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最終話 そして彼女は”不帰の人”に
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―――!!!!!
美久子は体当たりを食らわせるような形で衝突した。
自分の前にいた者の背中に。
自分の前にいた”響芽美”に!
「きゃああ!!!」
その悲鳴は誰が発したものであったか?
美久子自身か、響芽美か、それとも他の女子か?
ただ一つ、確かなのは高校生女子にしては長身である響芽美のたおやかな体は、もともと低めに設置されていた螺旋階段の手すり部分をいともたやすく飛び越えてしまったということだ。
――え?! え?? 響さん?! 落ち……落ちる!!!
自身は、螺旋階段内に留まることができた美久子の眼前で、響芽美の手入れの行き届いた柔らかそうな髪が、白い手が、白い脚が、螺旋階段の外へと――!!!
「芽美ィィィ!!」
晴れ渡った秋の空に、つんざくような悲鳴が響き渡った。
なんと、響芽美の近くにいた女子の1人が咄嗟に身を乗り出し、螺旋階段の外へと押し出されてしまった――まさに地へ向かって落下途中であった響芽美の左手を間一髪、ガッと掴んだのだ。
彼女の咄嗟の勇気と優れた反射神経による行動がなければ、響芽美の肉体はもうとっくに地面へと叩きつけられてしまった後であっただろう。
「う……あああっ!!!」
芽美の左手を間一髪、掴むことができた女子から苦し気な声が発される。
彼女の右腕一本に響芽美の全体重が――命がかかっている。
しかし、高校生の少女が、同じく高校生の少女を腕一本で引き上げるなど不可能だ。
右手で芽美の手を掴み、左手は低い螺旋階段の手すりをガシッと掴み続けている彼女自身の上半身も、すでに螺旋階段より飛び出ていた。
腕が千切られるほどの強さで、地へ向かって引っ張られている。
固い手すりが、腹部を断絶せんばかりに食い込んでくる。
両足の踵はすでに浮かびあがり、ついにつま先までもが今にも宙へと浮かび上がらんとしている。
「絵理沙ぁ!」
他の女子生徒が、響芽美の命綱となっている女子生徒・絵理沙に駆け寄り、絵理沙までもが螺旋階段の外へと身を躍らせることを阻止せんと彼女の体を後ろから抱え込んだ。
「2人とも頑張って!!」
「すぐに引き上げるからね!!」
「――誰か早く! 男子呼んできてぇぇ!!」
彼女たちの行動と言葉に弾かれるように、さらに数人の女子生徒が芽美を助けんとする絵理沙の体を支え――
列の後方にいた克子含む数人が男子生徒を呼びに校舎の中へと飛び戻り――
しかし、普段全く必要でないところでお節介なリーダーシップもどきの奇行を見せていた二階堂凜々花は「ひ……ひぃ……!!」と、下着丸見えの大開脚状態で腰を抜かしたままであった。
クラスメイトが死の瀬戸際にいるというのに。
そして、同じクラスメイトたちが必死で助けようとしているのに。
そして、”この状況を作った張本人である”美久子もガクガクと震えたまま、その場から動くことができなかった。
美久子の体は、確かにここにある。今のこの状況をこの目で見ている。
けれども、美久子はその手足の一本も、”響芽美救出のために”動かせなかった。
――わ、私がぶつかった……私がぶつかったから……私のせいで、響さんは落ち……
美久子の眼前で、スローモーションで展開されている”悪い夢”。
だが、その”悪い夢”の真っただ中にいるのは、美久子ではなく、響芽美であり彼女を助けようとしているクラスメイトの面々であるだろう。
少女たちの必死の叫びは、エコーがかかっているかのごとく美久子をグワングワンと眩暈とともに震わせた。
彼女たちの声に混じり合い、”ゴーッという大きな渦のような音”までもが、美久子にだけ聞こえてきたのだ。
これは、明らかに幻聴だ。
だが、この渦の音はきっと地面より発されているに違いなかった。”死の渦”はポッカリと口を開けて、今にも響芽美を飲み込もうとしているのだ。
「絵理沙……手、離していいよ……皆も……このままだと皆が危ないよ」
響芽美のかすかな声。
彼女の言葉は、今にも死の渦へと巻き込まれ、もみくちゃにされるであろう者のそれとは思えなかった。
”お願いだから早く引き上げて! 私、死にたくないよ!”ではなく、”(皆が危ないから)手、離していいよ”と――
まるで母親が幼子に語りかけているがごとく、優しい声であった。
「…………駄目! 駄目だよ! 芽美! 助けるから! 絶対に助けるからぁぁ!」
絵理沙が叫んだ。泣き叫んだ。
必死の叫びは、彼女を助けたいと思う全ての者に、波のごとく伝わっていった。
「……絵理沙、皆……私、ホント……幸せだ……最後に直人にも会いたかったな…………皆、ありがとう」
それが全てを――”今より数秒後の自分の運命を受け入れた”響芽美の言葉であった。
そして、響芽美は絵理沙の手を自らパッと離した。
受け入れた運命に――”運命の渦の中へと”自らの身を委ねたのだ!
「うあああああああ!!! 芽美ィィィ――!!」
「いやああああああああ!!!」
少女たちの絶叫に、大地より発せられた鈍い衝突音が重なり合った。
柔らかな少女の肉体が、固い地面へと叩きつけられた惨たらしい絶望の音が――
※※※
突然の地震に襲われたのは、校舎内にいた者たちも同じであった。
もちろん、クラスメイト男子たちと技術室へと移動途中であった南城直人もだ。
「お前も大丈夫か? 南城」
「ああ、なんとかな……”今の”結構大きかったみたいだな」
突然の揺れに、そのデカい図体のバランスを崩した直人は、あうやく近くの窓に強烈なヘディングをかます寸前であった。けれども、彼はなんとかそれを回避することはできた。
無傷の直人が、廊下を見回した限り、目立った怪我を負っている者はいないようである。
窓や壁にもヒビなども入っていなかったが、校舎内は相当にざわついていた。
驚いて教室から廊下へと飛び出してきたらしい者も数人いたし、女子の数名などは抱き合ったまま震えていた。
危険な窓の近くより離れた直人は、スマホを取り出した。
ヤ〇ーのトップページには、もうすでに地震についての速報が出ているかもしれない。だが、地震の震度や震源地を確認するよりも先に、まず彼は……
――『芽美、大丈夫か?』
響芽美へとL〇NEでメッセージを送った直人。
しかし、彼女からの返事はない。
――まあ、大丈夫……だよな。あいつだって、今は友達と一緒にいるだろうし……
もともと芽美は、即レスといったタイプでなかったが、この時の直人は妙な胸騒ぎを感じずにはいられなかった。
その直人の妙な胸騒ぎに呼応するように、妙に周りが騒がしくなってきている。これは直人の気のせいではない。
極めつけのように、校舎内ではなく、明らかに”校舎の外からの女の悲鳴”までもが直人に聞こえてきた。
――何だ? 何かあったのか?
直人の心臓は、ドッドッドッとさらに早く強く脈打つ。
さらに――
廊下の向こうからは、ある女子が真っ青な顔で駆けてきた。
違うクラスの女子で、直人も顔は見覚えがあるも名前は知らないその女子は、自分の教室へと飛び込み叫んだ。
「大変よ! さっきの地震で、2年の女子が螺旋階段から落ちたって! 落ちたのって、”あれ”、多分――組の響さ……」
「!!!!!」
女子の言葉が最後まで終わるよりも早く、直人はダッと駆け出していた。
手に持っていた教科書もその場に投げ捨て、ただスマホだけを手に――
後ろからの「南城!」という友人の声にも振り返らず――
直人が現場に――螺旋階段下に駆けつけた時には、すでに人だかりができていた。
それは、”螺旋階段から誰かが落ちたことは間違いない”という事実を、直人に突き付けているのと同義であった。
直人が顔をあげると、上では――3階と4階の間の転落地点と思しき場所では、幾人もの女子生徒たちが座り込み、顔を覆って泣き叫んでいた。彼女たちの悲痛に満ちた叫びは、ここまで聞こえてきていた。
遠目からだが、その女子生徒たちは芽美が、いつも行動をともにしているクラスメイトたちであるようだった。
「お前ら! 早く教室に戻れ!!」
生活指導教諭からの怒号が幾度となく飛んでいたが、そんなことを聞く生徒は誰一人としていなかった。
もちろん直人もだ。
直人は人だかりの黒い頭たちの中に強引に我が身を押し入れ、黒い頭たちを強引にかき分けた。
――……芽美じゃない! 人違いだ! さっきのあの女だって、実際に落ちた奴の顔は至近距離では見てないはずだ! あの女の早とちりだ! 絶対に芽美じゃない!
