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後編

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 デザインこそ少しばかり古いものの、ごく普通の洋館でありました。
 ですが、そこを源泉とした、暗く冷たく重苦しい何かが外へと溢れ出していたのです。
 その何かは、この付近一帯の雰囲気をもさらなる陰鬱なものに変えていました。

 幽霊屋敷や牢獄というよりも、鳥籠と例えた方がしっくりくるかもしれません。
 誰かがここに囚われている。
 ここから逃げ出したい、と願っている。
 でも、逃げ出したところで、いったいどこに行けるというんだい?
 自由に飛び立つための翼など、もうとっくの昔に失くしちまったよ。
 ……とでも言わんばかりの雰囲気に満ちたここは、まるで大きな鳥籠でありました。

 ロッテは恐る恐る玄関の扉に手を伸ばします。

 ……あれ?
 予想に反し、扉には鍵がかかっていませんでした。
 ということは、囚われの者がこの鳥籠から逃げ出そうと思えば逃げ出せるでしょう。
 足を鎖で繋がれでもしていない限りは。

 扉は軽い音を立てて開きました。
 悲鳴や助けを求める声が聞こえてくるわけでもなく、館の中はシーンと静まり返っています。

 ゴクリと唾を飲み込み、中へと踏み込もうとしたロッテでしたが、突如、後方から聞こえてきた「キェェーッ!!!」という鳥が締めあげられたかのような奇声に飛び上がってしまいました。

 鳥が締めあげられたかのような、とお伝えしていまいましたが、奇声の主は事実、鳥でした。
 ですが、人間にも様々な者がいるように、一言で鳥と言っても様々です。
 そう、童話「親指姫」に登場し、王子様と永遠なる幸せが待つ花の国へと親指姫を運んでくれる紳士的なツバメであるはずなどなく、ロッテの前に現れたのは猛禽類ならではの鋭い爪と嘴を保有していた、野性的にも程がある超大型のハゲワシでした。

 地面に大きな影を落とし、バッサバッサという羽音をさせながら、ハゲワシ爪と嘴に負けぬほどの鋭い目でロッテを見下ろしていました。
 ロッテは、これほど近くでハゲワシを見るのは初めてでした。

「早く帰んなよ、娘ご。お前は人殺しの家にいる」

 なんと、このハゲワシは人間の言葉を喋ったのです!
 ハゲワシには人間の話す言葉をリピートできる特性はついていなかったはずでしたが……まさに怪鳥、恐ろしいホラー鳥です。

 常識的にも生物的にもあり得ない事象の考察よりも、ロッテをとらえたのは”自分の勘はやっぱり間違っていなかった”という確信でした。

 やっぱり”あの人”は悪い人……それも人殺しだったんだ、と。
 悪い人の中にも犯罪内容に準じた暗黙の序列なるものがありますが、あのお婿さん・ゲルハルトは悪い人の中でもおそらく最上位に該当する殺人者であったのです。
 ハゲワシはなおも続けます。

「早く帰るんだ、娘ご。今、あいつらはこの中にいない。今ならまだ逃げられる」

 ”今ならまだ逃げられる”。
 理由は分かりませんが、死肉を食べるはずのハゲワシがロッテに忠告してくれているのです。
 これ以上、危険な場所に身を置くな、危険の奥にあろうことを知ろうとするな、早く家に帰れ、と。

 が、しかし……ドドドドドドドドド、と激しき渦のごとく恐怖で脈打つ胸を押さえながらも、ロッテは館の中へと足を踏み入れていきました。
 彼女のか細い両脚は震えていました。
 けれども、彼女の”衝動性を含んだ好奇心”は、恐怖すら凌駕して、いらん仕事をしようとしていました。

 それにハゲワシは先ほど「今、あいつらはこの中にいない。今ならまだ逃げられる」と忠告しました。
 ハゲワシが彼女に一番伝えたかったのは、その後半部であったはずでしょうに、ロッテの短慮な思考とそれに伴う行動は前半部の方にパッと飛びついてしまったのです。

 ”今、あいつらはこの中にいない”。
 ということは、中を見て回るのは今しかない。
 さらに言うなら、空腹や喉の渇き、身体の疲れにも耐えて、ここまで辿り着くことができたという”サンクコスト効果”も、愚かなるロッテの背中を後押ししたのかもしれません。

