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シーズン1

第二十六話

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 凡子は、契約書への署名を終えた。
 蓮水が「婚姻届を取ってくる」と、席を立った。
 凡子は、本当に結婚してしまって大丈夫だろうかと、心配になってきた。
 蓮水が、思う存分執筆をできる環境を作るための契約婚だとしても、両親に相談なしに決めてしまった。
 蓮水と違い、凡子は、進学先も就職先も自由に選んできた。結婚にも、とくに口出しされない気がしていた。しかも、相手は蓮水だ。凡子には分不相応な経歴の持ち主なのだ。事前に紹介したとしても反対されるはずがない。
 あとで、報告をすれば問題ないだろう。
 蓮水が戻ってきた。
 凡子の前に婚姻届を広げた。蓮水の記入欄はすべて埋まっている。そして、証人欄にもすでに記入されていた。凡子の知らない人だ。
「証人も用意されていたんですね……」
「結婚したい相手ができたら使うと言って、知人に書いてもらった」
 知人達もまさか、契約婚に使われるとは思っていないだろう。
「一人目は泉堂に頼んだんだが、断られた」
「断られたんですか。意外ですね。ノリでしてくれそうなのに」
「俺もそう思ってたんだが」
 凡子がもし、瑠璃や優香に婚姻の証人を頼まれたら、喜んで記入する。
「とにかく、記入してくれ」
 蓮水に促され、凡子はペンを持った。
――妻になる人って……。
 契約婚でも、緊張していた。まずは漢字で氏名を書き込んだ。ふりがなの欄に、『あさか なみこ』と書き込んだところで、蓮水が「名前は、なみこと読むのか……」と、言った。
 凡子は顔をあげ、「そうです、アカウント名は漢字を変えてますが、実は、本名も『なみこ』なんです」
「漢字は、知っていたんだが……よく考えれば、『ぼんこ』のわけはないよな」


「子供の頃からよく間違えられましたし、学生時代からの友達には『ぼんこ』とか『ぼんちゃん』と呼ばれてます」
 蓮水が「印象に残る名前ではある」と言ったあと、続きを書くようにと催促してきた。
 凡子は、間違えないよう慎重に記入していく。ようやく、書き上げた。
「俺の姓にあわせてもらってもかまわないかな?」
 結婚すると名字が変わることを忘れていた。
「名字にこだわりはありませんが、同僚には蓮水さんとの婚姻を、知られたくありません」
「うちは、系列もすべて、ビジネスネームを使えるから問題ないはずだ」
 凡子は、安心した。
 蓮水は、「本籍地はここにするよ」と言いながら、残りを記入し、『夫の氏』の前にレ点をうった。
 蓮水が婚姻届を最終確認し、折りたたんだ。それから立ち上がり「出してくるから、適当に待っておいてくれ」と言った。
「もう、出すんですか⁉︎」
 真夜中だろうが正月だろうが提出できることは知っていた。しかし、まさか記入してすぐに出すとは思わなかった。
「気が変わられては困るからな」
 蓮水はさっさと用意をして「区役所は徒歩圏内だ。戻ってくるまでに三十分かからない」と言い残して出て行った。
  
 凡子は一人、蓮水の家に取り残され落ち着かなかった。サポートだけだとしても住み込みと言われたのだから、当然、同居することになるだろう。
 凡子が全力でサポートをすれば、定期更新に戻るかもしれない。作者と一緒に暮らしながら、更新と同時に拝読する儀式は、続けられるかわからない。少なくとも、奇声を発することはできなくなる。
「個室はいただけるんだろうか……納戸でも良いんだけど」
 蓮水からは適当に待つように言われたが、何もできることはなく、ただ、置物のようにして、ソファに座っていた。
 水樹恋の執筆サポートと考えれば良いことずくめだが、蓮水との同居生活と考えれば、不安要素しかなかった。
 蓮水は、区役所が徒歩圏内にあると言っていた。凡子は気になり、スマートフォンを取り出して、区役所の位置を調べた。現在地から、徒歩で十分かからない場所にある。
 蓮水が部屋を出て、五分経った気がする。もうすぐ到着して、蓮水は、婚姻届を提出する。
「やっぱり、やめた方が……今から、電話をかければ……」
 凡子は蓮水の電話番号を知らないことに気づいた。泉堂なら、当然、蓮水の連絡先を知っているはずだ。それでも、なぜ、蓮水の電話番号を知る必要があるのかを問われたら、答えようがない。
 今から走って追いかけたとしても、間に合わないだろう。
 契約婚だから問題ないと思ったけれど、実際、入籍をすれば、『浅香 凡子』から『蓮水 凡子』になるのだ。
 凡子は、画面に表示されている地図上の、赤いピンを凝視していた。そろそろ到着していそうだ。
 凡子は、緊張で、息苦しくなっていた。
 深く息を吸い込んだとき、手の中のスマートフォンが震えた。一瞬、蓮水からかと思ったが、凡子も番号を教えていない。画面を見ると、泉堂からだった。

