上 下
162 / 340
第5章 ~ペイン海賊団編~

―56― 砕け散った鏡(2)

しおりを挟む
 悪夢に変わるはずのディランの夢は、まだ覚めない……

 黒鉛を手に、目の前に広がる冬の情景を見つめている、いやとらえようとしているエルドレッドが、自分たち3人の足音に気づいたのだから。
 振り返ったエルドレッドは、”よう”といった感じに口元を動かした。
 彼は無口なわけでは決してないが、どちらかと言えば言葉少なな少年であった。

 エルドレッドが腰を下ろしている敷物には、この冬空の下にあっても、まだかろうじて残り火のごとく湯気を立てている飲物と、粗悪な藁半紙で包まれた齧りかけのパンも置いてあった。
 そして、彼の利き手の指先は、絵を描くための道具である黒鉛(決して安価なものではなかったらしいが、エルドレッドは給料が入る度、真っ先にこれをストックしていた)で、黒く汚れていた。
 ”早く飲物を飲まないと冷めるよ、それにただでさえ固そうなパン(ディランとルークの昼食も同じく固そうな……というか、実際固いパンと肉が申し訳程度に入ったスープであったが)もさらに固くなるよ”という言葉がディランの口から出そうになったが、あえて飲み込んだ。

 エルドレッド・デレク・スパイアーズは、(自分たちと同じく)そう腹いっぱいに食べることができる日など滅多にないにも関わらず、飯の時間を削ってでも、こうして絵を描く時間を見つけている。

 エルドレッドの人生のおける最初の記憶も、ただ一心不乱に孤児院の庭にあった木の絵を描いているものであったとの話を、ディランは前に聞いたことがある。
 そして今、エルドレッドの膝の上にある画板も、相当に年季が入っていた。
 孤児院にいた時に年長者から譲ってもらったらしく、彼はずっとその画板を愛用していた。
 確かに年季は入っているが、その画板は、絵を描く道具(相棒)を大切にする持ち主によって、きちんと手入れされ続け、いい感じになめされたかがごとき艶やかな光沢までを放っていた。
 


「あの……今、描いている絵、見てもいい?」
 オズオズと問うランディーに、エルドレッドは優しく微笑んだ。
「俺も見たい」と言ったルークに、ディランは「じゃあ、俺も」とエルドレッドの背後へと回り込んだ。

 
 エルドレッドの絵を見た途端、ディラン、ルーク、ランディーの3人は、揃いも揃って言葉を失ってしまった。
 この”言葉を失う”という貧弱な語彙による表現。
 そのうえ、自慢ではないが自分たち3人とも芸術作品の良し悪しや価値などは、全く持って分からない。
 ただ、自分たちの心を打つか、それとも打たないかだ。
 エルドレッドの描いた絵は――自分たちの言葉を失わせた彼の絵は、確実に前者であった。


 きっとエルドレッドは、休みの日や休憩時間の度に、このベストポジションに足を運んで絵を描いていたのだろう。
 自分たちの目の前に広がる、冬の空と山脈が、決して上質とは言えない黄ばんだ紙に、黒一色で映し出されていた。

 今、この場に時折吹き抜ける冷たい冬の風も――いや、この冬の風は冷たくはあっても、巡る四季という自然の息吹であり、エルドレッドは、自身の絵の中にその自然の息吹までをもとらえていた。

 無論、単なる写実的な絵という観点から見ても、彼の絵は素晴らしい技術を持って描かれたものであると言えたであろう。
 この当時の13才のディランは、彼が描いた絵の写実さと精密さに圧倒されるばかりであった。
 けれども、18才となり、こうして夢の中において過去をたどっている今にして思えば、当時は自分と同じ子供であった13才の少年が、これほどまで素晴らしい才能を持ち、自分たちがそれに目にする機会があったこと自体、稀なことであったと――


 
 口元をフッと緩ませたエルドレッドは、絵の隅に「13」という数字と4種類の文字を書き入れた。
 それが何を意味するのか、ルークとランディーには分からなかったようだが、ディランにはすぐに分かった。