人違いであることを願う直人。
それは裏を返せば、螺旋階段から転落した者が響芽美以外の者であることを望んでいることである。しかし、自分の愛しい者の命を優先して望むのは当たり前と言えば当たり前である。
黒い頭たちの最前列の、そのまたさらに前へと、直人は1人バッと飛び出た。
その彼に、集まっていた教師たち数人の無慈悲な言葉が飛び込んできた。
「救急車はもう呼びましたか?!」
「……ああ。でも、おそらくもう無理だろうな」
学校内の事故。
突然の地震という予期せぬことが根本的な要因であったとはいえ、危険をはらんだ螺旋階段の手すりをそのままにしておいたがために、ついに事故が起こってしまった。
”ハインリッヒの法則”のごとく、生徒たちだけでなく教師たち自身も、あの螺旋階段を使っていた時にヒヤリハットしていたことは幾度もあったであろう。しかし、それを”今日というこの日”まで、放置していた学校側。
ついに転落者が出る――転落者の様子を見た教師の一人が”もう無理だろうな”と判断せざるを得ない事態となった。
学校側の管理責任を問われることは間違いない。会見を開くことになるのも間違いない。もともと中途半端な進学校であったこの高校の来年度からの入学希望者だってガクンと減るのも間違いない。
今日という日までに何度もターニングポイントも迎えていたにもかかわらず、この学校もついに”運命の分岐点”を通過してしまった。
人だかりの中心部――転落者である女子生徒が、血の気のない真白い太ももをスカートからはだけ、仰向けに転がっていた。
あたり一面の血の海であったり、体が千切れまくっているというわけではない。
養護教諭が必死の救命措置にあたっていたため、直人がいる角度からは転落者の顔部分は見えなかった。
しかし……
墜落の衝撃によって、彼女のポケットから飛び出たのであろうスマホが近くに転がっていた。
その可愛いらしいスマホカバーに直人は見覚えがあった。愛しい女の持ち物を直人が覚えていないはずがかった。
自分が送ったL〇NEのメッセージが未読のままとなって残されているスマホの持ち主が誰であるのか、彼に分からないはずがなかった。
「――――芽美!!!」
直人は手を伸ばした。
自分の何年越しもの恋心を――自分の初めての恋心をやっと受け入れてくれた愛しい女と。
そして、今は打ち捨てられた人形のように地面に転がっている愛しい女へと。
「来るな! そこにいろ! 南城!」
走り出した直人を阻止せんと、焦った男性教師の1人が彼の前に咄嗟に立ちふさがった。
「――”お前ら”! 南城を押さえててくれ!!」
男性教師の声に、近くにいた男子生徒たちが直人を数人がかりで押さえ込もうとした。
しかし、男数人がかりであっても大人の男顔負けに――いや、大人の男以上に体格のいい直人を完全に押さえつけるのは困難であった。
「落ち着け、南城! もうすぐ救急車が来る! だから……!!」
「嘘だ! 嘘だろ! 芽美!!! 芽美ィィ!!!」
この現場には大勢の生徒が集まっていた。
しかし、人目もはばからず直人は泣き叫んでいた。
涙を流し、鼻水を流し、愛しい女の名を幾度となく叫び続け、まるで吠える様に手を伸ばし続けていた。
彼が伸ばすその手が”響芽美の魂”に届いたとしたなら、彼はもうすぐ天へと昇らんとしている彼女の魂をその腕に抱きしめ、二度と離すことはなかったであろうと思えるほどに。
※※※
生徒たちは全員、各自の教室で待機しておくようにという指示が出された。
教室の自席で、美久子はガタガタと震え続けていた。
震えは止まらなかった。
それどころか、徐々に大きくなっていく。まるで”何か”に掴まれているかのごとき心臓を源泉として、美久子の全身を震わせていた。
今、この教室内には担任教師も副担任教師もいなかった。
本来なら、級長である二階堂凜々花が皆をまとめるべきはずであったが、細長い顔を青くして美久子と同じく震え続けている凜々花は、本当に肝心な時にその役割を果たせそうになかった。
重苦しく悲痛な空気のなか、女子生徒たちを中心としてすすり泣く声が響いていた。
”救急車で”搬送されていった響芽美の容態についての”第一報”は、まだこの教室には通達されていない。
けれども、ダラリと垂れ下がった響芽美の白い右手首につけられていたトリアージ・タッグはもうすでに”黒”であったとの目撃談は、すでに美久子の耳にまで入っていた。
誰もが響芽美の無事を祈っていた。
もちろん、無事を祈る気持ちは美久子だって同じであった。
”お願い……どうか……どうか、助かって”と。
1人の女子生徒が、教室へと戻ってきた。
静かに扉を開けた彼女は、静かに教室内を見回し、唇を震わせた。
彼女のすでに真っ赤になっている瞳より、この教室に戻ってくるまでに流し尽くしたであろう涙が、ブワッと再び盛り上がった。
震える唇から漏れだす嗚咽とともに、”第一報”がもたらされた。
「…………芽美………亡くなった……って……」
響芽美の死。
わずか数時間前まで確かに生きていた彼女が、自分たちと机を並べて授業を受けていた彼女が死んだ。
彼女の机の横にかけられたカバンからは、彼女が南城直人のために編んでいたマフラーのかぎ針がのぞいていた。
しかし、編みかけのそのマフラーを編む者はもうこの世にはいない。
”更なる悲しみ”へと無惨に突き落された教室内で、とりわけ悲痛に満ちた慟哭が渦のごとく湧き上がった。
「そんな……そんなぁ……芽美ぃぃ!!」
「なんでよぉぉ!!」
あの時、響芽美を懸命に助けようとしていた絵理沙を始めとする女子たちは、より一層、激しく泣き叫んだ。
そして、南城直人は、前にもまして吠えるように号泣した。
彼のその慟哭は、天へと昇ったばかりの響芽美の耳に届くのではないかと思うほどであった。
直人以外の男子生徒たちは、直人ほどに涙を流してはいなかった。
響芽美は、大人しい性格で、それほど男子生徒と――南城直人以外の男子生徒と親しく話すタイプではなかったというのも関係しているのであろう。
しかし、彼らもクラスメイトの早すぎる死に、皆、沈痛な面持ちをしていた。
この世に生を受けた者は皆、いつかは必ず死ぬ。
でも、その死とは彼らにとって通常、これから何十年もの先の時の彼方にあるはずのものであったのだから。まさか、こんな突然にクラスメイトを失うことになるなんて……
「…………南城くん……っっ……芽美は……わ、私たちまで落ちると思って……私たちを助けようとして……てっ……手を離し……てっ……っ……」
ヒックヒックとしゃくりあげながら、響芽美の最期を一番近くで見ていた絵理沙が直人に言う。
直人が涙と鼻水で濡れに濡れた真っ赤な顔で、絵理沙を見た。
芽美の勇気と慈愛に満ちた最期を知ることになった直人の目から、枯れることのない涙がまたもブワッと盛り上がった。
芽美は、これ以上の犠牲を防ぐために、自分の命を犠牲にして友達の命を守り抜いたのだと。
「芽美……笑ってたの……やりたいこともいっぱいあったろうに。もっと生きたかったろうに。それなのに、微笑んでいたの……『私、ホント……幸せだ……最後に直人にも会いたかったな…………皆、ありがとう』って言って……落ち……落ちて……っ……」
これ以上は続けられなくなった絵理沙は、わああああああと顔を覆って、その場にしゃがみ込んだ。
絵理沙だけでなく、芽美の最期を知る女子たち――芽美の死に様を、そして死の間際の芽美の思いを一生忘れることができないであろう彼女たち。
その時――
彼女たちのうちの1人がハッとして、美久子を振り返ったのだ。
「…………美久子! あんた! あんたが芽美にぶつかったのよね! 私、見てたのよ!!」
「!!!!!」
彼女たちの悲しみの矛先は、そして”怒りの矛先”は、美久子へと向けられた!