 なお、ロッテの愚かさうんぬんはさておき、ハゲワシは重大なヒントをも伝えてくれていたのです。
 人殺しは複数いる。
 ハゲワシは”あいつ”ではなく、”あいつら”と言ったのですから。
 たった一文字の違いでありましたが、気づく人は気づいたでしょう。
 
 ロッテは次々と順番に部屋を見て回りました。
 どこもかしこもがらんどう。
 人が生活を営むためのテーブルもベッドも何もありません。
 あるとしたら、埃と虫の死骸ぐらいでしょうか?
 不気味な静寂が漂っていました。

 その静寂を切り裂くように、外にいるハゲワシが激しく喚く声が聞こえてきました。

「お前はバカか!? 帰れと言っているのに、なぜ、中に入る?!」

「おバカな娘ご! 地下室にだけは絶対に行くなァァ!!」

 ロッテもおバカなのかもしれませんが、あのハゲワシもあまり賢くはないのかもしれません。
 「地下室にだけは絶対に行くなァァ!!」というのは、地下室にこそ絶対に見逃せない最大の目玉があるとロッテに教えているのと同義です。
 禁止されるとかえって、知りたい欲求が……見たい欲求が高まる。
 ロッテは、”カリギュラ効果”にまんまとハマってしまいました。


 地下室へと繋がる階段は、ほのかな黴の臭いを上書きするかのような強烈な酒の匂いが漂っていました。
 その二種類の匂いに入り交じり、何か別の臭いもするような気がしてきます。
 腐った肉のような臭いが……。

 しかし、ロッテが目にすることになったのは、童話「青髭」の花嫁が禁じられた扉を開けてしまったがゆえに目にすることになった光景(歴代の花嫁たちの無残な遺体)などではなく、一人の生者でした。
 雨ざらしの石のように年をとった白髪頭のおばあさんが地下室にいたのです。

 いえ……一瞬、おばあさんに見えたのですが、実際はそれほどの年はとっていないのかもしれません。
 哀れなほどに艶を失った白髪にまず目がいってしまいますが、背筋はしゃんと伸び、よくよく見れば肌にもそれほどの皺やシミも見当たりません。
 ロッテのお母さんとほぼ同年代でしょう。
 おばあさんではなく、おばさんと呼んだ方が良いかもしれません。
 そんなことよりも、このおばさんは右足首を長い鎖で繋がれていました。
 自由を奪われ、監禁されているのは明白でした。

「……あ、あんた、誰だい?! どうして、ここに?!」

 当たり前ですが、おばさんは非常に驚いていました。
 ロッテはここに来るまでの経緯と先ほどのハゲワシの忠告も含め、何もかもを馬鹿正直におばさんに答えました。
 
「あのねぇ……いくら人に聞かれたからって、全部正直に話すことはないんだよ。あんたバカかい? 私だって、外にいるハゲワシと同じことをツッコミたくなるさ。そもそも、この明らかに異常な状況を……足を鎖で繋がれている私の姿を見て、逃げ出さない方が不思議だ。まあ、”あいつら”にここに連れてこられた娘たちは皆、物言わぬ死体にされちまっているからね。”あいつら”は、旅の女や流しの娼婦といった足のつく可能性が低い女たちばかりを狙って強盗強姦殺人を繰り返している悪党どもだ。その悪党ども以外の人間と口を利くなんて、もう何年ぶりのことだか……」

 おばさんは数年にもわたって、この地下室に監禁されているのです。
 ロットが見た限り、おばさんは痩せてはいるものの、目立った生傷はないようでした。
 おばさんの右足首に繋がれた鎖も非常に長く、地下室の扉にこそ届きはしないでしょうが、ある程度は地下室内を歩き回れる長さでした。
 暴力や虐待の痕跡も外から見える箇所にはなく、会話は普通にできるため、精神に異常をきたしてもいないようです。
 ですが、それも時間の問題でしょう。
 一刻も早く、おばさんをここから救いださなければなりません。
 こんなことは人として許されない。
 何件もの強盗強姦殺人に加え、自分たちと同じ人間を監禁、自由を奪うなんて。
 ロッテは、目の前のおばさんが自分のお母さん、もしくはお父さんだったらと考えると涙が滲んできました。

「…………別にあんたが泣くこたあないよ。私自身はもう諦めているんだ。あんたが今、一番に考えなければならないのは、自分自身の今とこれからのことだ。あんたがここで見たことは、絶対に誰にも話しちゃダメだ。……”あんたは何も見ていないし、そもそもここに来なかった”……それが一番いい。あいつらには関わっちゃダメだ……あんたが余計なことをしようものなら、あんたは死神と婚礼をあげることになる。どちらとも結婚したくないって言うなら、何とか理由をうけて、婚約破棄にまで持ち込むんだ」