 凡子は電話に出るか迷っていた。蓮水はあと、二十分もすれば戻ってくるが、手短に済ませば問題ない気もする。
 わざわざ電話をかけてくるのだから、急ぎの用事かもしれない。でなければ、メッセージを送ってくるだけで、十分だ。凡子は受話器のマークをスワイプした。
〈突然ごめん、今、大丈夫?〉
 泉堂のいつも通りの軽い口調に、凡子はホッとした。蓮水を相手に、ずっと緊張していたからだろう。
「少しだけなら」
〈今日、上手くいったかどうか、気になって。僕が選んだ服を着て行ったんだよね?〉
 凡子は答えに困った。今の状態を、上手くいったと言えるかがわからなかった。
「まだ、終わっていないので……」
〈えっ? 通話して問題ないの?〉
 凡子は、相手が席を外していると説明した。
「戻ってこられるまでは話せますよ」
 蓮水の家で一人ただ待ち続けるより、泉堂とやり取りをしている方が気が楽だった。
〈で、実際憧れの人に会ってみて、どうだったの?〉
 泉堂に答えづらい質問をされ、まったく、気楽ではないことに気づいた。
「まあ、意外な感じの方でした……」
〈へえ、どんな風に?〉
「言葉にするのは難しいです」
 蓮水が泉堂に、凡子との契約婚について話すつもりでいるのかもわからない。どちらにしても、凡子が先に話す内容ではない。
〈浅香さんの憧れの人が、どんな人なのか気になってさ。面白い人なんじゃないかなと思って〉
 凡子は心の中で「蓮水さんは、面白くはないかも」と、思った。
「素敵な方ではありますが……」
 ここで具体的な話をしてしまうと、相手が蓮水だとわかった時に面倒なことになってしまうと、凡子は言葉を濁した。
〈もう、戻ってくるかもね。今日の夜は予定あるの?〉
 このあと、蓮水がどうするつもりでいるのか、まったくわからない。
「今夜は、まだ何もわからないです」
 泉堂が〈そっか、残念〉と言った。
〈明日のお昼休憩は何時から?〉
 凡子は休憩のサイクルを思い浮かべて「十二時からの番です」と答えた。
〈じゃあ、僕もその時間に出るようにするから、一緒にランチを食べよう〉
 蓮水も一緒に来るのだろうか。泉堂の前で、蓮水にどう接すればいいかわからない。
 答えに迷っていると、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。
「あっ、戻ってこられました」
 少し声を落として泉堂に伝える。
〈そっか、じゃあ、明日、十二時過ぎに、地下の事務所前ね〉
「待ってください」と、言ったときには、泉堂が通話を終わらせていた。
 蓮水は、リビングに入ってくるなり「誰かと話していたのか?」と、訊いてきた。ここで隠しても、明日、泉堂が話すかもしれないと思い、凡子は「泉堂さんから着信があったので」と、返した。
「泉堂が?」
「昨日、服を選んでいただいたので、上手くいったか、気になったみたいです」
「WEB小説家と会うと言ったのか?」
「いえ、ずっと憧れていた大切な人の相談にのると、言いました……」
 凡子は、自分が口にした言葉に恥ずかしさをおぼえ、俯いた。
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