教室はシンと静まり返った。
悲痛な悲しみ一色であった先ほどまでは”違う色”が、瞬時に教室の空気を塗りかえていった。
クラスメイトの突然の事故死。
だが、その事故死の原因を作った者が、この教室内にいる。
美久子に突き刺さる視線。
肌に突き刺さってくる、四方八方からの鋭い氷のごとき視線を感じた美久子は、その視線たちから逃げるかのようにガタンと椅子から立ち上がってしまっていた。
美久子は全身を恐怖に慄かせながら、全ての視線たちより、なおも後ずさった。
自分が響芽美に衝突したのは事実だ。
自分が彼女を死に追いやってしまったのは事実だ。
けれども、殺意はなかった。殺意などあるはずなかった。
「…………安原、”今の”は本当か?」
直人が美久子は問う。
だが、何も答えることができない――喉からヒグッと詰まったしか音しか美久子は発することができなかった。
「本当なのか?」
直人が再度、美久子に問う。
美久子はさらに震えながら後ずさる。
自分へと向かってくる激しい”敵意”に、何も答えることもできないまま――
響芽美のためなら、人でも殺しかねない男の全身から立ち昇り始めた劫火のごとき敵意から――
美久子のその様子を見た直人は、それを美久子の”無言の肯定”ととったらしかった。
芽美は殺されたんだ。
この安原美久子という女に!!!
「安原あああああああ!!!!!」
直人から立ち昇っていた敵意の劫火は、殺意のそれへと姿を変えた。
自分の愛しい女を永遠に奪った元凶である者への殺意に!!
殺意の対象となった美久子ではなく、なぜか二階堂凜々花が「ひゃあぁあぁあぁぁぁ!!」と悲鳴をあげ、一目散に教室の隅へと逃げていった。
――!!! 殺される! 本当に殺される!
美久子は、もう悲鳴をあげることすらできなかった。
南城直人の頑強な拳で殴り殺されるか、もしくは胸倉を掴まれ締め上げられるか!
いっそ、自分などここで本当に殺された方がいいのかもしれない。ここで罰を受け……
しかし――
「――――やめてぇぇ!!!」
克子だ。
ダッと走り出てきた克子は、自身の背に美久子を守らんとするがごとく、美久子と直人の間に立ちふさがった。
克子も泣いていた。
ヒックヒックとしゃくりあげながら、メガネの奥の瞳より大粒の涙をボロボロと流し、なめらかな頬をしとどに濡らしていた。
「お願い! 南城くん、落ち着いて! あれは事故だよ! 事故だったんだよ!! 誰も地震が起きるなんて予測できないよ!!」
「どけ!!!」
「いやよ! どかない! お願い、落ち着いて!!」
小柄で華奢な克子は、自分より頭二つ分近く背が高く頑強な直人より、必死で美久子をかばっていた。
「南城!!!」
近くにいた男子生徒たちが直人の肩や腕を押さえた。
身長190㎝近いデカブツに、150cm台の小柄な女が掴みかかられるのを阻止せんとした。
しかし、彼らは美久子を助けようとしたわけではなく、克子を助けようとしたのだ。
「克子! なんで美久子なんて、かばうのよ!」
「そうだよ! ”そいつ”、あの時、芽美のこと、助けようともしなかったじゃん!!」
「私たちや絵理沙はあんなに必死だったのに!!!」
次々に声があがった。
彼女たちは、ちゃんと見ていた。分かっていた。
事故であったのは誰もが理解している。
しかし、芽美を死へと追いやった張本人であるにもかかわらず、安原美久子はその救助にすら手を貸そうとはしなかった。助けを呼びに走ることもなかった。
恐怖とパニックによって、1人の人間が死にゆくまでを、ただその目に映していただけあったと。
しかし、美久子は動かなかったのではなく、”動けなかった”のだ。
けれども人は、当人の心の内にあった思いという目に見えないものより、実際の行動で判断する。
行動が全てなのだ。
仮に、美久子があの時、芽美の救助に率先してあたっていたなら、自分に背を向けている克子以外のクラスメイトたちから突き刺さる”軽蔑と嫌悪の視線の鋭さと冷たさ”は、まだわずかにマシであったはずだ。
「……克子ぉぉ」
美久子は、克子にしがみついていた。
妬ましさも入り混じり、あれほど嫌っていた彼女に。
八つ当たりのごとく、心の中で口汚く吐いていた毒のもっぱらの対象であった彼女に。
克子には何の落ち度もなかったのに、自分の身勝手な思いと事情によって傷つけ、一方的に距離を置いてしまったにかかわらず、克子は――”克子だけ”が、唯一、自分をかばってくれようとしているのだ。
冷たい闇の中へと突き落された今の美久子にとって、克子は天より自分を救い出してくれるがごとき唯一の光であった……
※※※
灯りを消した美久子の部屋の中。
ノートパソコンのディスプレイだけが、ブォーンと妙な音を立てながら光を発していた。
深夜0時。
たった今、日付は切り替わった。
死んだ響芽美が迎えることができなかった明日へと切り替わった。
FUKIからのメールが――彼女の予告通りこれが最後となるであろうメールが着信音とともに美久子の元へと届いた。
メール本文など碌に読まず、美久子はメール中に記載したURLを真っ先にクリックした。
動画の中のFUKIは、”何があったのか”をすでに知っているようであった。
今までは同性である美久子にも、可愛い顔と巨乳とアイドルボイスをこれでもかとアピール&ぶりっ子していたが、今夜はそんな場合じゃないと、FUKIも分かっているのだろう。
「あの……安原美久子様……”結局”こんなことになってしまうとは……私、何と申し上げていいのか……」
「――なんでよ! なんで、助けてくれなかったのよ! 響さんは死んじゃったし、私は学校中の皆から冷たい目で……」
南城直人をはじめとするクラスメイトからの敵意はもちろんのこと、他のクラスの女子生徒たちにもすれ違いざまに「人殺し」と呟かれた。学校の教師たちからの尋問や警察の事情聴取だって、美久子は受けていた。
響芽美の事故死は、夕方のニュースでも報道された。
響芽美の顔写真は流れたが、美久子の顔写真は流れてはいなかった。スマホを持っていない美久子が知る限り、”地震の衝撃で螺旋階段から女生徒転落”とだけテレビでは報道され、美久子がぶつかったことは伏せられていた。
しかし今は、ネット社会だ。
同じ高校の者たちより響芽美事故死の”本当の真相”が、ネットへと流されてしまうだろう。”加害者である”美久子の名前や顔写真が、悪意と”復讐の意”を持って流されてしまうだろう。
響芽美の事故死から24時間も経過していないが、もうとっくに流されてしまった後であるのかもしれない。
善の真実や噂より悪のそれの方が、流れは幾分も速いのだから。
「おっ……お言葉ですが、私の方からはきちんと申し上げました。しばらく学校を休むなりして、物理的接触を避けろと……」
FUKIの声は裏返っていた。
確かにFUKI自身は、非常に曖昧な言い方であったが一応、アドバイスはしていた。
もし、美久子が迫真の演技による仮病で学校を休んでいたなら、単にクラスメイトの1人が事故死したという知らせを家で聞いただけで済んだはずだ。
そもそも、響芽美も螺旋階段から転落することにはならなかったかもしれない。
「うちの両親に、仮病なんて通じるわけないよ! それに、元はと言えば全部、あんたの……あんたたちのせいだ!! あんたたちが『あなたの運命も知らせ隊』なんて、変なメールなんて送ってくるから、私は克子とギクシャクして、他のクラスメイトたちとだって……!!」
気づかなければよかった。
このメールにさえ、気づかなければ、昨日だって克子と一緒に並んで教室移動をしていたはずだ。
克子とギクシャクさえしなければ(というか、美久子が勝手に克子を最有力候補者として遠ざけただけであったが)、他のクラスメイトたちにも”事故前より”距離を置かれることはなかったのだろう。
美久子は思う。
自分はもともと皆にそれほど好かれてはいなかったのだ。克子の付属物として、一応、受け入れられていただけであったのだ。
しかし、FUKIたちからのメールに気づいてしまったことで、疑心暗鬼になり、全てが最悪の方向へと進んでしまった。
気づいてしまったことが負けだったのだ。
「安原美久子様……こうなってしまった今、特別にお伝えしますが……響芽美様の死は客観的に見れば事故死です。ですが、あれは”彼女なりの自殺”でもあったのです」
「!?!」
自殺!?
