているのが、自分自身であるという事を。
「………いや。」
アルギュロスは頭を振って先の思考を強引に頭の隅に追いやった。
己の中に芽生え、急速に成長しつつある昏く粘着いた感情に気付かないフリをしたのだ。
そうする度にジワリと大きさを増す罪悪感の陰を自覚しながら。
そうして何事もなかったかのように口を開く。
「私の事よりも、君の体について詳しく説明しておこう。」
「おれ?」
「そうだ。知っていて然るべきことだろう。」
「ん、わかった。」
明らかな話題のすり替えにも嫌な顔一つせず居住まいを正して聞く姿勢を取る涼の従順さにチクリと胸を痛めながらも、そんな感情はおくびにも出さずアルギュロスも畏まって言葉を続けた。
「最前、私は君に、君の魔核が損なわれる事はあり得ないと言ったな。」
「はい。」
「その言葉に決して嘘偽りはないが、しかし、悪いがその明確な理由を保障することはできない。」
「???」
安心させておきながら再び不安を煽るような事を宣うアルギュロスに、涼は困惑したように眉を八の字に垂らして首を傾げる。
「おれ、なにか、へん?」
不安そうに尋ねるその姿は、髪や瞳の色を除いては普通の人間そのもの。
しかしこの場所においてはその普通に振る舞う姿こそが異質なのだ。
瞳に意識を集中させると、夕暮れの日差しによって茜色に照らされた室内がガラリとその様相を変え、瞬く間に一寸先も見えぬ程のどす黒い闇に閉ざされる。
その闇こそが、この世界を覆う魔素の姿だ。
通常の生物の生息区域では薄紫の淡い霧のようにしか見えないが、今まさにアルギュロスの目に映っているのは、普通の人間ならば一歩……否、爪先を踏み入れただけでも忽ちに死んでしまう程の濃度の魔素なのだ。
そんな場所で何事もない顔をして生活できているだけでも大いに異質であると言わざるを得ないが、しかし、それ以上におかしいのは。
「アルさん?だいじょうぶ?」
黒い絵の具に塗りつぶされたような闇の世界の中、突然黙り込んだアルギュロスを心配そうに覗き込む涼の姿だけは、色鮮やかに映っている。
華奢で、小柄で、頼りない彼だけが、ポツリと取り残されたように。
何度視ても目を疑いたくなるような光景に一つ溜息を零して瞬きをすると、涼の背後に蠢く闇は瞬く間に立ち消え、元の茜色がアルギュロスの視界を眩ませた。
チカチカと眩む世界の中で、涼だけは相も変わらず心配そうな面持ちでそこに居る。
「やはり、何度視ても不思議なものだ。」
「ふしぎ??」
「あぁ、こんな人間を視たのは私も生れて初めての事で……何と言って説明したものか。」
暫しの思考の後、結局は小難しい理論を並べ立てるより自身の見たありのままを述べようと言う考えに至ったアルギュロスは、それでも言葉を探しながらゆっくりと述べた。
「魔素が、リョーを避けている……ように見える。」
「さける……」
神妙な顔で聞き入っているリョーに、アルギュロスは続ける。
「魔素は、見た目としては霧や煙に近い。」
「はい。」
「人や物が霧や煙に巻かれた時、普通はどう見える?」
「まっしろ、みえない。」
「そうだ、見えなくなる。それは魔素も同じだ。そのはずだが……リョーだけは、見える。」
「ええ???」
「まるで真っ黒なカンバスに切り取った絵を強引に張り付けたような……」
抽象的な説明のようにも思えるが、アルギュロスの見た光景は正に彼の述べた言葉の通りであった。
魔素を当たり前として受け入れ包み込まれているこの世界から、涼ただ一人だけが浮いている。
そんな不自然な光景だったのだ。
しかしそれを知る由もない涼は更に首を傾げて困惑するしかない。
「……つまり、君は魔素を摂取するどころか、まるでガラス一枚隔てているように触れてさえいないように見える。故に、魔素が君の体を害することは必然的に不可能という事になる。」
「………な、なるほど。」
訳知り顔で何度も頷いて見せる涼。
しかしその視線は右へ左へと大忙しだ。
アルギュロス自身でさえあまりよく理解できていない事象を、つい先ほど魔素について軽く学んだばかりの涼に理解できるはずもないのだ。
しかしそうして困惑していたのも僅かな間の事で、あちこちを彷徨っていた涼の視線がピタリとアルギュロスの瞳を捕えた。
「ぜんぶ、は、わからない。」