「こ、婚約破棄に持ち込むってどうやって? どうすれば良いの?」

 おばさんは呆れ顔をしました。

「それぐらいは自分で考えな。本気で結婚したくないと思ったら、方法はいくらでも思いつくだろう? 適当な男と懇ろになるとか、気が狂ったふりをするとかね。一生の苦しみよりも、一時の恥の方が遥かにマシだろう? 例えば、目の前でケタケタ笑って大小便を垂れ流しでもすれば、”あの子”だって結婚する気を失くすだろうよ」

 おばさんは、しまったという風に口をつぐみました。
 先ほど、おばさんはゲルハルトのことを”あの子”と言ってしまったのです。
 恐ろしい強盗団の首領である男を”あの子”と言える中年女性など相当に限られているというよりも、普通に考えて一人しかいません。
 しかし、当のロッテは全く気付いていませんでした。
 それどころか、涙に濡れた瞳をキラキラと輝かせています。

「おばさん……おばさんは自分が犠牲になり続ければいいと思っているのかもしれないけど、そんなのはいけないわ。私はここを出て、すぐに助けを呼んでくる。おばさんを助けてあげる。あいつらには正義の鉄槌が下り、おばさんは解放されて、自由になるのよ。救いの光とも言える、あたたかなお日様の下を歩けるのよ。………私が今日、ここに来たのもきっとおばさんと……”未来の被害者たち”を救うためだったんだわ。だから、待っていて。必ず帰ってくるから」

 ロッテの”衝動性を含んだ好奇心”はいまや”衝動性を含んだ救世主精神”へと変わっていました。
 おばさんは言葉を失っていました。
 その胸中は非常に複雑でありました。

 まったくおめでたい頭をした娘だね。
 馬鹿さと純粋さは紙一重どころの話じゃないよ。
 私が自由に? あたたかなお日様の下を歩ける?
 ンなわけないだろ。
 いくら鎖で繋がれていたとはいえ、私だってただで済むわけあるまいよ。
 私を……”主犯格の母親”を待ち受けているのは、絞首刑か、火炙りか。
 その二択の未来しかない。
 それに、あんたは世の中ってモンを知らないんだね。
 正義と規律による裁きだとか、神の救いの光すら届かぬ場所というのが存在するんだよ。
 あいつらの住処である”ここ”が、まさにそうなんだ。


 涙をぬぐったロッテが、助けを呼びに地下室を出ようとした時です。
 なんと、人殺したちが戻ってきたのです。
 ロッテの顔も、おばさんの顔も一瞬でサッと青ざめました。
 おばさんはロッテに、部屋の隅に幾つか置かれている樽の後ろに隠れるように言いました。
 「静かにしているんだよ。何があっても絶対に音を立てちゃダメだ。あいつらの”未来の被害者たち”の一人になりたくなければ、あんたは石にでもなったつもりでいるんだ」と。


 ガヤガヤと騒々しく地下室へと下りてきた悪党ども。
 奴らの声の中から、ロッテの耳は聞き覚えのある声を……ゲルハルトの声を拾い上げました。
 ゲルハルトは、他の強盗たちから「ボス」と呼ばれていました。

 テーブルの上にドサッと”何やら重いもの”が投げ出されたであろう音がロッテにも聞こえました。
 それが何であるのかなど、見なくとも分かります。
 生きた心地がしないとは、まさにこの状況でしょう。
 見つかってしまったなら最後、テーブルの上の女性と同じ状態になってしまうのですから。
 先ほどの救世主精神はどこへやら、ロッテの心には恐怖と後悔しかありませんでした。
 やっぱり、こんなところ来るんじゃなかった。
 助けて助けて、怖いよ怖いよ、お母さんに会いたい、お母さん、お母さん……!!