「……なんだ、それ?」
 案の定、ルークが問う。

「この数字は今の俺の年齢、そして俺とお前たちの名前の頭文字だ」
 ”13”という数字は、エルドレッドの年齢。
 そして、4種類の文字はエルドレッド、ルーク、ディラン、ランディーの4名の名前の頭文字であった。
 エルドレッドも自分たちと同じく、文字の読み書きなどは満足にはできない。だが、彼はかろうじて、数字と自分たちの名前の綴りは覚えているのだ。 

「空も、そしてあの山も……俺たちが大人になって、そして”いつか”じいさんになって死んでしまった後も、ずっとあり続けるだろう。気障な言い方だが……今というこの時は、ここにしかない。俺は今、こうしてお前たちとこの風景をともに見つめている……」
 そう言ったエルドレッドは、その青き瞳で灰色の空のどこか遠い彼方を見つめているようであった。

 時は止まることなく、流れ続ける。
 だが、エルドレッドが描き上げた”永遠の時”は、確かに今、目の前にあるのだ。
 彼が書き上げた絵は、自分たち4人の人生という物語における挿絵のようなものであるだろう。
 流れ続ける時の中でも、頁をめくり返せば、きっとあざやかに蘇ってくるはずだ。
 冷たい冬の風に吹かれ、黒鉛で指を汚しながらも絵を描いていた13才のエルドレッド・デレク・スパイアーズと、彼の絵をともに眺めていた自分たち3人の姿が――



 先ほどのやや詩的な物のとらえ方といい、エルドレッドは大勢の少年の中にあっても、どこか人目を惹かずにはいられない独特な存在感を持つ少年であった。彼が自身の才能や存在を誇示したことなどは、一度もなかったにも関わらず……

――そうだ。エルドレッドのことを思い出してみれば……あいつの顔立ちは、どこかフレディに似た系統で……でも、放つ雰囲気はあの人形職人のオーガストに似ている気がして……

 夢を見ている18才のディランは、この13才の時点ではまだ出会ってはいなかった2人の青年(1人は同じ船に乗っている仲間であり、もう1人は敵の船に乗っている)をエルドレッドより思い起こしていた。

 エルドレッドの顔の造形だけを見れば、そう群を抜いた美形というわけではなかった。
 というか、自分たちの中に、そう群を抜いた美形――どこかの貴族の御落胤なのではと思うほどの気品あふれる美形の少年は1人もいなかった。
 だが、ハッキリとした整った顔立ちという点でならルーク、そして性格は壮絶なまでに最悪であるが3つ年上のジェームス・ハーヴェイ・アトキンスという少年がひと際目立っていた。
(実を言うなら、ディランも他の少年たちからは、先の2人と系統は異なるも、ほぼ同レベルのハッキリとした整った容姿であると思われていたが。)

 美貌や気品などではなく、エルドレッドが周りの少年たちとどこか異なった雰囲気を放っているのは、静謐な佇まいと彼の独特の観察眼においてであっただろう。
 例えるなら、澄み切った空気のなか、静かに青葉をそよがせる一本のしなやかな木のような存在感のためであっただろう。


 ディランは悪夢に変わることが確定している夢の中であっても、かつての友――いや、きっと再会したなら、今も友となれるであろうエルドレッド、そしてランディーに会えたこと”だけ”は、本当にうれしかった。



 けれども――
 ランディーが「あっ!」と声をあげた。
「あ、あそこに……!」
 ランディーの白くて小さな人差し指が差す方向には、この悪夢の”本当の始まり”を告げる光景が広がっていた。

 ここより離れている川辺。
 灰色の空の下にある灰色の川が立てる荒々しい轟音は、さすがに自分たちのいる場所までは聞こえてはこない。
 だが、雪を思わせるような白い飛沫が飛び散っているのは、ランディーほど目が良くはないディランでも見えた気がした。

