とある男のプロローグ

サイ

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第一章

六話

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「いい天気だなー。」

窓の外に広がる爽やかな青空を眺めながら、現実逃避の言葉を呟く。
そう。
これは現実逃避だ。
ゆっくりと流れゆく雲を遠い目をして追いつつ、俺は今目の前で起こっている出来事を視界に入れないよう努めながら小さく息を吐いた。
つい先ほど、天使さんに泣き縋って感謝の言葉を述べた後は大変だった。
なぜか唐突に天使さんにぎゅうぎゅうに抱き締められて背骨が折れるかと思ったら、その直後激しい胃痛に襲われたのだ。
あの痛みは金がなくて1週間絶食した後にやっと手に入れたパンを食べた時の痛みと同じだった。
酷い怪我だったし、もしかしたら数日間意識がなかったのかもしれない。
痛みで朦朧とする意識の片隅でそんな事を考えていると、最悪なことに胃痛のみならず急激な吐き気が込み上げ、堪える間もなく高級そうな毛布に先程食べた絶品料理を全てぶちまけてしまった。
それだけでも死にたいくらい申し訳ないというのに、天使さんは怒ることなく俺の口元を拭い、あまつさえ俺の吐瀉物を片付け始める始末。
やめさせようとしても全く聞き入れてもらえず、それどころか俺が邪魔だったのかソファに運ばれて遠ざけられて今に至る。
天使みたいに美しい人が俺の吐瀉物を片付ける様を遠くから眺めなければならないその時間は、現実逃避を始めてしまう程の拷問だった。
程なくして、汚れた毛布や残してしまった料理(勿体ない……)を全て片付け終えた天使さんが部屋に戻ってきた。

「本当に、すみませんでした……」

肩を落として謝罪を述べると、気にするなとでも言うようにポンポンと頭を撫でてくれる天使さん。
ただでさえ今すぐにでもこの場から消え去りたい気分だったと言うのに、気を使わせてしまったことで更に居たたまれなくなる。
できることなら今すぐにでも穴を掘って埋まってしまいたいくらいだ。
どんより落ち込む俺に何を思ったのか、おもむろに床に膝をついた天使さんがソッと顔を覗き込んできた。
そしてゆっくりと伸ばされた両手が頬を包み込んだかと思うと、すべらかな指先が俺の口角をクッと持ち上げた。
予想外すぎる行動で驚いてしまったが、それでも天使さんの言わんとしていることはすぐに察することができた。

「……はは。」

全く、呆れ果てるほどのお人よしだ。
両頬を包む天使さんの手に自身のそれを重ねて笑みを零すと、彼もほんの少し口角を上げて、見逃してしまいそうなほど微かに微笑んだ。
その儚い微笑があまりにも美しくて、優しくて……

「はっ!」

いかんいかん、気を緩めるとつい天使さんの顔を見つめるのが癖になりつつある気がする。
失礼だし改めなければ。
なんて自分を律している間に両頬の温もりが離れて行き、いつの間にかすっかり通常の無表情に戻っていた天使さんが不意に口を開いた。

「*************」

くどいようだが、俺にはこの国の言葉は分からない。
伝わりやすいようにと言う配慮からかゆっくりと語りかけてくれているが、残念ながら辛うじて何か質問されているのが分かるくらいで、それ以外は不明である。
眉尻を下げて首を横に振ると、暫しの沈黙の後、天使さんがもう一度口を開いた。

「******・***・***・*****」

今度は質問ではないようだ。
不思議に思って首を傾げると、天使さんは自身の胸に手を添えて繰り返した。

「アルギュロス・マルク・フォン・ケラヴノス」

呪文か?
首を傾げながら、告げられた言葉を復唱してみる。

「あるろす…ま、まる…けびん???」

発音が難しすぎる!
何となく恥ずかしくなって顔を真っ赤にしている俺に呆れることもなく、天使さんは根気強く「ア、ル、ギュ、ロ、ス」とゆっくり句切って発音を教えてくれる。
それに習って「あ、る、ぎゅ、ろ、す」と句切って復唱してみると、彼は満足げに頷いて今度は普通の速度で言った。

「アルギュロス」
「あるぎゅろしゅ」

噛んだ!
やはりこの言語の発音、初心者の俺には難しい。
何度かチャレンジしてみるが、「ありゅぎゅろす」とか「あるぎりょしゅ」とか酷い発音をするばかりで成功の兆しは見えない。
たった一つの言葉すらまともに話せないとは、本当に申し訳ないし情けない限りだ。
それでもめげずにモゴモゴと呪文のように単語を繰り返し呟き続けていると、不意に天使さんが何かを思い付いたように人差し指を立てて短く言った。

「アル。」
「ある?」
「!」
「うわ、わ!」

どうやら正しく発音できたようで、わしゃわしゃと頭を撫でられて何だか面はゆい。
照れ笑いを浮かべてもう一度「ある」と言ってみると、天使さんは頷いて自分自身を指差した。

もしかして、これは天使さんの名前ってことか?

「アル?」

呼びかけてみると、彼は何度も頷いてまた俺の頭をもみくちゃにした。
どうやら彼の名前という事で間違いないらしい。
ならば、最初の質問は恐らく俺の名前を尋ねていたのではないだろうか。
そうアタリを付て、今度は自分の胸に手を当てて自身の名をゆっくりと紡いだ。

「五十嵐 涼」

すると、今度は天使さん……改めてアルさんが復唱して俺の名と思しき言葉を発したが、どうやら彼にとっても日本語の発音は難しいようで、「イガーシロ」と謎の外国人の名前になってしまっていた。
それがちょっと可笑しくてクスクス笑いながら、今度は下の名前だけをゆっくり伝える。

「りょう」
「リョー?」
「そうです!りょう!」
「リョー」

ぶんぶん頷いて見せると、アルさんはどことなく嬉しそうな雰囲気でもう一度「リョー」と呟いた。
簡単な名前を付けてくれたことだけは親に感謝しておこう。

「アルさん。」
「リョー。」
「ふふ、アルさん!」
「リョー。」

まるで付き合いたてのバカップルよろしく互いの名前を呼びあう天使みたいな男と平凡な男。
傍から見たらどれほどシュールな光景だろう。
普段なら恥ずかしくてすぐに止めただろうが、不思議とアルさんに名前を呼ばれるのが嬉しくて止められない。
ついさっきまであんなにも落ち込んでいたことが嘘のようにすっかり上機嫌になっている俺はきっと単純なんだろう。
もし俺が犬だったなら今頃千切れんばかりに尻尾を振っていたに違いない。
なんて馬鹿なことを考えていたら、不意に良いことを思いついた。
日本に帰ったら、この国の言葉を勉強してアルさんに手紙を書こう。
そして会社を辞めてもっとちゃんとした職に就いて、生活が安定したらお礼をしにまたこの国に来よう。
いきなり拉致されたり弓で射られたりと散々な目に遭っているが、アルさんがいるなら嫌な記憶なんて関係ない。
帰国したらしばらくは忙しくなるだろうが、この目標のためならそれすら嬉しい事のように思えて、俺は満面の笑みを浮かべて再び彼の名を呼んだ。


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