「ボス、とりあえず、酒盛りの前に今日の女の身ぐるみ剥いじゃっていいっスか? 身ぐるみっていっても、服はもう襤褸切れ状態なんで……女がしていた指輪をもらうつもりなんスけどね」

 声や喋り方もまた人を語るものでありますが、この手下の野太い声は如何にもガラが悪くて下品なものでありました。
 直接、顔を見なくとも、どういった風体なのかもだいたいの予想はつくタイプの声の主です。

「この指輪、相当な値打ちモンっスよね? あれ……でも、なかなか抜けねえっス。こいつの体自体はまだ温かいから、固い死肉になっちまうほどの時間は経ってねえってのに。よし、こうなったら……」

 ダンッ! ゴリゴリッ! ゴリゴリッ! と身の毛のよだつ音。
 イラついた手下は、哀れな犠牲者の遺体の指を切断し、お目当ての指輪を手に入れようとしているのです。
 さらには、指の切断自体もうまくいかなかったようです。
 もともと荒っぽくて力加減が出来ないタイプなのか、それとも焦るあまり力を入れすぎてしまったのか、切断された指は勢い余って、ポーンと放物線を描きながら飛んでいきました。

 指はいくつも並んだ樽を軽々と飛び越え、お約束のようにロッテの膝へと落下しました。
 ロッテのスカートに、じわりじわりと血の染みが広がっていきます。
 ”ひいいいいいいいいいい”と叫びそうになるのをロッテは自身の口に両手でふさぎ、必死に堪えました。
 まさに恐怖の絶頂です。

「お前、何にでも力入れすぎなんだよ。あー、まさか、あそこまで飛ばすとは」と別の手下の声。

「俺だって、指がバッタみてえに飛んでいくとは思わなかったんスよ。今、拾いに行くっス」と指飛ばし男の声。

「ちょっと、指は逃げていかないよ。後で私が探しとくから」とおばさんの声。

「そうだ、やらせとけ」とゲルハルトの声。

「へへ、すんません」という指飛ばし男の声。

 ふと生じた一瞬の間の後、ゲルハルトがおばさんに問うたのです。

「どうしたんだ? 何かあったのか?」

 こ、怖えぇ……!!
 なんという勘の良さでしょうか!?
 手下の誰一人として違和感を抱くことのなかった今のやり取りに、ゲルハルトだけがいつもとは違う何かを感じ取ったのです。

 さらに、そればかりか、ゲルハルト自らが指の飛んだ方向に……すなわちロッテが隠れている樽の方へと足を進め始めました。
 恐怖の絶頂、すなわち恐怖の頂点には先ほど達したと思われたのに、迫りくる桁違いの恐怖と絶望に……ロッテの心臓は今にも破裂しそうでした。
 
 しかし、不幸中の幸いであるのか、ゲルハルトよりもおばさんの方が、ロッテが隠れている樽までの距離が近かったのです。
 おばさんは足枷の音をジャラジャラとさせながらも、樽の隙間を器用に通り抜け、ロッテの膝に落ちた指をひょいと摘み上げました。
 その際、おばさんはさりげなく指に埃をつけることも忘れませんでした。
 瞬時に頭を回したのです。
 ”掃除が完全に行き届いていない樽の後ろに指が落ちたのなら”、多少の埃がついているはずですからね。

「……何もないよ。あるわけないだろ。ただ、あんたらがデカい図体でこの樽の隙間を無理やり通ろうとして、樽を倒されでもされたら、私の仕事が無駄に増えるだろ」

「そうか……それなら別にいいんだが」

 おばさんから指を受け取ったゲルハルトも、他の手下たちも一応は納得したようです。
 誰も樽の後ろを見に来ようとする者はいませんでした。
 
「ボスの勘の良さはハンパじゃないですからね」とまた別の手下の声。

「だよな。でも、そのボスの勘の良さに俺らはいつも助けられているだろ」とまたまた別の手下の声。

 倫理的に誤解を与える言い方かもしれませんが、ゲルハルトという男は味方にすれば、それも自分たちのリーダーとして一団を引っ張ってくれているという視点から見れば、非常に頼りになる男なのでしょう。
 ですが、裏を返せば、敵に回すと壮絶に恐ろしい男ということです。

 人殺したちの宴が始まりました。
 手下たちのけたたましい笑い声と下品な野次に、給仕をさせられているらしいおばさんの鎖がたてるジャラジャラという音が混じりあいます。

「今日の女はイマイチだったな。胸は小さいのに、腹はブヨブヨでよ」

「そもそも、結構年いってたろ。厚塗りの化粧で、誤魔化してはいたみてえだけど」

 被害者の身も心も無惨に弄んだ末に命までをも奪った手下どもの言葉には、尊厳など微塵もありませんでした。

「俺らが攫って犯る女たちってのは流れの娼婦が大半なわけで……年取って稼ぐのが厳しくなった女や容姿や頭にやや難ありな女が大多数で……」

「いつだったか、あまりにも暴れまくるから、口に酒を目一杯流し込んだら、ゲエゲエ吐きながら途中で死んじまった女もいたよな? おいおい、なんで勝手に死んでんだよって感じであれには興ざめだったぜ。ゲロ臭えしよ」