一体、どういうことなのか?
「私たちは、安原美久子様より”少しだけ先に”、響芽美様にもメールをお送りしておりました。響芽美様の運命の分岐点は『生』もしくは『死』でございました。響芽美様はなんと信じられないことに『死』へと向かって進み始めたようで……この響芽美様が進みゆくことを選択した”道”において、安原美久子様ご自身の運命の分岐点とが交わりあうことになり……しかし、安原美久子様においては『クラスメイトを死へと追いやってしまい一生の十字架を背負う』か『クラスメイトの事故死には一切、関与しない』のどちらかでした。昨日、安原美久子様が響芽美様に衝突しなくても、どのみち響芽美様は突然の地震にバランスを崩し、螺旋階段から転落していたのです……彼女が望んでいた”人生の完結”を不慮の事故死に見える自殺という形で迎えていたのです」
どういうことだ?
ますます訳が分からない。
「……もう”不帰(ふき)の人”となってしまった響芽美様ですが、彼女は何て言いますか……いつもブスッとしている安原美久子様と違って、”目の前の生を楽しんでいる”ように装ってはいましたが、生への希望ならび渇望や執着が極めて希薄な方でした。長く生きても自分の人生なんてたかがしれている。それならいっそ、若く美しいうちに幕を降ろしてしまおうと……それも短いものとなる自分のこの人生で出会った人たちの心に残り続けるであろう終幕を、と……」
響芽美という少女の人生観。
両親揃った家に長女として生まれた響芽美。
女友達もそれなりにいて、これといった事件、虐待や虐めなどに巻き込まれることもなく、”昨日という日”まで確かに生きていた彼女。
容貌も格別に美少女というわけではなかったが、彼女自身の日頃の入念なお手入れもあって、女としての幸せを充分に掴めるであろうレベルに達していた。そして、家に帰れば可愛い飼い猫のソメコちゃんまでいると、世間一般から見ればなかなかに幸せな部類に入る高校生であった。
でも、彼女は生に――自分の人生に希望を見いだせなかった。
自分の人生が、生きるに値するものなのかと考えた彼女は、自分の人生を自分で早いうちに完結させようとした。
そのうえ、彼女は誰も愛せなかった。いや、彼女が愛していたのは自分だけだったのかもしれない。
歪んだヒロイン願望。
若くしてこの世を去るという”悲劇的な人生”のフィナーレを彩る”大道具”として、彼女は南城直人の長年の恋心を表面上は受け入れた。編みかけとなってしまう彼へのマフラーという悲劇性を増すための”小道具”を用意することも忘れなかった。
そのうえ、彼女は真に南城直人のものになることなく、処女のまま死んだのだ。
南城直人も大人になり、やがて年をとっていく。
彼は生涯独身のままかもしれないし、他の女と結婚し子供を成すことになるのかもしれない。しかし、彼の思い出の中にいる響芽美は、永遠に若く美しいままなのだ。
手に入らなかったものほど美しく思える。
抱くことができなかった女ほど美しく思える。
本物の彼女以上に美しく切なく、南城直人の心に響芽美は在り続けるのかもしれない。
「そんな……あれが自殺だったなんて……」
「ええ、そうです。更なる犠牲を防ぐために自分の命を犠牲にしてでも友達の命を守り抜いたという、麗しい愛に満ちた自殺ですね」
「……!!!」
死の間際、響芽美は微笑んでいたと絵理沙は言っていた。
響芽美は、自分を必死で助けんとしている者たちに『ありがとう』と伝え、自ら手を離したと。
その『ありがとう』という言葉は本心であったのかもしれない。それに、さすがに絵理沙たちをも自分の自殺に巻き込みたくはなかったのかもしれない。
だが、芽美を助けようとしていた少女たちの心には、”友達を助けられることができなかった”という一生残る深い心の傷が刻み付けられてしまった。
FUKIの口から語られた真相。
運命の分岐点をとうに過ぎてしまった後での盛大なネタバレ。
「で、でも……っ……響さんが自殺だって、そんなことはもう誰も分からないんだよ! どのみち、響さんは螺旋階段から落ちていたなんて、私が言ったって誰も信じやしないんだよ!! 皆……皆、皆、皆、私が響さんを殺したって……これからずっと私は人殺しの烙印を押されて……っ……!!」
地獄だ。
これから”命ある限り続く生き地獄”の中で、美久子は生き続けることとなる。
響芽美は地獄の入り口まで美久子を連れてきて、望んでいた人生の幕引きを自らの手で完遂させ、”不帰の人”となり気ままに空へと飛び立っていってしまった。
美久子は泣き続けた。
動画の中のFUKIも唇を噛みしめたまま、泣き続ける自分を見ているのが美久子には分かった。
しかし――
定められた4分9秒が来た。
一瞬で動画は消失した。
ついにFUKIすらも、美久子の前からいなくなってしまった。
闇の中に残されたのは沈黙だけであった。
―――完――
★後書き★
この上なく後味が悪い本作ですが、2018年11月30日、完結いたしました。
貴重なお時間を割いて本作をお読みいただきました皆様、誠にありがとうございます。
次ページに「【付録】サクッとネタバレ&登場人物たちについて」を用意しております。
よろしければ、ご覧になってください。
美久子は体当たりを食らわせるような形で衝突した。
自分の前にいた者の背中に。
自分の前にいた”響芽美”に!
「きゃああ!!!」
その悲鳴は誰が発したものであったか?
美久子自身か、響芽美か、それとも他の女子か?
ただ一つ、確かなのは高校生女子にしては長身である響芽美のたおやかな体は、もともと低めに設置されていた螺旋階段の手すり部分をいともたやすく飛び越えてしまったということだ。
――え?! え?? 響さん?! 落ち……落ちる!!!
自身は、螺旋階段内に留まることができた美久子の眼前で、響芽美の手入れの行き届いた柔らかそうな髪が、白い手が、白い脚が、螺旋階段の外へと――!!!