吸い込まれそうな程に深く澄んだ瞳が、ふわりと弧を描く。
「でも、アルさん、だいじょうぶ、いった。から、しんぱい、もうない。」
もはや盲目的とすら言えるほどの無条件の信頼に、アルギュロスは雛鳥の生態を思い出していた。
雛鳥が産まれて初めて目にした者を親と考えるように、この哀れな青年も、もしかしたら。
「……今日は、ここまでにしておこう。」
「べんきょう、もう、おわり?」
「あぁ、今日はたくさん本を読んで疲れたろう。」
「ぜんぜん!ほん、よむ、たのしい。」
そう言ってニコニコと無邪気に笑う涼に、アルギュロスは無意識の内に手を伸ばして彼の黒髪を自身でも驚くほど優しく撫でていた。
涼は抵抗することもなく、それどころか心地よさそうに瞳を細め、アルギュロスの手を受け入れている。
その姿に心臓がギュウウと音を立てて伸縮した。
初めて涼の笑顔を向けられたあの日と似た、アルギュロス本人でさえ理解不能な激しい感情が込み上げる。
しかしあの日と明確に違うのは、この感情が決して綺麗なものではないと言う自覚が彼にあることだ。
綺麗どころか、今なお腹の底でのた打つその情動は呆れるほど醜く歪んだものだった。
目前の無垢な笑顔を悲哀や絶望や快楽でぐちゃぐちゃに歪ませてやりたいような、それでいて誰の目にも届かない場所へ大事に大事に仕舞いこんで、何者からも守ってやりたいような。
そんな濁った情動を、必死に堪える。
「………それは、良かった。」
やっとの思いで返した言葉は、普段通りの口調を装えていだたろうか。
興味本位で拾っただけの、魔法も魔術も使えず一般常識さえロクに知らないちっぽけな人間にこんなにも心かき乱される事になるとは、ほんの3週間前のアルギュロスには想像もつかなかったことだ。
たった3週間でこの有様なのだ。
涼と言う人間との不思議な共同生活を続けた先で、自身は一体どんな変化を迎えるのだろうか。
どか空恐ろしい気持ちで未来に思いを馳せるアルギュロスは、未だ気付いていなかった。
この先もずっと、涼は自身と共に生きて行くのだと言う思考にも。
そして涼は決して自身の元から去る事はないだろうという、妄信にも。
未だ、気付いていなかったのだ。
柔らかく微笑んでそんな事を宣う涼に、アルギュロスは一瞬心臓を鷲掴まれたような衝撃を覚えた。
「……やさしい。」
告げられた言葉を鸚鵡のように反芻してようやくその意味を飲み込むと、鼓動がドキリと高鳴り、頬に熱がこもった。
優しいなどと。
そんな風にアルギュロスを評した人間など涼を除いてはたった一人しか居なかったし、そのたった一人の人物も、今となっては最早顔を思い浮かべることすらできない程遠い遠い過去の人物だ。
彼女を亡くした時、アルギュロスは己を優しいなどと評してくれる人間はこの先2度と現れることはないと考えていたし、また、現れなくとも良いと考えていた。
何百年間も、ずっと。
それが今になって。
「私にそんな事を言うのはリョーくらいのものだ。」
「そう?アルさん、ずっと、いつも、いっぱい、やさしい。」
彼の言葉の中にほんの僅かにも媚びの色があったなら、アルギュロスはかつての思い出を汚されたように感じて不快を露わにしたことだろう。
しかしニコニコと何の衒いもなく告げられた言葉に、嘘はない。
それ故に不快感を覚えるどころか、懐かしいような面映いような名状しがたいむず痒さにただ顔を反らして「揶揄うのはやめなさい。」と不貞腐れたように呟くことしかできなかった。
逸らした視界の外からクスクスと控えめながらもどこか悪戯っぽい笑い声が聞こえて来る。
コッソリと横目に伺い見ると、涼は美しい黒曜の瞳をとろりと和らげて心底楽しそうに微笑んでいた。
「………っ。」
己に向けられたその柔らかな眼差しにようやく落ち着きかけていた鼓動が再び飛び跳るのを自覚したアルギュロスは、苦虫を嚙み潰したような心地で涼を視界から外した。
涼の事は概ね好ましく思っているが、彼が時折見せるこの視線だけは、どうにも苦手だった。
決して不快なわけではない。
信頼や親愛、感謝や尊敬と言ったありとあらゆる好意と呼ばれる感情をかき集めて凝縮したようなその眼差しを、どうして不快に思うことが出来るだろう。
ただ、涼のその一切の悪意なき眼差しに、激しい罪悪感を抱くのだ。
その罪悪感とはどこから生じる感情なのか。