「ごく稀にそう悪くない女はいたけど、文句なしの美女ってのは皆無というか……しかも全員非処女だったし……足がつく可能性は増えても、やっぱり若くてピチピチの可愛い処女こそをじっくりと犯ってみたくはなるんだが……」

 若くてピチピチの可愛い処女なら、今まさに、この地下室の樽の後ろにて今にも狂いそうなほどに震え、お母さんへの助けを求め続けていました。

「あ、そういや、ボスは近いうちに結婚するんスよね?」

 先ほどの指飛ばし男の声です。

「ああ……社会的信用のために俺もそろそろ結婚しておいた方が良いと思ってな。結婚する相手はごく普通のいかにも善良な娘というよりも……少し頭が足りないような娘だがな。まあ、娘だけじゃなくて、父親の方も同じくといった感じで、揃いも揃って物事をあまり深く考えないから、あの父娘は御し易いだろう。母親の方はちょっと油断ならなさそうだが」

 ゲルハルトがフッと息を吐きました。

「あいつらが望むなら、望む通りに普通の夫を演じてやるさ。じきに普通の父親も演じることになるだろうよ。社会的信用との対価分の仕事ぐらいはしてやる。だが……俺のこの裏の顔がバレようものなら、可哀想だが全員に死んでもらうつもりだ……」

 ゲルハルトの本気を悟ったのか、先ほどまであれほど騒々しかった宴の席がシン、と静まり返りました。
 ボスがボスとして君臨できる所以は、頭脳や勘の良さだけでなく、圧倒的な畏怖もあるでしょう。
 人を人とも思わぬ者たちであっても、この男にだけは絶対に逆らっちゃいけないというのを本能で感じ取っているのです。

「へ、へえ……普通の夫に普通の父親ってことは、ボスが子どもを抱っこしたり、あやしたりするんスか? 壮絶に似合わないっスね」

「ほっとけ」

 指飛ばし男の空気を読まない言葉に、抑えたような小さな笑いが広がり、少しばかり場が和らぎました。
 ゲルハルト自身も、酒の席での無礼講だと流したようです。

 そして、ゲルハルトの言葉を聞いていたロッテの心にも希望の光が灯されました。
 私がここにいることがあの人たちにバレなければ、確実に助かるのね、と。
 あの人たちが出て行ったり、酔いつぶれて寝ている隙にここを抜け出し、家を目指そう。
 ここが強盗殺人犯たちの住処であることを村の人たちに知らせて、助けを呼んでくるのよ。
 そうすれば、おばさんだって助かる。解放される。
 私が今日ここに来たのはやっぱり、おばさんと”未来の被害者たち”を救うためだったんだわ。
 きっと神が私をここに遣わしてくれたのよ。

 再び、妙な救世主精神に支配されつつあるロッテがほっと一息を吐いた時です。

 グーギュルギュルギュルギュルウウゥゥゥ。

 ロッテのお腹から響いてきた場違いで間抜けな音が、地下室に響き渡りました。

 ゲルハルトの顔が険しくなったのと、おばさんが”バ、バカッ!”と言わんばかりに顔をしかめたのは、ほぼ同時でした。
 ただ、バカと言われてもこればかりは生理現象なんだから仕方がないこととは思うのですが。

 何はともあれ、一瞬にして運命が逆転してしまったのは明らかでした。
 助かる運命、自分だけでなく他者の命までも助ける運命の流れに乗ったと思わせておいて、逆流させるとは気の毒なことをするとは思うでしょう。

 ですが、出発前のロッテがお母さんが作ってくれたパンを持ってきていたなら、この結末は避けられました。 
 そもそも、この結末に行きつくまでに引き返すことができる分岐点はいくつもあったのです。
 不思議なハゲワシも忠告してくれていたというのに、ロッテはなぜ、自分からこの地下室に足を踏み入れてしまったのでしょう。
 そもそも、お母さんの言いつけをちゃんと守って家にいたら良かった。
 そうしていたなら、ロッテはこんな”正義と規律による裁きだとか、神の救いの光すら届かぬ場所”に来ることなどもなかったのに。


(完)
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