「芽美ィィィ!!」
晴れ渡った秋の空に、つんざくような悲鳴が響き渡った。
なんと、響芽美の近くにいた女子の1人が咄嗟に身を乗り出し、螺旋階段の外へと押し出されてしまった――まさに地へ向かって落下途中であった響芽美の左手を間一髪、ガッと掴んだのだ。
彼女の咄嗟の勇気と優れた反射神経による行動がなければ、響芽美の肉体はもうとっくに地面へと叩きつけられてしまった後であっただろう。
「う……あああっ!!!」
芽美の左手を間一髪、掴むことができた女子から苦し気な声が発される。
彼女の右腕一本に響芽美の全体重が――命がかかっている。
しかし、高校生の少女が、同じく高校生の少女を腕一本で引き上げるなど不可能だ。
右手で芽美の手を掴み、左手は低い螺旋階段の手すりをガシッと掴み続けている彼女自身の上半身も、すでに螺旋階段より飛び出ていた。
腕が千切られるほどの強さで、地へ向かって引っ張られている。
固い手すりが、腹部を断絶せんばかりに食い込んでくる。
両足の踵はすでに浮かびあがり、ついにつま先までもが今にも宙へと浮かび上がらんとしている。
「絵理沙ぁ!」
他の女子生徒が、響芽美の命綱となっている女子生徒・絵理沙に駆け寄り、絵理沙までもが螺旋階段の外へと身を躍らせることを阻止せんと彼女の体を後ろから抱え込んだ。
「2人とも頑張って!!」
「すぐに引き上げるからね!!」
「――誰か早く! 男子呼んできてぇぇ!!」
彼女たちの行動と言葉に弾かれるように、さらに数人の女子生徒が芽美を助けんとする絵理沙の体を支え――
列の後方にいた克子含む数人が男子生徒を呼びに校舎の中へと飛び戻り――
しかし、普段全く必要でないところでお節介なリーダーシップもどきの奇行を見せていた二階堂凜々花は「ひ……ひぃ……!!」と、下着丸見えの大開脚状態で腰を抜かしたままであった。
クラスメイトが死の瀬戸際にいるというのに。
そして、同じクラスメイトたちが必死で助けようとしているのに。
そして、”この状況を作った張本人である”美久子もガクガクと震えたまま、その場から動くことができなかった。
美久子の体は、確かにここにある。今のこの状況をこの目で見ている。
けれども、美久子はその手足の一本も、”響芽美救出のために”動かせなかった。
――わ、私がぶつかった……私がぶつかったから……私のせいで、響さんは落ち……
美久子の眼前で、スローモーションで展開されている”悪い夢”。
だが、その”悪い夢”の真っただ中にいるのは、美久子ではなく、響芽美であり彼女を助けようとしているクラスメイトの面々であるだろう。
少女たちの必死の叫びは、エコーがかかっているかのごとく美久子をグワングワンと眩暈とともに震わせた。
彼女たちの声に混じり合い、”ゴーッという大きな渦のような音”までもが、美久子にだけ聞こえてきたのだ。
これは、明らかに幻聴だ。
だが、この渦の音はきっと地面より発されているに違いなかった。”死の渦”はポッカリと口を開けて、今にも響芽美を飲み込もうとしているのだ。
「絵理沙……手、離していいよ……皆も……このままだと皆が危ないよ」
響芽美のかすかな声。
彼女の言葉は、今にも死の渦へと巻き込まれ、もみくちゃにされるであろう者のそれとは思えなかった。
”お願いだから早く引き上げて! 私、死にたくないよ!”ではなく、”(皆が危ないから)手、離していいよ”と――
まるで母親が幼子に語りかけているがごとく、優しい声であった。
「…………駄目! 駄目だよ! 芽美! 助けるから! 絶対に助けるからぁぁ!」
絵理沙が叫んだ。泣き叫んだ。
必死の叫びは、彼女を助けたいと思う全ての者に、波のごとく伝わっていった。
「……絵理沙、皆……私、ホント……幸せだ……最後に直人にも会いたかったな…………皆、ありがとう」
それが全てを――”今より数秒後の自分の運命を受け入れた”響芽美の言葉であった。
そして、響芽美は絵理沙の手を自らパッと離した。
受け入れた運命に――”運命の渦の中へと”自らの身を委ねたのだ!
「うあああああああ!!! 芽美ィィィ――!!」
「いやああああああああ!!!」
少女たちの絶叫に、大地より発せられた鈍い衝突音が重なり合った。
柔らかな少女の肉体が、固い地面へと叩きつけられた惨たらしい絶望の音が――
※※※
突然の地震に襲われたのは、校舎内にいた者たちも同じであった。
もちろん、クラスメイト男子たちと技術室へと移動途中であった南城直人もだ。
「お前も大丈夫か? 南城」
「ああ、なんとかな……”今の”結構大きかったみたいだな」
突然の揺れに、そのデカい図体のバランスを崩した直人は、あうやく近くの窓に強烈なヘディングをかます寸前であった。けれども、彼はなんとかそれを回避することはできた。
無傷の直人が、廊下を見回した限り、目立った怪我を負っている者はいないようである。
窓や壁にもヒビなども入っていなかったが、校舎内は相当にざわついていた。
驚いて教室から廊下へと飛び出してきたらしい者も数人いたし、女子の数名などは抱き合ったまま震えていた。
危険な窓の近くより離れた直人は、スマホを取り出した。
ヤ〇ーのトップページには、もうすでに地震についての速報が出ているかもしれない。だが、地震の震度や震源地を確認するよりも先に、まず彼は……
――『芽美、大丈夫か?』
響芽美へとL〇NEでメッセージを送った直人。
しかし、彼女からの返事はない。
――まあ、大丈夫……だよな。あいつだって、今は友達と一緒にいるだろうし……
もともと芽美は、即レスといったタイプでなかったが、この時の直人は妙な胸騒ぎを感じずにはいられなかった。
その直人の妙な胸騒ぎに呼応するように、妙に周りが騒がしくなってきている。これは直人の気のせいではない。
極めつけのように、校舎内ではなく、明らかに”校舎の外からの女の悲鳴”までもが直人に聞こえてきた。
――何だ? 何かあったのか?
直人の心臓は、ドッドッドッとさらに早く強く脈打つ。
さらに――
廊下の向こうからは、ある女子が真っ青な顔で駆けてきた。
違うクラスの女子で、直人も顔は見覚えがあるも名前は知らないその女子は、自分の教室へと飛び込み叫んだ。
「大変よ! さっきの地震で、2年の女子が螺旋階段から落ちたって! 落ちたのって、”あれ”、多分――組の響さ……」
「!!!!!」
女子の言葉が最後まで終わるよりも早く、直人はダッと駆け出していた。
手に持っていた教科書もその場に投げ捨て、ただスマホだけを手に――
後ろからの「南城!」という友人の声にも振り返らず――
直人が現場に――螺旋階段下に駆けつけた時には、すでに人だかりができていた。
それは、”螺旋階段から誰かが落ちたことは間違いない”という事実を、直人に突き付けているのと同義であった。
直人が顔をあげると、上では――3階と4階の間の転落地点と思しき場所では、幾人もの女子生徒たちが座り込み、顔を覆って泣き叫んでいた。彼女たちの悲痛に満ちた叫びは、ここまで聞こえてきていた。
遠目からだが、その女子生徒たちは芽美が、いつも行動をともにしているクラスメイトたちであるようだった。
「お前ら! 早く教室に戻れ!!」
生活指導教諭からの怒号が幾度となく飛んでいたが、そんなことを聞く生徒は誰一人としていなかった。
もちろん直人もだ。
直人は人だかりの黒い頭たちの中に強引に我が身を押し入れ、黒い頭たちを強引にかき分けた。
――……芽美じゃない! 人違いだ! さっきのあの女だって、実際に落ちた奴の顔は至近距離では見てないはずだ! あの女の早とちりだ! 絶対に芽美じゃない!