それは涼が普通の人間とは異なる、と言う事が主な要因と言えよう。
見識の広いアルギュロスですら知らない言語を操り、なぜか女性貴族に近しい礼儀作法を弁え、宮廷のパティシエールにも引けを取らない程の菓子作りの腕を持つのに対し、共通語たるイズィーク語はたった一言すら話せも書けもせず、街の子供さえ知っているような一般常識も持たず、魔法や魔術の存在も知らない。
そんな歪で極端な知識の偏りは、きっと奴隷であった頃に偏執的な人間たちによって躾けられた物に違いないとアルギュロスは考えていた。
外の世界で生きるために必要な知識を何一つ与えられることなく、他人の都合のいいように育てられた彼は、それでもそんな境遇から独力で逃げおおせて見せる程の胆力と勇気を持っていた。
その事を思えばこそ、アルギュロスはこう思わずにはいられないのだ。
(嗚呼、可哀想に。)
と。
何故ならば、涼は本当の意味で忌まわしい人間達から解放されたわけではないのだから。
「私が……」
「?……アルさん?」
不思議そうに首を傾げる涼。
警戒心など微塵もなく全幅の信頼を露わにするかのような危ういまでの無防備さは、まるで無垢な子犬のように愛らしい。
アルギュロスは再び思う。
(可哀想に。)
足が血塗れになろうが矢傷を受けようが、文字通り決死の覚悟で生き延びた先でも尚、彼には傲慢な人間達によって与えられた無知と言う名の枷が呪いのように付きまとっている。
街の子供さえ知っているような一般常識すら与えられなかったせいで、彼はこうして人類が最も忌み嫌い警戒すべき生き物を前に無防備を晒しているのだ。
これが哀れでなくて何だと言うのか。
「私が本当に優しかったなら……」
アルギュロスが本当に優しい生き物であったなら、彼は渡り図書の物語をはぐらかすことはしなかったろう。
己の全てを明かした上で、涼を本当の意味で開放し自由にしてやったのだろう。
しかし彼はこれ以上ないほど、自覚していた。
涼の無知を誰より利用しているのが、自分自身であるという事を。
「………いや。」
アルギュロスは頭を振って先の思考を強引に頭の隅に追いやった。
己の中に芽生え、急速に成長しつつある昏く粘着いた感情に気付かないフリをしたのだ。
そうする度にジワリと大きさを増す罪悪感の陰を自覚しながら。
そうして何事もなかったかのように口を開く。
「私の事よりも、君の体について詳しく説明しておこう。」
「おれ?」
「そうだ。知っていて然るべきことだろう。」
「ん、わかった。」
明らかな話題のすり替えにも嫌な顔一つせず居住まいを正して聞く姿勢を取る涼の従順さにチクリと胸を痛めながらも、そんな感情はおくびにも出さずアルギュロスも畏まって言葉を続けた。
「最前、私は君に、君の魔核が損なわれる事はあり得ないと言ったな。」
「はい。」
「その言葉に決して嘘偽りはないが、しかし、悪いがその明確な理由を保障することはできない。」
「???」
安心させておきながら再び不安を煽るような事を宣うアルギュロスに、涼は困惑したように眉を八の字に垂らして首を傾げる。
「おれ、なにか、へん?」
不安そうに尋ねるその姿は、髪や瞳の色を除いては普通の人間そのもの。
しかしこの場所においてはその普通に振る舞う姿こそが異質なのだ。
瞳に意識を集中させると、夕暮れの日差しによって茜色に照らされた室内がガラリとその様相を変え、瞬く間に一寸先も見えぬ程のどす黒い闇に閉ざされる。
その闇こそが、この世界を覆う魔素の姿だ。
通常の生物の生息区域では薄紫の淡い霧のようにしか見えないが、今まさにアルギュロスの目に映っているのは、普通の人間ならば一歩……否、爪先を踏み入れただけでも忽ちに死んでしまう程の濃度の魔素なのだ。
そんな場所で何事もない顔をして生活できているだけでも大いに異質であると言わざるを得ないが、しかし、それ以上におかしいのは。
「アルさん?だいじょうぶ?」
黒い絵の具に塗りつぶされたような闇の世界の中、突然黙り込んだアルギュロスを心配そうに覗き込む涼の姿だけは、色鮮やかに映っている。
華奢で、小柄で、頼りない彼だけが、ポツリと取り残されたように。
何度視ても目を疑いたくなるような光景に一つ溜息を零して瞬きをすると、涼の背後に蠢く闇は瞬く間に立ち消え、元の茜色がアルギュロスの視界を眩ませた。