 その荒れ狂う寸前にあるかのような川辺にて、3人の少年がいた。
 少年のうちの2人が――やや中背ぐらいな少年とひょろ長い体格の少年が、より小さくて細い少年にじゃれていた。
 いや、じゃれている――”じゃれ合っている”わけでは、決してないだろう。あれは、絶対に――

「ジムとルイージが……っ……バルドを殴ってる……バルド、鼻血出して、泣きじゃくっているよ」
「!!」
 ディランたちも、ランディーのまさに神がかり的な視力のことは知っていた。 
 自分たちの人並みの視力では、川辺にいる者が誰であるのかや、彼らの表情、流血状態まではランディーのようには分からない。

 だが、あの見覚えのある”加害者側の”背格好と、2人がかりで1人に暴力を奮うという行動。
 ”またしても”あの2人――ディランたちよりも3才年上の同僚、ジェームス・ハーヴェイ・アトキンスとルイージ・ビル・オルコットだ。
 ”今日のあいつら”は、ランディーに次ぐ体の小ささと、やや気が弱いところのある同僚の少年バルドに2対1で暴力を奮っているのだ。

 2人の加害者のシルエットのうち、中背の方(絶対にジム)がバルドの腹部当たりに一撃をお見舞いしたらしく、ついにバルドが地面に倒れ込んだ――
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

仏間にて

非現実の王国
大衆娯楽
父娘でディシスパ風。ダークな雰囲気満載、R18な性描写はなし。サイコホラー&虐待要素有り。苦手な方はご自衛を。 「かわいそうはかわいい」

養父の命令で嫌われ生徒会親衛隊長になって全校生徒から嫌われることがタスクになりました

いちみやりょう
BL
「お前の母親は重病だ。だが……お前が私の言うことを聞き、私の後を継ぐ努力をすると言うならお前の母を助けてやろう」 「何をすればいい」 「なに、簡単だ。その素行の悪さを隠し私の経営する学園に通い学校1の嫌われ者になってこい」 「嫌われ者? それがなんであんたの後を継ぐのに必要なんだよ」 「お前は力の弱いものの立場に立って物事を考えられていない。それを身を持って学んでこい」 「会長様〜素敵ですぅ〜」 「キメェ、近寄るな。ゴミ虫」 きめぇのはオメェだ。と殴りたくなる右手をなんとか抑えてぶりっこ笑顔を作った。 入学式も終わり俺はいつもの日課と化した生徒会訪問中だ。 顔が激しく整っている会長とやらは養父の言った通り親衛隊隊長である俺を嫌っている。 ちなみに生徒会役員全員も全員もれなく俺のことを嫌っていて、ゴミ虫と言うのは俺のあだ名だ。

それぞれの1日 (自称ロードスターシリーズ)

とうこ
BL
「俺は負けたくないだけなんだよ!色々とね」と言う作品を「自称 ロードスターシリーズ」と言うシリーズといたしまして、登場人物のとある1日を書いてみました。 第1話は、まっさんお見合いをする ご近所さんにお見合い話を持ちかけられ考えた挙句、会うだけでもと言うお話です。「1日」と言う縛りなので、お見合い当日が書けず、まっさんだけみじかくなってしまいかわいそうでした。 銀次に尋ね人が参りまして、恋の予感⁉︎ 地元で人気のパン屋さん「ふらわあ」は銀次のお店 そこにとある人が訪ねてきて、銀次に春は来るか! BL展開は皆無です。すみません。 第2話は 会社での京介の話。 意外と普通にサラリーマンをしている日常を書きたかったです。そこで起こる些細な(?)騒動。 てつやの日常に舞い降りた、決着をつけなければならない相手との話。自分自身で決着をつけていなかったので、やはり実際に話をしてもらいました。 てつやvs文父 です  言うて和やかです 第3話は BL展開全開 2話のてつやの日常で言っていた「完落ち」を綴りました。元々燻っていた2人なので、展開はやいですね。 それをちょと受けてからの、まっさん銀次の恋の話を4人で語っちゃうお話を添えております。  お楽しみ頂けたら最高に幸せです。