人違いであることを願う直人。
それは裏を返せば、螺旋階段から転落した者が響芽美以外の者であることを望んでいることである。しかし、自分の愛しい者の命を優先して望むのは当たり前と言えば当たり前である。
黒い頭たちの最前列の、そのまたさらに前へと、直人は1人バッと飛び出た。
その彼に、集まっていた教師たち数人の無慈悲な言葉が飛び込んできた。
「救急車はもう呼びましたか?!」
「……ああ。でも、おそらくもう無理だろうな」
学校内の事故。
突然の地震という予期せぬことが根本的な要因であったとはいえ、危険をはらんだ螺旋階段の手すりをそのままにしておいたがために、ついに事故が起こってしまった。
”ハインリッヒの法則”のごとく、生徒たちだけでなく教師たち自身も、あの螺旋階段を使っていた時にヒヤリハットしていたことは幾度もあったであろう。しかし、それを”今日というこの日”まで、放置していた学校側。
ついに転落者が出る――転落者の様子を見た教師の一人が”もう無理だろうな”と判断せざるを得ない事態となった。
学校側の管理責任を問われることは間違いない。会見を開くことになるのも間違いない。もともと中途半端な進学校であったこの高校の来年度からの入学希望者だってガクンと減るのも間違いない。
今日という日までに何度もターニングポイントも迎えていたにもかかわらず、この学校もついに”運命の分岐点”を通過してしまった。
人だかりの中心部――転落者である女子生徒が、血の気のない真白い太ももをスカートからはだけ、仰向けに転がっていた。
あたり一面の血の海であったり、体が千切れまくっているというわけではない。
養護教諭が必死の救命措置にあたっていたため、直人がいる角度からは転落者の顔部分は見えなかった。
しかし……
墜落の衝撃によって、彼女のポケットから飛び出たのであろうスマホが近くに転がっていた。
その可愛いらしいスマホカバーに直人は見覚えがあった。愛しい女の持ち物を直人が覚えていないはずがかった。
自分が送ったL〇NEのメッセージが未読のままとなって残されているスマホの持ち主が誰であるのか、彼に分からないはずがなかった。
「――――芽美!!!」
直人は手を伸ばした。
自分の何年越しもの恋心を――自分の初めての恋心をやっと受け入れてくれた愛しい女と。
そして、今は打ち捨てられた人形のように地面に転がっている愛しい女へと。
「来るな! そこにいろ! 南城!」
走り出した直人を阻止せんと、焦った男性教師の1人が彼の前に咄嗟に立ちふさがった。
「――”お前ら”! 南城を押さえててくれ!!」
男性教師の声に、近くにいた男子生徒たちが直人を数人がかりで押さえ込もうとした。
しかし、男数人がかりであっても大人の男顔負けに――いや、大人の男以上に体格のいい直人を完全に押さえつけるのは困難であった。
「落ち着け、南城! もうすぐ救急車が来る! だから……!!」
「嘘だ! 嘘だろ! 芽美!!! 芽美ィィ!!!」
この現場には大勢の生徒が集まっていた。
しかし、人目もはばからず直人は泣き叫んでいた。
涙を流し、鼻水を流し、愛しい女の名を幾度となく叫び続け、まるで吠える様に手を伸ばし続けていた。
彼が伸ばすその手が”響芽美の魂”に届いたとしたなら、彼はもうすぐ天へと昇らんとしている彼女の魂をその腕に抱きしめ、二度と離すことはなかったであろうと思えるほどに。
※※※
生徒たちは全員、各自の教室で待機しておくようにという指示が出された。
教室の自席で、美久子はガタガタと震え続けていた。
震えは止まらなかった。
それどころか、徐々に大きくなっていく。まるで”何か”に掴まれているかのごとき心臓を源泉として、美久子の全身を震わせていた。
今、この教室内には担任教師も副担任教師もいなかった。
本来なら、級長である二階堂凜々花が皆をまとめるべきはずであったが、細長い顔を青くして美久子と同じく震え続けている凜々花は、本当に肝心な時にその役割を果たせそうになかった。
重苦しく悲痛な空気のなか、女子生徒たちを中心としてすすり泣く声が響いていた。
”救急車で”搬送されていった響芽美の容態についての”第一報”は、まだこの教室には通達されていない。
けれども、ダラリと垂れ下がった響芽美の白い右手首につけられていたトリアージ・タッグはもうすでに”黒”であったとの目撃談は、すでに美久子の耳にまで入っていた。
誰もが響芽美の無事を祈っていた。
もちろん、無事を祈る気持ちは美久子だって同じであった。
”お願い……どうか……どうか、助かって”と。
1人の女子生徒が、教室へと戻ってきた。
静かに扉を開けた彼女は、静かに教室内を見回し、唇を震わせた。
彼女のすでに真っ赤になっている瞳より、この教室に戻ってくるまでに流し尽くしたであろう涙が、ブワッと再び盛り上がった。
震える唇から漏れだす嗚咽とともに、”第一報”がもたらされた。
「…………芽美………亡くなった……って……」
響芽美の死。
わずか数時間前まで確かに生きていた彼女が、自分たちと机を並べて授業を受けていた彼女が死んだ。
彼女の机の横にかけられたカバンからは、彼女が南城直人のために編んでいたマフラーのかぎ針がのぞいていた。
しかし、編みかけのそのマフラーを編む者はもうこの世にはいない。
”更なる悲しみ”へと無惨に突き落された教室内で、とりわけ悲痛に満ちた慟哭が渦のごとく湧き上がった。
「そんな……そんなぁ……芽美ぃぃ!!」
「なんでよぉぉ!!」
あの時、響芽美を懸命に助けようとしていた絵理沙を始めとする女子たちは、より一層、激しく泣き叫んだ。
そして、南城直人は、前にもまして吠えるように号泣した。
彼のその慟哭は、天へと昇ったばかりの響芽美の耳に届くのではないかと思うほどであった。
直人以外の男子生徒たちは、直人ほどに涙を流してはいなかった。
響芽美は、大人しい性格で、それほど男子生徒と――南城直人以外の男子生徒と親しく話すタイプではなかったというのも関係しているのであろう。
しかし、彼らもクラスメイトの早すぎる死に、皆、沈痛な面持ちをしていた。
この世に生を受けた者は皆、いつかは必ず死ぬ。
でも、その死とは彼らにとって通常、これから何十年もの先の時の彼方にあるはずのものであったのだから。まさか、こんな突然にクラスメイトを失うことになるなんて……
「…………南城くん……っっ……芽美は……わ、私たちまで落ちると思って……私たちを助けようとして……てっ……手を離し……てっ……っ……」
ヒックヒックとしゃくりあげながら、響芽美の最期を一番近くで見ていた絵理沙が直人に言う。
直人が涙と鼻水で濡れに濡れた真っ赤な顔で、絵理沙を見た。
芽美の勇気と慈愛に満ちた最期を知ることになった直人の目から、枯れることのない涙がまたもブワッと盛り上がった。
芽美は、これ以上の犠牲を防ぐために、自分の命を犠牲にして友達の命を守り抜いたのだと。
「芽美……笑ってたの……やりたいこともいっぱいあったろうに。もっと生きたかったろうに。それなのに、微笑んでいたの……『私、ホント……幸せだ……最後に直人にも会いたかったな…………皆、ありがとう』って言って……落ち……落ちて……っ……」
これ以上は続けられなくなった絵理沙は、わああああああと顔を覆って、その場にしゃがみ込んだ。
絵理沙だけでなく、芽美の最期を知る女子たち――芽美の死に様を、そして死の間際の芽美の思いを一生忘れることができないであろう彼女たち。
その時――
彼女たちのうちの1人がハッとして、美久子を振り返ったのだ。
「…………美久子! あんた! あんたが芽美にぶつかったのよね! 私、見てたのよ!!」
「!!!!!」
彼女たちの悲しみの矛先は、そして”怒りの矛先”は、美久子へと向けられた!