チカチカと眩む世界の中で、涼だけは相も変わらず心配そうな面持ちでそこに居る。
「やはり、何度視ても不思議なものだ。」
「ふしぎ??」
「あぁ、こんな人間を視たのは私も生れて初めての事で……何と言って説明したものか。」
暫しの思考の後、結局は小難しい理論を並べ立てるより自身の見たありのままを述べようと言う考えに至ったアルギュロスは、それでも言葉を探しながらゆっくりと述べた。
「魔素が、リョーを避けている……ように見える。」
「さける……」
神妙な顔で聞き入っているリョーに、アルギュロスは続ける。
「魔素は、見た目としては霧や煙に近い。」
「はい。」
「人や物が霧や煙に巻かれた時、普通はどう見える?」
「まっしろ、みえない。」
「そうだ、見えなくなる。それは魔素も同じだ。そのはずだが……リョーだけは、見える。」
「ええ???」
「まるで真っ黒なカンバスに切り取った絵を強引に張り付けたような……」
抽象的な説明のようにも思えるが、アルギュロスの見た光景は正に彼の述べた言葉の通りであった。
魔素を当たり前として受け入れ包み込まれているこの世界から、涼ただ一人だけが浮いている。
そんな不自然な光景だったのだ。
しかしそれを知る由もない涼は更に首を傾げて困惑するしかない。
「……つまり、君は魔素を摂取するどころか、まるでガラス一枚隔てているように触れてさえいないように見える。故に、魔素が君の体を害することは必然的に不可能という事になる。」
「………な、なるほど。」
訳知り顔で何度も頷いて見せる涼。
しかしその視線は右へ左へと大忙しだ。
アルギュロス自身でさえあまりよく理解できていない事象を、つい先ほど魔素について軽く学んだばかりの涼に理解できるはずもないのだ。
しかしそうして困惑していたのも僅かな間の事で、あちこちを彷徨っていた涼の視線がピタリとアルギュロスの瞳を捕えた。
「ぜんぶ、は、わからない。」
吸い込まれそうな程に深く澄んだ瞳が、ふわりと弧を描く。
「でも、アルさん、だいじょうぶ、いった。から、しんぱい、もうない。」
もはや盲目的とすら言えるほどの無条件の信頼に、アルギュロスは雛鳥の生態を思い出していた。
雛鳥が産まれて初めて目にした者を親と考えるように、この哀れな青年も、もしかしたら。
「……今日は、ここまでにしておこう。」
「べんきょう、もう、おわり?」
「あぁ、今日はたくさん本を読んで疲れたろう。」
「ぜんぜん!ほん、よむ、たのしい。」
そう言ってニコニコと無邪気に笑う涼に、アルギュロスは無意識の内に手を伸ばして彼の黒髪を自身でも驚くほど優しく撫でていた。
涼は抵抗することもなく、それどころか心地よさそうに瞳を細め、アルギュロスの手を受け入れている。
その姿に心臓がギュウウと音を立てて伸縮した。
初めて涼の笑顔を向けられたあの日と似た、アルギュロス本人でさえ理解不能な激しい感情が込み上げる。
しかしあの日と明確に違うのは、この感情が決して綺麗なものではないと言う自覚が彼にあることだ。
綺麗どころか、今なお腹の底でのた打つその情動は呆れるほど醜く歪んだものだった。
目前の無垢な笑顔を悲哀や絶望や快楽でぐちゃぐちゃに歪ませてやりたいような、それでいて誰の目にも届かない場所へ大事に大事に仕舞いこんで、何者からも守ってやりたいような。
そんな濁った情動を、必死に堪える。
「………それは、良かった。」
やっとの思いで返した言葉は、普段通りの口調を装えていだたろうか。
興味本位で拾っただけの、魔法も魔術も使えず一般常識さえロクに知らないちっぽけな人間にこんなにも心かき乱される事になるとは、ほんの3週間前のアルギュロスには想像もつかなかったことだ。
たった3週間でこの有様なのだ。
涼と言う人間との不思議な共同生活を続けた先で、自身は一体どんな変化を迎えるのだろうか。
どか空恐ろしい気持ちで未来に思いを馳せるアルギュロスは、未だ気付いていなかった。
この先もずっと、涼は自身と共に生きて行くのだと言う思考にも。
そして涼は決して自身の元から去る事はないだろうという、妄信にも。
未だ、気付いていなかったのだ。
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