ラッキースケベ体質女は待望のスパダリと化学反応を起こす

笑農 久多咲
大衆娯楽
誰がいつ名付けたか「ラッキースケベ」そんなハーレム展開の定番、男の夢が何故か付与された女、姉ヶ崎芹奈は、職場での望まぬ逆ハーレム化にチベスナ顔を浮かべていた。周囲は芹奈攻めを望む受け体質ばかりで、スパダリを待ち望む彼女。そんな彼女の職場に現れたスーパーイケメン同期・瀬尾の存在が運命の歯車を狂わせていく。ラッキーが発動しない瀬尾に最初こそ喜んでいたが、どうやらことはそう単純ではなく、芹奈と瀬尾のラッキースケベは斜め上の方向に発展し……?!

異世界の学園で愛され姫として王子たちから(性的に)溺愛されました

空廻ロジカ
恋愛
「あぁ、イケメンたちに愛されて、蕩けるようなエッチがしたいよぉ……っ!」 ――櫟《いちい》亜莉紗《ありさ》・18歳。TL《ティーンズラブ》コミックを愛好する彼女が好むのは、逆ハーレムと言われるジャンル。 今夜もTLコミックを読んではひとりエッチに励んでいた亜莉紗がイッた、その瞬間。窓の外で流星群が降り注ぎ、視界が真っ白に染まって…… 気が付いたらイケメン王子と裸で同衾してるって、どういうこと? さらに三人のタイプの違うイケメンが現れて、亜莉紗を「姫」と呼び、愛を捧げてきて……!?

融解コンプレックス

木樫
BL
【1/15 完結】 無口不器用溺愛ワンコ×押しに弱い世話焼きビビリ男前。 フラレ癖のある強がりで世話焼きな男と、彼に長年片想いをしていた不器用無口変わり者ワンコな幼なじみの恋のお話。 【あらすじ】  雪雪雪(せつせつそそぐ)は、融解体質である。温かいはずの体が雪のように冷たく、溶けるのだ。  おかげでいつもクリスマス前にフラれる雪は、今年ももちろんフラれたのだが── 「おいコラ脳内お花畑野郎。なんでこんなとこいれんの言うとんねん。しばいたるからわかるようにゆうてみぃ?」 「なんで怒るんよ……俺、ユキが溶けんよう、考えたんやで……?」  無口無表情ローテンション変人幼馴染みに、なぜか冷凍庫の中に詰められている。 ・雪雪雪(受け)  常温以上で若干ずつ溶ける。ツッコミ体質で世話焼き。強がりだけど本当は臆病なヘタレ。高身長ヤンキー(見た目だけ)。 ・紺露直(攻め)  無口で無表情な、口下手わんこ。めっちゃ甘えた。ちょっとズレてる。雪がいないと生きていけない系大型犬。のっそりのっそりとスローペース。

奥の間

非現実の王国
大衆娯楽
昔の日本家屋で自慰に耽る変態お嬢様。暗め。小スカ注意。スパンキング描写はかする程度。完結済です。

雪狐 氷の王子は番の黒豹騎士に溺愛される

Noah
BL
【祝・書籍化!!!】令和3年5月11日(木) 読者の皆様のおかげです。ありがとうございます!! 黒猫を庇って派手に死んだら、白いふわもこに転生していた。 死を望むほど過酷な奴隷からスタートの異世界生活。 闇オークションで競り落とされてから獣人の国の王族の養子に。 そこから都合良く幸せになれるはずも無く、様々な問題がショタ(のちに美青年)に降り注ぐ。 BLよりもファンタジー色の方が濃くなってしまいましたが、最後に何とかBLできました(?)… 連載は令和2年12月13日(日)に完結致しました。 拙い部分の目立つ作品ですが、楽しんで頂けたなら幸いです。 Noah

処理中です...