教室はシンと静まり返った。
悲痛な悲しみ一色であった先ほどまでは”違う色”が、瞬時に教室の空気を塗りかえていった。
クラスメイトの突然の事故死。
だが、その事故死の原因を作った者が、この教室内にいる。
美久子に突き刺さる視線。
肌に突き刺さってくる、四方八方からの鋭い氷のごとき視線を感じた美久子は、その視線たちから逃げるかのようにガタンと椅子から立ち上がってしまっていた。
美久子は全身を恐怖に慄かせながら、全ての視線たちより、なおも後ずさった。
自分が響芽美に衝突したのは事実だ。
自分が彼女を死に追いやってしまったのは事実だ。
けれども、殺意はなかった。殺意などあるはずなかった。
「…………安原、”今の”は本当か?」
直人が美久子は問う。
だが、何も答えることができない――喉からヒグッと詰まったしか音しか美久子は発することができなかった。
「本当なのか?」
直人が再度、美久子に問う。
美久子はさらに震えながら後ずさる。
自分へと向かってくる激しい”敵意”に、何も答えることもできないまま――
響芽美のためなら、人でも殺しかねない男の全身から立ち昇り始めた劫火のごとき敵意から――
美久子のその様子を見た直人は、それを美久子の”無言の肯定”ととったらしかった。
芽美は殺されたんだ。
この安原美久子という女に!!!
「安原あああああああ!!!!!」
直人から立ち昇っていた敵意の劫火は、殺意のそれへと姿を変えた。
自分の愛しい女を永遠に奪った元凶である者への殺意に!!
殺意の対象となった美久子ではなく、なぜか二階堂凜々花が「ひゃあぁあぁあぁぁぁ!!」と悲鳴をあげ、一目散に教室の隅へと逃げていった。
――!!! 殺される! 本当に殺される!
美久子は、もう悲鳴をあげることすらできなかった。
南城直人の頑強な拳で殴り殺されるか、もしくは胸倉を掴まれ締め上げられるか!
いっそ、自分などここで本当に殺された方がいいのかもしれない。ここで罰を受け……
しかし――
「――――やめてぇぇ!!!」
克子だ。
ダッと走り出てきた克子は、自身の背に美久子を守らんとするがごとく、美久子と直人の間に立ちふさがった。
克子も泣いていた。
ヒックヒックとしゃくりあげながら、メガネの奥の瞳より大粒の涙をボロボロと流し、なめらかな頬をしとどに濡らしていた。
「お願い! 南城くん、落ち着いて! あれは事故だよ! 事故だったんだよ!! 誰も地震が起きるなんて予測できないよ!!」
「どけ!!!」
「いやよ! どかない! お願い、落ち着いて!!」
小柄で華奢な克子は、自分より頭二つ分近く背が高く頑強な直人より、必死で美久子をかばっていた。
「南城!!!」
近くにいた男子生徒たちが直人の肩や腕を押さえた。
身長190㎝近いデカブツに、150cm台の小柄な女が掴みかかられるのを阻止せんとした。
しかし、彼らは美久子を助けようとしたわけではなく、克子を助けようとしたのだ。
「克子! なんで美久子なんて、かばうのよ!」
「そうだよ! ”そいつ”、あの時、芽美のこと、助けようともしなかったじゃん!!」
「私たちや絵理沙はあんなに必死だったのに!!!」
次々に声があがった。
彼女たちは、ちゃんと見ていた。分かっていた。
事故であったのは誰もが理解している。
しかし、芽美を死へと追いやった張本人であるにもかかわらず、安原美久子はその救助にすら手を貸そうとはしなかった。助けを呼びに走ることもなかった。
恐怖とパニックによって、1人の人間が死にゆくまでを、ただその目に映していただけあったと。
しかし、美久子は動かなかったのではなく、”動けなかった”のだ。
けれども人は、当人の心の内にあった思いという目に見えないものより、実際の行動で判断する。
行動が全てなのだ。
仮に、美久子があの時、芽美の救助に率先してあたっていたなら、自分に背を向けている克子以外のクラスメイトたちから突き刺さる”軽蔑と嫌悪の視線の鋭さと冷たさ”は、まだわずかにマシであったはずだ。
「……克子ぉぉ」
美久子は、克子にしがみついていた。
妬ましさも入り混じり、あれほど嫌っていた彼女に。
八つ当たりのごとく、心の中で口汚く吐いていた毒のもっぱらの対象であった彼女に。
克子には何の落ち度もなかったのに、自分の身勝手な思いと事情によって傷つけ、一方的に距離を置いてしまったにかかわらず、克子は――”克子だけ”が、唯一、自分をかばってくれようとしているのだ。
冷たい闇の中へと突き落された今の美久子にとって、克子は天より自分を救い出してくれるがごとき唯一の光であった……
※※※
灯りを消した美久子の部屋の中。
ノートパソコンのディスプレイだけが、ブォーンと妙な音を立てながら光を発していた。
深夜0時。
たった今、日付は切り替わった。
死んだ響芽美が迎えることができなかった明日へと切り替わった。
FUKIからのメールが――彼女の予告通りこれが最後となるであろうメールが着信音とともに美久子の元へと届いた。
メール本文など碌に読まず、美久子はメール中に記載したURLを真っ先にクリックした。
動画の中のFUKIは、”何があったのか”をすでに知っているようであった。
今までは同性である美久子にも、可愛い顔と巨乳とアイドルボイスをこれでもかとアピール&ぶりっ子していたが、今夜はそんな場合じゃないと、FUKIも分かっているのだろう。
「あの……安原美久子様……”結局”こんなことになってしまうとは……私、何と申し上げていいのか……」
「――なんでよ! なんで、助けてくれなかったのよ! 響さんは死んじゃったし、私は学校中の皆から冷たい目で……」
南城直人をはじめとするクラスメイトからの敵意はもちろんのこと、他のクラスの女子生徒たちにもすれ違いざまに「人殺し」と呟かれた。学校の教師たちからの尋問や警察の事情聴取だって、美久子は受けていた。
響芽美の事故死は、夕方のニュースでも報道された。
響芽美の顔写真は流れたが、美久子の顔写真は流れてはいなかった。スマホを持っていない美久子が知る限り、”地震の衝撃で螺旋階段から女生徒転落”とだけテレビでは報道され、美久子がぶつかったことは伏せられていた。
しかし今は、ネット社会だ。
同じ高校の者たちより響芽美事故死の”本当の真相”が、ネットへと流されてしまうだろう。”加害者である”美久子の名前や顔写真が、悪意と”復讐の意”を持って流されてしまうだろう。
響芽美の事故死から24時間も経過していないが、もうとっくに流されてしまった後であるのかもしれない。
善の真実や噂より悪のそれの方が、流れは幾分も速いのだから。
「おっ……お言葉ですが、私の方からはきちんと申し上げました。しばらく学校を休むなりして、物理的接触を避けろと……」
FUKIの声は裏返っていた。
確かにFUKI自身は、非常に曖昧な言い方であったが一応、アドバイスはしていた。
もし、美久子が迫真の演技による仮病で学校を休んでいたなら、単にクラスメイトの1人が事故死したという知らせを家で聞いただけで済んだはずだ。
そもそも、響芽美も螺旋階段から転落することにはならなかったかもしれない。
「うちの両親に、仮病なんて通じるわけないよ! それに、元はと言えば全部、あんたの……あんたたちのせいだ!! あんたたちが『あなたの運命も知らせ隊』なんて、変なメールなんて送ってくるから、私は克子とギクシャクして、他のクラスメイトたちとだって……!!」
気づかなければよかった。
このメールにさえ、気づかなければ、昨日だって克子と一緒に並んで教室移動をしていたはずだ。
克子とギクシャクさえしなければ(というか、美久子が勝手に克子を最有力候補者として遠ざけただけであったが)、他のクラスメイトたちにも”事故前より”距離を置かれることはなかったのだろう。
美久子は思う。
自分はもともと皆にそれほど好かれてはいなかったのだ。克子の付属物として、一応、受け入れられていただけであったのだ。
しかし、FUKIたちからのメールに気づいてしまったことで、疑心暗鬼になり、全てが最悪の方向へと進んでしまった。
気づいてしまったことが負けだったのだ。
「安原美久子様……こうなってしまった今、特別にお伝えしますが……響芽美様の死は客観的に見れば事故死です。ですが、あれは”彼女なりの自殺”でもあったのです」
「!?!」
自殺!?
一体、どういうことなのか?
「私たちは、安原美久子様より”少しだけ先に”、響芽美様にもメールをお送りしておりました。響芽美様の運命の分岐点は『生』もしくは『死』でございました。響芽美様はなんと信じられないことに『死』へと向かって進み始めたようで……この響芽美様が進みゆくことを選択した”道”において、安原美久子様ご自身の運命の分岐点とが交わりあうことになり……しかし、安原美久子様においては『クラスメイトを死へと追いやってしまい一生の十字架を背負う』か『クラスメイトの事故死には一切、関与しない』のどちらかでした。昨日、安原美久子様が響芽美様に衝突しなくても、どのみち響芽美様は突然の地震にバランスを崩し、螺旋階段から転落していたのです……彼女が望んでいた”人生の完結”を不慮の事故死に見える自殺という形で迎えていたのです」
どういうことだ?
ますます訳が分からない。
「……もう”不帰(ふき)の人”となってしまった響芽美様ですが、彼女は何て言いますか……いつもブスッとしている安原美久子様と違って、”目の前の生を楽しんでいる”ように装ってはいましたが、生への希望ならび渇望や執着が極めて希薄な方でした。長く生きても自分の人生なんてたかがしれている。それならいっそ、若く美しいうちに幕を降ろしてしまおうと……それも短いものとなる自分のこの人生で出会った人たちの心に残り続けるであろう終幕を、と……」
響芽美という少女の人生観。
両親揃った家に長女として生まれた響芽美。
女友達もそれなりにいて、これといった事件、虐待や虐めなどに巻き込まれることもなく、”昨日という日”まで確かに生きていた彼女。
容貌も格別に美少女というわけではなかったが、彼女自身の日頃の入念なお手入れもあって、女としての幸せを充分に掴めるであろうレベルに達していた。そして、家に帰れば可愛い飼い猫のソメコちゃんまでいると、世間一般から見ればなかなかに幸せな部類に入る高校生であった。
でも、彼女は生に――自分の人生に希望を見いだせなかった。
自分の人生が、生きるに値するものなのかと考えた彼女は、自分の人生を自分で早いうちに完結させようとした。
そのうえ、彼女は誰も愛せなかった。いや、彼女が愛していたのは自分だけだったのかもしれない。
歪んだヒロイン願望。
若くしてこの世を去るという”悲劇的な人生”のフィナーレを彩る”大道具”として、彼女は南城直人の長年の恋心を表面上は受け入れた。編みかけとなってしまう彼へのマフラーという悲劇性を増すための”小道具”を用意することも忘れなかった。
そのうえ、彼女は真に南城直人のものになることなく、処女のまま死んだのだ。
南城直人も大人になり、やがて年をとっていく。
彼は生涯独身のままかもしれないし、他の女と結婚し子供を成すことになるのかもしれない。しかし、彼の思い出の中にいる響芽美は、永遠に若く美しいままなのだ。
手に入らなかったものほど美しく思える。
抱くことができなかった女ほど美しく思える。
本物の彼女以上に美しく切なく、南城直人の心に響芽美は在り続けるのかもしれない。
「そんな……あれが自殺だったなんて……」
「ええ、そうです。更なる犠牲を防ぐために自分の命を犠牲にしてでも友達の命を守り抜いたという、麗しい愛に満ちた自殺ですね」
「……!!!」
死の間際、響芽美は微笑んでいたと絵理沙は言っていた。
響芽美は、自分を必死で助けんとしている者たちに『ありがとう』と伝え、自ら手を離したと。
その『ありがとう』という言葉は本心であったのかもしれない。それに、さすがに絵理沙たちをも自分の自殺に巻き込みたくはなかったのかもしれない。
だが、芽美を助けようとしていた少女たちの心には、”友達を助けられることができなかった”という一生残る深い心の傷が刻み付けられてしまった。
FUKIの口から語られた真相。
運命の分岐点をとうに過ぎてしまった後での盛大なネタバレ。
「で、でも……っ……響さんが自殺だって、そんなことはもう誰も分からないんだよ! どのみち、響さんは螺旋階段から落ちていたなんて、私が言ったって誰も信じやしないんだよ!! 皆……皆、皆、皆、私が響さんを殺したって……これからずっと私は人殺しの烙印を押されて……っ……!!」
地獄だ。
これから”命ある限り続く生き地獄”の中で、美久子は生き続けることとなる。
響芽美は地獄の入り口まで美久子を連れてきて、望んでいた人生の幕引きを自らの手で完遂させ、”不帰の人”となり気ままに空へと飛び立っていってしまった。
美久子は泣き続けた。
動画の中のFUKIも唇を噛みしめたまま、泣き続ける自分を見ているのが美久子には分かった。
しかし――
定められた4分9秒が来た。
一瞬で動画は消失した。
ついにFUKIすらも、美久子の前からいなくなってしまった。
闇の中に残されたのは沈黙だけであった。
―――完――
★後書き★
この上なく後味が悪い本作ですが、2018年11月30日、完結いたしました。
貴重なお時間を割いて本作をお読みいただきました皆様、誠にありがとうございます。
次ページに「【付録】サクッとネタバレ&登場人物たちについて」を用意しております。
よろしければ、ご覧になってください。
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惨劇の地は再び惨劇の「血」に染まっていく……
※※※本作品は「カクヨム」にても公開中です※※※
2016年12月31日 最終章―9― における登場人物の台詞を一か所修正しました。
何カガ、居ル――。
されど電波おやぢは妄想を騙る
ホラー
物書きの俺が執筆に集中できるよう、静かな環境に身を置きたくて引っ越した先は、眉唾な曰くつきのボロアパート――世間一般で言うところの『事故物件』ってやつだった。
元から居た住人らは立地条件が良いにも関わらず、気味悪がって全員引っ越してしまっていた。
そう言った経緯で今現在は、俺しか住んでいない――筈なんだが。
“ 何かが、居る―― ”
だがしかし、果たして――。“ 何か ”とは……。
風の音
月(ユエ)/久瀬まりか
ホラー
赤ん坊の頃に母と死に別れたレイラ。トマスとシモーヌ夫婦に引き取られたが、使用人としてこき使われている。
唯一の心の支えは母の形見のペンダントだ。ところがそのペンダントが行方不明の王女の証だとわかり、トマスとシモーヌはレイラと同い年の娘ミラを王女にするため、レイラのペンダントを取り上げてしまう。
血などの描写があります。苦手な方はご注意下さい。
僕と幼馴染と死神と――この世に未練を残す者、そして救われない者。
されど電波おやぢは妄想を騙る
ホラー
学校の帰り道に巻き込まれた悲惨な事故。
幼馴染の死を目の当たりにした僕は、自責の念と後悔の念に埋もれていた――。
だがしかし。
そこに現れる奇妙な存在――死神。
交換条件を持ち掛けられた僕は、それを了承するか思案し、結局は承諾することになる。
そして真っ赤な色以外を失い、閉ざされた僕の世界に新たな色を描き、物語を紡いでいくこととなった――。
煩い人
星来香文子
ホラー
陽光学園高学校は、新校舎建設中の間、夜間学校・月光学園の校舎を昼の間借りることになった。
「夜七時以降、陽光学園の生徒は校舎にいてはいけない」という校則があるのにも関わらず、ある一人の女子生徒が忘れ物を取りに行ってしまう。
彼女はそこで、肌も髪も真っ白で、美しい人を見た。
それから彼女は何度も狂ったように夜の学校に出入りするようになり、いつの間にか姿を消したという。
彼女の親友だった美波は、真相を探るため一人、夜間学校に潜入するのだが……
(全7話)
※タイトルは「わずらいびと」と読みます
※カクヨムでも掲載しています
魔女
ホシヨノ クジラ
ホラー
これは、現代を生きる魔女の話
魔女であることが不幸を招く
苦い結末の物語
読み終えた時に何とも言えない後味の悪さを
残せますように
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